戦前名古屋におけるジャズの普及展開(3)ダンスの流行と取締の攻防史⑤
(前回の続き)
突然のダンスホール閉鎖命令
1928(昭和3)年4月9日、名古屋新聞に「ダンスの禁止 ダンシングホールの撲滅」の見出しで、愛知県の小幡知事がダンスホールの閉鎖を断行するとの第一報が報じられた。
最近名古屋市内にダンスが非常に流行しだし既に市内に三ヶ所以上の堂々たるダンシング・ホールができ毎夜毎夜モダン・ボーイが雲集し美しいダンサーを抱擁してあまき歓楽の夢にしたり、この勢ひは非常なる力で紳士階級を始めとして若い男女をみわくせんとし風紀上面白くない傾向があるので、小幡愛知県知事はこの際、断ことして社会風紀上から見てダンシングホールぼく滅の断行をなすことなり、九日その決意をなし早速実状を調査して具体的の方法をとることとなった。これについて小幡知事は憤然として語る。
最近大阪、神戸で禁止されたのでその一味が我が 名古屋市に流れ込んで来たのだ。愛知県を甘く見ているのも程がある。彼らは一体吾輩がここにいることを何と思っている。
断髪娘が横行しマドロスズボンに赤ネクタイ、絹ハンカチのモダンボーイがいい気になって抱き合っておどる如きは全く容赦相ならぬ。日本の娘が立派な黒髪をもちながらケトのまねして断髪する如きは全く我国の精華を害ふものだ。
とて物凄い元気である。なほ落合警察部長は知事の命を受け去る七日夜「ビナ」ダンシングホールを視察し実状を報告して来た。
愛知県知事の小幡豊治は、1912(大正元)年に起こった大須旭廓の稲永新田への遊廓移転に絡む贈収賄事件で検事として取り調べを担当し、当時の愛知県知事や財界の大物をはじめ25名を起訴し、「鬼検事」と恐れられた人物である。小幡が問題視したのは、ダンス禁制の厳しくなった大阪や京都などからダンサーが名古屋に次々と流れこんできていることにあった。このまま放置すると風紀秩序が乱れかねないという危機感からダンスホールを閉鎖し、こうしたダンサーを名古屋から追い出そうとしたのである。

1928(昭和3)年4月10日『名古屋新聞』夕刊
知事の命を受け、愛知県保安課は、4月9日にビナ・ダンスクラブと昭和舞踊研究所を管内に有する新栄警察署長、中村ダンシング倶楽部を管内に有する笹島警察署長に対して即時ダンスホール閉鎖の警告を発するよう命じた。同日、新栄署はビナと昭和の両ダンスホールの責任者を呼びつけ、「風紀上面白くないからホールは今夜から閉鎖しては如何」と警告した。青天の霹靂に吃驚仰天したビナ・ダンスクラブの責任者は、新聞の取材に対して、当惑を隠さない様子で以下のように語っている。
何ともかんとも申しやうがなく棒を呑んでをるところです。大阪あたりではしばしば警告をした揚句禁止されたのですが、ただ一回の注意もなく突然のこの命令はあまり惨酷だと思ひます。しかし私共は互いに戒め合って風紀をみだすような行為のないやうにしていたのです。何かいけない理由があればそれを聞かして下さいといっても警察では何もいって下されず、とに角やめた方がよかろうと厳命です。私共のホールは大須から最近この陸ビルへ引っ越したばかりで、こちらのホールにはこれでも三千円以上かけているのですが、そんなくらいなれば何故もっと早く注意でもして貰へなかったでせう、私共は勿論ダンサーもあすから困ります。泣くにも泣けません。
同じく、昭和舞踊研究所の責任者は、以下のようにコメントしている。
私共では去月二十七日から休業して御覧て通りホールの改造普請中で本日も京都へダンサー三四人抱へに行ったところです。当ホールは看板にもある通り会員組織のダンス研究所ですが会員の研究までやめろといふのはどういふものでせうか。一体新時代の所産であるこのダンシング・ホールについては県令にも取締り条項がなく又営業として取り扱はれていないのです。風紀上いかなる点がいけないでせうか。なるほど一応は若い娘と男がをどるといふ事は妙に考へられるかは知りませんが、外部で概念的に考へられるやうな不健全なものではない。ダンサーの品行に関しては私共は親の子供を監督する以上厳重なる監督をしていたのです。全く困りました。
この時、昭和舞踊研究所もホールの改造工事中であったということは、ビナ・ダンスクラブと同じく、ジャズバンド演奏の設備を導入する予定であったのかもしれない。そんな中での突然の閉鎖命令に、憤りも感じさせる。
中村ダンシング倶楽部の責任者の弁も紹介しよう。
当ホールは将来中村ラジーム温泉ができるので丁度宝塚のやうなステージ・ダンスを開演する下準備としてこのホールをやっている次第です。このホールは名古屋土地の所有となって市内屈指の実業家が特別会員となってをられるので風紀の問題には特に留意して決して非難されるやうな点のないやう努めているつもりです。しかも禁止の警告を受けねばならんとはどういふのでせうか。
いずれの弁からも、ダンスホールの閉鎖指示は、何の前触れもなく、突然の出来事だったことがわかる。しかも、昭和舞踊研究所の責任者が語っているように、ダンスホールに関しては取締規則がなく、そのため警察も閉鎖の理由や根拠を明確に説明できていない様子が伺える。いわば無理筋で、強制的に閉鎖させる道理には乏しかったため、警告という形をとって自発的に閉鎖を促す作戦だったのである。
警告を受けたビナ、昭和は、急な要請ということもあり、その日は何とか営業を許してもらい、翌日の10日から一旦休業するということで警察と話をつけた。中村ダンス倶楽部については、遅れて11日に所轄の笹島署から閉鎖の命令を受けている。しかしビナ・ダンスクラブは一旦休業を受け入れたものの、10日の夜、責任者がダンサーを引き連れて新栄署長と面会し、多数のダンサーの処置に困るからという理由で、閉鎖まで10日間の猶予を許してもらった。中村ダンシング倶楽部も、同様の理由で、月末まで猶予の許可を得ている。昭和舞踊研究所は、ホール改造の休止期間中であったため、もとより猶予を得る余地はない。これにより、4月中に名古屋の全てのダンスホールは終焉を迎えた。
ビナ・ダンスクラブは、最後の営業日である20日に、お名残の舞踊会を盛大に催したことを新聞が伝えている。
二十日限りで閉鎖を命じられた市内中区東新町陸ビル内ダンスホールビナクラブでは同日はお名残りの為午後六時から最後の大舞踊会を開く事になり会費二圓で充分に踊りぬくと云ふから当日は非常な盛大さを見る事であらう。同クラブは名古屋で初めて門前署管内に出来て以後幾多の圧迫を受けながらも今日迄継続しモボの楽園としてはやされていたものである
これ以後、戦前を通じて、名古屋はダンスホール禁制の土地となった。ビナ・ダンスクラブや昭和舞踊研究所にとっては、ジャズバンドを設置し、いよいよ本格的なダンスホールに生まれ変わろうとした矢先のことで、さぞかし無念であったと思われる。
初めてダンスホールが開設されてからわずか1年足らずで、名古屋のダンスホールは潰えてしまったが、「ビナ」の名前はその後も生き続け、4年後の1932(昭和7)年には、ビナ・ダンスクラブの専属ジャズバンドであった「ビナー・ダンスオーケストラ」がラジオ番組に出演している。それもいつしか忘れ去られてしまったが、名古屋にも戦前、ダンス文化が花開いた時期があったということは記憶にとどめておいてほしい史実である。

(1932(昭和7)年4月6日『新愛知』)
カフェーへの取締のはじまり
名古屋のダンスホールは殲滅されてしまったものの、ダンスそのものが禁止されたわけではなかった。当時、名古屋郊外の新舞子に居住しダンス狂でも知られる作家の国枝史郎は、『百萬・名古屋』の中で、ダンスホール禁止後も暫くの間は、東鮓の2階や朝陽軒、コーナーナベヤなどの飲食店において会員組織でダンスをすることは大目に見られていたと述べている。また、1929(昭和4)年1月4日には名古屋ホテル演芸場で、澤モリノ舞踊団の主催によるダンスパーティーが開かれている。
昭和四年新春名古屋社交界の行進曲を明らかに奏でやうといふので澤モリノ舞踊団が主催となり名古屋ホテル後援で正月四日午後六時からホテル演芸場で「舞踊とジャズの夕」が開かれる。出演者は澤モリノ、根本弘、澤野アヤ子同カツ子、島田博その他ダンサー十数名で、番組は各自その得意とする舞踊詩、舞踏、舞踊を八時半までそれから一時間を当夜の出席会員と入れまぢってティータイムとし九時半からにぎやかなジャズバンドを十一時まで踊り抜かうといふお正月にふさわしい趣向で、かうした愉快なかつ大仕掛けな会合は名古屋で始めてのことだから当夜は定めし一大歓楽境を現出することであらう(後略)

(1933(昭和8)年8月25日『名古屋新聞』)
しかしながら、当局は、飲食店などでも客とダンスをするサービスが行なわれているとして、特にその温床であるカフェーに対して取締りの強化にも乗り出す。新栄署は、ダンスホール閉鎖に目処がついた1928(昭和3)年4月28日、管内のカフェー35店の経営者を呼び出し、従来カフェーには適用していなかった料理飲食店取締規則をカフェーも対象に加えることを通告し、店内の採光や換気が不十分であれば営業許可を与えないことや、女給にも酌婦の鑑札を受けさせることなどを申し渡している。
また、大阪ではダンスホールが全面禁止になった後、ジャズバンドの働き場所として、ダンスホールに代わりカフェーがその役割を果たしたとされる。名古屋では、1928(昭和3)年から1929(昭和4)年にかけて、店内でジャズバンド演奏を行っていたカフェーとして、大須食堂[注1]や鶴舞公園前の精栄軒[注2]などが確認できるが、最も知名度を誇っていたのは、熱田伝馬町の「パリージャン」である。

(筆者蔵)
パリージャンのジャズとその終焉
パリージャンは、1928(昭和3)年12月28日、熱田伝馬町で南食堂を経営していた加藤幸三郎がその向かいにオープンしたカフェーである。加藤幸三郎は、名古屋のカフェーの草分けである南食堂を1923(大正12)年に開店したのを皮切りに、サロン銀座やパレスモナコ、メトロポリタンなど多くのカフェーを経営し、戦前の名古屋カフェー界を牽引した人物である[注3]。パリージャンは、南食堂と同様フランス式の酒場を標榜し、一流のジャズバンド演奏を聴かせることを売りものにした。パリージャンのジャズバンドメンバーは、開業時の新聞広告によれば、以下の通りである。
ピアノ 永井清忠
バイオリン 小澤小太郎
サキソフォン 小島鈴雄
同上 奥野豊
バンジョー 五東美之
ドラム 鈴木米三郎
コルネット 平手明峰
同上 渡邉無月
トロンボーン 西江春光
これらのメンバーについて、人名で特定できる人物は誰も存在しない。大阪から連れてきたという話もあるし、名古屋の映画館の楽士の変名ではないかとも思うのだが[注4]、詳細は謎に包まれている。

(1928(昭和3)年12月25日『名古屋新聞』)
パリージャンのジャズバンド演奏は、かなりの話題を集め、後々まで語り草になっている。お客の注文に応じて「波浮の港」や「アラビアの唄」、「バレンシア」「フー」などをやるとチップが十円、二十円とんだといわれている[注5]。時には、上海から一流のジャズバンドを招くなど[注6]、名古屋を代表する音楽酒場として大いに賑わった。

(1929(昭和4)年2月17日『名古屋新聞』)
しかし、保安当局は、カフェーでのジャズバンド演奏にも取締の手を伸ばしていく。愛知県保安課は、1929(昭和4)年5月16日、カフェーや喫茶店、料理店などの取締方針を定め、翌日、名古屋市内の各警察署に通達した。その取締方針は、下記の通りである。
一 営業所に関する事項
(イ)営業時間は午後十二時までとすること、但し特別の事情ある場合はこの限りにあらず
(ロ)屋号の珍異なるものは変更せしむること
(ハ)営業所の面積は三坪以上とし畳敷客席の併用は成るべく認めざること
(ニ)営業所内のテーブル数は一坪に一個以内の割とすること
(ホ)ボックス(個別席)を設くるものにありては混合席面積の三分の一以内とし且つその一方混合席との間に衝立の類を設けざること
(へ)営業所内は光線又は電燈にて新聞紙を読み得る程度の明るさを保たしめ照明は白色とすること
(ト)飲食物の定価表をテーブル又は営業所内見易きヶ所に提示せしむること
(チ)奏楽室及舞踊場等を作らしめざる事
(リ)換気不十分と認むるものにはベンチレーターを備え付けしむること
(ヌ)ビルディングの地下室及二階以上の室はなるべく酒場に使用せしめざること
二 女給に関する事項
(イ)女給の数はテーブル二個に一人以内の割とする事
(ロ)女給は娼妓、ダンサア等の前職あるものには免許せざる事
(ハ)女給はなるべく通勤せしめざること、但通勤のものに対しては営業主をして営業所の承認を受けしむること(自宅より通勤のものを除く)
(二)女給と客と同伴して外出せしめざること
(ホ)女給は本支店又は他との間に共通せしめざること
(へ)営業所内に於てダンスその他風俗を紊る惧ある行為を禁止すること
(ト)女給の服装は異様のものたらしめざること且つ白色エプロンを着用せしむること
(チ)女給名簿を備へつけしむること
取締方針の内容は、前年4月に発した通牒をより詳細に規定したものといえるだろう。これにより、名古屋のカフェーの特色であった、綺羅びやかな洋装の女給と薄暗い室内で静かに語らうカフェー情緒が完全に失われるともに、国枝史郎が「大目に見られていた」と述べたカフェーや料理店でダンスをすることも排除される[注7]。特に、「奏楽室及舞踊場等を作らしめざる事」は、大阪でも許容されてていた店内でのジャズバンド演奏すら不可能とし、非常に厳しい制限を加えるものであった。
この取締方針を受け、バリージャンのジャズバンド演奏は間もなく中止となった。他のカフェーも同様であったはずである。パリージャンのジャズバンドの役目は、蓄音器が取って代わることになり、新聞ではその後のパリージャンについて、ジャズバンドが盛んに演奏していた頃の回顧も交えながら、以下のように伝えている。
(前略)其筋の取締でパリヂャンからオーケストラ・バンドが影を潜めたのはつひ近頃のことだ。同時に大いに内部の改造を行ったらしくその跡が生々しく眼にうつる、しかもせせっこましく改造したものである。
実際あのオーケストラのあった当時は、コーヒーに喉をうるほす暇もなく、映画に出ている楽手そのままなのが忙しい身ぶりで楽器をかき鳴らすのには唖然としたものだ。狭い處でこんな大騒ぎをして何になるか知らんと考へたものだ。
代って出現したのが騒々しい点で何物にも負けないヴィクターである。流行唄のレコードがめぐりにめぐって盡るところを知らない、パリヂャンの空気はこれと酔どれの合唱といって間違ひあるまい。(後略)

(1929(昭和4)年8月21日『新愛知』)
ダンスホールだけでなく、カフェーなどでのジャズバンド演奏も禁止されたことで、名古屋の市中でジャズを演奏することができる場所は映画館のみとなった。その映画館も、時をおかずにトーキーの出現により楽士の解雇が始まり、人々の前でジャズを演奏する場は次々と失われていった。レコードの吹込やラジオ番組でジャズを演奏する機会はあったが、その都度楽手の寄せ集めで凌ぐばかりで、専門のジャズバンドが育つ土壌は育たなかった。東京や関西のように、ジャズ文化が戦前の名古屋で発達しなかった理由は、これに起因するといって良いだろう。
名古屋は、ダンスもできず、ジャズも満足に演奏できない地域となってしまったが、どんなに取締を強化しても、ダンスをしたい人達の欲望を抑えつけられるものではない。これから暫くの間、ダンス解禁を求める人達と取締当局との激しいせめぎ合いが続くことになるのである。
(この回、⑥に続く)
[注1]1928(昭和3)年12月14日『名古屋新聞』に掲載されたカフェー探訪記に、「男は大須食堂の隅ッこのテーブルによって二合びんを触っていた、名古屋唯一のカフェ・ジャズバンドのメロデーに、つひにうかれてドラ声を張あげていた」と記載がある。
[注2]1929(昭和4)年2月10日『名古屋新聞』の精栄軒の広告に、「一流のジャズバンドとトリオ演奏 十、十一日二日間毎夕六時」とある。
[注3]加藤幸三郎は、日本郵船の司厨として海外航路に乗船し、欧米でキャバレーやカフェーを見聞したのに影響され、名古屋でカフェー事業を興した。カフェーの他には、上海楼や日清荘などの中華料理店、西洋料理店のグリルスコット、旧神野金之助邸を買い取って高級料亭にした翠芳園などを経営し、戦後も業界団体の要職に就くなど業界の発展に尽した。
[注4]名古屋の映画館の楽士は、参加する楽団や場所によって変名を使い分けていることがある。例えば、小澤小太郎は小野澤倉太郎(松竹座)、五東美之は後藤義行(千歳劇場)、奥野豊は奥村豊(世界館)、永井清忠は永井忠夫(世界館)、平手秋峰は平山紫峰(世界館)のそれぞれ変名と類推できなくもないが、確証はない。
[注5]1936(昭和11)年9月6日『名古屋新聞』
[注6]1929(昭和4)年2月5日『名古屋新聞』の紹介記事「バリージャンの大発展」によれば、2月1日より上海から一流のジャズバンドを招き、4日にはパリージャンジャズバンド一行として新守座へ出演し大人気を博したとある。
[注7]国枝自身も、1929(昭和4)年の11月20日にコーナーナベヤで酒に酔った勢いから店内で20数名の客と一緒にダンスをしたり、1932(昭和7)年4月12日に浪越会館で女給とダンスをしたことで、警察にしょっぴかれている。
〈見出し画像〉
1927(昭和2)年6月26日『新愛知』「大阪の印象!」挿絵(画・下川凹天)
〈参考文献〉
愛知県警察史編纂委員会編『愛知県警察史 第2巻』1973年 愛知県警察本部 国会図書館デジタルコレクション
島洋之助編『百萬・名古屋』1932年 名古屋文化協会
『新日本経済 第17巻8月号』1953年8月 新日本経済社 国会図書館デジタルコレクション
溝口常俊編『愛知の大正・戦前昭和を歩く』2023年 風媒社
新愛知新聞社『新愛知』
名古屋新聞社『名古屋新聞』
