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戦前名古屋におけるジャズの普及展開(3)ダンスの流行と取締の攻防史③


(前回の続き)

第一次ダンスブームの到来


ボリカ倶楽部が公開舞踊会を催した頃、名古屋でダンス団体と呼べるものはポリカ倶楽部しかなかったと思われるが、1925(大正14)年に入ると、世間一般のダンスへの興味関心がさらに高まり、新たなダンス愛好者の集まりが名古屋にも続々と出現し、さながら第一次ダンスブームといった様相を呈してくる。

当時の新聞記事で確認できるものとしては、1925(大正14)年5月、かつて近江澄子がダンス教習所を開いた中村遊廓傍のカフェーサンカクに、二葉ダンシングホールという社交ダンス教習所(責任者は南國介)が新たに開設されている。1925(大正14)年5月17日の名古屋新聞に紹介記事が出ている。

この程名古屋に社交ダンスが流行しだして、市内には既に二三か所倶楽部が設けられ、そのみちに趣味をもった人々が踊り抜いているが、この頃名古屋へ巣立ちして来た元宝塚少女歌劇団の三條深雪子、久方富士子両嬢と美原純子といふ先生と三人が二葉ダンシングホールを西区中村遊廓外三角食堂の三階上に開設した。家庭の室内運動としても児童の教育的遊戯としても、また社交界にも必要になったダンスの練習と教授を毎日午後七時より十一時まで、会費は無料で回数券を以て教授している。可愛らしい嬢さんやあらゆる階級の婦人が足もとあぶなげに練習していた。特別教授は午後一時より四時までになっている。夜分観覧に来る人も相当にある。

1925(大正14)年5月17日『名古屋新聞』

「市内には既に二三カ所倶楽部が設けられ」とあることから、この記事の出た時点で、名古屋には既にダンス倶楽部が2〜3箇所に増加していたことがわかる。二葉ダンシングホールは、ボリカ倶楽部のように会員制ではなく、参加ごとの回数券方式を採用しており、気軽に参加できるようにすることで、ダンスをより幅広い「あらゆる階級」に楽しんでもらおうとする意図が感じれられる。その分、会員制に比べて素性の分からない者を招き入れるリスクは高まるが、それだけダンスを学びたいニーズが拡がっていたことを示しているといえるだろう。

また、短期限定のダンス講習会ではあるが、1925(大正14)年7月21日の新愛知に、「新舞踊の夏季講習会」という記事が出ている。

オリエンタルクラブでは本社後援の下に石井漠舞踊研究所所属の朝倉陽一郎氏を聘して二十五日から向ふ一週間、市内中区鶴舞公園前文化茶屋楼上で「新舞踊夏季講習会」を盛大に開催する事になった。募集人員は百名限りで毎日午後一時から四時迄と同六時から九時迄の二部教授である。会費は両部共三円で締切期日は二十四日、尚ほ講師は朝倉陽一郎氏の外に賛助員として松浦旅人氏、間君代、澤文子の両嬢が当る筈である。尚ほ講習課目は新舞踊の真意及ステージダンスの基本(ポジション)社交ダンス舞踊知識の主要課目等で申込場所は市内中区栄町二丁目日本楽器会社名古屋売店並に文化茶屋内オリエンタルクラブである。

1925(大正14)年7月21日『新愛知』

朝倉陽一郎や松浦旅人、間君代、澤文子はいずれも浅草オペラなどの歌劇団で活躍し、石井漠及びその盟友である澤モリノの周辺にいた人達であろう[注1]。澤文子は、大正末期から昭和初期にニットーやオリエント、内外など関西系のレコード会社を中心にお伽歌劇や喜歌劇、流行歌などのレコードを多く吹き込んでいることでも知られている。近江澄子や元宝塚少女歌劇の講師もそうだが、歌劇の出身者が地方の社交ダンスの普及に多くあずかっていた事実はもっと注目されてよいと思う。

澤文子
(『ニットータイムス 第六巻二月号』1926年2月)

なお、講習会の会場である鶴舞公園前の文化茶屋は、戦前に「番茶の家」など文化人の交流サロンを多く手掛けたことで知られる長野浪山が開設し、地元の文学者や芸術家などが集う場所として、座談会を催したり、機関誌「市民大学」を発行するなど名古屋の文化拠点となっていた施設である。長野はキリスト教の牧師であるが、かなり進歩的な考えの持ち主であったようで、ダンスにも理解があり、1933(昭和8)年に御器所で開いた「ローザン荘」では社交ダンス会をしばしば開催していたと伝えられている[注2]。

ダンス規制のはじまり


ダンスの流行につれて、もとよりダンスに対しては批判的な見方も根強くある中で、ダンス場での良からぬ行状も頻繁に伝えられるようになり、保安当局の警戒を次第に強めることになった。東京では、1924(大正13)年9月、カフェーやバーなどの飲食店でダンスを禁じる通牒が発せられ、帝国ホテルの剣舞事件もあってダンスのブームは一時落着きをみせていたが、1925(大正14)年に入ってからダンスホールが急増しはじめ、再びダンスの流行が猛威を振るいはじめる。警視庁も、より詳細で細かな規定の策定に乗り出し、1925(大正14)年6月、ダンスホールの取締標準を制定した。永井良和『社交ダンスと日本人』に全文が掲載されており、その概略は以下の通りである。

①ダンスホールには経営者だけでなく会員その他出入りする者の住所氏名職業を記した台帳を備え付けること
②ダンスホールの待合茶屋芸妓屋飲食店喫茶店などとの兼業を禁止すること(但し、既に従来から行ってきた場所は原則不問)。
③芸妓及び未成年者の学生のダンスホールの出入りを禁止すること
④ダンスホールは外部から見透かし得ない構造とすること

名古屋でも、警視庁がダンスホールに対する取締標準を発出したことはすぐに伝えられた。この頃には、ダンス愛好者の集まりによる会員制クラブが次々に現れ、大須ホテルや陸ビル、共済ビルディング、文化茶屋などで、盛んにダンス会が催されるようになっていた。保安当局は、暫くは様子見の姿勢であったが、東京で発生したある衝撃的な事件により、ダンスホールへの警戒を一気に高めることになる。いわゆる「リッチ狙撃事件」である。

リッチ狙撃事件の衝撃

この事件は、1925(大正14)年9月28日の夜、イタリア大使館内で、リッチというイタリア人商人が、訪ねてきた17歳の少女にピストルで撃たれ、重傷を負ったというものである。この少女、深谷愛子は、生活に困り、所有していた高価な指輪を売却目的でかねて知り合いのリッチに預けていたが、リッチは指輪を売却する気がなく、指輪の返却を再三督促するもリッチが応じようとしないため、凶行に及んだとされている。

深谷愛子
1926(大正15)年1月27日『新愛知』

取り調べが進む内、深谷愛子がリッチと知り合った経緯の中で、愛子が母親と連れだってダンスホールに入り浸り、外国人と盛んに交際を重ねていたことが明らかになった。愛子の母親は、海軍大佐と結婚したが、万事派手好みでダンスホールに通い外国人との交際に明け暮れた挙句、夫に離縁され、その後も娘の愛子を連れてダンスホールを渡り歩く生活を続けていた。新聞では、ダンスホールが媒介所となって外国人と女性の不健全な交際が日常茶飯事で行なわれているとして実例をいくつもあげ、批判の矛先をダンスホールに向けるようになる[注3]。

名古屋でも、こうした報道が伝えられるや、ダンス場への取締りに本格的に動きだすことになった。名古屋新聞の取材に対して愛知県保安課員が以下のようにコメントしている。

実は今朝(一日)東京の新聞で(中略)ダンスホールの内幕暴露の記事を見まして、実は本県でも急に取締をせねばとそれぞれ手配をしている所です。実は保安課としてダンスに対し、「厳重に取締る」と云ふ根本方針の外、或はこれ等一切に禁止を命ずる必要があるとも思っている所で、部長から先日訓示を以つて取締る方針を樹てて以来、各警察署では直ちに所轄の管内においてそれぞれ調査中で、注意を怠らないでいるのです。然し何分、県としてはダンスに関する法令条例も制定されて居らず、認可制度でもなく自由にまかしてあるのですが、随分いろいろの噂もある事とて一層取締の歩を進めやうと思っています。

1925(大正14)年10月2日『名古屋新聞』

この時、名古屋にはダンスに関する法令や条例は制定されておらず、認可制度もなかったことがわかる。この方針を受けて、警察がダンスに対して具体的にどのような処置をしたのかを示す資料は見当たらないが、遅くとも1926(大正15)年までに、ボリカ倶楽部も含めた全てのダンス場が警察により閉鎖を命じられたものと思われる。

その後、大正天皇がご不例の最中に徳川義親候の邸宅で舞踊会が行なわれたことや、大正天皇が崩御した後もダンスホールでは営業を続けていたことなどが問題となり、昭和に入り、大阪ではダンスホールの営業を事実上不可能とする取締規則の制定に向かっていくことになる。それに対し、名古屋では、ダンス団体が一掃された後、警察のダンスに対する姿勢が和らいだのか、1927(昭和2)年2月19日には、名古屋ホテルで久々の舞踊会が開催されている。

名古屋ホテルのダンス場で十九日の夜、名古屋社交倶楽部の社交ダンスがあった。以前大同電力にいて今は建築の請負をしていられる山田氏が主催で、何んしろ名古屋にダンス場が影を消してから社交界の紳士、淑女はカフェーのピアノの絃調にさへ胸おどらしていたもので・・・(後略)

1927(昭和2)年2月20日『名古屋新聞』

この舞踊会は、大正天皇の諒闇中にダンスとはけしからんと大阪の右翼団体が乗り込んでくるとの情報を事前にキャッチし、警察官が臨席する異様な光景で開催されたのだが、逆にいえば、警察が舞踊会を中止させず容認したことを示している。そして、ダンスをしたいという人々の欲求が再び燃え上がりはじめ、名古屋で初めてダンスホールの開設が実現し、第二次ダンスブームへと繋がるのである。


              (この回、④に続く)


[注1]朝倉陽一郎は、近江澄子と同じく、相良愛子らが結成したミカゲ歌劇団のメンバーに名前がある。松浦旅人と間君代は、いずれも『日本歌劇俳優名鑑』(1921(大正10)年刊)に写真や経歴が記されており、間は石井漠にダンスを習っている。澤文子は、田中栄三の『女優漫談』(1927(昭和2)年刊)に、浅草へ出て女優になった人々の中に、名前が見える。
[注2]長野浪山の経歴や文化茶屋の活動については、高橋博久の論文「『中央食堂』開設の経緯―番茶の家綺談(その1)」を参考にした。
[注3]1925(大正14)年9月30日『東京朝日新聞』「外人射撃事件は何を語る?悪魔的歓楽を追ふ外人の群、未亡人の群」

〈見出し画像〉
1927(昭和2)年2月20日『名古屋新聞』名古屋ホテルで開催された舞踊会の写真

〈参考文献〉
原比露志「続日本歌劇編年史(6) オペラ館森歌劇団の時代(B)」『月刊楽譜 第25巻 12月号』1936年 月刊楽譜発行所
森富太『日本歌劇俳優名鑑』1921年 活動倶楽部社
田中栄三『女優漫談 漫談叢書第三篇』1927年 聚英閣
高橋博久「『中央食堂』開設の経緯―番茶の家綺談(その1)」愛知学泉大学コミュニティ政策研究所編『コミュニティ政策研究2』2000年 愛知学泉大学コミュニティ政策研究所
永井良和『社交ダンスと日本人』1991年 晶文社
『ニットータイムス 第六巻二月号』1926年2月 日東タイムス社
『朝日新聞〈復刻版〉 大正編159 大正14年9月』2007年 日本図書センター
『朝日新聞〈復刻版〉 大正編160 大正14年10月』2007年 日本図書センター
新愛知新聞社『新愛知』
名古屋新聞社『名古屋新聞』



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