戦前名古屋におけるジャズの普及展開(2)映画館の奏楽について〜大須世界館と赤坂幸造④
(前回の続き)
労働運動への傾倒
しかし、洋画でトーキーが主流になっていくにつれ、映画館の楽士、弁士らの危機感はますます強まっていった。1931(昭和6)7年2日、名古屋の映画館に所属する音楽部員130名により、名古屋映画同人組合が結成され、委員長に赤坂幸造が選出された。結成前の準備総会と思われる6月25日の第1回総会を報じる新聞記事[注1]には、赤坂幸造が座長格であったとあり、組合の設立を呼びかけたのは赤坂自身であった可能性がある。結成にあたっては、戦前の名古屋の労働運動の中心人物であった荒谷宗治が尽力し、組合の顧問として活動を支えた。組合員数は、1933(昭和8年)には360名程度にのぼっている。
名古屋映画同人組合は、映画館の経営者による従業員の馘首、賃金未払いなどに対する労働争議を積極的に支援した。文献などで確認できるだけでも、1931(昭和6)年の豊田館、二葉館、朝日館、1932(昭和7)年の千歳劇場、1933(昭和8)年の今池館、新栄館、名古屋松竹座、芦辺館、港座、八千代館、帝国館、1934(昭和9)年の電気館など、各映画館の労働争議に関わっている[注2]。赤坂の在籍する世界館や豊富館も例外でなく、1933(昭和8)年、中部映画同人組合が参加した名古屋地方労働組合会議の第一回、第二回準備会の議案に世界館、豊富館の労働争議の経過報告や応援対策が議案に挙がっている[注3]。
当時、こうした労働組合は全国に乱立しており、闘争方針や思想上の違いから分裂統合が激しく、纏まりを全く欠けた状態であった。こうした中、名古屋映画同人組合は、1933(昭和8)年12月、戦線統一を提唱して全国映画演劇従業員組合統一協議会の設置を実現するなど主導的な役割を発揮している。1935(昭和10)年に入り、松竹、日活、新興の3社が2月1日限りで無声映画の製作中止を申し合わせたことが伝わると、2月16日に名古屋で開催された全国映画同人組合大会で、各映画会社のトーキー映画製作制限、無声映画全廃の暴挙排撃などを決議し、気勢を上げた[注4]。

(1935(昭和10)年2月27日『新愛知』)
しかし、映画製作会社のトーキー化の波に抗しきれるものではなく、映画館の楽士や弁士の整理は着々と進められていった。世界館管絃楽団も、1934(昭和9)年頃まではラジオ放送に出演していることは確認できるが[注5]、1935(昭和10)年頃には存続していたか明確でない。労働運動も、1937(昭和12)年の日中戦争で戦時体制への協力姿勢が強まったことから衰退の一途を辿り、1940(昭和15)年、全ての労働組合が大日本産業報告会に組み込まれたことで、事実上の終焉を迎えた。
原阿佐緒との関係
ここで、余談めいた話になるが、歌人として有名な原阿佐緒と赤坂幸造の関係について触れておきたい。
原阿佐緒は、宮城県出身の歌人。与謝野晶子に認められ、明治から大正にかけて「スバル」や「アララギ」などで活躍したが、1921(大正10)年、同じアララギの同人であった東北帝国大学の物理学教授、石原純との不倫が世間を騒がせたことで、一躍その名が知れ渡るようになる。その後、石原とは離別し、女優として映画に出演したり、東京や大阪でバーを開いたりなどした後、故郷の宮城に戻り、余生を平穏に過ごした。なお、原阿佐緒の長男は東映の映画監督となった原千秋、次男は俳優の原保美である。
その故郷の宮城に戻る前、原阿佐緒が名古屋でバーを経営していたことは、あまり知られていない。しかも、阿佐緒の名古屋でのバー開店にあたっては、なんと赤坂幸造が尽力していた。原阿佐緒のバー開店を報じた1935(昭和10)年10月15日の新愛知で、阿佐緒は以下のようにコメントしている。
御存知でせう、海軍の軍楽隊出身で永い間世界館でタクトを振っていた赤坂幸造さん、この人が妾の親戚なので赤坂さんが経営していた南園町のカフェーを譲り受けて妾がこんどバーをやるんです。名古屋は始めてですからよろしく

(1935(昭和10)年10月15日『新愛知』)
赤坂幸造が中区南園町(現在の御園座周辺)に居住していたことは吹奏楽年鑑で確認でき、同日の名古屋新聞でも、阿佐緒のバー開店に赤坂幸造が奔走したとの記事があることから、赤坂の経営していたバーで阿佐緒が開店したのは事実と思われる。原阿佐緒と赤坂幸造が親戚であったというのは本当だとしたら興味深いが、それを証するものはこれまでのところ確認できていない。

(1936(昭和11)年2月5日 『名古屋新聞』)
原阿佐緒の「バーアサヲ」は、話題の人物を一目見ようと、開店当初からかなりの客が押し寄せたが、開店して1年あまり経った1937(昭和12)年2月に店を畳んだようだ。閉店の際、新聞記事では下記のように報じられている。
女流歌人原阿佐緒は姿をカフェ・アサオのマダムとして名古屋にひそめること一年あまり。その阿佐緒サンが今月限り名古屋をあとに、仙台から六里も離れた奥の故郷へ帰ることになった。そこで彼女、いっぱい荷造りした部屋で「子供たちが大きくなって東京でどうやら一人前になるとアヅマの空が恋しくなりました。子供たちが、お母さんもう一度勉強しなほしたらといふし、私も、もう一度勉強しなほしたいと思ひますので」としんみりと語ったものである。
同じ記事には、原阿佐緒が名古屋を去る時に詠んだ歌が紹介されている。
山の家にかへり往なむ日、自画像をおくるといひし吾ちまたに老たり
原阿佐緒は若い頃、美術学校で絵画を学んだほどで、絵を描くのも達者であった。餞別として、自画像を誰かに描いて送ったのだろうか。その後、赤坂の譲り渡したバーがどうなったかは明らかでない。
吹奏楽の指導者への転身
赤坂幸造が世界館を去った時期は定かでないが、 1937(昭和12)年から1938(昭和13)年の世界館ニュースでは休憩奏楽がレコード演奏に置き換わっており、この頃、既に世界館に楽士の居場所はなかったと思われる。その後、赤坂は、戦意高揚を図る手段として企業や学校などで盛んになってきた民間の吹奏楽の指導者として頭角を現してくるようになる。
日本の吹奏楽史において、東海地域は全国で初めての吹奏楽連盟である「アマチュアブラスバンド東海連盟」(後に全東海吹奏楽団連盟に改称)を結成したことで歴史に名を残している。1934(昭和9)年7月15日に鶴舞公園で行なわれた結成祝賀式には、愛知、三重、岐阜、静岡四県の会社、工場、学校等のブラスバンド十八団体が集まり、合同大演奏会で結成を祝している。

(1934(昭和9)年7月16日『新愛知』)
翌年、1935(昭和10)年10月6日には、全国初となる吹奏楽コンクールを開催し、東邦商業学校(後の東邦高校)のブラスバンドが優勝している。アマチュアブラスバンド東海連盟の役員は、連盟長に名古屋市教育部長の坂本暢(後、稲垣利作に交代)、顧問に名古屋市音楽協会副会長で明治期から名古屋の洋楽普及に尽くした安田俊高、理事長には陸軍戸山学校出身で戦後も長く全日本吹奏楽連盟などの要職を務めた神納照美が就いた[注6]。結成当初、赤坂はまだ中部映画同人組合で労働運動の真っ盛りのため参加していないが、世界館管絃楽団の出身で常磐劇場の楽長を務めた板津文一が連盟のメンバーに名を連ねている。この当時、板津は浜松の河合楽器ブラスバンド(1934(昭和9)年創立)、四日市の東洋毛糸ブラスバンド(1933(昭和8)年創立)で指導者の任にあたっており[注7]、他にも名古屋商業学校(現在の名古屋商業高校)や、板津の出身地である犬山市楽田の青年団でブラスバンドの指導を行うなど[注8]、楽器店を営みながら吹奏楽の指導を熱心に行っていた。
赤坂幸造は、1941(昭和16)年発行の『吹奏楽年鑑 紀元二千六百一年版』によれば、岡本航空機工業の吹奏楽団及び喇叭皷隊(1937(昭和12)年創立)、名古屋市立第三商業学校(現在の桜台高校)の音楽部(1938(昭和13)年創立)の指導者となっており、1937〜38年頃から吹奏楽の指導に関わっていたようだ。1942(昭和17)年、福岡で開催された第三回大日本吹奏楽大会では、赤坂の指揮した岡本工業吹奏楽団が一般の部で第一位の栄誉に輝いている。また、赤坂は、全東海吹奏楽団連盟の副理事長、および1939(昭和14)年11月に関東、関西、東海の各吹奏楽団連盟が合同して結成された大日本吹奏楽連盟の理事に就任しており、吹奏楽界における地位を着実に固めていった。
ただ、戦局の激化により、1943(昭和18)年の吹奏楽大会は中止。その後の赤坂幸造の消息は不明である。戦前の活発な活動のわりに、戦後の動静が全くと言ってよいほど伝わっていないことから、戦中もしくは戦後間もなく亡くなったのではないかと類推されるが、縁のある関係者などご存知の方がいれば、ぜひ情報をお寄せいただきたい。
赤坂幸造とは何者だったのか
これまで、限られた資料を使って、赤坂幸造という人物の歩みを辿ってきた。総括すれば、赤坂幸造は、名古屋における無声映画時代の活動写真館の楽士を代表する人物であり、その最も輝いていた時期は、大正末期〜昭和初期の世界館ジャズバンドの頃であったといえるだろう。しかしながらこの黄金期が、トーキーの出現によって早々に閉ざされたのは本人にとって不運であった。さらに、赤坂が楽士の代表的な存在であっただけに、失業の危機に直面する同輩のために労働運動に尽くしたことが、彼のその後の人生を大きく左右した。赤坂の実力からすれば、楽士稼業に早く見切りをつけて別の道に進んでいたら、活躍の場はもっと拡がっていた可能性があったであろう。全東海吹奏楽団連盟で、赤坂は後発組であったにも関わらず、副理事長の要職に早々に就任しているのは、赤坂の吹奏楽の指揮者としての実力や指導力が相当なものであったことの証左である。後年、吹奏楽の指導者として一定の地位を得るものの、戦局の悪化により実動期間は短く、戦後になって活動の痕跡が全くみられなくなったのは惜しまれる。返す返すも時代に翻弄された人物であった印象が強い。
しかしながら、当時の大衆娯楽の王者であった映画館を主戦場に、何よりも大衆を楽しませる演奏に心を砕いた「民衆楽人」、赤坂幸造らしい生き様であったといえるかもしれない。そういう彼だからこそ、大衆の中から生まれ出たジャズという音楽に共感し、名古屋で最初と称するジャズバンドの結成に至ったのである。戦前の名古屋の映画ファンに愛された世界館の名物楽人としてだけでなく、名古屋におけるジャズの普及に大きく貢献した音楽家として、赤坂幸造は記憶に留めるべき人物であろう。

(1931(昭和6)年12月26日『新愛知』)
(この回、終わり)
[注1]1931(昭和6)年6月26日『新愛知』
[注2]『大正昭和名古屋市史 社会編』、『労働運動年報 昭和6年』、1934(昭和9)年4月19日『新愛知』
[注3]『全逓労働運動史資料 第18集』
[注4]1935(昭和10)年2月17日『新愛知』、同日付『名古屋新聞』
[注5]1934(昭和9)年5月14日『新愛知』のラジオ放送欄。20時からの映画物語「弘法大師御行状記」に秋田耕村の解説、世界館管絃楽団の伴奏で出演している。
[注6]1934(昭和9)年7月13日『新愛知』、同年7月16日『新愛知』
[注7]1935(昭和10)年9月28日『新愛知』、同年9月29日『新愛知』
[注8]百年誌編集委員会編『CA百年』、石黒保男『回想七十年』
〈見出し画像〉
名古屋市主催「第二回工場団体吹奏楽団競演大会」チラシ 1939(昭和14)年 筆者所蔵
〈参考文献〉
中村正明「戦前期日本の映画労働組合の変遷」『大原社会問題研究所雑誌 No700』2017年 法政大学大原社会問題研究所
労働経済調査所編『日本映画労働年報 第一輯』1933年 労働経済調査所 国会図書館デジタルコレクション
『大正昭和名古屋市史 社会編』1955年 名古屋市 国会図書館デジタルコレクション
『労働運動年報 昭和6年』厚生省労働局 国会図書館デジタルコレクション
『全逓労働運動史資料 第18集』1961年 全逓信労働組合全逓史編纂委員会 国会図書館デジタルコレクション
『月刊 大原社会問題研究所雑誌 第三巻 第三号』1936年 大原社会問題研究所 国会図書館デジタルコレクション
管楽研究会編『吹奏楽年鑑 紀元二千六百一年版』1941年 管楽研究会 国会図書館デジタルコレクション
小野勝美『原阿佐緒の生涯 その恋と歌』1974年 古川書房 国会図書館デジタルコレクション
秋山紀夫『吹奏楽 昭和の資料集〜吹奏楽の歩み:初期から成熟期にかけて〜』2022年 ロケットミュージック
百年誌編集委員会編『CA百年』1984年 CA商友会 国会図書館デジタルコレクション
石黒保男『回想七十年』1976年 石黒先生喜寿記念出版後援会 国会図書館デジタルコレクション
『新愛知』新愛知新聞社
『名古屋新聞』名古屋新聞社
