戦前名古屋におけるジャズの普及展開(2)映画館の奏楽について〜千歳劇場と松坂屋音楽隊④
(前回の続き)
NGYジャズバンドとチトセジャズバンド
昭和に入りジャズの流行が拡がりをみせる中、千歳管絃楽団もジャズへの取り組みを加速させていく。ラジオ放送への出演状況を通じて、その動きを追っていくことにしたい。
1927(昭和2)年に入ると、ラジオでジャズバンドの出演が増えてくる。特に出演が多いのは「NGYジャズバンド」で、1927(昭和2)年1月11日のJOCKに、「何ですか」「行けよ」「無表情な軍人の観兵式」の3曲のフォックストロットの他、ワンステップ「帰宅するまで」など5曲を演奏。次に、同年2月24日の放送で、「インデアン部落の夜明」「ミシシッピ河を下る」「アメリカ人の喇叭手」「彼女の腕に抱かれたい」「片思ひ」「キャラバン」の6曲を演奏した。その後、4月5日、4月21日、8月15日、8月29日、9月12日、10月23日、11月1日、12月1日まで、1927(昭和)2年にJOCKでジャズが放送された12回のうち10回に出演している[注1]。逆に、前年までジャズ放送の出演が多かった松坂屋音楽隊の出演は見られない[注2]。
このNGYジャズバンドは、1931(昭和6)年11月5日『名古屋新聞』のラジオ番組欄に「昼の時間に出演されるNGYジャズ・バンドの方々、これは千歳劇場音楽部のベスト・メンバーの別称です」との説明があり、千歳管絃楽団の楽士による放送用の匿名バンドであったことが判明した。

(1931(昭和6)年11月5日『新愛知』)
翌1928(昭和3)年になると、NGYジャズバンドではなく、千歳劇場でも使用した「チトセジャズバンド」でのラジオ出演が増えている。チトセジャズバンドは、1927(昭和2)年11月18日、千歳劇場の休憩奏楽で「総てを貴女に縋る」「おもちゃの兵隊の観兵式」を演奏したのが初めてだと思われる。この日は、千歳劇場が松竹キネマの封切館に復活した日であるとともに、篠原正雄が名古屋松竹座に移籍したタイミングと重なっており、新しいイメージ作りを狙ったのかもしれない。

(1927(昭和2)年11月18日『名古屋新聞』)
ラジオでは1928(昭和3)年4月28日の出演が最初で、フォックストロット「ソーダ・ソーダ・ソーダ」「私は時期を待とう」「小さい桃」「皆さん左様なら」など7曲を披露している。その後、5月23日にフォックストロット「時を打つ」「キャラバン」など7曲、8月24日にフォックストロット「ハレルヤ」ワンステップ「愉悦」など6曲、9月18日にフォックストロット「ティティナ」「ワーリングブリュウス」など7曲、10月10日にフォックストロット「ローズマリー」タンゴ「アルゼンチンの鐘」など7曲を、それぞれ演奏している。
この時期の千歳管絃楽団のメンバーは明確でないが、新聞広告で確認する限り、中山義雄、後藤義行、山盛清吉、近藤練一、荒井亀二、岡本清峰らの名前が見える。この内、篠原正雄が名古屋松竹座に移籍した後、楽長を務めていたのは中山義雄と思われる。
中山義雄は、1900(明治33) 年10月16日名古屋市生まれ。上野音楽学校を中退後、1911(明治44)年3月に松坂屋少年音楽隊の第一期募集に応募し、入隊した。松坂屋少年音楽隊を卒業した後、1916(大正5)年6月に海軍軍楽隊に入隊し、クラリネットを担当。軍楽隊を除隊後、千歳劇場の楽士になり、千歳管絃楽団発足時からの最古参として楽長の宮島島吉らを支えていた。
中山の千歳劇場の在籍期間は定かでないが、1933(昭和8)年にJOBK(大阪中央放送局)の管絃楽団に所属しており、その頃には千歳劇場を辞していたようだ。1934(昭和14)年には、JOCKの職員として再び名古屋に戻っている。

(1938(昭和13)年5月19日『名古屋新聞』)
後藤義行も、中山義雄と同期の松坂屋少年音楽隊の第一期メンバーで、武石みどりの論文『1910〜20年代の船の楽士:国内の洋楽受容・分化との関連』によれば、1919(大正8)年から1924(大正13)年の間に、船上楽士として米国航路の客船に20回乗船している。その後千歳劇場の楽士となり、中山が去った後に楽長を務めていた時期もあったようだ[注3]。
中山、後藤とも、千歳劇場だけでなく松坂屋管弦楽団の一員として活動するとともに[注4]、戦後はNHKの名古屋放送管弦楽団に所属した。特に、中山は軽音楽の指揮者として知られた他、東海吹奏楽連盟の理事長を務めるなど、名古屋の音楽界の発展に尽くした。
なお、千歳管弦楽団は、アサヒ蓄音器商会にレコードを何枚か残しており、筆者はその内、「琉球節/梅は咲いたか」(ツル2347)を所蔵している[注5]。録音時期は、レコード番号から推定すると、篠原正雄が去った後の1928(昭和3)年頃と思われる。演奏内容は、和洋合奏の雰囲気がある調和楽で、現代の演奏水準とは比べものにはならないものの、当時の映画館の奏楽の雰囲気を感じられる貴重な録音となっている。

(筆者所蔵)
後年の千歳劇場とその終焉
千歳劇場の旺盛な音楽活動は、この1927〜1928年あたりがピークで、この後、他の映画館と同様、不景気とトーキーの影響を受けるようになってくる。高級洋画館として華やかなイメージの千歳劇場も経営成績は火の車だったらしく、1929(昭和4)年1月29日『新愛知』では、「千歳劇場の従業員を解散」の見出しで、パラマウント社が千歳劇場に対して契約解除と従業員の解雇を申し渡したことが報じられている。
名古屋市中区南桑名町映画常設館千歳劇場は、従来、劇場主佐藤正成氏より米国パラマウント映画会社神戸支店が借受け経営を続けていたが、経営以来常に欠損を重ね到底収支償わない為め、佐藤劇場主に対し契約解除を申し込むと同時に従業員四十余名に対し二十三日高橋支配人より一月末を以て閉館解雇を申し渡した(以下略)」
これを受け、従業員側はバラマウント神戸支店へ陳情のため、加藤技師長、説明部の代表として清水玉影、音楽部の代表として中山義雄の3名が神戸に向かっている。
この頃、佐藤正成は、丸の内邦楽座の経営主としての契約は1928(昭和3)年春までの1年限りで打ち切られ、名古屋に戻っていた。佐藤は従業員に同情し、2月1日から1週間無料で従業員に劇場を貸与するとともに、パラマウント社に掛け合い映画も無償貸与してもらい、その利益を従業員に分配した。その後、千歳劇場は改築のため一時休館となり、同年10月に再スタートを切る。

(1929(昭和4)年10月17日『名古屋新聞』)
再館後の経営は当初、新宿武蔵野館の支配人として知られる角間啓二があたっていたが、翌1930(昭和5)年1月、佐藤が再び経営主に復帰。佐藤は、邦楽座の夢よ再びとばかりに、アトラクションの充実を謳い文句にして、起死回生を図った。
千歳劇場が前週の「ブルドッグ・ドラモント」を最後に角間啓二氏の経営から離れ、座主佐藤正成氏が直営を断行することに決し、従来の消極的な戦略を廃してユナイテッド、メトロ、F・N社、ワーナー、フォックス、ユニヴァーサル等の優秀映画を封切し、松竹座王国に肉迫する唯一の武器としては毎週すばらしいヴォードヴィルを上演し、既に川上児童劇団、築地小劇場「西部戦線異状なし」、柳家金語楼の実演とジャズ、大辻司郎の漫談、二村定一のジャズとチャールストン、などの第一級的な種目が交渉ずみとなり二月第一週かおそくも第二週目から今までとガラリと変わった興行陣がはられることになっている
しかし、この中で実現したのは川上貞奴が主宰する川上楽劇団のボードビル公演くらいで、当初の謳い文句ほどパッとした企画は見られない。高級洋画館としての地位も、対抗軸としての名古屋松竹座だけでなく、1930(昭和5)年10月には高級映画殿堂を標榜する八重垣劇場の開館によりますます危うくなる。最終的に路線転換を図らざるを得なくなり、世界館と同じ小林茂に経営が委ねられることになり、1934(昭和9)年には日活の直営館となった。その間、音楽部の体制も縮小していったようで、1932(昭和7)年9月の『千歳劇場ニュース』のプログラムでは、休憩奏楽は既にレコード演奏になっている[注6]。佐藤正成も、この頃には千歳劇場を妻のひで子に任せ、映画興行の世界からは足を洗ったと思われる。
その後、千歳劇場は戦災により焼失したが、戦後、1947(昭和22)年7月に株式会社千歳劇場が設立され、映画館として再建された。その後、テレビの普及など時代の変化を受け、1958(昭和33)年にはキャバレーを併設するなど多角化を図ったが、映画産業の斜陽化には抗しきれず、1970(昭和45)年に映画館としての幕を静かに閉じたのである。
まとめ
これまで延べてきたことをまとめると、千歳劇場は発足当初から松坂屋音楽隊と密接に関係し、松坂屋音楽隊出身者を中心に充実した奏楽体制を構築したといえる。大正末期からのジャズ流行に対しては、松坂屋音楽隊がジャズ流行の震源地である大阪にも拠点を有していたことから、早期にジャズのレパートリーを習得し、名古屋に持ち込んだ可能性があることを指摘した。松坂屋音楽隊は、昭和に入り楽長が早川彌左衛門に交代してからはジャズへの熱心な関与は伺えないものの、音楽隊出身者は千歳劇場、ラジオ放送、レコード吹込などでジャズ奏楽の担い手として活躍した。世界館管絃楽団が赤坂幸造という個人に牽引されていたのに対し、千歳管絃楽団は特定の個人というよりは松坂屋音楽隊という組織と関連性が強いことが特徴と言えるだろう。
しかしながら、世界館、千歳劇場のいずれも楽団としてのピークは1927(昭和2)年から1928(昭和3)年の短期間であった。ジャズが盛り上がってきた時期に、トーキー出現により水を差された格好だが、もう少しトーキーの出現が遅れていたら、映画館の楽士によるジャズバンドが独自の発展を遂げていた可能性かあったかもしれない。同時進行でやがてレビューの流行が訪れるのだが、名古屋では解雇された映画館の楽士の受け皿になるほどのキャパシティはなかった。
名古屋には、世界館や千歳劇場の他にも、和楽に定評があり高田力や佐伯唯治(陸軍出身、1913(大正2)年入隊)が指揮した港座、世界館出身の曾根邦謡が指揮(一時は赤坂幸造も兼務)した太陽館、JOCKの和楽のオーケストラによく出演した中央館、戦時中に満州での音楽活動に従事したことで知られる相原晃(陸軍出身、1914(大正3)年入隊)が指揮した文明館など、他にも無声映画時代に奏楽で鳴らした映画館がいくつもある。これらについては資料が十分でなく、詳細がわかれば改めて論ずることにしたい。
映画館がジャズ普及の原動力たりえた時期は、1928(昭和3)年あたりまでをピークとして結論づけたものの、ジャズそのものは、その後さらに勢いを増して大衆音楽の頂点に上り詰めることになる。その過程においては、東京や関西圏では、特にダンスホールがジャズプレイヤーが鎬を削る場として大きな役割を果たしたといわれている。それでは、名古屋でダンスの流行はどのような状況だったのだろうか。次回から、大正から昭和戦前期における名古屋のダンス史について述べていくこととする。
(この回、終わり)
[注1]各日の『新愛知』『名古屋新聞』のラジオ番組欄より。なお、8月15日はナゴヤジャズバンド、9月12日はナージョ・ナゴヤジャズバンドの名義であるが、名称の類似からNGYジャズバンドの変名として含めた。
[注2]NGYジャズバンド以外てジャズの放送に出演したのは、4月25日のH・Nサキソホーンバンド、10月27日のコスモスジャズバンド。
[注3]1933(昭和8)年に名古屋音楽協会が発行した冊子『1933 musical association 名古屋音楽協会更生三ケ年ノ事業』に津川圭一が寄稿した「その頃を語る」において、松坂屋少年音楽隊に言及中、「千歳劇場の楽長の後藤君もここの出身だ」と記されている。
[注4]1929(昭和4)年11月発行の『音楽世界 第一巻 第十一号』に掲載された松坂屋管弦楽団のメンバーに、ヴァイオリンに中山義雄、チェロに後藤義行の名前がある。
[注5]その他に千歳管絃団のレコードで判明しているのは、毛利眞人氏によれば、「元禄花見踊/春雨」(ツル2281)、「安来節/奴さん」(ツル2402)の2枚。毛利眞人氏とのXでのやり取りでのご教示による。
[注6]『千歳劇場ニュースVOL3 NO69』1932(昭和7)年9月15日発行 千歳劇場
〈見出し画像〉
千歳劇場の新聞広告 1928(昭和3)年9月25日『名古屋新聞』
〈参考文献〉
東興秘密探偵社編集部編『日本信用紳士録 全国編 1966年版』1965年 東興秘密探偵社 国会図書館デジタルコレクション
音楽之友社『音楽年鑑 昭和35年版』1959年 音楽之友社 国会図書館デジタルコレクション
音楽之友社・音楽新聞社共編『音楽年鑑 昭和二十五年版』1949年 音楽之友社 国会図書館デジタルコレクション
中部経済新聞社編『愛知年鑑 1957』1956年 中部経済新聞社 国会図書館デジタルコレクション
『音楽世界 第一巻 第十一号』1929年11月 音楽世界社 国会図書館デジタルコレクション
大森盛太郎『日本の洋楽(1)』1986年 新門出版社
武石みどり「1910〜20年代の船の楽士:国内の洋楽受容・分化との関連」東京音楽大学紀要編集委員会編『東京音楽大学研究紀要 巻42』2018年 東京音楽大学紀要編集委員会
管楽研究会編『吹奏楽年鑑 紀元二千六百一年版』1941年 管楽研究会 国会図書館デジタルコレクション
山内太一編『1933 musical association 名古屋音楽協会更生三ケ年ノ事業』1933年 名古屋音楽協会
中部経済新聞社編『中部日本会社総覧』1948年 中部経済新聞社編名古屋市会事務局編 国会図書館デジタルコレクション
菊池清麿『ツルレコード昭和流行歌物語』2015年 人間社
『総合名古屋市年表 昭和編(四) 名古屋市会史別巻』1972年 名古屋市会事務局 国会図書館デジタルコレクション
『月刊経済 5月号』1970年5月 月刊経済社 国会図書館デジタルコレクション
報道春秋社編『東海人物春秋 1965年度版』1965年 報道春秋社 国会図書館デジタルコレクション
満蒙芸文年鑑編纂委員会編『満蒙芸文年鑑 康徳9年度版』1943年 満州冨山房 国会図書館デジタルコレクション
『新愛知』新愛知新聞社
『名古屋新聞』名古屋新聞社
〈参照Web〉
東京芸術大学「海軍・陸軍軍楽隊データベース 海軍軍楽隊在籍者一覧」
