感化された言葉たち
私が以前に入っていたコミュニティーオーナーのりささん(Xでは、ひかりさちゃん)が、Facebookから離れて、Xで自分を開花させたらしい。笑
彼女の幼少期は、父親からの威圧が大きくて、幼いながら、甘えることも自分をさらけ出すことも諦めざるを得なかった、、と言う過去の持ち主。
大人になって、自分と向き合うことの恐怖と戦い、本当の自分とは?を、ずっと模索し続けて苦しんでいました。
コミュニティーの中心にいた時でさえ「私は、いつやめてもいい」「そんな器を持っていない」と、人から愛されることに、いつも怯えていた気がします。
そんな、ひかりさちゃん。
Xでの投稿は、彼女の感じたままの言葉がとめどなく流れている。
彼女から溢れ出る言葉は、今までの葛藤と言うよりも、ずっとずっと真髄にあった優しい心や、幼い頃に押し殺していた「ありのままの自分を愛して欲しい」が、素直な言葉で表されていた。
そんな、ひかりさちゃんの言葉を見ていると
「私は、自分のことをどれだけ知っているのだろう?」
「私は、本気で自分と向き合っているのだろうか?」
自分とリンクさせてしまう、自分がいた。
幼い頃の私
結婚して妻としての私
子供が産まれて母としての私
SNSでの私
noteでの私
どれも、今の私。
と言ってしまえば、そこで終わってしまうのだけれど、noteでは、自分を美化して書いていない?と問うと、それもあるよね、と答える。
noteも、SNSの投稿も、コメントも
人様の目に触れるもの。
言葉選びは、やっぱり気を付けようと思うし、人を非難することだけは書かないようにしようと心がけている。
これは、人としてのマナーだと思うので、敢えて書くこともないとは思うのですが。
noteの中で「辛い、悲しい、寂しい」
こんな内容に出会った時、読むのをやめてしまったり、スキも残さずに通り過ぎることがある。
マイナスに引っ張られやすい私自身を守る為でもある。
辛い過去は、書き出すとキリがない。笑
きっと、明るく振る舞う人ほど、その闇は大きいはず。
そして、誰もが辛い過去を経験しているはず。
その経験を乗り越えられた人は、同じ辛さを感じている人から救いたい、とnoteで発信し続けてくれている。
それが出来る人は、自分の今を良く知り、自分は幸せに囲まれていると知り、自分は愛されていると知っている。
人は、愛されていると感じられないと、生きられないのでしょう。
愛されていると感じられないと、卑屈になったり、どうせ自分なんて、と自信も失う。
私は?
幼少期の私は、確かに愛されていた。
何も出来なくても愛されていた。
理不尽に叱られることもなく、暴力を振るわれることもなく、両親や周りの人からも愛されていた。
親の再婚からの私は、それまでのようには甘えられなかったな。
ちょっとしたことでも怒鳴られる、やりたいこと、行きたい所があっても否定されて、馬鹿にされて、やめとけと言われて。
親の顔色を伺いながら、色んなことを我慢して。
親の言うことが絶対な所もあったから、いつも怯えて過ごしていた記憶しか残らない。
長い期間、愛されていたのに、愛されていると受け取れなかった。
心から愛したい人。
心から愛してくれる人。
心から大切にしてくれる人。
そう確信できてやっと出逢えたのが、今の夫。
愛することも、愛されることも
信じることも、信じて貰えることも
夫だったから気付けたことで、夫だったから出来たこと。
自分が自分らしく生きていていい。
そこにたどり着くには、根気強い愛が必要で、
出逢ってからずっと注ぎ続けてくれた愛で、今の私がいるのだと思うと、感謝でしかない。
自分が満たされていると、人にも愛情を注ぐことが出来る。
子供たちが生まれて、無条件に可愛いと愛情を注ぐけれども
実は、子供たちから貰う愛情の方が大きいのだと知る。
言葉を、まだ上手に話せなかった頃
どうして何も言わず、泣いてばかりいるの?と
イライラして怒ってばかりいた時もあったな、
無理やり謝らせようともしていたけれど、今になって思うのは、親のエゴであり、無駄なことだし、子供にとっては真逆なことをしていたな、と知ることも出来た。
子供の為を思って、、なんて、子供たちは望んでいないこと。
自分達で気付き、経験して行くことで、子供達の世界を自分達が切り開いて歩いて行かなければいけないよね。
親が出来ることなんて、大きくなれば、信じて見守るだけ。
そんなものですよね。
さて、思い付くままに書き綴ってみたものの
着地点は、どこ?笑
まぁ〜いっか〜
