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戦前名古屋におけるジャズの普及展開(3)ダンスの流行と取締の攻防史②



(前回の続き)

大阪で火がついたダンスブーム


1923(大正12)年9月1日に発生した関東大震災の後、ダンス、及びその付属物であるジャズの流行が大阪で巻き起こったことはよく知られている。大阪のダンス流行は、難波新地のバー「コテージ」が女給に客とダンスを踊らせるサービスで評判となり、店内を改造して本格的なダンスホール営業を始めたことから火がつき、パウリスタ、ユニオン、パリジャンなど次々とダンスホールが誕生したとされる。パウリスタには、井田一郎率いるジャズバンドが生演奏を行うなど(後にユニオンへ移籍)、日本のジャズ史においても重要な出発点と位置づけられている。

大阪で爆発的にダンスが流行した背景には、震災により、東京でダンスに慣れ親しんだ人達が大阪へ多く流れてきていたことも要因と考えられている。それでは、大阪と同様、東京から多くの人が流れてきていた名古屋ではどうだったのか。ここからは、あまり知られていない震災後の名古屋におけるダンスの普及状況を追っていくこととする。

名古屋の社交ダンスのさきがけ


1923(大正12)年10月、関東大震災により灰燼に帰した東京を離れ、名古屋に流れ着いた一人の浅草オペラの女優がいた。彼女の名前は近江澄子。近江は、大須公園楽天地の演芸館でダンスを演じ、続けて名古屋国技館で開催された電気工業博覧会の余興館に出演するなどして糊口をしのいでいた。その近江澄子によって社交ダンスの教授所が立ち上げられたことが、1923(大正12)年12月11日の『新愛知』に報じられている。

ダンサー近江すみ子嬢は本社及び三福蓄音器商会の賛助の下にあまねく同好者にダンスを教授する事となり、先づダンス振を公開する為め来る十五日午後七時から西区中村遊廓幸橋カフェーサンカクで、翌十六日午後七時から中区鶴舞公園ケーキホールで、此の二日共東京金竜館座付女優数名と共にダンスをして一般同好者に観覧せしめる由、以後は右カフェーサンカク(毎週金、日)及び公園ケーキホール(同水、土)で何れも午後七時から教授するが、会員は両稽古場で一週四日づつ教授されるわけで会費は一ヶ月二圓であると

1923(大正12)年12月11日『新愛知』
近江澄子
(1923(大正12)年10月27日『新愛知』)

この社交ダンス教授所は、「中京社交ダンス倶楽部」と称して、近江澄子(すみ子)を会長に据え、地元の蓄音器商や新聞社の後援を得て発足された。おそらく、名古屋で初めての会員制による社交ダンス団体と思われる。拠点としたカフェーサンカクは、同年7月12日に中村遊廓の幸橋角にオープンした三角形をした3階建の瀟洒な建物で[注1]、3階の講堂をダンス教授所に活用した。開所してすぐにも東洋紡績の工女1,500名に出張教授するなど、大盛況の様相を呈したようで、1ヶ月後には早速カフェーサンカクで舞踊会を催している。

カフェーサンカクでの舞踊会の様子。
中央の洋装の女性か近江すみ子か。
(1924(大正13)年1月29日『新愛知』)

しかしながら、この舞踊会以後、中京社交ダンス倶楽部の動静は伝わっていない。近江は、震災後に根岸歌劇団から分裂して関西で結成された相良愛子を中心とするミカゲ歌劇団に1924(大正13)年夏に参加しており[注2]、近江が名古屋を離れるとともに、中京社交ダンス倶楽部も解散したものと思われる。

ポリカ倶楽部の誕生


近江すみ子が中京社交ダンス倶楽部を立ち上げた時とそんなに変わらない頃、名古屋には「ポリカ倶楽部」という新たな会員制ダンス組織も生まれている。

ポリカ倶楽部は、名古屋の実業家、岩田承平が主宰したダンス教習所で、名古屋市中区南園町の東鮓食堂(現在も営業している)の楼上を拠点とした。岩田は、1885(明治18)年7月11日生まれ。1909(明治42)年に神戸高等商業学校(現在の神戸大学)を卒業後、神戸協信洋行のウラジオストク支店に勤務し、当地で貿易商として独立。帰国後は名古屋に岩田承平商店を開業し、塗料電気商を営んだ。岩田の神戸高等商業学校の同期生には、出光興産を創業した出光佐三がおり、出光のウラジオストクでの取引や名古屋支店の開設にあたっては岩田が手助けしたことを出光佐三が語っている[注3]。1937(昭和12)年7月に死去した。

岩田は、ウラジオストクに在留中ダンスを習い覚え、ロシア流の家庭的で紳士淑女の嗜みとして行なわれているダンスを広めるため、「ロシア王朝の純粋なる流を汲むダンサーで、ワルシャワ帝室劇場にいた名手」であり当時芦屋に居住していたポーランド人のリジンスカヤ夫人に出張教授を請い、ダンスの教習を開始した[注4]。ボリカ倶楽部の会員は、幼い子供も含めた良家の子女が中心で、この当時、京阪や東京で旋風を巻き起こしていた米国流のダンスホールとは異なり、品行方正なダンス教習所であったが、世間のダンスに対する批難や偏見もあり、時にはトラブルに見舞われるなど運営には苦労もあったようだ。

新聞で大きく報じられた事件として、1924(大正13)年6月20日の夜、ボリカ倶楽部のレッスン中に、赤尾敏が率いる急進愛国熱血団の一員が乗り込んで騒動になった一件がある。赤尾敏は、名古屋出身の右翼活動家として有名であるが、当時は日本農民組合連合会に所属する社会主義者で、貧しい労働者の立場からブルジョア民に対して徹底した節約を説いてまわる宣伝活動を熱心に行っていた。赤尾たちは、国民が衣食住に事欠くような危機にダンスなどは止めるよう要求し、対応した係の者が会長の不在を理由にその場を何とか収めて事なきを得たものの、この事件は翌日の新聞に大きく報じられ、警察も事情聴取に動きだす騒ぎとなった。

ボリカ倶楽部乱入事件の記事
(1924(大正13)年6月21日『新愛知』)

この騒動の直前である6月7日、東京帝国ホテルの舞踊場に右翼団体である大行社の壮士60名ばかりが乱入し剣舞を行ったダンス史上でも有名な事件が起こっている。この事件は、米国で成立した排日移民法に対する反米感情の高まりを背景とし、舞踊場には外国の貴紳や令嬢も多く居合わせたことから、世界各国にも大きく報道されるなど外交問題に発展する事態となっていた。ボリカ倶楽部の件は、帝国ホテルの事件とは動機が異なり、話し合いでその場も大事なくおさまったに関わらず、事件の類似性から、世間の注目を浴びることになってしまったものと考えられる。

剣舞事件により、帝国ホテルでは定例の舞踊会が当面の間中止に追い込まれたが[注5]、ボリカ倶楽部に関しては、疾しい会員や贅沢な振る舞いもないことを警察に説明し、特段の御沙汰もなく済んだことから、引き続き順調な活動を続けたようだ。そして、同年11月22日、大池町の商業会議所において、ボリカ倶楽部は公開舞踊会を開催する。名古屋では初めての舞踊会ということもあってか、相当な話題を呼んだようで、600名の観衆が集まったといわれている。

この舞踊会の模様は、名古屋新聞で村田直による見聞記が3回に渡って掲載された。村田直は、名古屋新聞の記者(後に政治部長)であった村田直治と思われる。この見聞記において、村田は観客の立場からこの舞踊会を「失敗」と断じ、小学生の少女が演じたバレエダンスには好意的な眼差しを向ける一方、その後に演じられた社交ダンスに対しては、侮蔑的な感情を隠そうともせずに辛辣な評価を下している。

その夜は「ホールダンス」に拘る前に「セイラー」「コサック」等の数種のバレーが可憐な小学生徒の少女に依って公開された。それは何といふ優美とそして崇高な気分とそして美の陶酔に依る昂奮とを與えて呉れた事だろう。(中略)その視覚の未だ眼底に残っている時に、見るべからざるものを見せつけられたように幻滅と悲哀を感じせしめられたのが最後の「ホールダンス」に残った最初の印象であるのだった。そこには丈低い、日本女の、胴の長い、そして短い足の肉むらが、ふくらはぎのあたりにしっとりとついた、それが、あらわな足先に大きな靴を履いて、黒い洋服の男の手にすがって踊っているではないか。(中略)
どっと起る観衆の笑どよめきの中に数番のダンスが行なわれていった。「ワルツ」「ポルカ」「ゲイシャ」の順に、そして滑稽な程すまし切った踊手の組に、ポッと頬を赤らめ合った若い男女の組に、頭の禿げた丈高の男と十歳にも充たない子供と組んで、然しこうした幾組かの踊手は音楽の調子に合わして規則正しい動作で組んずほぐれて廻り踊るのだった。此に静かに傍観して感ずるところのものは淡い淫蕩の誘惑だった。それをまた此の道に一度も手を触れず一歩も踏み込んでいないが為の食わず厭いだと批難する勿れ、観衆は全部日本人であり、日本人の伝統にも習慣にも、風俗にも生活にもこの種の趣味は少しもないのである。それは全部外国人の模倣であって日本人の民族意識は少しも加味されていないのである。

1924(大正13)年11月28日『名古屋新聞』
村田直「ポリカクラブのダンス(二)」

村田の批判は、日本人の風俗習慣に全く根ざしていないダンスという「舶来品」を日本人が真似ていることへの素朴な違和感を表明したものであり、異文化の流入の際によくみられる保守的な感情の典型例に過ぎない。しかしながら、新聞紙上にこうした批判が載せられたことは、岩田には少なからずこたえたようで、後に新聞の取材に対してこの時のことを回想し、「最後にやった社交ダンスが一般の理解にそむき良家の子女が男子と組して踊るのを兎や角言われたから弱りました」と語っており[注6]、翌年に開催した第二回の公開舞踊会ではステージダンスのみに止めている[注7]。 

ボリカ倶楽部の舞踊会の様子
(1924(大正13)年11月23日『名古屋新聞』)


こうした批判に見舞われながらも、盛況だった舞踊会の余勢を駆って、ボリカ倶楽部は順調に活動を続けたようだ。舞踊会の前後には、より快適にダンスを楽しむ空間を求めてか、活動拠点を東鮓食堂から南大津町の志水ビルディングに移している。志水ビルディングは、戦前名古屋で近代建築を数多く手掛けた志水正太郎(志水組)[注8]が所有し、志水の家族もボリカ倶楽部の会員であったことから、志水がホールを提供したものと思われる。約50坪の広間に、衣装室やピアノを設置するなど、充実した設備を備え、約100名の会員が毎夜ダンスに明け暮れたのである。


              (この回、③に続く)


[注1]1923(大正12)年7月12日『名古屋新聞』、同日『新愛知』の紹介記事より
[注2]増井敬二『日本のオペラ:明治から大正へ』に掲載されている1924(大正13)年7月27日付都新聞の金竜館てのミカゲ歌劇団の公演広告に、近江澄子の名前がみえる。
[注3]出光興産株式会社編『出光五十年史 本編』における出光佐三の発言
[注4]1925(大正14)年10月2日『名古屋新聞』
[注5]永井良和『社交ダンスと日本人』によれぱ、帝国ホテルでは「警視庁の要請もあって、定例の舞踊会が復活するのは一九二五(大正十四)年の初頭までずれこんだ」とある。
[注6]1925(大正14)年10月2日『名古屋新聞』
[注7]1925(大正14)年10月16日、松坂屋六階ホールで「音楽と舞踊の会」を開催。舞踊は、7・8歳から12・3歳までの少女を中心とした演目とし、社交ダンスは行わなかった。
[注8]志水正太郎は、1860(万延元)年12月に志水多吉の二男として名古屋で産まれた。多吉は尾州候お出入りの棟梁で、正太郎も父親の指導を受けて建築業を学び、1883(明治16)年頃に土木建築請負業として身を立てた。愛知県内で初めての鉄筋コンクリート建物とされる広小路の共同火災支店や、名古屋国技館、笹島の三井物産支店、名古屋商工会議所、名鉄犬山カントリークラブや犬山遊園ホテルなどの建設を手掛けただけでなく、東京でも1911(明治44)年に竣工した二代目の歌舞伎座(1921(大正10)年10月30日焼失)や、神田の宝生会能楽堂(関東大震災で焼失)の建築を請け負うなど、全国で名を上げた。志水が建築した建物で現在遺されているものとしては、半田市の旧中埜家住宅(重要文化財、1911(明治44)年築)、新城市の大野宿鳳来館(旧大野銀行本館、国登録有形文化財、1925(大正14)年築)、名古屋陶磁器会館(国登録有形文化財、1932(昭和7)年築)などがある。

〈見出し画像〉
1925(大正14)年10月2日『名古屋新聞』ボリカ倶楽部の舞踊会の写真

〈参考文献〉
田中栄三『女優漫談』1927年 聚英閣 国会図書館デジタルコレクション
増井敬二『日本のオペラ:明治から大正へ』1984年 民音音楽資料館 国会図書館デジタルコレクション
帝国秘密探偵社編『大衆人事録 第11版』1935年 帝国秘密探偵社 国会図書館デジタルコレクション
『神戸高等商業学校学友会報 第三十二号』1909年12月 神戸商業学校学友会 国会図書館デジタルコレクション
出光興産株式会社編『出光五十年史 本編』1970年 出光興産 国会図書館デジタルコレクション
『神戸商業大学一覧 昭和14年6月』1939年 神戸商業大学 国会図書館デジタルコレクション
大原社会問題研究所編『日本労働年鑑 大正14年』1925年 同人社 国会図書館デジタルコレクション
『朝日新聞〈復刻版〉 大正編144 大正13年6月』2006年 日本図書センター
赤壁紅堂『中京実業家出世物語』1926年 早川文書事務所 国会図書館デジタルコレクション
『中京名鑑』1932年 名古屋毎日新聞社
尾形光彦企画収集編纂『街・明治大正昭和 絵葉書にみる日本近代都市の歩み1921→1941 関東編』1980年 都市研究会 国会図書館デジタルコレクション
『人事興信録 昭和9年版』1934年 人事興信所
新愛知新聞社『新愛知』
名古屋新聞社『名古屋新聞』

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