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戦前名古屋におけるジャズの普及展開(3)ダンスの流行と取締の攻防史①



ジャズの普及は、ダンスの流行とともに訪れた。日本だけでなく、本場の米国をはじめ世界中でも同様である。ジャズの楽曲を呼びならわす上で使われたフォックストロットやワンステップはダンスの名称であり、普及当初、ジャズはダンスに付随するものとして捉えられていた。特にダンスホールは、戦前の日本におけるジャズの主戦場として多くのプレイヤーが鎬を削り、演奏技術のレベルアップを通じて日本のジャズの発展に大きく貢献した。

本稿では、戦前の名古屋においてジャズの普及に欠かせないダンスの流行がどのような状況であったのか、当時の新聞記事を中心に明らかにしたい。戦前の名古屋のダンスの歴史に関する文献は皆無であり、これまでほとんど触れられることのなかった名古屋のダンス史の解明の一助になれば幸いである。

名古屋におけるダンスの黎明


日本におけるダンスの流入は、明治10年代の後半、明治政府が欧化政策を推進した鹿鳴館時代にまでさかのぼる。しかしながら、この時の流行は政府高官や貴族などの上流階級が中心で、一般の庶民までの拡がりはなかった。

社会全体のダンスの流行は、1920(大正9)年、鶴見花月園に日本初の商業ダンスホールが開業したことに端を発したといってよいだろう。この時期、第一次世界大戦の終結で外国との交流が活発化する中、欧米で流行していた社交ダンスの必要性が官吏やビジネスマンを中心に高まっていた。さらに、流行に敏感で、新しい刺激を求める若者層の嗜好にも合ったことで、東京や横浜、大阪、神戸、京都などの都市で急速に広まった。これらの都市ではダンスの教習所が次々と開設されるとともに、帝国ホテルや神戸のオリエンタルホテルなど、外国人の宿泊が多いホテルでは夜毎ダンスパーティーが開かれるなど活況を呈した。

名古屋は、これらの都市に比べてまだ国際化されておらず、外国人向けのホテルも整備されていなかったため、ダンスの流入にはやや遅れをとった。名古屋で最初のダンスの講習会は、1921(大正10)年7月26日から30日の5日間、愛知県立第一高等女学校(現在の愛知県立明和高等学校)で開かれた米国式スクールダンスの講習会と思われる。講師は、大阪樟蔭高等女学校の朝輝記太留が務めた。朝輝は米国へ女子体育の視察で留学し、帰国後は体育ダンスの啓蒙に尽した人物である。教えられたのは社交ダンスではなく、学校教育向けのジムナスティックダンスであったが、当時は社交ダンス(ソーシャルダンス)、体育ダンス、舞台用のステージダンスと類型の違うダンスが同時進行で流行していたのである[注1]。

スクールダンス講習会の様子
(1921(大正10)年7月27日『新愛知』)

社交ダンスの講習会は、1922(大正11)年4月に初めて開かれている。1922(大正11)年3月18日の名古屋新聞に、講習会の開催を知らせる記事が出ている。

西洋舞踊が社交的にも體育的にも又趣味の上から云っても極めて高尚な優雅なものである事は云ふまでもないので、近頃は東京や神戸で素晴らしい勢いで流行してきた。
名古屋には未だ斯う云ふ催しもなく又習おうにも教える人がなかったが、最近市内の官吏や実業家などの門にダンスを習ひ度い、普及させ度いと云ふ人々がだんだん多くなって来て、遂に體育家として又舞踊の大家として有名な市内在住のアッシュブルック氏を無理に説きつけて西洋舞踊講習会を興させることとした。
会場は門前町の商品陳列館で一週火木の二回、毎晩七時から八時半迄熱心に指導するさうだが、初心者でも三ヶ月位の練習で充分上達すると云ふ事だ。

1922(大正11)年3月18日『名古屋新聞』

講師のアッシュブルック氏は、当時、名古屋市の体育視学の職にあたっていた人物。同年3月26日の名古屋新聞には、「申込が非常に多く愈々四月早々開講の筈」との続報が掲載されている。しかしながら、開講後の動向を知らせる記事が全くみえず、いつ頃まで講習していたかも不明で、あまり長続きはしなかったようだ。

続いて、1922(大正11)年6月に、新愛知新聞社の主催により「ヂムナスチックダンス講習会」が愛知県立第一高等女学校で開催され、米国体育学士のW・S・ライアン氏によるアスレチックダンス、東京麹町学校の土川五郎による律動遊戯[注2]の講習が行なわれた。定員100名に対し、愛知・岐阜・三重の学校関係者や紡績工場の女工、軍隊方面など200名の申込があり、急遽、追加開催するほどの人気を集めた。

「ヂムナスチックダンス講習会」の様子
(1922(大正11)年6月5日『新愛知』)

上記の如く、大正10年から11年にかけて、名古屋でもダンス熱が高まっていた様子がみられるが、いずれも教育目的による短期の講習会が中心で、常設的なダンスホールや会員団体の発生までには至っていなかったといえるだろう。

ダンスへの反感


一方、この頃、社交ダンスの流行が先行していた地域では、当局によるダンス取締の動きも徐々に顕在化していた。元々、流行の当初からダンスに対しては、男女が抱き合って踊ることや、女性が夜遅くまで外出してダンスに興じていることへの伝統的価値観や家庭観に照らしての批判は数多くみられた。また、労働者階級においては、ダンスは生活に恵まれた裕福な上流階級の遊びとする鹿鳴館時代から続く意識も根強くあった。こうした見方を典型的に示した名古屋新聞の読者の投書を紹介しよう。

世の中が開けると妙なものまで流行しだす、その中で我輩の最も癪に触るのはダンスである。それも藝妓や、女優の如き職業士ならいざ知らず、堂々たる紳士が自分の嬶や娘と踊るのだからお話にならない。それを名づけて踊り抜く会と言って夜通し踊る奴もあるさうだ。踊り抜くとは仲々感心だ。その言分が又癪に触る。礼儀上、運動上、是非社会に廣く薦めたいと。そんなものを薦められてはタマゲル。国民が上下挙って嬶や娘と踊るのに没頭すれば、国家が、何うなるか、チト考へて見よ。
我輩は、華族様とは高貴な方だと、思っていたのに、この社交ダンスをお薦めになったのは華族様が始めださうな。今尚普及に尽力して御座る。これでは華族様にも信用できない。
踊って運動しなければ、運動方法がないのなら、此頃の農家が、養蚕や田植に夜も寝ずに、働いているのに一日でもよいから、手伝して貰いたい、大変運動になりますよ。否や、踊る暇に工場労働なり農家労働をしたらどうです。
我輩はエライ人から財界不安、不景気将来と言ふ言葉を聞き、労働争議、小作争議が随所に絶えずくり返し争はれているのを知る。今や我が国民思想はヒドク荒んで来た。この秋に当りこれを増長すべき行為は絶対に慎まなければならない。この意味に於てダンスは禁ずべしだ。

1922(大正11)年5月24日『新愛知』

最初のダンス粛清


さらに、ダンスが男女の不倫や密会、女性を拐かす不逞の輩を生み出しているということが見聞されるようになり、警察も黙って見過ごせなくなってきた。早くには神戸でダンス取締の動きなどが見え始めるが[注3]、最初のダンス粛清は京都で起こった。

京都府警察部保安課では現在市内に組織されているソーシャルダンス倶楽部、アマチュアーアーチストソサエテー及びウズメ会等のダンス倶楽部の内情に就き、頃日來若き警部を普通会員の如く変装せしめ等して着々捜査の歩を進めつつあったが、愈一部会員間に於ける風俗壊乱の■風の具体的証拠を握ったので、一般ダンサーの将来を憂慮し茲に断々乎として警告又は解散を命ずる方針に決した。

1922(大正11)年8月2日『新愛知』

当時、京都ではダンス倶楽部の会員が300名に達しており、その中には、富岡鉄斎の孫で歌人の富岡冬野、著名な建築家の本野誠吾など知名紳士が含まれ、同志社大学女学校、その他師範学校等の男女学生等も会員に多く登録されていたようだ。この手入れを受けた後、京都のダンス倶楽部はほぼ一掃されることになった。

ダンスに纏わる醜聞


またこの時期、ダンスに纏わり世間を賑わせた醜聞として、藤倉露子の自殺未遂事件がある。

藤倉露子は、1889(明治22)年8月生まれ。兵庫県の自由党代議士として衆議院議員を4期勤めた森本駿の三女で、資産家の藤倉五一に嫁いだ。藤倉家は、江戸時代に材木商を営んだ御用商人の家系で、五一の父親である藤倉五郎兵衛は、明治10年代に横浜から横須賀間の定期船運航や、明治天皇の横須賀行幸に行在所を提供したこと等で知られる。五一は、1888(明治21)年1月10日生まれ、学習院で学んだ後、米国へ留学して帰国後に家督を継ぎ、東京赤坂に所有する土地に外国人の貸家として日本初のツー・バイ・フォー工法による組立住宅を建設するなど[注4]、ハイカラな人物であった。露子も、夫に負けず劣らずのハイカラで、特にダンスは舞踊会で常に注目を浴びる程の腕前であり、彼女が夜会で舞踊している時は「恰も孔雀が翅を伸ばしたかの如く光彩陸離たるものがあった」と評された[注5]。

藤倉露子の肖像
(ジャパン・マガジーン社編『社交要録 大正7年用再版』1918年)

そんな社交ダンス界の花形である彼女の情事が暴露されたのは、1923(大正12)年の春であった。それは、1923(大正12)年4月22日の『国民新聞』に、「社交界のスター藤倉露子夫人自殺未遂 ダンスの友の一外人と関係し妊娠したのを恥ぢて」の見出しでセンセーショナルに報じられた。

 事件と云ふのは昨年十一月三日明治天皇祭当夜帝国ホテルに於て一大夜会が催され舞踊会の開催された際、何しろ舞踊の名手として知られ明星の如く麗しく輝く露子夫人の事で降る程あった舞踊の相手の希望者の中から遂に露子夫人のお鑑定にかなって終夜を狂う蝶の如く楽しく踊り抜いた相手と云ふのは眉目清秀の一外人であった。
 爾来露子夫人は其の当時良人五一氏が四谷方面に妾を囲うて時々家庭を空けるやうな事もある放縦な生活とそして其の不真面目な愛情とに慊らず、思って居た矢先とて忽ち其の外人と烈しい恋に陷ち幾度か人目を忍んでの楽しい逢う瀬を続けて来たが、密事は現れやすく本年に入って夫人がその愛人の胤を宿して身重となったのが因で、遂に良人五一氏に看破されるに至り、それやこれやの家庭の不和が昴じて露子夫人は最近桜花笑む春のある夕べ、劇薬を呷って自殺を図ったが家人の発見するところとなり、東京病院に送られて応急手当の結果辛うじて一命だけは取止めたが、遂に脳を痛め精神に異状を呈するに至ったので、現在兵庫にある夫人の厳父某代議士の許に送られて静養中である。

1923(大正12)年4月22日『国民新聞』
(『新聞集録大正史 第11巻』からの引用)

この事件が報じられた後、藤倉五一は露子と離縁し、別の女性と再婚したようだ[注6]。その後の露子の動静は伝わっていない。

他にも、外交官の亀井貫一郎[注7]や子爵の田尻鉄太郎[注8]の夫人などが、ダンスに夢中になったことが原因で離縁に繋がったことが新聞などで報じられている。これらは、夫の放蕩にも原因があるとされ、必ずしも夫人ばかりに非があるわけではないが、ダンスを通じて貴婦人の情事が蔓っているとダンス排撃論者の攻撃材料に使われ、後々までダンス愛好者が偏見の目に晒されることに繋がった。

ダンス流行の下火


ダンスに対する警戒が強まる中、東京では警視庁が1922(大正11)年夏にも取締規則を制定するのではないかとの憶測も流れたが[注9]、実際に公布されたのは1925(大正14)年と相当先であり、京都以外では、公権力がダンスを取り締まる動きも特段見られなかった。その理由としては、欧米諸国との交際に欠かせないダンスの取締りには、国際関係を考慮し慎重になったとも考えられるが、ダンスの流行が、この頃を境にして、徐々に下火になってきたことも要因として考えられる。

1922(大正11)年10月13日の『新愛知』には、東京のダンス場がかなり寂れてきたことを伝えている。

猫も杓子もダンスに憧れて居りました去年の夏頃に比べますと、今年の秋の寂れ方はお話しになりません。(中略)京都の社交ダンス界は醜状をさらけ出して殆ど自滅同様に陷ったやうです。東京方面でも鶴見花月園の舞踊場ですら経費倒れから閉ぢそうになったがどうやら細々ながらも続けることになったさうですし、土橋の常磐会など東京市内第一流の舞踊場であったのが滅切り人数が減って了ひました。一時の流行熱に浮かされて踊り廻っていた人物の中には、いかがわしい人々も交じって居り、若い男女が夜の更けるまで踊り狂ったり、家庭に内密で来て居る夫人が自然止めるやうになってから、急に男の数が減って行ったといふ皮肉もありました。名古屋でもダンスの講習を目論見たり、清い交際の道具にしやうとした人もありましたが声ばかりで実演しなかったのは寧ろ幸であったかも知れません。

1922(大正11)年10月13日『新愛知』

この記事は、東京のダンスの衰退を伝える一方、名古屋ではこの時期になってもダンスの講習会が行なわれていた程度で、ダンスホールや舞踊会はまだ開かれていなかったことを示している。

また、村岡貞は「日本に於ける社交ダンスの変遷史」の中で、1922(大正11)年のクリスマスを分岐点として、1923(大正12)年に入ると、帝国ホテルのディナー・ダンスなどでもほんの一組か二組しか踊っていないようなことがあり、閉めたところも大分あったと記している[注10]。 このようにダンス熱が沈静化してきた中で、当局も様子見の姿勢に転じたのではなかろうか。

そして、1923(大正12)年9月1日に発生した関東大震災により、東京のダンスは壊滅状態となる。ダンスの流行もこれで終いかと思いきや、震災後、大阪で息を吹き返して、さらに大きなダンスブームが巻き起こり、名古屋にもその影響が及ぶことになる。

              (この回、②に続く)


[注1]当時、ステージダンスの代表は、ロシアから亡命したエリアナ・パヴロワや、演目の合間にダンスを積極的に組み入れた奇術の松旭斎天勝や天華、浅草オペラの歌劇団などがある。
[注2]土川五郎は、1871(明治4)年12月4日に岐阜県大垣市生まれ。東京尋常師範学校を卒業後、小学校教育の道に入り、特に遊戯研究で独自の「律動遊戯」「律動的表情遊戯」の普及に努めた。「律動遊戯」とは、リズムと音によって感情を表現することを指し、ダンスとの相関性が強かった。土川五郎の業績については、大沼覚子の論文「土川五郎における「遊戯」」論の展開とその歴史的意義」が詳しい。
[注3]1922(大正11)年5月11日『新愛知』に、神戸ではダンスの大流行に乗じて、如何わしい醜事が暗々裡に行なわれているとして、兵庫県当局が率先して取締理論を設け、制裁を加えるべく目下法案の考究中であると報じられている。
[注4]内田清蔵『『あめりか屋商品住宅 : 「洋風住宅」開拓史』によれば、1910(明治43)年の夏、藤倉五一は、「外人の友人達がホテル住まいを強いられていることに目をつけ、外人専用の貸家として組立住宅を建てた」とあり、これが日本初のツー・バイ・フォー住宅と言われている。
[注5]『新聞収録大正史 第11巻』に所収、1923(大正12)年4月22日『国民新聞』の記事「社会界のスター 藤倉露子夫人自殺未遂」より。
[注6]1927(大正14)年8月発行の『人事興信録 第七版』の藤倉五一の項に、「宮崎県士河野厳男長女初子(中略)を娶れり」と記載されている。
[注7]1928(昭和3)年4月発行の雑誌『女性』に、亀井貫一郎に関して、「大正六年帝大を卒業するとすぐ外務省に入り、天津、紐育の総領事館を廻って本省の事務官となったが、その頃ダンス自慢で四六時中ホテルのダンスホールに入浸りになっていた夫人たか子さんに背き去られた」との記述がある。なお、亀井は、後に社会民衆党から立候補して衆議院議員となり、戦後は国際問題評論家として活躍した。
[注8]1923(大正12)年6月25日『新愛知』「田尻令息夫人離婚さる ダンス熱に浮かされ子供を他處に狂廻り」の記事より。田尻鉄太郎は、専修大学の設立者で東京市長も務めた田尻稲次郎の長男。鉄太郎の夫人ナツは、薩摩藩士の家柄で札幌農学校(北海道大学の前身)の校長などを歴任した橋口文蔵の三女。1894(明治27)年7月生まれで、双葉高等女学校を卒業して間もなく、田尻鉄太郎と結婚。『華族譜要』によれば、1924(大正13)年3月に離婚している。
[注9]1922(大正11)年8月30日『名古屋新聞』に、警視庁が取締令の起案に着手し、悉皆草稿を終了したので近日いよいよ発令を見ることになったと伝えているが、発令された様子はない。なお、草案では、通路に面したダンス場は目隠しをすること、時間は午後10時を過ぎてはならないこと、出入する者は全て名簿を備えることなど、後に発布される内容はこの時点でほぼ固まっていた模様である。
[注10]春陽堂編『社交ダンス講座 第一巻 論説編』所収、村岡貞「日本に於ける社交ダンスの変遷史」より。

〈見出し画像〉
大阪ホテルの舞踊大会の写真 1921(大正10)年6月28日『名古屋新聞』

〈参考文献〉
永井良和『社交ダンスと日本人』1991年 晶文社
広兼志保、木原成一郎「朝輝記太留(1878-1938)の米国体育研究と行進遊戯教材の普及に関する研究」『スポーツ教育学研究 2012年32巻1号』2012年 日本スポーツ教育学会
大沼覚子「土川五郎における「遊戯」」論の展開とその歴史的意義」『幼児教育史研究 第2号』2007年 幼児教育史学会
『新聞収録大正史 第11巻』1978年 大正出版 国会図書館デジタルコレクション
ジャパン・マガジーン社編『社交要録 大正7年用再版』1918年 ジャパン・マガジーン社 国会図書館デジタルコレクション
人事興信所 編『人事興信録 第8版』1928年7月 人事興信所  国立国会図書館デジタルコレクション
須藤常編『日本紳士名鑑』1912年 日本紳士名鑑発行所  国立国会図書館デジタルコレクション
人事興信所 編『人事興信録 第六版』1921年 人事興信所  国立国会図書館デジタルコレクション
人事興信所 編『人事興信録 第七版』1925年 人事興信所  国立国会図書館デジタルコレクション
中西利八編『財界フースヒー 昭和3年1月』1927年 通俗経済社出版部 国会図書館デジタルコレクション
『学習院一覧 昭和八年九月纂』1933年 学習院  国立国会図書館デジタルコレクション
内田清蔵『あめりか屋商品住宅 : 「洋風住宅」開拓史』1987年 住まいの図書館出版局  国立国会図書館デジタルコレクション  
『女性 第十三巻 第四号』1928年4月 ブラトン社
維新資料編纂室編『華族譜要』1976年 新生社
春陽堂編『社交ダンス講座 第一巻 論説編』1933年 春陽堂 国会図書館デジタルコレクション
新愛知新聞社『新愛知』
名古屋新聞社『名古屋新聞』




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