短編 引越し。
まだ六月だというのに、窓の外からはけたたましくセミの声が響いておりました。
その日、男とその妻は、引越し先を探すため、遥々福岡からここ沖縄へとやって来たのでございます。この家族が沖縄へ転居を決めた理由は、稼ぎ頭である男の知り合いから、沖縄で一緒に仕事をしようと誘われたからだと聞いております。
とはいえ、沖縄への移住はそう簡単ではありません。物件一つを探すにしても、福岡と沖縄を往復するだけで大変なお金がかかります。男には多少の蓄えはありましたが、今後の生活を考えるとそう何度も足を運ぶわけにもいきません。
沖縄本島は小さな島ですが、南北に広く到底一日で全てを回ることはできません。男は小さな車を持っておりましたので、引越し先でも移動はなんとかなるとは思いつつ、それでもどこに住むかというのは非常に大きな問題だったのでございます。
結局悩み抜いた末に、男と妻はひとまず那覇に住むことに決めました。那覇には昔観光旅行をしたことがあり、その際の印象がとても強かったそうです。
二人は早朝の飛行機で那覇空港へ降り立ち、レンタカーを走らせます。空港からの長い一本道を左折して、国道58号線から少し入るとそこには閑静な住宅街が広がっておりました。そういえば朝から何も食べていないと思った二人は路面沿いのA&Wに入り、めいめい好きなものを注文します。その店の窓の奥、白くて四角く背の低い、いかにも沖縄らしい雑居ビルの一階に不動産屋があるのが見えました。
二人言葉を交わさずとも、思うことは同じだったのでしょう。黙々とハンバーガーを食べ、消毒液の味がするルートビアを緑色の縞模様がついたストローで一気に啜り、店を出ました。不動産屋はすぐ向かいにありましたが、A&Wに車を置いているのも気まずくて、そちらの駐車場に停めるため、車内に乗り込みます。まだ朝の10時だというのに、ドアを開けると一気に熱気が押し寄せ、またレンタカー独特の他人の臭いに思わず男は顔を背けました。
歩道側から後ろ向きで駐車をしていると、不動産屋の店主が入口の扉の横に立っていました。店主の顔には笑顔が貼り付けられておりました。しかし、「わ」ナンバーの車を見て何かを思ったのでしょう。店主は二人を一瞥し、店内へと案内しました。
そこはいかにも田舎の不動産屋といったところで、店内は少しカビの臭いがありました。古い紙の臭い、といったらよいのでしょうか。隅に置かれた金属製のラックには色あせた保険のパンフレットが立て掛けられていたものの、そのほとんどは折り曲がったまま萎れていて、男はそれを見ながら、那覇空港からの一本道、ガードフェンスの向こうにあった、枯れた向日葵を思い出しておりました。茎だけがまっすぐに立っていて、その先にぶら下がる大きな頭は首を折られたかのようにだらんと下に垂れている。向日葵は何本もありました。いえ、数十本、数百本、視界の奥の奥の方まで一様に頭を垂れた向日葵が、みな同じように真下を向いていたのです。
男がそんなことを考えていると、店主がグラスに入れたお茶を差し出してきました。冷たいさんぴん茶。男にとってはあまり馴染みのない味です。男がそれを一気に飲み干すと、店主が沖縄訛りの声で話しかけました。
「お引越し、ですか?」
「ええ、まあ、そんなところです」
男は少し考えました。この不動産屋に来たのは本当に偶然で、ここで物件を決める必要はありません。ですが、二人はその日のうちに福岡へ帰らなければなりません。時刻は既に10時半。物件の内見などを考えると、意外と時間が無いかもしれない。そう思って顔を上げた時、店主がじっと男の目を見ていました。相変わらず顔には笑顔が貼り付いたままですが、不思議なことに視線が合いません。男はすぐに気づきました。その目は自分ではなく、自分の頭の後ろにいる何かをじっと見つめていたのでございます。
ここはまずいかもしれない。そう思い妻に話しかけようとしたところ、妻はテーブルに置かれた物件のチラシを熱心に見ています。目玉が上下左右にギョロギョロと動き、文字を追っています。店主が再び口を開きました。
「この辺りでお探しでしょうか?」
男は店を出たくなり、妻の肩に手をかけようとした時、妻がそれを跳ねのけて店主に答えました。
「はい、そうなんです。このあたりで二人暮らし、いや三人暮らしできるくらいの物件を探してて、大体家賃は8万円くらいがよくって。できれば敷金礼金がかからないところがいいんです。エレベーターがあればいいんですけど難しいですよね。あとは近くにスーパーと病院とコンビニ、それから公園があったらいいなって思ってます。あ、でもそこは車があるんで別に大丈夫か。あ、いや、でもやっぱりあった方がいいですね。それで、そう、車があるので駐車場は欲しいです。だから、駐車場込みで家賃8万円くらい。そうなるとちょっと難しいですか?実は私たち福岡から来ていて、今日には帰らないといけないんです。福岡からこっちに来るのも結構大変じゃないですか。お金もかかるし。なので、できれば今日内見して、もしいい物件があれば押さえるところまでしちゃいたいなって思ってるんです。一応ほら、少しはお金もありますし、なんならそこら辺のコンビニとかでも引き出せるので、できるだけ早く決めちゃいたいんですよね。物件ってよく水物っていうじゃないですか。待ってればいいお部屋に出会えるとも限らないし、私たち本当に時間が無いので。で、で、で、あ、あと、大体不動産屋さんって、最初に予算をオーバーするけどすごくいい物件、次にほどほどの本命、最後に明らかにこれは無しだなって思うような物件を案内するのってよくやるじゃないですか。あの、私たちほんとそういうのいいんで、とにかく一番おすすめのお部屋を案内してもらえたらいいです。あの、本当に時間が無いのでお願いします」
まくし立てるように話す妻の黒目は何かに取り憑かれたように、反時計回りにグルグルと回転しておりました。妻の口から出る言葉はところどころ途切れ、喉の奥から別の人間が話をしているような、そんな不気味な感覚が男を襲いました。
男が茫然とした一瞬の間に、店主は「分かりました。それでは少しお待ちくださいね」と告げ、回転イスを後ろに向け、印刷機から何枚かの紙を取り出しました。
出された紙をガサッと掴み取り、再び妻の目が物件に吸い寄せられていきます。今度はさっきよりも早く、黒目を猛烈な速度でギョロギョロギョロギョロと動かして、「あの、ここにします。あ、こ、こ、こがいいです。今すぐ見せてください」と言いました。
男がその紙を見ると、何の変哲もない普通のアパートでした。確かに条件は妻が言った通りです。場所は恐らくこの近くで、不動産屋の事務所からだと車で大体5分くらいの場所にありました。確かに問題はないかもしれません。ですが、問題はそこではないのです。いきなり来て、いきなり物件を決めるなんて、事前に二人で話をしていたことと違います。
男が妻に「いや、ちょっと待ってよ」と言いかけたところで、男は異変に気がつきました。男の喉は、とっくに自分のものではなくなっておりました。男は慌てて周囲を見渡しますが、世界がどんどん回転していきます。ほら、昔よくやったでしょう。回転イスに乗ってグルグル回った後、まっすぐ立っているはずなのに視界が右から左へ流れていく、あの感覚です。男はよたよたと立ち上がり、お手洗いへと向かいました。何かがおかしいと思ったのでしょう。男が鏡を見ると、その鏡に映った自分の眼球がグルグルと動いていました。
男が、視界から何度も出たり入ったりする鏡の中を茫然と見ていると、そこには首を直角に曲げたままこちらを見る店主と妻の顔がありました。その顔には、目玉の部分だけをくり抜いた笑顔がべっとりと糊付けされていたのです。
二人は店主に連れられるまま、店主の車に乗り込み、その物件に向かいました。物件は4階建てのアパートの2階の一室でした。外階段を上りながら店主が「クリーニング前ではありますが、前のご入居者様のお引越しは済まれているので内見はできる状態になっています」と言い、玄関に取り付けられた黒いケースから鍵を取り出し、緑色の扉のドアノブをゆっくりと回しました。
その部屋は一応2DKということになっていましたが、実際は大きな一室を柱と薄い間仕切りで無理やり三つに分割したような形です。男の妻が靴を放り出し、用意されたスリッパも履かずに中へと進んでいきます。店主がゆっくりと電気のスイッチを入れるとブウーンという音を立て、切れかけの電灯がぱちぱちと明滅します。
「いかがでしょうか?」
そう言う店主に対し、妻は「ここがいいです。日当たりもいいですし、なんていってもこの畳がいいですよね。琉球畳っていうんですよね。なんていうか落ち着くっていうか。ああやっぱり私って日本人なんだなあって思います。ここで駐車場込みで5万円なんですよね?え、めっちゃいいじゃないですか。ほら、あそこに公園もあるし、すぐそこにコンビニっぽいのもありますよね。それで小学校も近いし。あの、あ、あ、ああの、あっちの方にあるのってスーパーですよね。だったら買い物も困らなさそう。ていうか車もあるし、ここからだと高速も近いからどこでも行けますよね。ね、ねえ、あなたもここがいいでしょ?別にあなたはどこでもいいんだから、もうここにしようよ。ほら、もう時間も無いんだし、ここが一番いいって、ね、そう思うよね?」
「うん、そうだね、ここがいいと思うよ。あの、じゃあここにしたいので、事務所に戻ってもらっていいですか?そこで手続きを済ませちゃいたいので」
キッチンに掛けられた鏡だけが、左右にぶらん...ぶらん...と頭を揺らす二人の姿をずっと映し続けておりました。
そこからおよそ3週間が経ち、やっと全ての引越しが終わったようです。
電気もつけず、山積みになった段ボール箱を開けることもなく、部屋の中では男と妻が畳の上に向かい合って座っております。どのくらいの時間が経ったのでしょう。時刻はすっかり夜になっておりました。ふいに妻の黒目がグルンと動きました。それに呼応するように男の目玉もまた。
二人の間にやっと笑顔が戻りました。そのまま二人は立ち上がり、相手の首に、あらかじめ用意されていた黄色と黒のトラロープを三重に巻き、その両端を手首に巻き付けてからしっかりと握りました。そして、二人は頭が互いに遠ざかるように一直線に寝転がり、お互いの足裏をぴったりと合わせ、両手に握ったトラロープを同時に思い切り引いたのでございます。
私はその様子をずっと天井から見ておりました。しばらくびくびくと動いた後、二人の黒目からやっと揺れが消えました。同時に光も消えてしまいましたが仕方ありません。畳についた染みがまた一つ増えただけですから。
