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戦前名古屋におけるジャズの普及展開(3)ダンスの流行と取締の攻防史⑧




(前回の続き)

カフェーのジャズバンド復活


国塩耕一郎は、1935(昭和10)年2月1日に警視庁保安課長へ異動となった。2年半の愛知県保安課長在任中、名古屋のダンスホール許可は実現しなかったが、2つの大きな仕事を成し遂げている。一つは、長年無秩序状態にあった私娼の取締問題で、名古屋を代表する大曽根私娼街の一斉移転を実現したことである。私娼を日常の生活空間から引き離し、城東園という新たに建設した歓楽街に囲い込むことで、事実上行政の管理下に置いたのである。もう一つは、中村遊郭を「旭楽園」に改称し、娼妓は前借を廃止して束縛から解放し、自由意志で商売する「園妓」として新たに雇用する改革案を内務省に建議したことである。この改革案は結局実現しなかったが、全国に先駆け公娼制度の廃止を目指したもので、画期的な目論みであった。後年の著作権問題に対する実績からみても、国塩自身は有能な官吏であったことは間違いないだろう。

もう一つ、あまり知られていないが、国塩は退任の直前、カフェーのジャズバンド演奏を5年ぶりに復活させている。すなわち、1934(昭和9)年12月26日、県令第88号によって発令された「料理屋、飲食店、カフェー及喫茶店営業取締規則」の制定(1935(昭和10)年2月1日施行)である。この取締規則は、従来の酌婦取締規則や料理屋待合茶屋取締規則に比べて、カフェーと喫茶店、料理屋と飲食店の差異を明確にし、酌婦は「給仕婦」に名称を変え、免許制度を廃し届出のみで可としたことが画期的とされた。それ以上に、特に注目されたのは、カフェーでの歌唱や奏楽も認めたことであった。全文は非常に長いため、本稿の主題に関わる条文のみを抜粋して紹介する。

第二条 本令ニ於ケル用語ハ左(筆者注:下、以下同)の例に依ル
一 料理屋営業ト称スルハ和式ノ客室又ハ客席ヲ設ケ給仕婦ヲ使用シ飲食物ヲ客ニ供スルモノヲ謂フ
二 飲食店営業ト称スルハ和式ノ客室又ハ客席ヲ設ケ給仕婦ヲ使用セズシテ飲食物ヲ客ニ供スルモノヲ謂フ
三 カフェー営業ト称スルハ洋式ノ客室又ハ客席ヲ設ケ給仕婦ヲ使用シ飲食物ヲ客ニ供スルモノヲ謂フ
四 喫茶店営業ト称スルハ洋式ノ客室又ハ客席ヲ設ケ給仕婦ヲ使用セズシテ主トシテ簡易ナル飲物(酒類ヲ除ク)菓子又ハ果物ノ類ヲ客ニ供スルモノヲ謂フ
五 客席トハ混合席ヲ謂ヒ客室トハ混合席に非ザルモノヲ謂フ
六 給仕婦トハ客室又ハ客席ニ於テ客ニ飲食ノ接待ヲ為ス者ヲ謂フ

第十九条 営業所ノ構造設備ハ他ノ法令ノ規程に依ルノ外左ノ制限に従フベシ
十 社交舞踊場を設ケザルコト

第二十五条 料理屋営業ノ外芸妓ノ招聘ヲ為シ又は為サシムルコトヲ得ズ

第二十六条 営業所ハ左ノ事項を遵守スベシ
十四 付近ニ迷惑ヲ及ボスガ如キ喧噪ニ渉ル行為ヲ為サシメ又ハ高声ナルラヂオ、蓄音器、楽器等ヲ使用シ若ハ使用セシメザルコト
十五 給仕婦ヲシテ舞踊ヲ為サシメザルコト
十六 料理屋営業者ニ在リテハ給仕婦ヲシテ歌唱又ハ奏楽セシメザルコト

第二十八条 給仕婦ハ就業中左ノ事項ヲ遵守スベシ
一 舞踊ヲ為サザルコト
七 料理屋営業所ニ於テ歌唱又は奏楽ヲセザルコト

『愛知県公報 第八一九号』 1934(昭和9)年12月26日

第二十六条、二十八条において、歌唱や奏楽について料理屋は禁止すると明記されたが、カフェー、飲食店、喫茶店に関しては言及がなく、料理屋以外はお構いなしとされた。これにより色めき立ったのは、1929(昭和4)年5月の通達以来、ジャズバンド演奏を禁止されていたカフェー界であった。中でも、ジャズバンド演奏を待ち望んでいたのはグランド・カフェーで、広小路のコロンビア、岩井町のモンパリ、大須の銀座コンパル、南園町の孔雀は「やる時は同一歩調で」との協定を結び、当初は様子見の姿勢であったが、新規則の施行日が近づいた1935(昭和10)年1月29日、銀座コンパルが協定を破棄し、東京から「東京ニュー・グランド・ジャズバンド」、シンガーに藤村梧郎、林一夫、明石須磨子、林美智子を聘し、2月1日からジャズバンド演奏をやると表明した。

銀座コンパルのジャズバンド導入を報じる新聞記事
(1935(昭和10)年1月30日『名古屋新聞』)

これを聞いたコロンビアは、急遽大阪に飛び、キャバレー・マルタマから専属少女ジャズバンド「マルタマ・ジャズバンド」を2月1日から15日まで借り受けることに成功する。キャバレー・マルタマは、1932(昭和7)年に開店した道頓堀のグランドカフェーで、約100人近くのマルタマ少女歌劇団によるステージショーを売り物にし、彼女たちによるジャズバンド演奏も好評を博した。コロンビアには8名のメンバーが来名し、賑やかにジャズ演奏を繰り広げた。

来名したマルタマ・ジャズバンド
(1935(昭和10)年2月1日『名古屋新聞』)

ついでモンパリは、東京から「帝都M・Pジャズバンド」を招聘し、1日から出演させる。その他にも広小路のカフェーナガタ、針屋町のカフェー・アヅマもジャズバンド競争に参戦(カフェーアヅマは実際には室内楽だったらしいが)するなど、名古屋カフェー界にジャズの嵐が吹き荒れた。

モンパリの新聞広告
(1935(昭和10)年2月1日『新愛知』)

カフェーと芸妓の対立


このジャズ騒ぎは、カフェー間の競争にとどまらず、カフェーのライバルである芸妓側の神経も尖らせた。芸妓置屋組合の役員は、新聞の取材に対して下記のように憤る。

新県令の第二十六条中に給仕婦には舞踊歌唱をしてはいけないと示されているがそれには料理屋の給仕婦と記されカフェー、喫茶店の方は何等触れられていない、そこでカフェーでは勝手にこちらはジャズをやってよいものと解釈して、ジャズをやりかけたやうですが、その解釈通りでよいなれば片手落ちも甚だしいわけですし、これがおよぼす影響は当然考へられることですから対策を考慮せねばならぬ。唄をうたふ位はともかく楽器使用はぜひやめてほしい、もしそれがいけなければ遊興税の撤廃でもして貰ふやうな方法を講じて対抗させて貰はねば困ります

1935(昭和10)年2月2日『名古屋新聞』

新規則は、カフェーに寛大な措置を与える一方、料理屋に対しては歌唱や奏楽を禁止するなど厳しい制限を遺したことから、料理屋を職場とする芸妓側には不満が強かった。さらに、第二十五条「料理屋営業ノ外芸妓ノ招聘ヲ為シ又は為サシムルコトヲ得ズ」は、従来自由であった芸妓のカフェーや喫茶店への出入りも制限するものであったことから、名古屋十三連芸妓の置屋組合連合会は、料理屋以外のカフェー、喫茶店へは一切出入りしないこと、客と同行して入ることや自分がお客として入ることもしないよう芸妓に申し渡した[注1]。この通達をカフェー側は、新規則に反発する芸妓側のカフェーへの嫌がらせ行為とみなした。対抗措置として、新栄署内のカフェー業者は、「十五連妓の芸妓入場御断」の立札を掲げ、芸妓の出入り禁止を宣言したビラを配布するなど、徹底抗戦の構えをみせる[注2]。一時は、全名古屋市のカフェーを巻き込んだ全面戦争に発展することも懸念されたが、警察部長が仲介に入り、両者とも鉾をおさめることになった。ともかくも、1935(昭和10)年2月の名古屋カフェー界は、てんやわんやの大騒ぎだったのだ。

芸妓入場お断りの看板を掲げるカフェー
(1935年(昭和10)年2月10日『新愛知』)

カフェーのジャズ定着と終焉


カフェーの方も、順風満帆というわけではなかった。解禁当初は、各カフェーもお祭り騒ぎの大サービスで大勢のお客が押し寄せたが、こんな状態が長続きするわけもなく、数日で客の入りは元の状態に戻った。そうなると問題になるのはジャズバンドの維持費で、どのカフェーも東京や大阪などから招聘しているため経費が甚大にかかり、早くも2月半ばにはカフェーアヅマがバンド演奏を取り止める。コロンビアも、2月15日にマルタマ・ジャズバンドの契約が終了した後、次のバンドの手配ができずジャズバンド演奏を中止した。このまま、他のカフェーもみんな共倒れを危惧されたが、銀座コンパルとモンパリは何とか持ちこたえ、2月25日にはアヅマがジャズバンド演奏を復活、コロンビアも3月1日から丸山和歌子を招いて新興ジャズバンドの伴奏による新小唄サービスで再開した。さらに、冨澤町のパレス・モナコや東新町の大米亭など、他のカフェーにもジャズバンド設置の動きが波及していく[注3]。

カフェーアヅマのジャズバンド一行
(1935(昭和10)年2月28日『新愛知』)

しかし、ジャズバンドを外部からの招聘に頼ってばかりでは、経費がかかりすぎて持続できないのは一目瞭然で、カフェーが自前でジャズバンドの養成に動きだすのは自然な流れであった。2月末には、コロンビアで少女ジャズバンドを養成しているとの話が伝えられ、カフェーアヅマは、5月28日から給仕婦のジャズバンドをデビューさせる[注4]。また、カフェーはトーキー化により職場を失った映画館の楽士たちの受け入れ先にもなりえた。最終的には、各カフェーとも、次第に専属ジャズバンドを自前で養成する方向に移っていったと思われる。こうして、カフェーのジャズバンド演奏は名古屋でも定着化した。

しかし、行き過ぎたカフェー同士の宣伝戦による共倒れや、ジャズによるダンス気分の誘発を懸念した愛知県保安課は、1937(昭和12)年5月、業者の代表者を呼び出し、カフェーでのジャズバンド演奏をやめるよう勧告を行った。

(前略)享楽戦線の頂角をいくカフェー街の混乱は手段を選ばぬ宣伝戦となり、あまりに激烈でこれではカフェー業者がとも倒れになってしまうといふので、愛知県保安課がのり出し、最近流行の波にのってきたジャズバンドに対して「おたがひに自発的にやめたらどうか」と、十三日業者の代表を同課へ呼び出し、勧告した。現在愛知県下のカフェーでジャズバンドをやっているのは名古屋市内で四軒、豊橋市で一軒、約二年前大阪式カフェーにならって名古屋広小路通のカフェーがバンドを設置したのを最初として盛衰を重ねながらも随所にその亜流を出現させていたもので、業者代表は「一度相談してみます」と回答をまづ保留した(後略)

1937(昭和12)年5月14日『名古屋新聞』夕刊

結局、カフェー業者は5月限りでジャズバンドの廃止を決定する。これを受けて職を失うカフェー楽士たちが愛知県保安課に陳情する騒ぎも起きたが[注5]、決定が覆ることはなかった。2年余りの間、名古屋の巷にジャズの響きをもたらしたカフェーのジャズバンド演奏は、こうして幕を閉じたのであった。

名古屋では戦前を通じて、劇場や映画館のステージ以外に、市中でジャズバンドの生演奏を目にすることができたのは、昭和初期の一時期(昭和3〜4年)を除き、この時期のみであった。国塩耕一郎が退任直前にカフェーのジャズバンド演奏を容認してくれたのは、ダンス解禁を実現できなかったことへの罪滅ぼしの気持ちがあったのかもしれない。

敗戦後のダンスホール復活


名古屋のダンスホール復活は、第二次世界大戦の敗戦と米軍の本土占領という、余りにも大き過ぎる国家的損失と犠牲を経てようやく実現する。

敗戦後、日本に進駐する米軍兵士たちの慰安施設としてダンスホールの整備が求められ、女性ダンサーやジャズバンドが急遽必要となった。名古屋でも、敗戦からわずか一ヶ月後の9月14日から17日までの4日間、県内の有力者5名により設立されたナゴヤクラブが、ダンサー、女給、女子案内人の募集を行い、680名の志願者があったといわれている[注6]。9月26日には、名宝会館(旧名古屋宝塚劇場)で200名を超えるダンサー志願者の稽古を早速開始しているが、半数はダンス未経験者だったらしい[注7]。特にダンサーとして即戦力が期待されたのは芸妓で、10月1日からの2回目の募集案内には、「元芸妓」とはっきり書かれている。これが、名古屋で最初の進駐軍向けキャバレー、松坂屋内「トロカデロ」の開業に繋がる。

新聞に掲載されたナゴヤクラブのダンサー募集案内
(1945(昭和20)年10月1日『中部日本新聞』)

この10月1日の募集案内には、ダンス教師、楽長の名前が既に明記されているのが注目される。ダンスの主任教師である青柳武男は、戦前は神戸ダイヤ倶楽部に在籍し、戦後は日本舞踊競技連盟の東海支局長や愛知県社交舞踊教師協会の会長を務めるなど、名古屋のダンス界の発展に尽くした人物。楽長の菊池滋彌は、慶応大学のレッド・エンド・ブルー・ジャズ・バンドや、東京のダンスホールの雄、赤坂溜池のフロリダでバンドマスターを務めるなど日本ジャズの草創期から活躍した大物である。菊池がトロカデロに所属することになった経緯は、内田晃一『日本のジャズ史 戦前戦後』で触れられている。

愛知県渥美町に疎開していた菊池滋弥は、昭和二十年十月のある日焼け跡だらけの名古屋の街をぼんやりと歩いていた。そこで目にしたのが、電柱に張ってある「バンドマン急募」の張り紙だった。さっそく米軍専用クラブ「トロカデロ」(松坂屋七階)の事務所に行って、「ピアニストだが使ってもらえないだろうか」と申し出た。戦前、溜池「フロリダ」で日本一のバンドを指揮した菊池の出現にビックリした支配人は、バンド編成の一切を彼にまかせた。そして東京・京都と、戦前の仲間を探し歩いた菊池は、十一月にはフル・バンドの結成にこぎつけた。高見友祥(アルト・サックス)、周東勇(トロンボーン)、属英夫(ドラムス)、ゼリー栗栖(ギター)らおなじみの戦前派ジャズメンのほか、名古屋在住プレイヤーを加えた編成である

内田晃一『日本のジャズ戦前戦後』

菊池がトロカデロに雇ってほしいと願い出たのは「昭和二十年十月のある日」とのことだが、10月1日のダンサー募集の広告に菊池の名前が既にあることから、実際には9月ではないだろうか。バンドメンバーは、菊池と同様にジャズ草創期からの長いキャリアを誇る高見友祥、満州での活躍で知られる周東勇、吉本興業のザツオン・ブラザーズの一員であったゼリー(ジェリー)栗栖など、錚々たる面子を揃えた。名古屋では、篠原正雄が楽長を務めていた頃の松竹座ジャズバンド以来の強力な布陣といって良いだろう。

1945(昭和20)年11月18日、松坂屋にトロカデロが開店したのを皮切りに、大須万松寺のキャバレー・トキワ(元常磐劇場→常磐館→常磐館花月ニュース劇場)、針屋町の名古屋国際会館(元浪越演舞場)、納屋橋のキャバレーフジ、築地のポートナゴヤ、広小路のキャバレー赤玉といった六つのダンスホールが、12月から翌年1月にかけて続々と開業した。これらのダンスホールは全て進駐軍専用で、日本人の入場は許されていなかったが、駐留する兵士たちの人数に比べてダンスホールの数が明らかに過剰であったことから、1946(昭和21)年3月末、トキワとトロカデロを除き、閉鎖が決定された。閉鎖されたダンスホールは、ダンサーたちの警察部長への嘆願により、日本人向けのダンスホールとして存続することになった。トロカデロも、同年5月11日に日本人及び一般外国人向けのホールに転身し、店名を「キャバレー麗都」に改名する。

キャバレー麗都の広告
(1947(昭和22)年『映画サロン 第二巻第六号』)

こうして、1928(昭和3)年4月に愛知県でダンスホールが禁止されてから18年後、名古屋の人々もダンスホールで自由に踊れるようになった時がようやく訪れたのであった。戦前、当局に睨まれ続けながらもダンスの自由を求めて闘った人達は、この時をどのような思いで迎えたのだろうか。

(この回、終わり)


[注1]1935(昭和10)年2月2日『名古屋新聞』
[注2]1935(昭和10)年2月10日『新愛知』
[注3]1935(昭和10)年2月26日『名古屋新聞』。「カフェー非常時」の記事中に、「富澤町のパレス・モナコがフィリッピン人のジャズを招聘する手筈だといふし、東新町の大米亭も準備している」とある。
[注4]1935(昭和10)年5月28日『名古屋新聞』
[注5]1937(昭和12)年5月16日『新愛知』、『名古屋新聞』
[注6]粟屋憲太郎/川島高峰編集・解説『国際検察局押収重要文書① 敗戦時全国治安情報 第5巻』所収、愛知県知事への調査報告書
[注7]1945(昭和20)年10月1日『中部日本新聞』

〈見出し画像〉
1935(昭和10)年3月14日『新愛知』十一屋の春雑貨優選会での余興のジャズバンド演奏

〈参考文献〉
愛知県警察史編纂委員会編『愛知県警察史 第2巻』1973年 愛知県警察本部 国会図書館デジタルコレクション
『愛知県公報 第八一九号』
木下弥三郎 『奔馬の一生』1976年 出帆社 国立国会図書館デジタルコレクション 
大谷晃一『おんなの近代史 風雲を生きた五六人の証言』1972年 講談社
下村澪子主催『ダンス時代 第五十七号』1947年12月 ダンス時代社 国会図書館デジタルコレクション
海藤守『舞踏の美』1962年 徳間書店 国会図書館デジタルコレクション
粟屋憲太郎/川島高峰編集・解説『国際検察局押収重要文書① 敗戦時全国治安情報 第5巻』1994年 日本図書センター 国会図書館デジタルコレクション
内田晃一『日本のジャズ史 戦前戦後』1976年 スイング・ジャーナル社
青木深『めぐりあうものたちの群像 戦後日本の米軍基地と音楽1945―1958』2013年 大月書店
『テラス 第一巻第四号』1946年5月 テラス社
『映画サロン 第二巻第六号』1947年6月 戯場社
新愛知新聞社『新愛知』
名古屋新聞社『名古屋新聞』 
中部日本新聞社『中部日本新聞』

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