戦前名古屋におけるジャズの普及展開(3)ダンスの流行と取締の攻防史⑥
(前回の続き)
ダンス解禁の兆し
1928(昭和3)年4月に全てのダンスホールが閉鎖されてから、名古屋でダンスの話題は暫く聞こえてこなかったが、1929(昭和4)年7月17日、「いつ許可になった?ダンスホール復活」の見出し記事が突如、新聞に躍った。
近日開場と大書した社交ダンス倶楽部の立看板が市内中区南大津町一丁目の志水組ビルディングの前に立てられてからもう一月になる。道を行く人はいぶかしそうにいつ開くともわからないダンス場の看板に好奇の目を投げかけながら過ぎて行く。愛知県では御法度になっているダンスのこととて、廣ブラの若い人々の話題にもいつか上るやうになり、晴か雨か・・・その成行きは猟奇者の興味をひいている。
志水ビルディングは、ポリカ倶楽部がかつて練習場にしていたところで、ダンスホールの設備が整っていたのだろう。既に警察の内諾を得ており、ダンスホールでは許可されないので遊戯場として届出する予定と報じられたが、結局、許可はおりず、ダンスホール開設は立ち消えとなった。しかしながら、この頃から、ダンス解禁の声が名古屋でも再び立ち上がり始める。
ダンス解禁を主張する人たちは、財界や経済界の人達が多かった。名古屋の人口は百万人を突破し、1927(昭和2)年に終了した名古屋港の第三期拡張工事で1万トン級の大型汽船も寄港できるようになり、名古屋も国際化の様相を帯び始めていた。社交上、外国人との交流が盛んになるにつれ、ダンスの必要性が叫ばれるようになり、観光業界も、外国人誘客の観点から、観光地開発を進めていた犬山にダンスホールを開設すべく運動を開始する。
一方で、ダンスを公序良俗に反するものとする見方は依然として根強く、犬山のダンスホール建設計画が伝えられるや、名古屋矯風会や廃娼連盟が愛知県庁に設立を許可しないよう陳情を行っている。また、世間のダンスへの賛否両論も相変わらずで、新聞にダンスの解禁を求める投書が掲載されるや否や、現代のSNS時代の炎上さながらに批判が殺到した。

(1929(昭和4)年12月5日『名古屋新聞』)
一方、関西ではこの時期、1929(昭和4)年〜1931(昭和6)年にかけて、阪神国道、西宮、宝塚、神戸など兵庫県内を中心にダンスホールの開業が相次いだ。1932(昭和7)年には、ダンス禁制の大阪で、清和倶楽部のダンスホール設立も許可されている。清和倶楽部は、大黒橋北詰の清和会館を根城に、元々会員制のダンス組織として許可されていたが、会則や当局の取締が厳しすぎることから1930(昭和5)年末に自主閉鎖していた。その後、当局に働きかけ、会則の大幅な緩和が認められ、6月に改めて許可を得ることに成功したのである。名目は会員制ダンスホールであったが、会費を払えばダンサーでも自由に出入りすることができ、実質的には一般のホールと異ならなかったそうだ。

(1932(昭和7)年6月2日『新愛知』)
続いて、滋賀県でも1932(昭和7)年6月末にダンスホール営業規定及び取締令が発布され、大津尾花川の旅館、紅葉館が申請した常設ダンスホールが初めて許可されるなど(後の琵琶湖ダンスホール)、相次ぐダンスホール開設の動きは、名古屋のダンス推進派を勢いづけていく。
さらに追い風になったのは、1932(昭和7)年7月に揃って着任した愛知県の知事、警察部長、保安課長がいずれもダンスに対して容認を示唆する発言をしたことであった。愛知県知事の遠藤柳作は就任時に「名古屋にダンスホールなきは中京の恥だ」と述べ、警察部長の吉永時次は「ダンスを許すか許さぬか問題だが結局許さねばならぬことになると思ふ」と発言した。中でも、期待を集めたのは、ダンスホール取締の方向性を決定づける基本方針の策定を担う保安課長に就任した国塩耕一郎である。
愛知県保安課長 国塩耕一郎
国塩耕一郎は、1905(明治38)年9月6日生まれ、1929(昭和4)年に東京帝国大学法学部を卒業後、内務省に入省。後に、日本中に著作権問題を引き起こした「プラーゲ旋風」への対応に内務事務官として関わり、大日本音楽著作権協会(後の日本音楽著作権協会、JASRAC)の設立に繋がる著作権仲介業務法の立案に携わった。戦後、大日本音楽著作権協会の二代目会長を務めている。

(1935(昭和10)年2月2日『名古屋新聞』)
国塩は、学生時代から洋楽好きで、一高の校友会雑誌に音楽論を投稿したり、一高寮歌「生命の泉、緑の野」の作曲も手掛けている。新聞の取材に対して、ダンスは東京で自ら盛んにやっていたと明かし、「ダンスは実に良い、国塩個人としては大賛成」と理解を示したことで[注1]、いよいよ名古屋でもダンスが近いうちに解禁されるとの見方が広がった。国塩が保安課長に就任した二カ月ほどの間に、ダンスホール認可の申請は中村のレジャー開発を推進していた名古屋土地、名古屋港西築地の港楽園、犬山遊園地、一宮など十一件に及んだ[注2]。これらの申請は、ダンスホール取締規則がまだ制定されていないことを理由に全て却下されたが、取締規則の制定に含みをもたせたことで、ダンス推進者たちの期待は益々高まった。
ダンス熱の高まりは、こうしたレジャー開発や観光業界にとどまらなかった。長年ダンスができなかった名古屋の人たちの鬱屈を晴らすかのように、ダンス教授所や講習会が次々と開設され、中でも、新たにダンスに熱心に取り組み始めたのは娼妓や芸妓であった。この頃、中村遊廓では、新興勢力のカフェーに奪われた遊客をとりもどすため、建物の外装にネオンを施したり、祝儀などの因習を廃止して簡易なサービスを導入するなど、遊廓のモダン化が始まっていた。ダンスの流行に伴い、休憩室や応接室を利用して娼妓がダンスの練習を行ったり、お客と余興でダンスをする店も現れるようになる。中村遊廓のモダン化については、ことぶきさんの論稿『遊廓のモダン化【NAKAMURA1932】』が詳しいので、参照されたい。
芸妓も、お座敷でダンスの需要が増えることを見込み、各検番でダンスの稽古が盛んに行われるようになる。とりわけ、名古屋の芸妓にダンスを広めるうえで最も精力的な活動を展開したのは、東京新橋でモダン芸妓として名を馳せた花園歌子であった。
花園歌子と名古屋の関わり
花園歌子は、1911(明治44)年(1906(明治39)年説もあり)1月15日生まれ。社会主義者・アナーキストとして知られる黒瀬春吉の設立した女優派遣業のパンタライ社に所属し、黒瀬と結ばれるともに、舞踊や話術を存分に仕込まれる。パンダライ社解散後、新橋の芸妓となり、肌の透けた露出性の高いエロチックな扮装で日本舞踊に西洋式ダンスを混ぜ込んだお座敷ダンスを踊り、モダン芸妓として帝都の話題を掻っ攫う。また、得意の話術で漫談家としても鳴らすほか、吉野作造の主宰する明治文化研究会に参加し、『芸妓通』など女性文化研究を中心とした著書や論稿を出すなど文学芸妓とも呼ばれ、多彩な方面で活躍した。
そんな歌子が初めて名古屋に現れたのは、1929年4月のことであった。
最近『女性文化研究会』を創設してその道の人に女の性的心理に関するいろんな実験報告を提供しようと大膽なことをやりだした新橋のモダン芸妓花園歌子がこっそりと名古屋へ乗り込んだのは去る八日の晩
エロチシズムそのもののやうな歌子の尻振りダンスと、彼女のうん蓄あるワイ談の夕を八重垣倶楽部で極秘裡に遂行した人は祖父江、下出のご老人はじめ老芸妓六七人であった
その夜の会の模様をほのかに聞くところによると、何でも半裸体になった歌子の柔軟な肢体の活躍に、みんなボーッとしたらしく、その後でまた気つけにワイ談を一席やって貰ったらしい(後略)
記事には祖父江(重兵衛)、下出(民義)の名前が出ているが、この催しを裏で手を引いていたのは、おそらく松坂屋の伊藤次郎左衛門祐民であろう。伊藤は、花園歌子とは以前から懇意の間柄にあり、その後の歌子の名古屋での活動を支える重要な存在となる。
また、花園歌子にとって名古屋は、後に伴侶となる作家の正岡容とはじめて出会った場所であったという点でも重要な意味をもつ。歌子と正岡容の出会いは、1930(昭和5)年3月24日から28日に新守座で開いた「漫談と漫舞と落語の夕」であった[注3 ]。この公演では、正岡容による自作自演の新作落語、花園歌子のダンスと漫談を二枚看板とし、二人が仲良く並んで写真にも写っている。

(1930(昭和5)年3月25日『名古屋新聞』)
しかし、この時に正岡に同行し、出演もした橘家圓太郎(当時は橘ノ百圓)によれば、正岡の歌子に対する印象は最悪だったそうだ。
(前略)一応出演者が決定した前日、花園歌子さんから正岡先生へ手紙が来た。文面は「今度、先生と御一緒に、名古屋公演が決まりました。何卒よろしくお願い致します。けれども、聞くところに依りますと、先生は大変な酒豪家で、その上酒乱と伺いましたが、ご存知の通り、私達はかよわい女性で御座いますので、公演中は、是非お酒の方をお慎み下さる様、お願いいたします云々」之を読んだ先生は烈火の如く憤り、「怪しからん奴だ、花園歌子という女は、無礼千万にも程がある」
扨て名古屋三日間の興行も無事に終り、一同帰京、勿論開演中は、正岡先生と花園歌子さんとは、顔と顔が合っても、一言も口はきかなかったし、むしろ正岡先生が花園さんを、にらみつけるようでした。(後略)
『大衆文学研究 第二十一号 特集・正岡容』
写真の笑顔の裏ではこんなことになっていたが、実際の公演においても、落語としては芸のこなれていない正岡よりは、歌子の方が話題性もあって評判が良く、正岡にとっては気に入らぬこともあったに違いない。名古屋新聞の殿島蒼人が記した公演評があるので、紹介しよう。
(前略)正岡容の漫談―あえてわが金語楼に比べるわけではないが若い、若い、若い。もう少し研究したらとか、もっと語彙が豊富にあるべきだとか、のべつに僕らに気を揉ませるのは、気を揉むが無理か。だがあの若さ、稚拙さに未来を約束する頼もしさがあるとも云える(中略)
音にきく花園歌子の漫談は、正直の話、まさにうれしくなってしまった。あっぱれな手の内である。ここまでくると金盃物である。徳川夢声の女房役がハンディキャップなしに勤まる代物である。なぜそんなに感心したんだ、といふ人には議論の余地なし一見したまへとすすめる。但し彼女の円舞曲かなんかのダンスには参った。オオ神よ、歌子氏の肉体はとうてい裸にして二人以上の公衆に曝すべきではないデス。民子氏のわいせつなる所謂イットダンスはただもう、ただただである。
その後、花園歌子は、1931(昭和6)年2月に新守座の日本橋レビュー団公演で来名、翌年にも6月に同じく新守座の神田ろ山一行の演芸大会で来名したが、折からのダンス解禁騒ぎに遭遇し、伊藤次郎左衛門からのお声がかりにより、八重垣倶楽部の能舞台で盛栄連の芸妓にジャズダンス講習会を行った。これをきっかけに、中券でも東京から教師を招き、五十名の芸妓に対して五日間の社交ダンス教室を開催するなど[注4]、芸妓間のダンスブームが広がっていく。

(1932(昭和7)年6月18日『名古屋新聞』)
「新民踊」の普及活動
1933(昭和8)年に入ると、花園歌子は、関東方面を盟友の若草民子に任せ、名古屋に腰を据えて自らの打ち立てた「新民踊」の普及に力を注ぎ始める。1933(昭和8)年4月18日の『名古屋新聞』は、歌子が新民踊の家元としてダンス講習会を開き、多くの芸妓が集まり盛況を呈していることを伝えている。
例の名物女花園歌子は従来のお座敷ダンスを「新民踊」と名づけ、自らその第一世家元を以て任じ当地花柳界の姐さん方に教授を始めたところ恰も時代の要求に適合して燎原の火の如き勢ひで流行し、講習生は盛栄、廓、睦、浪越、中券、吾妻の六連妓三百余名を算するといふ盛況ぶりなので、近く伊藤次郎左衛門氏の後援の下に、民踊学校を設立する企てあり、その具体化するまで、大須文長座を仮教場に充て、目下盛んに稽古を続けているが、十七日からはその第五回講習に入り「大名古屋行進曲」を主として観光団向きにローカルカラーを多分に盛って按舞したものを教へると
その後、歌子は大須ホテルを拠点に、ホテル付属の家屋を借り受けて舞踊場に改造し、名古屋の名だたる連妓から集まった三百名あまりの芸妓への指導に明け暮れる。歌子の新民踊は、社交ダンスというよりはステージダンス向けのものであるが、ダンス流行の波にも乗って、従来の日本舞踊にダンスの要素を加味した新しいスタイルの踊りとして多くの芸妓を惹きつけた。同年秋には、新愛知新聞社主催の「大名古屋祭発表会」や、化粧品メーカーなどの愛用者招待会などに花園歌子社中として出演し、巡業公演も行うなど、新民踊の認知度向上に努めた。

(1933(昭和8)年9月22日『新愛知』)
娼妓や芸妓へのダンス取締強化
こうしたダンスブームの高まりに対して、当局は、娼妓や芸妓がダンスを習うことや、宴席で一時のダンスをすることぐらいは、見て見ぬふりをしていた。1932(昭和7)年6月に開業した築地口の港楽園では、外国人船員が芸妓とダンスするサービスが半ば公然と行われていたようだ[注5]。しかしながら、ダンス熱がエスカレートするにつれてダンスホール紛いの行為も目につくようになり、当局も1933(昭和8)年末、ダンスを弾圧する方向へ転換したことを受け(後述)、娼妓や芸妓のダンスへの取締を強化するようになる。
まず、当局は、中村遊廓に対してダンス禁止のお布令を発する。
ダンス熱流行に伴って廓経営者も顧客吸引策として応接室をダンスホール式に改造し、娼妓達の閑時を利用しダンス教師を招聘して練習せしめ不況の打開策としてこの新戦術を敢行するやうになったが最近中村遊廓でもこの種の違法者が多くなりダンスが殆ど公然と行われているとの噂を聞き込んだ県保安課では所轄笹島署に命じ内偵中のところ事実数軒が違反行為を行っていることが判ったので直に「廓でダンスは絶対にまかりならぬ」と厳命し禁止せしめるに至った(後略)
続いて、芸妓のお座敷でのダンスについても、愛知県保安課は各警察署に対して、下記の通り通達を発した。
最近レビュー、ダンス等の影響を受け芸妓宴席における舞踊の如きも所謂新舞踊と称し蓄音器のレコード等により諸種の舞踊を為す者続出するの傾向あり。これ等の中には薄着を着て裸體に近き服装をなして著しく煽情的なる動作をなすものあり。風俗上面白からざるをもって斯くの如きものは爾今■■取締を執行すると共に業者に対しては至急其の旨警告を発せらるべし
「新舞踊」、「薄着を着て裸體に近き服装をなして著しく煽情的なる動作をなすもの」などの言い回しから、花園歌子の社中を標的にしていることがみてとれる。歌子は、この保安課の通達の裏に、名古屋の舞踊界を牛耳る西川流の圧力があると断じ、西川流との対決姿勢を鮮明にする。1934(昭和9)年の年頭謝辞に、歌子は以下のように書き記している。
(前略)それに私は西川流とのかく執についても、伊藤さん(筆者注:伊藤次郎左衛門)に少なからぬ御迷惑をお掛けしている。『そんな事があるなら、なぜ表立って彼れ之れ云ふ前に、一言わしに相談せんか』と云はれると、全く一言もない。
が、それにも関はらず、私は今以て、―西川流の人々が芸術上の争ひに、芸術上の理想とは何等の関係なき他の権力または情実を利用せんとするが如き、卑劣の行動を中止せざる限り―絶対に私の態度を改めようとは思わない。何となればそれは小にして中京文化の後退であり大にして日本の国家を危うくする事大思想の奨励となる恐れがあるからだ。(後略)
実際に西川流が糸を引いていたのかはわからないが、これまでにも各派合同の舞踊会に、花園社中だけオミットされるなどの嫌がらせも受けていたようだ。それほど花園歌子の新民踊が名古屋の芸妓に及ぼしていた影響が大きかった証左であろう。
花園歌子の名古屋での活動を追えるのは、1934(昭和9)年あたりまでで、1935(昭和10)年秋には、黒瀬春吉とともに満蒙に向かったことから、それ以前には名古屋を離れていたはずである。二人はそのままパリを目指す計画であったようだが、満蒙公演中の1936(昭和11)年4月末に黒瀬が客死したため、同年6月に帰国。その後は、東京に活動の拠点を戻し、1941(昭和16)年に正岡容と再婚。戦後は花園流を創始して花園環伎と改名、舞踊家として流儀の発展に尽くし、1982(昭和57)年7月4に死去した。
歌子が満蒙から帰国した後、1936(昭和11)年10月15日に名古屋新聞会館で開かれた帰朝公演では、支那土産の新作を披露し、馴染み深い花柳界の人たちをはじめ客席は満員だったという。ダンス禁制の中でダンスの普及に奮闘した花園歌子は、名古屋のダンス流行史を語るうえで欠かせない存在であることは間違いないだろう。
(この回、⑦に続く)
[注1]1932(昭和7)年7月16日『名古屋新聞』
[注2]1932(昭和7)年9月8日『新愛知』
[注3 ]『大衆文学研究 第二十一号 特集・正岡容』において、正岡容の弟子であった橘家圓太郎は、正岡容と1934(昭和4)年春に初めて出会い、その秋に新守座の支配人加藤博から漫談を主とした一座の公演を依頼され花園歌子がその一座に加わったと述べており、巻末の年譜では1929(昭和4)年秋に「名古屋新守座で文芸落語を口演する」と記されている。しかし、新守座では1934(昭和4)年10月1日から長谷川玉子の佐渡おけさ公演が行われた時に正岡容が客演しているが、花園歌子はこの公演には参加しておらず、混同した可能性がある。
[注4]1932(昭和7)年8月8日『名古屋新聞』
[注5]1933(昭和8)年7月26日『名古屋新聞』
〈見出し画像〉
1933(昭和8)年6月23日『新愛知』
新愛知新聞社主催「演芸の夕」に出演した花園歌子社中の新民踊八木節の写真
〈参考文献〉
永井良和『ジャズとダンスのニッポン』2024年 関西大学出版部
奥田助七郎『名古屋築港誌』1953年 名古屋港管理組合 国会図書館デジタルコレクション
「仲介業務法の立案者 国塩耕一郎(1)〜(4)」『コピライト No.327 Volume28 Number3〜6)』1988年6月〜9月 社団法人著作権資料協会 国会図書館デジタルコレクション
人事興信所編『人事興信録 第15版』1948年 人事所 国会図書館デジタルコレクション
花園歌子『芸妓通』1930年 四六書院 国会図書館デジタルコレクション
花園歌子『新民踊 第二回紙上公演』1934年 黒瀬春吉 国会図書館デジタルコレクション
北原まり子「戦前日本における《春の祭典》を踊る三つの試み E.リュトケヴィッツ(1931)、花園歌子(1934、F.ガーネット(1940))」『早稲田大学大学院研究紀要 第3分冊』2014年
『大衆文学研究 第二十一号 特集・正岡容』1967年 南北社
山口昌男『「敗者」の精神史(下)』2005年 岩波現代文庫
大阪朝日新聞『大阪朝日新聞』
新愛知新聞社『新愛知』
名古屋新聞社『名古屋新聞』
〈参照WEB〉
ことぶき『遊廓のモダン化【NAKAMURA1932】』
