見出し画像

戦前名古屋におけるジャズの普及展開(2)映画館の奏楽について〜千歳劇場と松坂屋音楽隊②



(前回の続き)

アサヒ蓄音器商会と松坂屋音楽隊

 松坂屋音楽隊、および音楽隊出身者の幅広い活動には、映画館での奏楽やラジオ放送に加え、新たなメディアとして大衆に普及しはじめたレコードの吹込みもあげられる。特に、名古屋で唯一のレコード製造会社であるアサヒ蓄音器商会で発売されたレコードの吹込みには、地元である松坂屋音楽隊のメンバーが駆り出されたと言われており、当時、流行の先端であったジャズソングの伴奏でも大いに活躍した。

 アサヒ蓄音器商会は、1923(大正12)年12月1日に名古屋で設立された匿名組合大和蓄音器商会を前身とし、1925(大正14)年6月6日に大和蓄音器商会を買収して設立された。大和蓄音器商会を設立した二代目神野金之助、花井孝一[注1]は、いずれも7月に本放送開始を控えた名古屋放送局(JOCK)に移っており(神野はJOCKの理事長、花井は放送課長から後に放送部長に就任)、アサヒ蓄音器商会の社長には神野金之助の義兄である神野三郎が就任したことから、設立当初から名古屋放送局との関係が強かったことで知られる。『神野三郎伝』によれば、大和蓄音器商会の設立も、名古屋放送局に関係する芸能人を多く集めることと、放送技術のレコード製作への応用のためであったと記している。大和蓄音器商会は、下の写真の通り、創立時から「ツル印アサヒレコード」を商標にし、名古屋市東区大曽根町の工場でレコード製造を行い、1924(大正13)年8月に第1回新譜を発売した。商標のツル印は、アサヒ蓄音器商会にも引き継がれた[注2]。

レコード販売開始の半年前に掲載された
大和蓄音器製作所の新聞広告
(1924(大正13)年2月11日『新愛知』)
ツル印アサヒレコード第1回新譜広告
(1924(大正13)年8月25日『名古屋新聞』)
ツル印アサヒレコード第1回新譜の1枚
「籠の鳥/夕陽は落る」(瀧静調・高山つる)
(筆者所蔵)

 アサヒ蓄音器商会の最も特筆すべき功績としては、1927 (昭和2)年に国内で始めて電気録音の吹込によるレコード製作に成功したことがある。これは、アサヒ蓄音器が名古屋放送局との関係を利用してマイクロフォンなどの機材を借用したことで実現したと説明されるのが一般的だが、電気吹込レコードの発売前、1927(昭和2)年7月7日の新愛知に、「本物を吹込んだレコードを使ふ 擬音に悩むJOCkが新しい思ひつき」の見出しで、興味深い記事がある。

名古屋市中央放送局放送課では、従来放送上いろいろな模擬音の必要にその都度苦心を重ねてそれに充てていたが(中略)過般来、花井放送課長を始め課員がこの研究に相当日数を費した結果、いよいよ市内アサヒ蓄音器商会と契約し同商会大曽根の新スタジオに於て電気吹き込みを以て実物をレコードに吹き込みこれを使用することになり、山本放送課員専任となってアサヒ蓄音器の福永技師長、森技師と協力製作に移り、既に鶏犬の鳴き声等出来上がった(以下略)

1927(昭和2)年7月7日『新愛知』

 アサヒ蓄音器が電気吹込実現にあたりJOCKの機材を借用できたのは、アサヒ蓄音器側の事情ばかりではなく、JOCK側にもラジオ放送で擬音を使用する目的(放送劇の用途か)があったことが伺われ、両者は相互補完の関係にあったといえるだろう。

電気吹込の成功を伝える新聞記事
(1927(昭和2)年7月14日『名古屋新聞』)

 この記事中の福永技師長は、1911(大正元)年に東洋蓄音器商会を創業した福永孝蔵で、東洋蓄音器商会が東洋蓄音器株式会社に買収された後は録音技師に転じ、ニットーレコードの日東蓄音器株式会社を経た後、大和蓄音器商会に招聘された。アサヒ蓄音器商会では取締役に任じられている。福永は、当時の国内でのレコード録音技師としては第一人者であり、アサヒ蓄音器の電気吹込は、福永なくして実現できなかったと考えられる。なお、森技師は、福永の甥で、同じ録音技師として福永をサポートした森富雄であろう。

アサヒジャズバンド

 アサヒ蓄音器は、東京または大阪の売れっ子歌手が東京と大阪間を移動する際を利用して、途中で名古屋に立ち寄ってもらい、レコード吹込を依頼したと言われている。しかし、伴奏者は地元の名古屋からある程度調達する必要があった。その調達先として、洋楽の演奏技術に長けた松坂屋音楽隊のメンバーが重宝されたことは想像に難くない。長谷義隆の『発掘レトロ洋楽館 松坂屋少年音楽隊楽士の軌跡』には、松坂屋音楽隊のヴァイオリン奏者でコンサートマスターも務めた丹羽秀雄の遺品の中に、「昭和四年弐月 アサヒレコード吹込所」と記された録音風景の写真があったことを紹介している。写真は見るからにジャズバンド伴奏の流行歌の吹込で(丹羽はサックスを担当)、この写真はそれを証明するものといえるだろう。
 アサヒ蓄音器のジャズ伴奏楽団は、ラジオ放送にも屢々出演し、名古屋のお茶の間にジャズをお届けした。新聞のラジオ番組欄によれば、1932(昭和7)年1月19日、2月5日、3月2日にアサヒジャズバンドとして(内、2回は黒田進の独唱付き)、1932(昭和7)年11月20日、1934(昭和9)年8月22日にアサヒ・ジャズ・オーケストラとして、1934(昭和9)年10月13日、1936(昭和11)年2月13日にアサヒ管絃楽団として、JOCKのラジオ放送に出演している。

アサヒジャズバンド
(名古屋毎日新聞社編『中京名鑑 昭和7年版』
1932(昭和7)年)

 アサヒジャズバンドのメンバーに関する資料は皆無で、実際にどのような人達が吹込に参加していたのかは明らかでない。バンドのリーダーも誰だったかはっきりしないが、マネジメントに関しては、アサヒ蓄音器文芸部長の筒井二郎が担っていたと思われる。筒井二郎は、1906(明治39)年8月26日に三重県で生まれ、東京音楽学校を卒業後、日東蓄音器を経てアサヒ蓄音器に入社し、文芸部長としてレコードの企画に携わるとともに、自ら流行歌の作曲も行うなど八面六臂の活躍をみせた。管弦楽のラジオ放送では指揮も行っている[注3]。1943(昭和18)年にアサヒ蓄音器がアサヒ合成工業に改組された後も取締役として会社に残り、1949(昭和24)年に社長に就任。1954(昭和29)年に独立して東海高分子化学研究所を設立するなど、戦後は実業家の道を歩んだ。
 アサヒ蓄音器は専属楽員をほとんど持たず、録音の都度メンバーを集める体制であったため、アサヒジャズバンドの構成員は必ずしも松坂屋音楽隊ばかりとはいえないようである[注4]。しかしながら、ジャズソングのレコード吹込やラジオ出演などを通じて、松坂屋音楽隊のメンバーが名古屋におけるジャズの主要な担い手の役割を果たしていたことは間違いないだろう[注5]。
 

千歳劇場主・佐藤正成の手腕

 松坂屋音楽隊の話が長くなったが、ここで、再び千歳劇場に話を戻すことにしたい。

 千歳劇場は1921(大正10)年に映画館に転向してから松竹キネマの直営であったが、1925(大正14)年9月、劇場主の佐藤正成が直営に乗り出し、大きく方針を転換することになる。
 佐藤正成は、映画館に転向する前の千歳劇場を経営していた佐藤太郎の義理の息子にあたり、妻のひで子(太郎の娘)とともに千歳劇場の経営にあたった。佐藤は、早稲田大学の商科を卒業し、在学中はラグビーや軟式テニスの選手として活躍したスポーツマンで、千歳劇場の経営においても、持ち前のバイタリティを発揮し、進歩的で大胆な策を次々と打ち出していく。

佐藤正成の肖像
(国際映画通信社編『日本映画事業総覧 昭和2年版』
1926年)


 まず、翌10月には松竹との契約を早々に解除し、千歳劇場を洋画専門館に転向させる(これを受け、松竹が急遽、世界館を直営化したことは先述の通り)。洋画専門館となってからは、フォックスやメトロ、ファーストナショナル、ウファなどの優秀な洋画を選りすぐって上映するフリーブッキングの興業を暫く続けていたが、1926(大正15)年8月、米国パラマウント社が日本での映画興業に進出した直後、パラマウント社と契約を結び、パラマウント直営館となった。バラマウント社は当時、大作映画の製作により飛ぶ鳥を落とす勢いで、バラマウント映画の配給を受けることは、高級映画館のステイタスを得る絶好の機会であった。
 さらに、1927(昭和2)年に入ると、これまで専属楽士による休憩奏楽が中心であった余興について、国内や海外からの音楽家や舞踊家を積極的に招くようになる。4月だけでも、澤マセロ(病気により河村ひろしに交代)、ロシアの手風琴奏者パウロ・ネフスキー[注6]、濱舞踊団、パヴロバ舞踊団が来演している。名古屋の常設館では、これまで散発的なボードビルの公演などはあったが、これほど立て続けに上演することは異例であった。
 また同じ頃、佐藤は東京の邦楽座の支配人に就任している[注7]。千歳劇場と同様にバラマウント直営館として1927(昭和2)年4月29日に華々しくオープンした邦楽座は、奏楽陣に山田耕筰指揮の日本交響楽協会を迎えるとともに、海外から一流の音楽家や舞踊団を招いたアトラクションを常時開演するなど、映画界にセンセーションを巻き起こす。柴田康太郎『映画館に鳴り響いた音』によれば、映画館での常態的なアトラクション興行は東京でもまだほとんど行なわれておらず、先駆的な取り組みであった。
 なお、邦楽座の経営体制は、佐藤だけでなく、文芸部長に古田亨(新愛知の文芸部長兼映画評論家の古田昴生の弟)、会計部長に名古屋新聞の吉田保ニ、活動弁士に千歳劇場の環耕水(「邦楽座グラフィック」の編集長も兼務)を擁するなど、名古屋の映画関係者で固めていたことは注目してよい事実である[注8]。 

邦楽座の全景
(国際映画通信社編『日本映画事業総覧 昭和5年版』
1930年)


 千歳劇場や邦楽座の経営を通じて、佐藤正成が目指したのは、欧米を範とする上質の音楽、舞踊、歌劇も加えた総合エンタテインメントを提供する高級映画館の実現であった。この当時、大阪や京都の松竹座が洋画の上映に歌劇や舞踊などのレビューを加える上演形式で注目され始めていたが、通常の常設館での取り組みとしては画期的で、インテリ層が中心であった当時の洋画ファンを大いに惹きつけた。こうした高級映画館としての雰囲気は、当時の新聞の千歳劇場の紹介記事によく表れている。

静かで、どこか高雅な気品を備えた場内のあの空気、そのすみわたった空気の中に響く「千歳調」の上品な説明、広大なステージ、明るい照明、おっとりした伴奏、美しく親切な女給たち-とかぞえてくると、いわゆる「千歳情緒」なる慣語の、由って来るゆえんが偶然でないことを感ずる。「千歳情緒」とは誰がいいそめし、中京のファンというファン、ひとたび千歳のシアターに客となって、そのなごやかなる情緒にひたり、その情緒のたまらぬみ惑にひかれぬ者があろうか。遠く松竹直営の昔より、一糸乱れずにたもたれた「千歳情緒」はパ社直営の今日となってますますそのみ惑の度を加えた。

1927(昭和2)年10月30日 『名古屋新聞』
千歳劇場の賑わい
(国際映画通信社編『日本映画事業総覧 昭和2年版』
1926年)

                        
              (この回、③へ続く)


[注1]二代目神野金之助は、1893(明治26)年1月4日名古屋市生まれ。名古屋財界に功を成した初代金之助の長男。花井孝一は、1890(明治23)年1月11日愛知県に生まれ、1918(大正7)年に東京帝国大学法科卒業後、名古屋印刷、名古屋証券の勤務を経てレコード製造業に身を投じ、大和蓄音器商会を設立した。神野と花井は、第八高等学校を1915(大正4)年に卒業した同期の間柄で、大和蓄音器商会の設立も花井が旧知の神野に声をかけたのではないかと思われる。
[注2]アサヒ蓄音器がツル印を商標とした理由について、通説では、名古屋の鶴舞公園で毎月新譜のレコード演奏会を催していたからとされているが、写真の広告のように、前身の大和蓄音器は第1回レコードを発売する前からツル印を採用しており、時系列的には疑問がある。また、鶴舞公園でのレコード演奏会は、1922(大正11)年8月27日に名古屋新聞の主催する「レコードの夕」でニッポノホン(鷲印)の日本蓄音器商会が始めたのが最初で、以降、毎年夏の恒例行事として他のレコード会社も追随するようになり、アサヒ蓄音器だけが鶴舞公園でレコード演奏会を行っていたわけではない。アサヒ蓄音器が鶴舞公園でのレコード演奏会に参加したのは、当時の新聞で確認した限り、1932(昭和7)年が初めてであると思われる。
[注3]1934(昭和9)年8月7日、JOCKのお昼の放送でアサヒ管絃楽団が出演した際、筒井が指揮をしている。
[注4]神戸新聞社の山崎整が同紙に連載した「関西発レコード120年 埋もれた音と歴史」によれば、名古屋のマンドリン、ギター奏者で作曲業もこなした中野二郎は、一時期アサヒ蓄音器の吹込に参加していたとインタビューで語っている。
[注5 ]アサヒ蓄音器に吹き込まれたジャズソングは、ぐらもくらぶのCD『大名古屋ジャズ  JAZZ in The Central City  Great Nagoya’s TSURU・ASAHI Jazz song collection 1929~1938』で纏って聴くことができる。
[注6]パウロ(ピヨトル)・ネフスキーは、1882年にモスクワ国立音楽学校提琴科を卒業。手風琴の名手としてロシア国内だけでなく欧州各国を巡業するなど、手風琴の普及に尽くした。1927(昭和2)年に来日し、大阪、京都、神戸の松竹座で公演している。なお、日東蓄音器に20面10枚のレコードを吹込み、1927(昭和2)年6月新譜で発売されている。
[注7]邦楽座は、1924(大正13)年に建築された近代的な劇場で、芝居小屋として興業した後、1927(昭和2)年4月29日にバラマウント直営の映画館に転向した。
[注8]1927(昭和2)年6月10日『名古屋新聞』。なお、古田亨は、後に八重垣劇場の文芸部長、千歳劇場支配人を務めることになるが、1934(昭和9)年に早逝した。

〈見出し画像〉
1931(昭和6)年2月12日『名古屋新聞』「洋楽研究会に新しく生まれようとするメリケン・ジャズ・バンド」の写真

〈参考文献〉
『愛知商工 第百五十二号』1924年12月 愛知県商品陳列所 国会図書館デジタルコレクション
第八高等学校編『第八高等学校一覧 第九年度』1916年 第八高等学校 国会図書館デジタルコレクション
校友調査会『帝国大学出身名鑑 再版』1934年 校友調査会 国会図書館デジタルコレクション
柴田康太郎『映画館に鳴り響いた音 戦前東京の映画館と音文化の近代』2024年 春秋社
長谷義隆『発掘レトロ洋楽館 松坂屋少年音楽隊の軌跡』2021年 「発掘レトロ洋楽館」刊行委員会
神野三郎翁伝記編纂委員会 編『神野三郎伝』 1965年 中部瓦斯
大西秀紀「京都のレコード会社 東洋蓄音器(オリエントレコード)について」『アート・リサーチ』 2023年  立命館大学アート・リサーチセンター
神戸新聞「関西発レコード120年 埋もれた音と歴史」神戸新聞1999年1月12日〜1月14日連載 神戸新聞社
工藤哲郎『歿後20周年記念企画 中野二郎とマンドリン』2021年  絃楽器のイグチ
辻󠄀田真佐憲『愛国とレコード 幻の大名古屋軍歌とアサヒ蓄音器商会』2014年 えにし書房
菊池清麿『ツルレコード 昭和流行歌物語』2015年 人間社
名古屋毎日新聞社編『中京名鑑 昭和7年版』1932(昭和7)年 名古屋毎日新聞社
帝国秘密探偵社編『大衆人事録 第23版 東日本編』1963年 帝国秘密探偵社 国会図書館デジタルコレクション
『ゴム時報 第二十八巻 九月号』1949年 ゴム時報社 国会図書館デジタルコレクション
中部経済新聞社編『中部日本会社要覧 1948年版』1948年 中部経済新聞社 国会図書館デジタルコレクション
『キネマ週報 第122号』1932年8月 キネマ週報社 国会図書館デジタルコレクション
国際映画通信社編『日本映画事業総覧 昭和2年版』1926年 国際映画通信社 国会図書館デジタルコレクション
国際映画通信社編『日本映画事業総覧 昭和5年版』1930年 国際映画通信社 国会図書館デジタルコレクション







いいなと思ったら応援しよう!