こい! 逆転満塁ホームラン!! #掌編小説
「冷たいビールいかがですかあ」
彼女の声が聞こえる。高く遠くまで届く声。聞き覚えがある。
7回表で相手チームの攻撃中。ツーアウト。3対1。2点差で推しのチームは負けている。2点差は微妙だ。けれど、今日の推しチームは勢いがない。攻守がかみあってない。たぶん逆転は難しい。俺は暑くてスーツの上着を脱いだ。
「ビールいかがですかあ」
また聞こえる。周囲を見渡すと、スタンドの10段くらい下の通路に、大きなビールサーバーを背負った売り子――彼女が見えた。黄色い帽子に黄色のTシャツ、ショートパンツ。ビールの銘柄と金額が書かれたウチワを掲げながら声を出している。
ふと、彼女が客を探すようにスタンドの上、こちら側を見上げた。あの顔は、やはり、高校の後輩の…… そう思ったとき、俺は自然と片手を挙げていた。
それは、自分としては「おお、久しぶり」という挨拶のつもりだった。でも、ここは野球のスタジアム。ビールの売り子に向かって片手を挙げたら、意味は一つだ。
彼女の口元が緩んで、軽くうなずき、スタンドの階段を上ってくる。階段すぐ横の俺のいるシートに、あっという間に彼女はたどり着いた。
「ビール、お一つですか?」
そう言いながらしゃがんだ彼女の顔が、ほぼ至近距離1メートル前に見えた。この声、この表情。髪型は帽子でよくわからないけれど。たぶん後輩の遠藤、遠藤メイだ。
「……あ、一つ」
つられて指を一本立てる。でも彼女は俺に気づいてない。
彼女が手際よく透明なプラカップにビールサーバーから伸びたホースの注ぎ口を拳銃のように向けると、あっという間にビールが注がれる。白い泡がプラカップの縁ぎりぎりになるまで待ってから、俺は言った。
「あの、ひょっとして遠藤メイ?」
その瞬間、ワーっという歓声が俺たちを包んだ。隣の観客たちから「えー」という悲鳴も聞こえる。周りは推しチームのファンばかりだ。慌てて視線をグラウンドに移すと、打球が外野に飛んで……あっという間にレフトスタンドに入った。
なんと、ホームラン。相手チームの追加点。これで4対1。さすがに今日は勝てそうにない……
「どうぞ」
その声で我に返ると、彼女がニコリとして俺にビールを渡そうとしている。
あ、この笑ったときの口元。やっぱり、遠藤メイだ。
でも、さっきの俺の声は歓声にかき消されて聞こえなかったらしい。すぐにビールを受け取る。
「お支払いは?」
そう聞かれてスマホを取り出す。まあ、こんなところでいきなり知り合いに声をかけられたら、彼女も困るだろう。俺の声が聞こえなかったのはかえって良かったかも。
「〇〇ペイで」
といってスマホの画面を見せると、彼女は慣れた手つきでキャッシュレス端末の機械を取り出し、QRコードをスキャンした。
すると、
「……高橋、先輩ですよね?」
と、スキャンしながら遠藤メイが俺の目をちらっと覗き見た。口元が少し微笑んでいる。
これは……明らかにこっちを知っている表情だ。俺のこと、高橋って言ったぞ。ってことはなんだ、え、さっきの聞こえてたの?
「……あ、え……やっぱり遠藤?」
ちょっと言葉が泳いでしまう。
「はい。お久しぶりです!」
「俺ってすぐにわかった?」
「もちろん……スーツ似合ってますよ」
「そう? あ、いま、女子大だっけ? ここでバイトしているの?」
「けっこうベテランなんですよ」
そう話すメイは、支払い処理が終わったのを確認して立ち上がった。この会話の感じ。昔のままだ。なんか、すごく、すごく小気味いい。一気に高校時代の感覚がよみがえる。
ただメイの格好だけ違う。あのころの制服姿やジャージ姿じゃない。今は完全に売り子のユニフォームで、背中にはビールサーバーだ。あんまり重そうに見えないのは、もともと陸上部で800メートルの選手だったからか。こういう体育会系バイトは向いてるのかもしれない。
「あ、いま、このバイトに向いていると思ったでしょ」
「そんなことは……」
見抜かれてたか。
「私、球場好きなんですよ。ここのチームもファンだし。いるだけで楽しい」
「へえ」
自分も推しのチームだとは言いそびれた。
「……でも、7回で今日の販売は終わりです」
「そうなんだ」
「……また、よろしくお願いしますね!」
メイはそれだけ言うと、パタパタと階段を降りて行った。途中でいったん振り返り、俺のほうを向いて微笑みながら小さく手を振る。俺も手を振り返そうと思ったときには、もう彼女はスタンドのバックヤードに見えなくなっていた――
◇
ほんの一瞬だったけど――
高橋先輩だった! キャー、どうしよう。
高校のとき、私はまだ1年で先輩は3年。部活で一緒だったのはちょっとだけ。でも、先輩の卒業までの1年間は忘れられない時間だった。ただ、あのころはお互いにまだ子供過ぎて、全然進展しなかったんだけど……
それが、まさか、まさかこんなところで再会できるなんて。それに、いまはすっかり大人になって、昔よりずっとカッコよくなっちゃって。なんか恥ずかしくてあんまり話せなかった。
でも、階段の下から見上げたとき、すぐに気がついたんだ。あれは高橋先輩だって。
それにあのとき、先輩はビールを注文したくて手を挙げたんじゃない。私に気が付いて手を振ったんだ。絶対そう。
あ、でも、私ひどい顔してたんじゃないかな。顔も髪も汗だくだし、声も枯れてるし。しっかりメイクして制汗剤は塗ってたけど、へんな匂いしてなかったかなあ。やだあ、どうしよう。
ああ、本当は禁止なんだけど、知り合いだし連絡先くらい交換すればよかったなあ。
でも、今日はもうスタンドの販売は終わっちゃう。私がスタンドに戻ることはない。試合が終わったら、もう先輩には会えないのかなあ。せっかく再会できたのになあ……
あ、でもでも、もし、もし今日の試合が……
◇
メイ、相変わらずかわいかったなあ。
うん? 俺は何を期待しているんだ?
冷静に考えれば、もうメイと一緒だったのは昔のこと。さっきも、ちょっとしか話せなかったし、連絡先を交換したわけでもない。ずっと会ってなかったから、いまさら何かが始まるなんて……
今日の売り子販売は終わりとか言ってたな。7回で終了か。スタンドには戻って来ないってことか。じゃあ、もう話せない?
えー、それはなー。せっかく偶然会えたのに……
だったら俺が売り子のバックヤードまで行くか? いやいや。それじゃあ迷惑だろう。なに考えてんだ、俺。うーん。
じゃ、どうする。このまま会えずにサヨナラか?
いやいや、待てよ。この球場はたしか……
◇
『9回裏。4対1。ツーアウト、満塁です。土壇場で逆転のチャンス。いよいよ最後の攻撃です!』
バックヤードの壁の大型モニターから、実況の声が聞こえてくる。
他の売り子の女の子たちも、食い入るようにテレビ画面を見てる。まさか、9回裏の最後の最後になって、こんな展開になるなんて思ってもみなかった。あ、でもちょっとは期待してたかな。
「〇〇が勝利した場合、売り子販売時間を延長します」
場内アナウンスとともに、スタジアムの客席に沿って配置された帯状のリボンビジョンにそう表示される。バックヤードにも、場内からの歓声が聞こえてくる。
そう――
もし、ホームチームが勝利すれば、売り子の移動販売が再開して、ヒーローインタビューまで延長される。
ここはそういう球場。
だから、勝てば、私はスタンドに戻れる。
そうすれば、きっと。
きっと、もう一度先輩に会える。
お願い……
◇
最後のバッターが打席に立つのが遠くに見える。俺の周りは推しチームのファンだらけで、すごい歓声だ。
外野の応援団からも、球場全体を揺るがすような声援が鳴り響いている。
そうだ。ここでもし、あのバッターがヒットを打てば。いや、ホームランを打てば、逆転サヨナラだ。そして勝利とともに売り子が――メイがスタンドに戻ってくる。
そうすれば、もう一度、メイに話すチャンスができる。
だから。
絶対、ぜーったい打てよ!
俺の運をぜーんぶ、お前にやる!
◇
きて! 逆転満塁ホームラン!!
こい! 逆転満塁ホームラン!!
相手ピッチャーが静かにセットポジションに入った――
<了>
※本作で描いた「ホームチーム勝利時の売り子販売延長」は、ZOZOマリンスタジアムの実際の運用をもとにしています。
