セミファイナルの話。
窓の外からセミの鳴き声が聞こえ、ふとベランダの戸を開けた。電信柱に留まった一匹のセミ。以前なら驚いたが、もはやこの光景は珍しくない。
生きていくために、自分の居場所を選べない。懸命に腹を震わせる彼の姿に、私は何かを重ねてしまったのかもしれない。
柄にもなく変なことを考えてしまった。
顔でも洗おう。そう思い、洗面所へ向かった。洗顔フォームに手を伸ばそうとしたとき、ふと鏡の中の自分に違和感を覚えた。
眉毛の生え方がおかしい。あるものは短く、あるものは極端に長い。フッと笑みが溢れた。数年前に初めて白髪が生え、そして今度は眉毛。毎日の積み重ねでは気づかないが、私はすっかりオッサンになっていた。
とはいえ、眉毛がここまでボサボサになるのには心当たりがある。こんなこと、noteで書いてもいいものか。これを書いたら、ひょっとして。いや、いい。白状する。私は、浮気した。それも割とここ最近。もう2ヶ月くらいになる。
正直に言うと、私は彼女を裏切った。まずこの時点で引かれると思う。ふだん、妻やムスメのことを書いてるのに、そもそも彼女がいたということだ。
彼女との出会いはもう6年くらい。ぶっちゃけこの街に引っ越してきてから割とすぐに出会った。きっかけなんてどうでもいい。そこはもう相性の問題。人間関係なんてそんなものだろう?
だが、最近はほとんど連絡も取らなくなって、たまに1ヶ月に一回くらいは公式LINEをくれていたのだが、私はそれをブロックしてしまった。
あまりにも値上がりがエグいのだ。最初に行った時はカットとシャンプーで3,800円くらいだったのに、今じゃ7,000円近くする。
正直、5,500円くらいで結構しんどいなと思ったが、6,000円を超えたくらいでモームリになった。私の髪の毛にそんな価値はないことは私が一番よく知っている。
そんな時だった。同じ街に住んでいる昔の職場の知り合いと飲んでいた時に、近所にめちゃくちゃ安い美容室ができたと聞いた。いわゆるQBハウス方式だ。カットのみ。3,000円もしない。それでいて、なんだかんだ色々と髪型の指定はできると。
それから少しして、恐る恐る、私はその店の扉を開いた。狭い店内には客が何名かいて、タッチパネルで順番待ちをする。お父さんに連れられた子どももいて、ちょっとだけ安心した。
私の番が呼ばれ、カットが始まる。ものの20分もしないうちに全てが終了した。出来栄えは聞いていたとおりだった。妻に言わせると前の店の方がやはり技術的にはよかったらしいが、そんなもの私にはこれっぽっちも分からない。安さは全てを凌駕する。
だが、ここで肝心なことに気がついた。以前の美容室では、私の眉毛をさりげなくカットしてくれていたことに。とはいえ大したことはない、バリカンを軽く当てるだけ。しかし、そのバリカンを当てることで、彼女は私のことをずっと守っていてくれたのだ。
ボサボサの眉毛を前に鏡の前で立ち尽くしていたら、ふと、何かが頭によぎった。私はドタバタとリビングに戻り、クローゼットの中、その奥の奥にしまわれたものを取り出した。
バリカンである。コロナの時に外に出ることが難しく、妻が私の散髪用に買ってくれたものだ。当時は「令和最新版」みたいな謳い文句がついていたが、果たしてそのキャッチコピーは今でも通用するのだろうか。そんなことを考えながら電源ボタンに指をかける。
つかない。当たり前だ。何年地中にいたと思っているんだ。そんな簡単に動く訳はない。
幸いなことに充電コードはちゃんとあった。USB Type-Aに少し時代を感じながらプラグを差し込むと、エメラルドグリーンの充電ランプが上から下に行ったり来たりを繰り返す。まるで羽化を待つセミのようなその色は、時を超えても変わらないあの時の思い出を連れてくる。
「令和最新版、か...」
少し胸が熱くなった。充電している間にシャワーでも浴びることにした。シャワーから出ると、充電ランプが60%まで上がっていた。
もうこのくらいでいいだろう。そう思って、プラグから外し、再び電源を入れる。
──ブルッ。
それだけだ。まあ、長い間使っていなかったし、そういうこともあるだろう。もう一度電源を入れ直した。
──ブルッ。
変わらない。だが、注意深く観察していたら、小さく小刻みに震えている。
ブッ......ブッ......ブッ......ブッ......。
これはダメかもしれない。
そう思って私が再度電源を落とそうとしたその時だ。
ブイィィィィィィィィィイイイン!!!!
手の中に伝わる確かな振動。数年の時を超え巡り会えた奇跡。私は急いで、3mmのアタッチメントを取り付けようとした。このバリカンはアタッチメントなしでは2mmまで。私の眉毛を2mmで刈ったら、ヤンキーになってしまう。だから、どうしてもアタッチメントを取り付ける必要があった。
できない。こちらが無理やりやろうとしても、バリカンはバチバチと音を立てて拒絶する。
一旦バリカンを机の上に置いて少し考える。ブゥゥゥゥウン!!と震えながらバリカンは縦横無尽に机の上を駆け回る。時間が無い。分かってる、分かってる!!
カチッと音を立て、アタッチメントを取り付けることに私は成功した。再び祈るように、スイッチを入れる。
──ブッ。
知っていた。こうなることは。それでも何度も電源を切っては入れる。だが、その振動は少しずつ弱くなり、最後に一度だけ、でも、少しだけ大きく震え、それっきりバリカンは何も言わなくなった。

もう動かないんだぜ。
嘘みたいだろ。
ある日、道端にセミが落ちていた。既に事切れていると思い手を差し伸べるとけたたましく鳴く。もう自力でひっくり返ることもできない。私が指で摘み上げようとしても、脚を動かし、それを全力で拒絶する。
私はその姿に彼の矜持を感じた。
彼の人生は、ひょっとしたらセミファイナル止まりだったのかもしれない。だが、地下から這い上がり、羽化を果たし、大空を駆け抜けたその姿を誰が馬鹿にできようか。
バリカンもそうだ。
ずっとクローゼットの中で数年間この時を待っていた。誰もがスーパーヒーローになれるわけじゃない。あの時は「令和最新版」だったとしても、気づけば時代は変わっている。だが、それでも自分にできることをする。バリカンが最期に見せてくれた一瞬の煌めきを私は生涯忘れることはないだろう。
私だってそうだ。
いつだって、準決勝止まりの人生。だが、それでも時は進んでいく。私たち人間には、今この瞬間しかない。
だからこそ言いたい。醜くもがき、好き勝手にジタバタと暴れてやればいい。そう、このボサボサと伸び切った私の眉毛のように。
もうすぐ、夏の甲子園が始まる。
