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戦前名古屋におけるジャズの普及展開(3)ダンスの流行と取締の攻防史⑦



(前回の続き)


高まるダンス解禁の期待


1932(昭和7)年の夏、名古屋で再び高まりだしたダンス熱は、観光業界や花柳界にとどまらず、長年ダンスをできなかった人々の心に火をつけ、街中にダンス教習所も次々と現れるようになる。早くには、名古屋興行界の顔役、岡崎浅次郎の岡崎興行部が舞踊研究所を設け、東京少女歌劇の振付をしていた内田敏夫を教師に迎え、社交ダンス教室の看板を掲げている[注1]。この頃、岡崎の経営する大須の大和座では、カワベキミオ率いるジャズ・オブ・東京舞踊団を軸にレビュー常設館に生まれ変わろうとしており、踊り子たちの養成が目的だったのではないかと考えられる。また、松竹楽劇部の振付師だったという川合秀夫は、専属ダンサー二人とともに川合社交舞踊研究所を設立し、月五圓の会費で女給、芸妓をはじめ老若男女20名の会員を集め、ダンスの教授を始めている[注2]。

1933(昭和8)年に入ると、4月に、お隣の岐阜県で岐阜土地興行株式会社がダンスホール建設の認可申請を行ったと報じられ[注3]、7月には、大阪や名古屋と並びダンス禁制の地であった京都府がダンス取締規則の公布に踏み切り、東山ダンスホール、京阪ダンスホール、桂会館(桂ダンスホール)の3か所が認可された。周辺地域でダンスホールを巡る動きが伝わるごとに、名古屋のダンス解禁はいつかとの期待感はいやが上にも高まった。一方で、右翼団体は連名で、国家が非常時の折柄にダンスホールなんか許可しないよう愛知県に陳情を行うなど[注4]、ダンス反対派の動きも活発になる。

京都のダンスホール認可を報じる新聞記事
(1933(昭和8)年7月11日『新愛知』)

保安課長の国塩耕一郎は、ダンスホール取締規則が制定されるまでは名古屋でダンスホール類似の会員組織やクラブは認めないとの立場を貫き、目につくごとにダンス組織には閉鎖を命じていた。しかしながら、どんなに取り締まっても減らないダンスクラブに次第に手を焼きはじめ、いっそ早めに取締規則を制定してダンスホールを許可した方がいかがわしいダンスホールを減らせるのではないかとの考えに傾く。1933(昭和8)年8月17日の『新愛知』では、国塩耕一郎は記者のインタビューに対し、その胸中を以下のように語っている。

記者 課長さんダンスホールの認可はまだですか。非常時解消と共に認可するような話であったが-
課長 ダンスは別に弊害はないがこれによって風俗をみだしたりするからいけないのでダンス絶対いけないとは云はない、だから認可もするさ、最近のやうにいかがわしいクラブや研究所が続出するとこの弊害が大きいから当局がこれならよいと認める設備のダンスホールを認可したほうが却ってよいかも知れぬとも考えている
記者 認可の時期は?
課長 本年内でもよいし或は明年になるかも知れぬ
記者 ホールの設備、場所、ダンサーの取締についての研究は
課長 ホールは大体東京に準じたらよいだらう京都のやうに外国の観光客のことまでも考慮にいれて設備する必要はないサ、要するに当局の期待に副ふように設備すればよい、場所も名古屋市内幾箇所郡部何箇所市内なら中村築港或は東郊とそんな限定的な考へはもって居ない、付近に学校があったり住宅地帯の真中へ設けることは許可出来ない、ダンサーの取締りの点も許可制度か単に届出る程度にするか考慮している
(中略)
記者 結局ホールは許可するのですか
課長 許可するさ、長官に話して研究しようと思っている。時期は先ほども云ふたやうに何時でもよいサ要するに機運だネ

1933(昭和8)年8 月17日『新愛知』

誰もがダンスホールの許可は間近に迫ったと信じたことだろう。ところが、その3週間後、9月4~6日に内務省で開かれた全国保安課長会議に出席した国塩の談話は、ダンス推進派を失望させるものだった。

保安課長会議ではカフェー、ダンスの可否問題から改正自動車取締令、交通事業法等が主として議題に上った、(中略)ダンスの可否問題についてはいろいろ議論もあったが結局日本のダンス乃至ダンスホールは変態的のものであり、踊ることそのものは別に悪くないが、それに伴ふ弊害が大きくないといふ意見が大多数で、愛知県としては社会の情勢乃至輿論がダンスホールの必要に迫られた時こそ初めて考慮するが先づそれまではゴ法度のまま静観するつもりである(後略)

1933(昭和8)年9月13日『新愛知』

国塩の心境がどうして変化したのかはわからないが、保安課長会議でダンスホールに関して良からぬ報告があったのだろう。その事を裏付けるかのように、ダンスホール復活に冷水を浴びせる不祥事が待ち受けていた。東京での不良ダンス教師に関わる一連の事件である。

東京の不良ダンス教師問題


1933(昭和8)年10月7日、警視庁が行った不良狩りで検挙された一人に、銀座ダンスホールのダンス教師木村政雄(本名、東均敞)がおり、木村がダンスホールに出入りする女性客を喰い物にしている事実が判明した。警視庁がさらに追及したところ、木村の同僚のダンス教師、田村一男(通称、エデー・カンター)が有閑マダム、資産家令嬢、芸妓、女給、清元師匠、会社専務夫人、病院長夫人等、数多の女性と情痴の限りを尽くしていたことが明らかになる。田村は検挙され、有閑マダムたちの乱倫ぶりが白日のもとにさらけ出された。

(前略)阪神電鉄某課長夫人は彼と一回踊ってチケット五十枚、某令嬢は百枚、某会社専務夫人は五十枚を惜しげもなく彼の手に握らせて歓心を買ひ、その中でも某病院長夫人の如きは余りに頻繁なホール通ひにお迎へ運転手にも遠慮して圓タク又は三越から態々地下鉄で通ひ、甚だしい時は午前十時前に来て田村の出勤を待ち正午迄、更に共に昼飯後三時迄踊り抜いても飽き足らず、夜も現れて派手な好みの洋装で全ホールの人眼をひきつつ踊り続けるといふ有閑マダム振りを発揮、田村等と共に食事を共にする他に昨年以来横浜市磯子の待合、田端の料理屋、多摩川の待合等を遊び回りダンスホールでも相当評判を高めていたといはれ、(中略)田村は右のようなやり方で月収三百圓を下らず豪勢な生活をしていたものである(後略)

1933(昭和8)年11月8日『東京朝日新聞』

この記事に出てくる「某病院長夫人」は、青山脳病院の病院長で歌人でも知られる斎藤茂吉の夫人であることが知られている。

田村に続き、フロリダ・ダンスホールの主任ダンス教師で「日本一の好男子」を自任する小島幸吉、同じくフロリダの専属写真師でダンス助教であった佐渡祝二が検挙され、不良ダンス教師の醜状が次々と明るみになる。さらに、警視庁に召喚された有閑マダムの中に歌人の吉井勇伯爵夫人がおり、取り調べ中に文壇人の間で麻雀や花札の賭博が横行していることを暴露したことから、里見弴、久米正雄、佐佐木茂索、中戸川吉二ら各夫妻、総勢15名が一斉検挙される事態にまで発展した。このいわゆる「不良華族事件」の顛末は、文春オンライン電子版の「連載・昭和事件史」に詳しく紹介されているので、参照いただきたい。

不良ダンス教師問題を受けて、各ダンスホールでは素行の悪いダンス教師の解雇に踏み切る。また、日本舞踊教師組合では、会長である国華ダンスホールの植木三郎が辞任し、ダンスホールへの学生服姿の者の入場を禁止するなど対策に追われた。こうしたダンス教師の行状には、女性ダンサーと比べてチップなどの収入がなく、定収面での格差が大きかったことも背景にあったようだ。

ダンス弾圧への転換


この事件は全国的に衝撃をもって大きく報じられ、名古屋でもダンスへの批判が再び高まった。当局もダンスの取締を強化する方向に転換し、前回述べた通り娼妓や芸妓のダンスを禁止するとともに、市中のダンス団体や教習所の撲滅に動き出す。愛知県保安課は、ダンスに遊戯場取締規則を適用し、名称の如何を問わず多数の人を集めて社交ダンスをするものには厳罰を課し、責任者を拘留または科料に処するよう各署へ通達する。これまでは精々ダンス場の閉鎖を命じるまでであったが、これからは検挙にまで踏み込むことを指示したもので、警察によるダンス弾圧の宣言に等しかった。

ダンス取締強化を報じる新聞記事
(1933(昭和8)年12月9日『名古屋新聞』)

同月11日の愛知県会では、質問者からダンスホールを許可するか否かを問われた吉永警察部長は、「ダンスホールは色々な問題がおきて評判が良くない。県下でも一度許可したが弊害が多いために止めた位で許可する意思は毛頭ない」と答弁し、議場の喝采を浴びたという[注5]。名古屋赴任時、ダンス解禁に理解を示した吉永警察部長、国塩保安課長の姿はもはやなかった。名古屋でのダンス解禁の望みは、この時をもって潰えたといってよいだろう。

ダンス教師たちの抵抗


しかしながら、当局がダンスの弾圧を始めても、ダンス教師たちは怯むことがなく、むしろ当局にダンス解禁を期待しなくなった分、以前にも増してダンスの地下活動化に拍車がかかった。これ以降、もぐりのダンス組織と当局の摘発のいたちごっこが延々と続くことになる。当局がダンス弾圧を宣言した1933(昭和8)年末〜1935(昭和10)年にかけて、新聞で確認したダンス場摘発案件を抜きだすと、以下の通りである。

・1933(昭和8)年12月6日、東区飯田町でダンス研究所を開いていたダンス教師廣田猛とダンサー外数名を鍋屋署が検挙。廣田は同年8月、東区千種町で経営していたダンス倶楽部を警察により閉鎖させられた後、9月に同所にダンス研究所を設立、会員30余名から月10圓の会費をとってダンスを行っていた。
・1934(昭和9)年2月23日、中区宮出町の河合秀雄(別名、河合ヘンリー。前述の川合秀夫と同一人物と思われる)の舞踊研究所で、二十余名の有閑マダムら男女が社交ダンスをしているところを新栄署が踏み込み中止を命令。河合には、今後絶対にダンスをやらないよう厳重に訓戒。
・1934(昭和9)年4月4日、中区三輪町の三悦蓄音器商会柴田一郎宅の二階からダンスのステップがきこえるのを門前署員がみつけ、有閑マダム、会社員、男女学生等十名を連行。同所では、約2か月前から月4円の教授料を会員から徴収し、元横浜カールトン舞踊場ダンス主任宮谷不二男の指導を受けてダンスを行っていた。
・1934(昭和9)年5月29日、東区千種町の加藤軍次郎が本年3月頃から自宅にダンス場を設け、ダンス教師宮谷不二男、ダンサー岡本喜代子を雇い、各種職業の者二三十名が集まりダンスをしていたことが発覚。新栄署が同宅に押し入り検挙。会員の中には官吏も数名含まれていた。
・1934(昭和9)年7月31日、中区宮出町の河合ヘンリー宅でダンスをしている現場を新栄署員が発見し、河合、カフェー女給、自称CK放送局員らを連行。また同日、東区呉服町でもダンスをしていた数名を連行。
・1934(昭和9)年9月25日、東区車道東町の宮谷不二男宅で、十数名の男女がダンスをしていることを鍋谷署員が発見、宮谷外9名を引致。
・1934(昭和9)年10月7日、中区宮出町の河合ヘンリー宅で男女14名がダンスをしているのを新栄署員が発見し引致。同所では、3日前からドイツ人技師、ダンサー、日本車両社員等が名古屋舞踊教師組合を組織し、男性10円、女性8円の会費を徴収しダンスをしていた。
・1934(昭和9)年10月10日、中区三田町のダンス教師金子静雄が舞踊研究会を組織し、自宅で資産家令嬢や有閑マダムを含む三十余名の男女がダンスをしているのを門前署員が発見し、引致。金子は、過去にも数回ダンス場を開いて、警察に閉鎖を命じられた前歴あり。
・1935(昭和10)年2月7日、中区御器所町の元民衆ホテル跡でダンスを踊っていたところ、御器所署が踏み込み、男女7組を検挙。同所では、昨年11月3日から、ダンス教師小松恒慶、原昭の両名がダンスクラブを組織し、有産階級30余名の会員に月5円の会費でダンスを教えていた。
・1935(昭和10)年7月2日、原昭とその妹が東区長久寺町の空家を借り受け秘密ダンス場として使用していたことが発覚し、鍋屋署が6組の男女を検挙。原は、中京商業卒業後、東京のダンスホールを渡り歩いた後に帰名、東区の玉突場で知り合った男にダンスクラブを作りたいから同士を集めてくれと持ちかけ、一等会員十円、二等会員6円の月会費でダンスを行っていた。
・1935(昭和10)年8月7日、南区の港楽園内音楽舞踊研究所で踊っていた芸妓らを築地署が引致。メンバーは、先の原昭の秘密クラブで検挙された一味のメンバーの残党。

ここから浮かび上がるのは、何度検挙されても、ダンスをすることを諦めないダンス教師たちの姿である。ダンスをしたいだけならば、他の地域に逃げ出してもよさそうなものだが、名古屋に留まり続けたのは、名古屋で何としてもダンスを普及させたい信念の表れといえる。1934(昭和9)年5月には、金子静雄、河合秀夫、宮谷不二男、原昭らは「名古屋舞踊教師協会」を設立し、ダンスホール合法化を目指して団結する動きもみせている。今では完全に忘れ去られているが、ダンスをする自由を求め、当局と闘い続けたダンス教師たちが戦前の名古屋に数多くいたのである。

名古屋舞踊教師協会の設立を報じる新聞記事
(1934(昭和9)年5月9日『新愛知』)

1936(昭和11)年に入り、翌年の名古屋汎太平洋平和博覧会の開催を控え、来場する外国人の接遇を目的にダンスホール設置の声が再び盛り上がったが、この時も運悪く東京の不良ダンス教師問題(第二次桃色事件)と重なり、当局の姿勢が変わることはなかった。その後、日中戦争による時局の悪化から、ダンスホールに対する世間の眼差しはさらに厳しさを増していき、1937(昭和12)年末、内務省が全国のダンスホール閉鎖の方針を表明、次第に既存のダンスホールの廃業が相次ぐようになってくる。1940(昭和15)年10月31日には、東京のホールが全て閉鎖となり、関西などで残っていたホールも同年末までに消え去った。ダンス禁制に抵抗し続けた名古屋のダンス教師たちの命運は、これで尽きたのであった。

(この回、⑧へ続く)


[注1]1932(昭和7)年8月8日『名古屋新聞』
[注2]1932(昭和7)年9月13日『名古屋新聞』。川合社交舞踊研究所は、同年9月10日に県保安課から閉鎖を命じられている。
[注3]1933(昭和8)年4月15日『名古屋新聞』。しかしながら、その後、ダンスホールが開設されたという事実は確認できない。
[注4]1933(昭和8)年8月13日『名古屋新聞』、同『新愛知』
[注5]1933(昭和8)年12月12日『新愛知』

〈見出し画像〉
1935(昭和10)年7月3日『名古屋新聞』秘密ダンスクラブから連行される女たち

〈参考文献〉
永井良和『ジャズとダンスのニッポン』2024年 関西大学出版部
永井良和『社交ダンスと日本人』1991年 晶文社
朝日新聞社『東京朝日新聞』
新愛知新聞社『新愛知』
名古屋新聞社『名古屋新聞』

〈参照WEB〉
株式会社文藝春秋『文春オンライン 連載 昭和事件史』

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