【最終章 音のむこうで、ボクが笑ってる】
♪ BGM:モーツァルト《ピアノ・ソナタ第16番 K.545》再び
──ひとりきりの、ピンク色の再会。
かつてのピアノキッズ。
彼女は大人になってピアノの指導者という道に入った。
ショパンを教えた。ベートーヴェンも教えた。
でも、モーツァルトだけは──力を入れて教えられなかった。
あの軽やかで、無邪気で、時に毒を含んだ“ピンクの音”。
小手先で弾けば、たちまち嘘がバレる。
それを知っていたから。
そして、自分がかつて“痛いほどバレた”経験があったから。
彼女はモーツァルトをずっと怖れていた。
月日は流れ、指導の道を離れることになった彼女は、
“しょし”という実務の世界へ入った。
日々、書類に囲まれ、決裁を待ち、街を走る。
──けれど。
その部屋の片隅には、今も、グランドピアノがある。
ある日、山のような書類に目をやるのをやめて、
彼女はピアノの前に腰かけた。
なにかを思い出すように、そっと鍵盤に手をのせる。
ドーミソシードレドー……
手はもう、以前のようには動かない。
音だってかつてのキラキラしたものは出せない。
譜面台では、ヘンレ版のページが緩やかに波打っている。
でも、不思議なことに、
そこには「焦り」も「無力感」もなかった。
「……あぁ、これがモーツァルトなんだね」
そう呟くと、
どこか遠くで、風がくすくすと笑ったような気がした。
ふふっはあと。
誰もいない執務部屋で、 モーツァルトは、また彼女の指先に帰ってきた。
ーおしまいー
※この物語は一部フィクションを含みます。
でも、もしもグランドピアノがうれしそうに鳴ったなら──
それはきっと本当のことです。ふふっはあと。
