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戦前名古屋におけるジャズの普及展開(2)映画館の奏楽について〜大須世界館と赤坂幸造①


 大正末期には、関西を中心としたダンスホールの相次ぐ開設とともに、フォックストロットやワンステップなどのダンス音楽が本格的に普及してくる。これらの音楽は、間もなくジャズとして一括りにされ、ダンスホール以外の様々な場所で演奏されるようになるが、この余波はダンスホールのない名古屋にも及んだ。
 名古屋において、こうした音楽の普及に預かった主要な担い手は、専門的な学校教育を受けたクラシックの音楽家ではなく、映画館の楽士や松坂屋音楽隊など、市井の音楽家であった。彼らは、大正初期から、名古屋の人々に普段耳なじみのない洋楽を耳にする機会を与えてきた中心的な存在であるが、ジャズの普及においても重要な役割を果たしている。また、彼らは開局して間もないラジオ放送に出演して屢々ジャズを演奏するとともに、名古屋唯一のレコード会社であるアサヒ蓄音器商会でジャズソングのレコード吹込みに参加するなど、マスメディアを通じた普及にも大きく関わった。
 ここからは、大正末期から昭和初期にかけて、名古屋でジャズの奏楽に従事した者たちの軌跡を追うことにしたい。まずは、映画館、特に名古屋で奏楽に定評のあった大須世界館と千歳劇場に焦点をあて、映画館の楽士の活動状況を明らかにしていくことにする。


名古屋最初のジャズバンド


 1926(大正15)年6月8日の名古屋新聞キネマ欄に、『名古屋最初のジャッズバンド 十日のニコ大で世界館が演奏』の見出しで、以下のような記事が掲載されている。

最新世紀の音楽として全世界を風びしたジャッズ楽は、名古屋では外国人のボードビル芸人によって二三回演奏されたことがあるだけであるが、活動写真の場面を見てもわかる通り、これがなくてはダンスも宴会も始まらぬ程はやっている音楽が、レコードなどには澤山吹きこまれていながら、常設館のバンドで試みぬのはおかしい。
   
といふので世界館の名指揮者赤坂幸造氏がこの点に着眼し、関東関西へ観察に出掛けて研究を重ね、ジャッズバンドの専用楽器と楽譜を一通り買い込んできた。
   
かくて連夜練習していたがいよいよ「ロイドの初恋」が上映されることになったので、好機ここぞとばかり十日から間奏楽に入れて公開演奏することになった。曲目は「下町の大通り」「あなたはどう思ふ?」の二曲。これをきっかけに今後度々世界館でジャッズが聞かれることになる。今度の演奏はホンの試楽だとの謙そんであるが、取りあえず好楽の士に御吹聴しておきたい

1926(大正15)年6月8日 『名古屋新聞』

 これが本当に名古屋で最初のジャズバンドかどうかは、後に述べるように議論の余地があるが、名古屋の音楽家が「ジャズバンド」を名乗った最初期の事例として、特筆すべき記事であることは間違いない。
 そこで、まずは「名古屋最初のジャズバンド」を生み出した世界館とはどのような映画館であったのか、そこでジャズバンドを率いた赤坂幸造とはどのような人物であったのか、明らかにしていきたい。

世界館について


 世界館は、大須の仁王門前にあった大須バザーを改築し[注1]、1913(大正2)年10月30日に開館した。名古屋で活動写真の常設館としては、文明館(大須)、中央電気館(広小路)、電気館(大須)、太陽館(大須)に次いで5番目である。当時の新聞に、開館を伝える記事が掲載されている。

予て建築中なりし大須仁王門前の世界館は、愈々工事落成し、三十日開館式を挙行し翌三十一日より開業する由にて、館内には休憩室・化粧室を設け、又貴賓席は最も善美を尽し、映写幕も新案の浮出シーツを用いて光線の刺戟を少なからしむと。弁士は当地に評判ある水書未狂の外、演劇専門の弁士を聘し、休憩時間には和洋合奏あり。写真は日活を凌駕せる東京弥満都音影会社と特約を結び、封切写真のみを映写し、模範活動写真館の名に背かざらしむと。

1913(大正2)年10月30日 『名古屋新聞』
世界館開館時の写真
1913(大正2)年10月30日 『名古屋新聞』

 記事中に言及されている水書未狂は、活動写真初期を代表する弁士。元々は東京で活躍していたが、1912(明治45)年7月、大須太陽館の開館時に専属弁士として雇われ、名古屋に拠点を移した。後年は静岡で弁士をしていたと言われている[注2]。その他、世界館で活躍した弁士としては、大正期の連続活劇の全盛時に石井ライオン(雷音)や片田照波、宮三郎らがいて、大正後期から昭和にかけては、環耕水、東如宏、秋田耕村などが知られている。

 世界館の館主は、『大正三年名古屋市中区現勢一班  劇場寄席および興行一覧』によれば、「川口こと」となっている[注3]。川口ことは、正しくは「河口こと」で、1934(昭和9)年2月22日の新聞に訃報記事が出ている。

興行界の女丈夫、名古屋世界館々主河口こと刀自(七三)は、かねて病気療養中の處、廿日午前十一時死去した、(中略)刀自は元大須門前に料亭川宗を経営していたが、映画の大衆への物凄い進出を予期して、同所に世界館を建築。爾後、経営主として敏腕を揮った女傑である。

1934(昭和9)年2月22日 『新愛知』

 但し、大正後期以降の文献や新聞記事では、世界館の館主は須崎喜代治と記されていることが多い。須崎は、1872(明治5)年3月生まれ。世界館のほかに円頓寺の豊富館を所有し、大須の歌舞伎座の取締役も兼ねるなど、名古屋の大物興行主の一人である。世界館には、開館当初の経営を担った関西活動写真株式会社の取締役として名を連ねている[注4]。1937(昭和12)年の『人事興信録』によれば、須崎の長女、照子は、河口ことの養子である重之に嫁いでおり、須崎喜代治と河口ことは姻戚関係にあったようだ。よって、どこかのタイミングで、館主は河口ことから須崎喜代治に代わったものと思われる(実質的には、2人とも館主であった可能性もある)。なお、須崎は大須に新しい劇場(後の東宝大須劇場)を建築中、1937(昭和12)年9月25日に亡くなっている。

世界館の経営推移

 世界館は、当初、開館直前の1913(大正2)年9月に設立された関西活動写真株式会社が経営にあたり、名古屋では日活系が多くを占めるなか、天活(天然色活動写真株式会社)系として独自性を発揮した。
 しかし、関西活動写真株式会社は1916(大正5)年4月に解散[注5]、その後、天活から独立した小林喜三郎が設立した小林商会の系列となる。小林商会は、欧米の新作映画の配給に力を注ぎ、浅草帝国館をはじめ全国の映画館にチェーン展開を図っており、世界館も小林商会を通じてユニバーサルの連続活劇やブルーバード映画などを上映し、名古屋の洋画ファンを熱狂させた。1921(大正10)年3月には、小林喜三郎は世界館の直営化に乗り出し、弟である小林祐蔵[注6]を支配人として送り込んでいる。こうして世界館は、小林系列の力を借りて、名古屋における唯一の洋画専門館としての地位を確立した。

 ところが、1925(大正14)年10月、松竹キネマの直営であった千歳劇場が松竹との契約を解除し、洋画専門館に転じるや否や、世界館は松竹と契約を結び、松竹キネマの封切館に鞍替えする。名古屋で随一の洋画専門館と松竹封切館の突然の交代劇は、当時の名古屋映画界に衝撃を与えた。

世界館が松竹キネマの直営になった時の新聞広告
(1925(大正14)年10月9日『新愛知』)

 これにより、小林系との縁が切れてもおかしくないが、松竹が1927(昭和2)年11月、買収した末広座を改築し名古屋松竹座の開場を決めたことで、再びややこしい事態が発生する。松竹は、名古屋松竹座の興行には、欧米大作映画の代表格である米国バラマウント社の作品の封切が不可欠と考え、当時パラマウント社の直営館であった千歳劇場に対し、松竹座でのバラマウント映画の封切権と引き換えに、松竹キネマの封切館の権利を与えてしまう。これに対し、松竹直営でありながら二番館に成り下がることになった世界館が黙っているはずはなく、松竹の一連の対応を「暴挙」として新聞広告で抗議の意を表明する事態になった。

松竹に抗議を示した世界館の新聞広告
(1927(昭和2)年11月23日『名古屋新聞』)

 この問題は結局、翌1928(昭和3)年3月、松竹キネマの封切館の権利を世界館に戻すことで決着したが、松竹を完全に信用できない相手と見切ったのか、世界館は1929(昭和4)年には再び小林系の直営に復している。以後、小林喜三郎の息子である小林茂[注7]が世界館の経営を担っている。その間、須崎と小林との間で売上金の歩金を巡って諍いもあったようだが[注8]、小林系との関係は最後まで続いた。

世界館のエピソード

 世界館は、小林直営に戻った後も、下加茂や右太プロなど松竹時代劇の封切館として、引き続き名古屋の映画ファンに親しまれた。特に、昭和に入りほとんどの常設館が全ての座席を椅子席に改める中で、世界館の2階席は昔ながらの下足番制度を続けるなど、大正時代の雰囲気を残した映画館として存在感を放った。名古屋在住の作家で、戦前から映画雑誌に寄稿するなど根っからの映画好きであった服部弘は、世界館の下足番制度について、戦後、以下のように想い出を語っている。

下足番制度は他館が場内改装で先を争って土足制にした時も世界館のみは頑として下足番制度を堅持していたものだ。畳の上に座布団を敷いてすわって莨盆に煙草の灰を落としながら映画をみる、それはなンと日本情緒的であることか、これは又かうした雰囲気にひたりながら映画をみたいとうふ世界館ファンもざらにあったことと思はれる。

『映画サロン』1946(昭和21)年10月号

 

 1934(昭和9)年9月に公開された、日本初の特撮映画として知られている「大仏廻国」も、世界館との関係がある。「大仏廻国」は、現在の東海市にある聚楽園大仏が突然立ち上がり、名古屋市内やその近郊、尾張、三河周辺を歩き回るという奇想天外なストーリーで、撮影も名古屋で行なわれた。監督は、円谷英二を育てたことで知られる枝正義郎で、製作費が莫大にかかり資金難に陥ったところ、世界館の小林茂が援助したとのエピソードがある。

「キング・コング」にヒントを得て企画された本邦空前のトリック映画「大仏廻国」は、今春早々より名古屋に製作本部を置き撮影進行中であったが、何しろ莫大の費用が掛る所から資金難に陥り、製作に一頓挫を来し行悩んでいたところ、名古屋世界館の小林茂氏が最後的支援をすることになり、JOトーキー・スタジオにおいて一気呵成的に撮影進行、最後の地獄、極楽の場面を仕上げて最近漸く第一篇「中京篇」十二巻の完成を告げた

1934(昭和9)年8月29日 『名古屋新聞』

 「大仏廻国」は当然ながら世界館で公開され、封切日の9月14日には開館前に長蛇の列ができ、開場と同時に満員になったと報じられた(1934年9月15日『新愛知』)。

大仏廻国の新聞広告
1934(昭和9)年9月14日 『新愛知』

 このように、戦前の最盛期には20軒もの映画館、劇場、寄席が軒を連ねる名古屋最大の興行街であった大須の中でも、大正ロマンの香りが漂う老舗の映画館として名古屋の人達に愛された世界館であったが、惜しくも戦災で焼失し、戦後も再建されることはなかった。

             (この回、②へ続く)


[注1]1913(大正2)年10月7日『名古屋新聞』の記事「今回市内中区門前町三丁目七番地に資本金五万円にて関西活動写真株式会社なるものを設立されしが、先づ第一着手として大須門前元大須バザーを模範的活動写真常設館に改築し(目下専ら工事中)不日開館の趣きなる」に基づく。同日の『新愛知』にも同様の記事がある。一方、後述の河口ことの訃報記事には、料亭川宗の場所に世界館を建てたとあり、大須バザーの前に川宗があったのか、大須バザーの中に川宗があったのか、はっきりしない。なお、大須の川宗は、1910(明治43)年発行『名古屋案内』の料理店一覧にその名が見えるので、その頃には存在していたことが確認できる。
[注2]1931(昭和6)年2月8日新愛知 「サロンの夕べ」 座談会での石巻良夫の発言
[注3]新修名古屋市史資料編編集委員会編『新修名古屋市史 資料編 近代2』に所収。「劇場寄席および興行一覧」は、1914(大正3)年12月31日現在の注記がある。
[注4]官報 1913(大正2)年9月17日 国会図書館デジタルコレクション
[注5]官報 1916(大正5)年5月9日 国会図書館デジタルコレクション
[注6]小林祐蔵は、1899(明治32)年9月茨城県生まれ。1919(大正8)年に小林喜三郎の国際活映株式会社に入社し、浅草帝国館の経営に携わった後、名古屋世界館の支配人に就任した。1923(大正12)年8月に世界館を辞して独立し、名古屋に小林キネマ商会を設立。戦中期までに太陽館、帝国館、広小路ニュース劇場(元中央館)、東宝大須劇場、東宝敷島劇場、東宝八幡劇場、富士館、大黒座、寿座、常磐劇場、日置劇場、東陽劇場(元富貴座)など、多くの常設館の経営に携わった。他に、東亜キネマ(後の宝塚キネマ)や大都キネマ、極東キネマの中部支社で配給業を行うなど、中京の映画興行界に幅を利かせた。
[注7]小林茂は、1907(明治40)年生まれ。世界館の支配人を経て、1935(昭和10)年5月に名古屋で小林合資会社を設立。小林祐蔵と同様、世界館を始め、千歳劇場、帝国劇場、豊田館、豊富館、澤上館、常楽館、名港映画劇場、武田劇場(元武田座)、清水劇場(元清栄座)、大曽根劇場(元森下座)など、名古屋を中心に多くの常設館を経営した。
[注8]1937(昭和12)年1月11日『名古屋新聞』によれば、館主の須崎と経営主の小林茂の間で売上金の歩金率を巡って争いがおき、1月9日から3月19日まで2か月以上にわたり休館となっている。

〈見出し画像〉
『世界館ニュースNo.50』1922(大正11)年3月14日発行 世界館ニュース社 筆者所蔵


〈参考文献〉
国立劇場近代歌舞伎年表編纂室編『近代歌舞伎年表 名古屋篇 第八巻』2014年 八木書店
国立劇場近代歌舞伎年表編纂室編『近代歌舞伎年表 名古屋篇 第七巻』2013年 八木書店
新修名古屋市史資料編編集委員会編『新修名古屋市史 資料編 近代2』2009年 名古屋市
浪越鯱麿編『名古屋案内』1910年 参元堂
大野一英『大須物語』1979年 中日新聞本社 国会図書館デジタルコレクション
人事興信所編『人事興信録 第11版(昭和12年)上』1937年 人事興信所 国会図書館デジタルコレクション
『キネマ・レコード VolⅢ No.15』1914年9月 キネマ・レコード社 国会図書館デジタルコレクション
『キネマ・レコード VolⅣ No.21』1915年3月 キネマ・レコード社 国会図書館デジタルコレクション
渡辺綱雄『私版・名古屋の映画』1961年 作家社
『活動之世界 第一巻 十二月号』1916年 活動之世界社 国会図書館デジタルコレクション
『活動之世界 第ニ巻 十月号』1917年 活動之世界社 国会図書館デジタルコレクション
『愛知県会社総覧 昭和13年版』1938年 名古屋毎日新聞社 国会図書館デジタルコレクション
大同社編『日本映画年鑑 昭和16年度版』1941〜1942年 大同社 国会図書館デジタルコレクション
日本同盟通信社編『興亜日本建国史 皇朝歴代詔代勅大成 関東中部大観』1940年 日本同盟通信社 国会図書館デジタルコレクション
『キネマ週報 第122号』1932年8月 キネマ週報社 国会図書館デジタルコレクション
市川彩・石巻良夫・下石五郎責任編集『国際映画年鑑 昭和9年版』1934年 国際映画通信社 国会図書館デジタルコレクション
『戯場 第五年・四月号』1940年4月 戯場社
『映画サロン 第五巻 第三号』1946年10月 戯場社
『新愛知』新愛知新聞社
『名古屋新聞』名古屋新聞社

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