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戦前名古屋におけるジャズの普及展開(4)昭和最初期の名古屋のジャズ公演状況〜日本人音楽家のジャズ公演について①



前回では、河合ダンスが昭和初期から名古屋のジャズ普及に大きな貢献を果たしていたことを明らかにした。然しながら、彼女たちの本業はあくまでダンスであり、ジャズバンド演奏は(それなりに高度な演奏技術を身に着けていたものの)ダンス演技の合間に演目の一部として披露していたに過ぎない。名古屋における専門のジャズバンドの公演としては、既に論じたところでは、1922(大正11)年にカリフォルニア大学グリークラブ、1927(昭和2)年にカールトンジャズバンドの公演などがあったが、いずれも海外から招聘した音楽家によるもので、日本人によるジャズバンド公演はなかった。

当時、日本のジャズバンドの主戦場はダンスホールや映画館のアトラクションなどであった。劇場やホールでの音楽公演はクラシック系が中心で、ジャズバンドの公演はあまり多くないが、東京では大正末期から昭和初期にかけて、法政大学のラカンサン・ジャズバンドや慶応義塾大学のレッド・エンド・ブルー・ジャズバンドなど、学生バンドが日本橋の三越ホールで行った演奏会あたりが嚆矢とされる[注1]。専門のジャズバンドが存在しなかった名古屋では、東京や大阪などからジャズバンドがやってきて、名古屋の人たちに「本物の」ジャズを聴かせる機会を提供した。それでは、どのような人たちが名古屋でジャズ公演を行っていたのだろうか。本稿では、概ね1930(昭和5)年までの昭和最初期に、名古屋で行われたジャズ公演を追うことにしたい。


関西パブリックジャズオーケストラ


当時の新聞で調べた限り、名古屋で日本人による専門ジャズバンドの公演として最初に確認できるのは、1928(昭和3)年7月28日、新守座で開催された関西パブリックジャズオーケストラの公演と考えられる。1928(昭和3)年7月25日の名古屋新聞に、「関西パブリックジャズバンド来る 近日新守座に」の見出しで、告知記事が掲載されている。

ジャズ音楽の権威関西パブリックジャズオーケストラ協会は創立以来行詰まれる音楽界に一新生面を開拓せる熱と力の革命的音楽団で、軽快なるニユウヨーク・ブラックボトーム、華やかなるジャズシンホニー、オーケストラジャズ気分、それは近代が産みし代表的なるもので、近来世界の音楽界に一大センセーションを捲き起こしたるジャズ音楽は切実に我等の魂に沁み入る生命のカクテール一杯に外ならぬ。今度協会員廿数名ジャズ普及演奏の第一歩を当市に踏入ることになり道頓堀の赤玉とユニオンの踊り子の美女数名を加へ華やかにも狂はしきチャールストンダンス、タンゴダンスを観せる

1928(昭和3)年7月25日『名古屋新聞』

関西パブリックジャズオーケストラは、同年7月27日に大阪でJOBKの昼のラジオ放送に出演、その翌日に名古屋に乗り込み、新聞社への挨拶回りをしてからその日の新守座での公演に臨んでいる。舞台背景は、当時未来派の画家として名を馳せていた前衛美術家の渋谷修が担当した。当日のプログラムは、7月27日の名古屋新聞には以下のように紹介されている。

(A)1.ホエンラスタスブイレ(トロット)2.マグノリヤスブリュー(トロット)3.ハワイよさらば(トロット)4.セビーラ(グレイテストテンポトロット)5.マイリットルネスト(トロット)
(B)ファストナショナル社特作チャーレス・ムーレイ、ジョジナ・ラルストン甘い親父
(C)(スモールメンバー)1.スヰートチャールド2.ザトマイベビー(トロット)3.ハッピー4.ベビーフィス5.どほとんぼりマーチ
(D)1.(選曲未定)2.チャーレストスダンス(フー)3.(未定)4.ミブロダンス(インデアン)5.(未定)6.タンゴダンス7.(未定)8.モンパリ9.(未定)

1928(昭和3)年7月27日『名古屋新聞』

このプログラムから推測すると、当公演は四部構成で、一部と三部にジャズ演奏を配し、二部にファースト・ナショナル社が製作したチャーリー・マレイ主演のコメディ映画「甘い親父」の上映を挟み、最後の四部がおそらく赤玉やユニオンの踊り子たちによるダンスパートであったと思われる。この3ヶ月前に名古屋ではダンスホールが全て閉鎖になったばかりで、ジャズの生演奏をバックに華やかに踊るダンサーの姿に、ダンス好きの観客はステージに上がって踊り出したくてウズウズしていたのではないだろうか。

関西パブリックジャズオーケストラの面々
1928(昭和3)年7月31日『新愛知』

新守座公演の後も、関西パブリックジャズオーケストラは暫く名古屋に留まっており、新舞子演芸場での「ジャズ・ダンスの夕」に出演したり[注2]、7月31日には名古屋のJOCKでフォックストロットやタンゴ、道頓堀行進曲などを演奏している。

この関西パブリックジャズオーケストラであるが、日本のジャズ史に関するどの文献にも全く言及がなく、メンバー等の実態が何も掴めない。唯一の手がかりとしては、1928(昭和3)年10月21日にJOCKで「パブリックジャズバンド」によるジャズミュージックの放送があり、新聞のラジオ番組欄に指揮者として大西一栄の名前が記されていることだ[注3]。大西一栄は、『日本映画年鑑 大正13・4年度』に掲載された全国映画館の楽士名簿に京都歌舞伎座の楽士として名前がみえ、それによれば、大西は1898(明治31)年3月22日松山市生まれ、松山中学校卒で、松竹管絃楽団に所属(担当はトロンボーン)とある。

また、大森盛太郎『日本の洋楽1』に、上海で活躍した日本人ジャズ演奏家の代表的な人物に「大西栄(一夫)」というドラマーがいて、京都新京極の歌舞伎座で1923〜24(大正12〜13)年ごろに映画伴奏音楽、休憩奏楽の演奏をした後、1925(大正14)年に上海に赴いたとの記述がある。担当している楽器に食い違いはあるが、経歴や名前の類似性から、大西一栄と同一人物とみて間違いない。パブリックジャズバンドが関西パブリックジャズオーケストラと同一かどうかは判然としないところはあるが、大西が関西ゆかりの人物であることを踏まえると、その可能性は十分考えられるだろう。

その大西の人となりについて、大森盛太郎は以下のように『日本の洋楽1』で述べている。

(前略)大西栄は、眼鏡をかけた、小柄の体躯であったが、度胸もよく筋道を通す世話好きな男であった。日本からジャズ音楽の修行のため、上海に渡ったジャズ演奏家は、ほとんど彼の世話になっている。日本人からはもちろん、フィリピン人、中国人のジャズ演奏家の多くからも「大西のシーさん」と呼ばれ人望が厚かった。(後略)

大森盛太郎『日本の洋楽1』

このように、大西一栄は上海でジャズ演奏家として大きな足跡を残しているが、1927(昭和2)年頃には大阪のユニオンで井田一郎のチェリーランド・ダンス・オーケストラにドラマーとして参加しており、1929(昭和4)年には東京で新宿ダンスホール(後の国華ダンスホール)のバンドリーダーをした後、杉原泰蔵とともに上海に渡っている[注4]。大西が名古屋に来たのはちょうどその間にあたることから、1927〜29(昭和2〜4)年は主に日本で活動していたものと思われる。

パブリックジャズバンドは、1928(昭和3)年10月30日にもJOCKのラジオ番組に出演しているが[注5]、関西パブリックジャズオーケストラも含め、その後の活動の痕跡は見当たらない。おそらく、ジャズの普及を目的に、関西の映画館やダンスホール、カフェーなどでジャズを演奏していた楽士を一時的に寄せ集めた集団ではないかと推測されるが、名古屋で初めて本格的なジャズ公演を行った日本人ジャズバンドとして、その名を刻んでおきたい人達である。

慶応大学レッド・エンド・ブルー・ジャズバンド

関西パブリックジャズオーケストラの公演から約1ヶ月後、8月22日に慶応大学レッド・エンド・ブルー・ジャズバンドの公演が同じく新守座で開演されている。当日の名古屋新聞は、「新守の慶大バンド 松竹女優も出演」の見出しで公演予告を下記のように伝えている。

慶大ヂャズバンドは今夕七時より新守座にて開演。第一部は此バンドがコーチなるカイ氏のギター独奏、平岡氏の木琴独奏が第二部チヤーニーズノベルチヤ得意の狂乱曲にチャールストンの合奏並びにピアノ独奏尚松竹蒲田のスター八雲恵美子、日置百合繪、小桜葉子らの挨拶、横尾泥海男の漫談あり一層の興を添ゆる由(後略)

1928(昭和3)年8月22日『名古屋新聞』

法政大学のラカンサン・ジャズバンド、立教大学のハッピー・ナイン・ジャズバンドなど、ジャズ黎明期に存在感を示した学生バンドの中で、慶応大学のレッド・エンド・ブルー・ジャズバンドは、日本のジャズソング第一号としてレコード史に燦然と輝く「アラビアの唄」を最初に吹き込む(1928(昭和3)年5月新譜、 日本蓄音器商会)など、既に名声を高めていた。メンバーは、ピアノの菊地滋彌をリーダーに、サックスの古賀郁夫、バンジョーの坂井透、ヴァイオリンの福井孝太郎、ドラムスの高橋宣光などで、慶大生以外にも新響からサックスの紙恭輔やトランペットの斎藤広義なども応援メンバーとして加わっていた。

レッド・エンド・ブルー・ジャズバンドは、名古屋公演の2カ月前、1928(昭和3)年6月23日に東京の日本青年館で、この年ハワイから来日し同バンドのコーチ役もつとめていたアーネスト・カアイを客演に招き、木琴奏者の平岡養一、映画監督の牛原虚彦、映画俳優の鈴木傳明、横尾泥海男、関時男、八雲恵美子など松竹の豪華俳優をゲストに迎えた大々的な公演を行っている[注6]。この催しはかなりの評判となったようで、その後も東京各地での公演や、長野、関西方面への地方巡業にまで乗りだしている。新守座での名古屋公演も、京阪での演奏の途次に立ち寄ったものと思われる。

新守座入口の様子
1926(大正15)年12月10日『新愛知』

松竹映画俳優とのタイアップは、レッド・エンド・ブルー・ジャズバンドの練習場が松竹の蒲田撮影所の側にあり、俳優たちがよく遊びにきていたことからの繋がりであるようだ[注7]。八雲恵美子、日置百合繪、小桜葉子(加山雄三の母)などのスター女優を引き連れて、ジャズを軽やかに演奏する学生バンドの姿は流行の最先端をいくモダンボーイそのもので、名古屋の若者たちにはさぞかし眩しく映ったことであろう。

新守座出演の蒲田女優3人の写真記事
上から八雲恵美子、日置百合繪、小桜葉子
1928(昭和3)年8月21日『新愛知』


名古屋出身メンバーのいた学生バンド


レッド・エンド・ブルー・ジャズバンド以外の学生バンドについては、立教大学のハッピー・ナイン・オーケストラが、1928(昭和3)年9月5日に来名し、JOCKでラジオ放送を行っている[注8]。この放送は、天野喜久代、宇津美清の独唱付きで、ニットーレコードの新譜発売に合わせた宣伝(但し、レコードでは宇津美清ではなく二村定一)を兼ねたものと思われるが、ラジオ出演のみで公演は行った様子はない。

レッド・エンド・ブルー・ジャズバンドと並び、学生バンドの雄とされている法政大学のラカンサン・ジャズバンドに関しては、名古屋を訪れた形跡はない。しかしながら、ラカンサン・ジャズバンドに名古屋出身のメンバーがいたことはあまり知られておらず、余談にはなるが、ここで詳しく紹介しておきたい。

1930(昭和5)年1月23日『名古屋新聞』に掲載された「一九三〇年型当世娘節用」と題したシリーズ記事の中で、富長たつ子というモダンガールが登場している。彼女は、名古屋市長塀町で土木請負業を営んでいた冨長覺了(富長組、1897(明治30)年開業)の愛娘と紹介されており[注9]、そのたつ子へのインタビュー中に、下記の記述がある。

(前略)「夫への理想は私の場合すこぶる複雑です。背が白人種ほど高く色がワイズミューラーほど日にやけデムプシーのやうに健康であらねばなりません旅行はむろん好きで音楽が判ってほしい。そのひとつの條件でも欠けてはなりません。ことに音楽の理解に欠けたら私の場合にその男性は致命傷を持った対称です」たつ子さんの兄さんは職業ジャズ・バンドをしのぐとさへいはれる法政ジャズ・バンドのメンバーだ。しかもたつ子さんはソプラノでピアニストだ(後略)

1930(昭和5)年1月23日『名古屋新聞』

毛利眞人によれば、ラカンサン・ジャズバンドのメンバー(外部からの応援者は除く)は、トランペット=渡辺良・富永一郎・小畑光之、サックス=久留島仁・橋田胖・丸山某、トロンボーン=兵藤良吉、ピアノ=山下一郎、バンジョー=渡辺廉、ギター=石川虎次、フルート=丸山某、ベース&チューバ=重信常義、ヴァイオリン=青山菊三・水野尚親、コーラス=赤羽武夫、ドラムス・ヴォーカル・アレンジ=作間毅である[注10]。この中で、富長たつ子の兄である「法政ジャズ・バンド」のメンバーと考えられるのは、トランペットの富永一郎であろう。富永に関しては、1925(大正14)年に日本橋三越で行ったラカンサン・ジャズバンドの第一回演奏会に出演していること以外、ほとんど情報のない人物であるが、名古屋で土木請負業をしている会社の社長の息子であったということになる。

富長たつ子のインタビュー記事
1930(昭和5)年1月23日『名古屋新聞』


この富永一郎であるが、戦前の『商工資産信用録』を確認したところ、1933(昭和8)年版までは富長覺了が記載されている箇所が1934(昭和9)年版から「富長健一」に名前が変わっていることや、『大衆人事録』でたつ子を「愛知県富永健一妹」(富永は原文ママ)と記していることから[注11]、本名は富長健一と思われる。富長組は、1934(昭和9)年頃、富長健一が引き継いだのであろう。

さらに、富長健一に関しては、『愛知県警察史第3巻』の中で、1949(昭和24)年に創設された名古屋市警察音楽隊に関して興味深い記述がある。

昭和二十四年一月、警察職員の士気の鼓舞と防犯活動の推進をめざし、名古屋市警察局に名古屋市警察音楽隊が設置された。中部日本新聞社の好意により、必要な楽器一式の寄贈を受け、所属員の推薦する警察官のなかから隊員十七人を選抜、教養課の所管のもとに運営された。指導教育には、昭和警察署の通訳員富長健一と楽長の経済防犯第二課の巡査佐々木千万亀があたった

『愛知県警察史 第3巻』

名古屋市警察音楽隊の創設時、指導教育にあたった人物の一人が富長健一だったという。この富長については「昭和警察署の通訳員」とあるだけで、富長組の富長健一かどうかはっきりしたことはわからないが(佐々木千万亀は、陸軍軍楽隊出身との記載がある)、ラカンサン・ジャズバンドでトランペットを吹いていた富長であれば音楽隊の指導は当然できたはずであり、戦後、富長組を廃業して、たまたま昭和警察署で通訳員をしていた富長健一に白羽の矢が立ったと考えてもおかしくはないだろう。

名古屋市警察音楽隊
1949(昭和24)年1月11日『中部日本新聞』

名古屋市警察音楽隊は、1955(昭和30)年に愛知県警察音楽隊に改称され、現在も防犯や警察の広報活動などを中心に積極的な活動を続けている。ラカンサン・ジャズバンドは、鉄仮面などの変名でジャズソングのレコード吹込を行い法政大学管弦楽団(現在の法政大学交響楽団)の指揮者も務めた作間毅、コロンビア・ジャズ・バンドの楽長としてコロンビアレコードに多くの吹込を遺した渡辺良、榎本健一のエノケン一座の楽団で活躍した津田純(久留島仁)などを輩出したことで知られるが、現在まで存続する地方の警察音楽隊の創設に関わっていたメンバーもいたかもしれないということは、日本の洋楽普及を語るうえでの新たな視点を提供してくれるのではないだろうか。

(この回、②へ続く)


[注1]瀬川昌久『ジャズで踊って 舶来音楽芸能史』、毛利眞人『ニッポン・スウィングタイム』によれば、1925(大正15)年、1926(昭和2)年にラカンサン・ジャズバンドが、1928(昭和3)年1月9日にレッド・エンド・ブルー・ジャズバンドが、いずれも日本橋の三越ホールで演奏会を行っている。
[注2]1928(昭和3)年7月30日『名古屋新聞』
[注3]1928(昭和3)年10月21日『新愛知』 。 「アラビアの唄(トロット)」など他六曲を演奏している。
[注4]内田晃一『日本のジャズ史 戦前・戦後』
[注5]1928(昭和3)年10月30日『新愛知』 。和洋器楽合奏で、「奴さん」、「奉祝歌」、「描写曲歓楽」、「ドリゴのセレナーデ」、「オールドロングザイン」を演奏している。
[注6]毛利眞人『ニッポン・スウィングタイム』、瀬川昌久『ジャズで踊って 舶来音楽芸能史』
[注7]内田晃一『日本のジャズ史 戦後・戦後』
[注8]1928(昭和3)年9月5日『新愛知』 によれば、曲目は「カティンカ」「リオ・リタ」「ハレルヤ」「青空」「アディオ」「フー?」「バルセロナ」などを放送している。
[注9]富長覺了は、天竜川水系のダムで現在も運転している長野県の泰阜発電所の建設(清水建設の下請、1935(昭和10)年竣工)などに携わっている。
[注10]毛利眞人『ニッポン・スウィングタイム』
[注11]富長たつ子が嫁いだ神戸の貿易商である祭原幸夫の項。祭原幸夫は、祭原商店取締役であった祭原源治郎の二男。祭原商店は、明治初期に創業され、大阪の老舗食料品問屋として知られたが、2002(平成14)年に菱食(現在の三菱食品)に経営統合された。

〈見出し画像〉
新守座正面入口の写真(筆者所蔵の絵葉書)

〈参考文献〉
瀬川昌久『ジャズで踊って 舶来音楽芸能史』2005年 清流出版
毛利眞人『ニッポン・スウィングタイム』2010年 講談社
アサヒグラフ編集局編纂『日本映画年鑑 大正13・4年度』1925年 東京朝日新聞発行所 国会図書館デジタルコレクション
大森盛太郎『日本の洋楽1』1987年 新門出版社
内田晃一『日本のジャズ史 戦前・戦後』1976年 スイング・ジャーナル社
田中一編『矢作水力株式会社泰阜発電所建設記録』1938年 土木建築資料新聞社 国会図書館デジタルコレクション
『商工資産信用録』第三十四回 愛知県ほか』1933年 商業興信所
『商工資産信用録』第三十五回 愛知県ほか』1934年 商業興信所
帝国秘密探偵社編『大衆人事録 第十四版 近畿・中国・四国・九州編』1943年 帝国秘密探偵社 国会図書館デジタルコレクション
人事興信所編『人事興信録 第十一版 改訂版 上』1938年 人事興信所 国会図書館デジタルコレクション
帝国興信所編『帝国信用録 第弐拾四版』1931年 帝国興信所 国会図書館デジタルコレクション
愛知県警察史編集委員会編『愛知県警察史 第3巻』1975年 愛知県警察本部 国会図書館デジタルコレクション
『新愛知』新愛知新聞社
『名古屋新聞』名古屋新聞社

〈参照WEB〉
『清水建設歴史資料館』「ヘリテージ 第12回 矢作水力泰阜発電所」
『日本食糧新聞』2001年10月10日「菱食、祭原と来年12月に経営統合、西日本の販売体制を一挙に強化」
『愛知県警察音楽隊』 「音楽隊のあゆみ」
『法政大学交響楽団』 「当団のあゆみ」









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