中野好夫の『それから』に対する註について
飯島耕一氏の『漱石の〈明〉、漱石の〈暗〉』はなかなか面白い本だ。バスで夕刊に目を通していたら中野好夫の「夏目漱石 ―― "文明開化"への批判と疎外感」が載っていて読んだらショックを受けたというのである。このバスで、という条件にはさして意味は感じられないが、池袋で上井草行きのバスに乗りと書いてある。東京都は七十歳からバス乗り放題のシルバーパスを購入できる。非課税世帯だと千円で帰るのでお得であるとは書いていない。
飯島がショックを受けたのは『それから』のこのくだりについた中野の註であった。
日本は西洋から借金でもしなければ、到底立ち行ゆかない国だ。それでいて、一等国を以て任じている。そうして、無理にも一等国の仲間入をしようとする。だから、あらゆる方面に向って、奥行を削って、一等国だけの間口を張っちまった。なまじい張れるから、なお悲惨なものだ。牛と競争をする蛙と同じ事で、もう君、腹が裂けるよ。その影響はみんな我々個人の上に反射しているから見給え。こう西洋の圧迫を受けている国民は、頭に余裕がないから、碌な仕事は出来ない。悉く切り詰めた教育で、そうして目の廻る程こき使われるから、揃って神経衰弱になっちまう。話をして見給え大抵は馬鹿だから。自分の事と、自分の今日の、只今の事より外に、何も考えてやしない。考えられない程疲労しているんだから仕方がない。精神の困憊と、身体の衰弱とは不幸にして伴なっている。のみならず、道徳の敗退も一所に来ている。日本国中何所を見渡したって、輝いてる断面は一寸四方も無いじゃないか。悉く暗黒だ。
何度となく読み返してきた代助の文明批判である。
この「借金」のところには中野好夫の註がつけられていて、「もちろん文化的借金である」とある。うむと唸ったのはもちろん終わりの方である。初めの方は今となればだれでも言うだし書くことだ。
確かに。
そのまま読めば経済的借金である。現に日露戦争戦費のために日本は多額の負債を抱えた。経済的借金として読んで何の閊えもない。
これを一旦「文化的借金」に脳内変換して読み直そうとするとたちまち閊える。確かに明治二年には天皇が洋装した。『三四郎』の頃にはもうビステキを食べるようになっていた。ビステキを食べるのは『野分』の中野君と高柳君だが、三四郎が佐々木与次郎に連れていかれた淀見軒ではビステキやライスカレーを出していた。これは「文化的借金」だろうか。
文学においては大いに借金した。尾崎紅葉は西洋文学を必要としない立場ながら『金色夜叉』には外国の小説の翻案であるという。坪内逍遥は沙翁復興といい、全作品個人訳に生涯をささげた。外国から借金せぬものは樋口一葉と泉鏡花くらいなもので、あとは大いに借金した。
ただし「だから、あらゆる方面に向って、奥行を削って、一等国だけの間口を張っちまった」とまで言えるかどうか。
文明開化は西洋化でもあった。
衣……男性の場合、外出時は洋服。帰宅すると和服というスタイルが昭和まで続いた。
食……西洋風料理が盛んに食べられるようになった。
住……西洋館が建てられ、洋間が造られるようになった。
うむ。確かに「文化的借金」なのか。
そして「こう西洋の圧迫を受けている国民は、頭に余裕がないから、碌な仕事は出来ない」という、この国民に対する西洋の直接の圧迫は、負債のための増税の圧迫ではなく、あくまで文化的圧迫なのか。
例の「シルクハットで鰻屋」が文化的圧迫なのか?
ここがよくわからない。明治の人々は堰を切ったように「喜んで」西洋文明を飲み込んでいったように思う。その端緒が明治天皇の洋装であったとして、すべてが官製であるはずもなく、今にして思えば1960年代のコカコーラにジーンズにビートルズのように熱狂的に大歓迎されたように思えなくもない。
この「考えられない程疲労しているんだから仕方がない」という辺りは、サラリーマン教師という職業を経験した漱石の実感ではあろうが、あまりにも個人の感想過ぎないだろうか。実際漱石も門野のようなのんびり暮らしている者も捉えている。「精神の困憊と、身体の衰弱とは不幸にして伴なっている」というのはもう一つ時代をさかのぼり、文部省の命令で英語を学ぶために英国留学していた時分の実感ではなかろうか。この時代の漱石はおそらく西洋文化に借金をして圧迫されていた。第一英国とは何ぞや、ということが明瞭ではない。英国史をちょっとなぞろうとするとたちまち西欧の歴史になる。日本史のようなわけにはいかない。それで十六世紀くらいのものまで読むわけだから、安土桃山時代くらいからやることになる。それは大変だ。
しかし一般の人はどうだったか?
大変乱暴な話、漱石の言う「我々個人」の中には車夫や下女、給仕や看護婦は含まれていまい。大体対象としてみているのは高等教育を受けたのに銀行で算盤をぱちぱちやっているサラリーマンだ。『それから』の時点で漱石の同窓生にはかなりの社会的地位を得ている者もいて、彼らもこの「西洋の圧迫を受けている国民」とは少し異なるようにも思える。
しかし代助は強弁する。「日本国中何所を見渡したって、輝いてる断面は一寸四方も無いじゃないか。悉く暗黒だ」。ここまで言うからには満鉄総裁も輝いてはいないわけだ。
文化的借金が日本を暗黒にしている?
中野の指摘には虚を突かれるが、飯島のショックのところまでにはたどり着けない。
しかし確かに漱石は『三四郎』で広田にも「富士山に比較するようなものはなんにもないでしょう」と言わせている。寿司天ぷらでなくともウナギでもうに丼でも日本にはうまい食べ物はいくらもあるが、確かに富士山とは比較にならない。汽車も電車も電話も電信もみな西洋からの借金である。
しかし暗黒の中で、輝いているもの、輝き始めているものはあった。文化的借金のおかげで。
それは漱石である。文化的借金のおかげで漱石は輝いた。
経済の借金で頑張ったのは今度千円札になった人かもしれない。どちらがえらいという比較ではない。
[余談]
こうして何となくそのまま読んでしまっているところを指摘されるということがある。
ほかにもきっとあるんだろう。
また読み返さねば。
