三島 もう一つ、これは世阿弥の発見じゃないかもしれないけれども、ことに三番目物とかの優雅なものが、その実、非常に強い、「和漢朗詠集」の引用なんかの漢語的な表現の強いものが出てきて、そして「熊野」なら「熊野」の、「花前に蝶舞ふ紛々たる雪」とか、ああいう漢語的な引用句が出て来ますね。あそこにお能の強さがあるような気がする。やまと言葉だけだとお能というもののふしぎな味は出ないので、ああいう非常に優雅な女、あるいは娼婦みたいな女を書きながら、突然、漢語的な表現が引用で出てくる……。(「世阿弥の築いた世界」昭和四十五年七月)
野花黄蝶春風を領し、花前に蝶舞ふ紛々たる雪を、めぐらす舞の袖、返す返すも面白きや。
作詩精選 上

史話俳談 藤井乙男 著晃文社 1943年
由紀夫君「和漢朗詠集」と間違えているけど、これ「百聯抄」からの引用だと思うよ。
キーンも専門家さんも気がついてないみたい。
いや「三番目物とかの優雅なもの」に「和漢朗詠集」の引用が出てくると言っているだけで、「花前に蝶舞ふ紛々たる雪」が「和漢朗詠集」の引用だとは言ってませんよ。よく見てください「ああいう漢語的な引用句」と言っているだけです。
……。
それに「熊野」を「くまの」って読みましたよね。「ゆや」ですからね。
観世流改訂謡本 内 8 蟻通 他4番
間違えました。
なにつっ立ッとんねん。
申し訳ありませんでした。
普段偉そうなこと言ってんだからしゃんとしろよ。
申し訳ございません。
二度とすんなよ。
キーンさんが凄い指摘してますね。「能は日本人によって書かれたポエトリーの中でいちばんすぐれていると思います」ですって。
「万葉集に多少あったんでしょうけども」という指摘が由紀夫君の「長歌が消えて漢詩になった」という文学史と真っ向からぶつかるね。由紀夫君が気がつかなかったことだ。
先ほどの「熊野」で言えばやはり「古今集」と漢詩のハイブリッドですね。これが本当の日本の伝統ではないですか。無理に唐ごころを排除する必要もなく、むしろできない。
僕もそう思います。記紀「万葉集」が日本なのではなく、日本の中で千数百年かけて熟成されたものが日本なんだと。キーン ときどき、しろうとの能でほんとうの女の人が舞うでしょう。ほんとに気味が悪い。
三島 いつも言うんですけれども、能が日本の芸能のほんとうの形だと思うので、歌舞伎の女方が女のまねをするのはほんとうの女方の堕落だと思いますね。ですから歌舞伎の女方も、義太夫がほんとですね。そういう女方は時蔵で終りになっちゃった。ちゃんと男の声でやっていた。
(「世阿弥の築いた世界」昭和四十五年七月)
ゴーンとは大違いね。
それにしても由紀夫君も「能が日本の芸能のほんとうの形だ」ってハイブリッドな日本を認めちゃってるよ。これ大きいな。
しかし歴史的に考えてみるとハイブリッドは当然ですよね。日本は漢字文化圏にあり、渡来人が焼き物をもたらした。侘茶だって焼き物がないと成立しないわけで。
墨も硯も中国文化ですよね。日本の古墳も埃及のピラミッドの真似でしょ。
そりゃ多分違うな!
天皇家でさえあちらの血が混ざっていますよね。やはり国学そのものに無理があったのではないですかね。そこを由紀夫君は感覚的に告白してしまった。
キーンから見るとそこはもうクリアーなんだろうね。漢字かな混じり文なんだから。
にしてもあのゆったりまったりした感じが日本なの?
京劇のシャンシャンした感じは日本じゃないよね。
漢詩を中国人が読むと抑揚が激しくてあれっと思いませんか。「日本語の漢詩」というものが間違いなくあって、ものすごく平坦ですよね。日本はしゃんしゃんしていないですよね。
大人しく柔らかい感じがしますよね。
そろりそろりしてますね。
そりゃチョコプラの和泉流だな!
これを現代で言うと?
乃木坂46ですかね。
秋元康が現代の世阿弥かーい!
わりとくねくねしない。