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村上春樹『ねじまき鳥クロニクル』(1995)感想



読んだことのある春樹作品
・『海辺のカフカ』
・『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』
・『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』
・『風の歌を聴け』
・短編「パン屋再襲撃」「象の消失」「眠り」ほかいくつか

母親が学生時代~結婚前にハルキストだったらしく、実家の本棚に古い単行本がたくさん揃っています。(今はもうすっかり足を洗っている)
わたしが高校1年(15歳)のときに「15歳のうちにこれを読みなさい」と母から渡されて読んだ『海辺のカフカ』が初春樹です。そのときの感想は「なんだかよくわからん……」でした。
その後、『多崎つくる』や『世界の終わり~』を読みましたが、そんなに楽しめてはいないです。
御多分に漏れず、どちらかといえば短編のほうが好きです(流石に巧いと思います)。

そんな距離感のわたしが、村上春樹の代表長編『ねじまき鳥クロニクル』文庫本 全3冊を読みました。今月はこれに捧げたので他な~んも読めてないです……




感想メモ

第1部(上巻)

『夏帆』出版前でツイッターが春樹の話題で盛り上がっており、それにあてられて読みたくなってしまった。
近所のブックオフで135円で購入

読み始めた。
圧倒的な読みやすさ
。目を惹きながら的確な比喩表現に、30歳既婚無職の「僕」の一人称叙述。
かつては通り抜けられたが今では入口も出口も塞がれて家々のあいだで孤立してしまった「路地」。なかなか象徴的でよい。中上健次の〈路地〉とは無関係? この時代なら嫌でも意識しちゃうのかな。

p.38〜121 1部4章まで
今のところ4人の女性が出てきている。トオルの妻のクミコ、エロい電話をかけてきた謎の女性、路地に面した広い庭の家に住む、16歳の高校生、加納マルタ。トオルは会っていないけれど、マルタの5個下の妹(クミコの兄の綿谷ノボルに強姦されたらしい)も含めれば5人か

p.129〜221 1部8章まで
近所の16歳の笠原メイにトオルは「井戸」を教えてもらう

6章
オカダトオルの妻クミコの過去
クミコの兄ワタヤノボルとトオルの関係。見下され関心を抱かれていないことでノボルを憎んでいる、とトオルはいうが、これって愛憎BLでは? 思ったよりワタヤノボルが重要人物そう。行方不明の猫も同名だし。
巧妙な一貫性のなさでテレビスターになった経済学者ワタヤノボルは、今でいうとひろゆきとか成田悠輔みたいなもんか。

8章まで
妹の加納クレタの過去 肉体的な苦痛に悩まされて車で壁に突っ込んだが死ねず、なぜか痛みを感じなくなった。最近こういう不幸中の幸い的なフシギ体験談ツイッターで流行ってるよなぁと連想。短編「眠り」っぽさもある。
そこから借金返済のため「娼婦」へ
加納家と綿谷家の3人きょうだい構成が同じ。兄、姉、妹
なにかリンクしているのか
だからクレタが綿谷ノボルにレイプされたというのは、加納の長男にも関係あるのかな。あるいは綿谷クミコ(トオルの妻)と。

今のところあんまり動きはない小説だ。
近所の路地やクリーニング屋に行くだけ。基本的には家に誰かが訪ねてきたり電話してきたりと、受け身な物語。

p.222〜 1部9章から
夢の中でオカダトオルは加納クレタにフェラされて夢精する。最初のイタ電を除けば初めての性行為描写。
亨が以前の職場の同僚女性(結婚直前)の家で添い寝して、妻クミコとの関係が一時期悪くなった話。

10章
ワタヤノボルが大学生の頃に、幼くして亡くなった妹(クミコの姉)の形見の服を使ってオナニーしていたのをクミコが目撃していたらしい。なるほど、綿谷家と加納家の鏡像関係でいえば、ワタヤノボルは死んだ妹に囚われているからこそ、それに対応する加納クレタを犯したのか。

11章
家に隠されていたオーデコロンのプレゼントから、クミコの浮気を疑うトオル。姦通の不安という近代文学に王道の主題。『抱擁家族』や『万延元年のフットボール』など。

12, 13章
ラスト2章の戦争時の「長い語り」一気に読ませられてしまった。キツいけど。
井戸の底に差す光によって死ぬべきだった。恍惚。
間違いなくひとがひとに語ることの迫力があった。これがここからオカダトオルの物語にどう関わってくるかだなぁ。テンションが全然違うし。



第2部(中巻)

妻クミコが失踪 近所の16歳笹原メイに介抱してもらい、再び加納クレタにフェラされる夢を見るトオル。
(男性の)「傷つき」を描いているところが共感を集めて?人気なのだろうか
眠気も春樹の頻出モチーフだ

p.47〜 2章から
トオルの周りには変な女ばかりいる、と、そのうちの1人である笹原メイから指摘される。5人の女たち。
加納クレタがまた来訪して、二度の淫夢について言い当てられる。自らを「意識の娼婦」だといい、トオルとしばし抱きしめ合う。それを笹原メイに目撃されドン引きされる。

6, 7章でクミコとトオルの馴れ初め〜結婚〜妊娠と中絶手術までの話がようやく回想される。井戸の底で。クミコが大学生で、トオルが社会人の頃に知り合って付き合い始めたのね。
メンタル沈んだ男主人公が暗い井戸の底に身を落ち着けるのは『万延元年のフットボール』冒頭を思い出すなぁ。あれは井戸じゃなくて貯水槽の穴だが。

やはり妊娠と堕胎していたのね。匂わせだけしていたから。
男の射精責任の話だ。というか、妊娠させ堕胎させてしまったことへの罪悪感がトオルのなかでは問題になっている。
クミコの妊娠はマジでトオル以外の男によるものだったりするのか。トオルには掴めていなかった「何か」の部分。

p.156〜 8章から
引き続きトオルは井戸の底でクミコとのこれまでを省みたり、夢?で謎の電話の女に会ったりする。
笹原メイが井戸に垂らしていた梯子を取り去ってしまい、トオルは絶体絶命に。あまりにも余裕があるように見えるトオルにイラついているのか、メイは梯子を返さずに井戸の蓋を閉めたり、上から説教したりする。

閉じられて真っ暗になった井戸は、入口出口が塞がれた路地と相似している。水平と垂直でねじれの位置にある。その中でひたすらウダウダ考えたり翻弄されたり夢精したりする主人公。そういう長編小説。
夢の中で謎の女に手を引かれて、トオルはホテルの壁を通り抜けて現実の井戸の底へ戻ってくる。閉じられた空間の外に出るには壁をすり抜けるしかない。

意識と肉体の素朴な二元論に立っているような文章が多い。それから、世界の複雑さと単純さについての綿谷ノボルのテレビ演説もなんだかなぁ。
レトリックばかりで空疎だと思ってしまう。

あなたはよそで作られたものなのよ。そして自分を作り替えようとするあなたのつもりだって、それもやはりどこかで作られたものなの。 p.200

わたしはわたしではない。

p.202〜 11章から
笹原メイに閉じ込められた井戸の底でトオルはいよいよ空腹と焦りで狂いそうになっていた。そんなところを、一瞬だけ現れた加納クレタに助けられる。
ひとりで帰宅したトオルは、届いていた妻の手紙を読む。クミコはやはりこの3ヶ月、別の男と熱烈な性行為を交わしており、その男が結婚を持ち掛けてきた瞬間に熱が冷めて、夫を裏切っていた自分に耐えられず、失踪したのだという。クミコにとっては、激しい愛(セフレ)の世界と、穏やかな愛(夫婦)の世界がキッパリと分かれて共存していたようだ。
寝取られ男、コキュ文学。トオルのことは愛していたが、性行為で快楽は覚えなかったというクミコのなかでは、恋愛と性愛の対象が一致していないように思える。
逆にいえば、トオル(ひいては筆者?)のなかには、恋愛と性愛そして結婚が一体化するのが自然だという近代以降のロマンティック・ラブ・イデオロギーが内面化している。春樹のうんざりするほどの感傷性はこの規範を素朴に信奉している保守性に一端があるのかもしれない。

僕のまわりには女がいささか多すぎる。 p.237

ほんまにな

クレタの「なくしちゃったんです」などの、やや砕けた口調に意外性があって萌えた

12章
井戸の底で熱を帯びていたトオルの右頬に青黒いあざのようなものができているのを発見した。夢で謎の女に手を引かれて壁を通り抜けたのが原因?
加納マルタが電話をかけてきて、加納クレタが井戸の底に下りていたと思ったら、夜にはいつの間にか裸でトオルの横に寝ていた。本人も知らないうちにそこに移っていたらしい。クレタがとにかく本作のポルノ担当ヒロインなんやね

13章
加納クレタが「肉体の娼婦」として綿谷ノボルに犯されたときの話。

それから奇妙なことが起こりました。そのぱっくりとふたつに裂けた自分の肉の中から、私がこれまでに見たことも触れたこともなかった何かが、かきわけるようにして抜け出してくるのを私は感じたのです。その大きさはよくわかりません。でもそれはまるで生まれたての赤ん坊のようにぬるぬるしたものでした。 p.282

自分の肉からいろんなものがどんどんこぼれて抜けていきました。かたちのあるもの、かたちのないもの、すべてのものが涎や尿と同じように、液体になってだらだらと私の外に流れて出ていくのです。こんなまま何もかもをこぼしてしまうわけにはいかないと私は思いました。それは私自身なのだ、このまま無駄にこぼして失ってしまうわけにはいかない。でもその流れを止めることはできませんでした。 p.284

文学的な人格排泄ゼリー このジャンルの元ネタってこれなのか?
クミコの手紙といい、それまで不感だった女がある男によってどうしようもなく性的快感を覚えて絶頂してしまう描写が続く。そういう男根主義(植民地主義?)っぽい性嗜好。

14章
男の性行為によって「正しい」自分に生まれ変わったのだと語るクレタ。確かにこれはキツいですね〜 加害性を自覚してはいるが、それでもなお自分が決定的に変わったのだと。
こういうのを見ると、松浦理恵子が何かのジェンダー論集に寄稿していた「レイプによって被害者の尊厳が決定的に損なわれると主張するのはむしろレイプ犯を悦ばせるだけだからやめよう」論(→■)に一定の価値があると思わざるを得ない。

綿谷ノボルの岡田トオルへの「憎しみ」が、5年前にクレタを犯した。すっごくホモソです……(恍惚)
その汚れを祓うために、クレタはトオルと寝る。対価はクミコの服。トオルにとってはクミコが居なくなって空いた枠にクレタが都合良く滑り込んできたようだ。
私とクレタ島に行こうとクレタはトオルを誘う。
ようやく遠出するのか。ここまでほぼ動きがない小説だったが。。

15章
ギリシャ観光雑誌の中身としてカザンザキス『その男ゾルバ』が言及された。

16章
そんなのもうほとんど紐じゃない!な水着(マジ)を着て夏日に肌を晒している日焼け16歳……
笹原メイは自身のうちにある「ぐしゃぐしゃとした熱源」に突き動かされて、それに到達するために、トオルを井戸の底に閉じ込めて置き去りにしたのだという。目の横の傷も、バイクを運転していた少年に後ろから目隠しして事故ったからだと告白する。破壊衝動みたいなもんか。
内なるサディズムに懊悩する少女に、亨は顔のあざを舐められる。
笹原メイとはこれで一旦のお別れかな。もう出てこない可能性もある。

17章
叔父のアドバイスに従って新宿で11日間も過ぎゆく人々を顔を虚心坦懐に見つめ続けていた亨は、かつて札幌で見たギター&マジックショーの男を見かけて後をつけ、バットで殴られたので殴り返す。なーんですかこれは

18章
ギリシャ行かないんかーい!!!w ひたすら待ち続ける物語なのだなぁ(詠嘆
笹原メイとも会うし…… 学校に戻るのだという。今度こそお別れっぽい
幼い少女に自分の分かりづらい頑張りを認めてもらって応援されたい、という欲望がそのまま形を取っているように読んでしまう。

そしてクレタがギリシャから葉書を送ってきたり、ノモンハンの生還老人と文通したりしてクミコを待ち続けていた亨は、ある日市民プールで泳いでいる最中に、水中井戸の底に浮かぶイメージを見て、あの電話の女の正体がクミコであると確信する。あの夢の中でクレタとイチャイチャした208号室はクミコの人に言えない闇の部分だったのだと。
そうして、クミコを俺が助ける!!と、なんだかすげぇヒロイズムに燃え始めて第2部が終了。がんばえー


第3部(下巻)

第3部は600ページ弱、全41章まである…… 2部が全18章/400ページだったから、それより短い章がたくさんあるってことか。

1章は笹原メイからの手紙 初めてトオル以外が語り手になった。書簡体とはいえ。
ええっ!? 2章は、そのメイの手紙で言及されてもいた、取り壊された宮脇さんちに関するゴシップ記事そのもの!? しかも新潮文庫なのに2段組になってるし。
もしかして3部はトオル視点じゃなくて、こうやっていろんな手紙や記事やらで構成されているのか……? ここにきてポスト・モダーンな形式に舵を切ってくるのかよ
と思ったら3,4章はこれまで通り、トオルの一人称叙述に戻った。旧宮脇邸の土地を買うために8000万円ほど必要で、再び新宿のベンチで人間観察していたら半年前にも声を掛けてきた中年女性に再会し、明日16時に指定の住所に来るよう言われる。

5章は「少年」について語る三人称叙述? これもトオルなのか。
未就学児の「少年」は、午前2時に自分の家の庭でねじまき鳥が木の中で鳴いており、謎の2人組の男の片方がその木に上り、もう1人が地面に穴を掘って袋に入った何かを埋めるのを観察する。
この2人組が「敵」なのか?

p.72〜 6章から
またトオル視点に戻った。16時に赤坂見附の指定された雑居ビルへ行き、喋らないハンサムな青年に会い、真っ暗な水泳ゴーグルを付けて、頬のあざを謎の女?に触られ舐められて射精する。その後、女?が出ていってシャワーを浴びるパートだけ文が現在形になっていた(他は過去形)。

時間の経過はより不明瞭になる。そこにあるさまざまな時間制のうちのどの時間制を自分が今とっているのか、わからなくなってくる。 p.81

とあるからだろうか。

そして亨は、無言の青年から20万円の入った封筒を受け取り、帰路に新しい靴を買う。

この僕が娼婦になるなんてな、と僕は手のひらを見ながら思った。僕が金のために身体を売るなんて、いったい誰に想像できただろう? p.88

自分がやったことはクレタがしていたコールガールの仕事に似ていると気付くトオル。言われてみれば、女性用風俗だといえないこともないか……?
しかし、こうした言い回しにはセックスワーク差別的なものをどうしても感じる。

文学的な、抽象的なエロゲーだなぁ。春樹の小説は。「射精」が重要なメタファーに位置付けられているようだし。
自分は落ちぶれたダメダメな人間だとか思いながら周りに女性を絶やさないさまは、「サクラノ詩」の草薙直哉のようだ。

そして自宅に猫(ワタヤ・ノボル)が帰ってきた。亨は猫に新たに「サワラ」という名前を授けた。

メイの手紙2(ツー) あなたにレイプされる妄想を実はしていたの、という告白。新たに編入した「学校」は半年しか持たず、今は別の寮にいるらしい。大学生の男たちとデートしているけど貴方のことが忘れられないの♡

トオルは再び新宿西口のベンチであの女性と落ち合い、服や時計やら一式の高級品をすべて買い与えてもらう。謎のパトロン。赤坂ナツメグとその息子・赤坂シナモンと呼ぶことになる。

でも、と僕は思った。それから僕は、その表面張力で窓にへばりついたような簡潔な接続詞を、ちゃんとした長い文章に引き伸ばしてみた。 p.110

「でも」の比喩で「表面張力で窓にへばりついたような」て!

彼女はチコリに似た葉っぱをフォークで口に運んだ。それからふと昔の約束を思い出したみたいに、手を伸ばしてグラスの水をひとくち飲んだ。 p.117

この直喩はまあ理解の範疇か

p.119〜 9章から
え、赤坂ナツメグに宮脇さんちの土地買ってもらって井戸も掘り返して貰ったの!? しかも鉄梯子と蓋開閉ヒモ付きで。
夢?の中の208号室のドアをノックして、調和的な静けさを破る「彼ら」とは誰か。5章で「少年」が見た2人組っぽいけど……

潜水艦という限定された体裁をとっていたものの、それはむしろ何かの象徴的なしるしのように見えた。あるいは意味のわからないたとえのように。 p.130

比喩を比喩に使っていてすごい
そもそも「象徴的なしるし」が同語反復的だし

亨がナツメグから聞いた、彼女の幼少期の話。
1945年8月の終戦直前に子どもとして満洲国から日本へ渡る船の中にいた、ということは、現在が1984年頃だったはずだから、少なくとも40歳は超えている。

この潜水艦は、私たちみんなを殺すために深い海の底から姿を現したのだ。でもそれはべつに不思議なことじゃない、と彼女は思った。それは戦争とは関係なく、誰にでもどこにでも起こりうることなのだ。みんなはこれが戦争のせいだと思っている。でもそうじゃない。戦争というのは、ここにあるいろんなものの中のひとつに過ぎないのだ。 p.132-133

こうした表現は、戦争の残虐さから目を逸らす危うさを感じてしまう。子どもの感覚として描いているのも含めて。いやしかしどうなんだろうか。身近な普遍的な暴力性を戦争のそれと結びつけるロジックは左派もよくやるしなぁ

その時のナツメグが見ていた「光景」=満州の動物園で動物たちを日本兵が射殺していく様子 夢ではなく、実際にあった出来事のようだが、その場にいないはずのナツメグがそれを見てトオルに語り、最終的に一人称小説としてトオルが語る……という込み入った形式。
象が出てきたけど「象の消滅」関係ある?
トオルと同じく右頬に青いあざのある獣医(ナツメグ父!)やねじまき鳥が登場。意味深に意味深を重ねる

動物が簡単に虐殺されてしまった世界の理不尽さに対する諦観を覚えるパパメグ。世界が決定的に変貌してしまったはずなのに、自分がそれを受け止められない、という無感覚はトオルにも共通している。本作において、青あざ持ち達が覚えるこうした感覚こそが「主人公」性?
いずれにせよ、ねじまき鳥といい、「回転扉」といい、「世界」という漠然として大きなものが、シンプルなメカニズムで動いているのだと思う想像力が重要なのだろうな。私にはそれは世界へのコミットメントではなく、むしろ逃避/デタッチメントに他ならないと思われるが……

p.158〜
ナツメグが護送船の上でアメリカの潜水艦に大砲を向けられたのは8月14日だったのか。だから間一髪のところで、ポツダム宣言受諾による交戦停止命令が届いて命を繋いだ、と。でもその一部始終をナツメグは眠っていて見ておらず、あとで母から聞いたらしい……

11章 笹原メイの手紙3 北陸あたりのかつら工場で働いているらしい
12章 2度目の「少年」の真夜中の出来事だ! メイの手紙などと併せて、幾つかの視点が入れ替わり立ち替わり挿入されて進んでいく形式なんだなぁ第3部は。
p.174〜 12章から
5歳の少年は、これが夢だと自覚しながら、背の高い男が松の木の根元に埋めた布包みを掘り返す。中に入っていたのは心臓だった。「真夜中の出来事」1は逆に現実だと確信しながら。
そして埋め戻して自室に戻るとベッドに自分が寝ているのを発見。自己乖離、新しい自分、別の世界に迷い込んだ感覚はすべて一続きだろう。自分とは何か、世界とは何か。嗚呼90年代、世紀末思想、原始セカイ系だなぁ。この第3部はエヴァTV版と同じ年だし……

13章 また2段組で週刊誌の切り抜きの体裁。離婚騒動で抑鬱に悩まされている33歳の「女優」Mが、6章で目隠ししたトオルの頬を舐めた女性か。答え合わせがされた。トオルのあざに何か霊的な効能がある? Mの払った依頼料からトオルへの報酬の20万円が支払われていたのね。
井戸の底でミステリアスな淫夢を見たことで特別な力を手に入れた「僕」ってことか……
この感じだと、「真夜中の出来事」の少年もトオルの物語と分かりやすく繋がるんかな

14章 政治家となった綿谷ノボルの使い走りの醜いアラフォー男・牛河が勝手にトオルの家に上がり込んでいた。あからさまな嫌らしく不快な奴、悪役っぽいのは『ヴァインランド』のブロック・ヴォイドを思い出す。アイツはもっと強キャラ感あったけど。てか冴えない男がいなくなった妻を探すプロットは相似しているかも。1990年とかだっけ。割と近いか。

井戸のある元宮脇邸からトオルが手を引けば、クミコとの復縁も認めてやる、とノボルは交渉を持ち掛けてくる。これで承諾したら明らかにバッドエンドだろうな〜〜と分かる。当然トオルは断る。ノボルの手を借りずに、僕自身の力でクミコを取り戻すんだ!とヒロイズムに燃えている(クールではあるが)
牛河の禿げ具合が3段階中の「松」だというが、「真夜中の出来事」でねじまき鳥が鳴いていた松の木ってこれのこと!? 松の木に登った男が牛河なのか。あーでも痩せていたから牛河ではないか。
綿谷ノボルが最終的に対峙すべき的なんだろうなぁ
にしても、きわめて内省的で静かな物語なのに、こうして明確な「敵」が設定されると面食らってしまうな。やはり本質はエロゲだと考えた方がいいか……

15章 6歳になる頃に突然喋らなくなった赤坂シナモンについて。結局一度も学校に通わずに読書や音楽鑑賞をして育ったらしい。作者の理想みたいな人物だ。
そんなシナモンの手話をなぜかトオルも理解できる。ちょっとこういう「喋らない人」の神秘化は目に余るなぁ。
ナツメグは、あの渡航船でアメリカ潜水艦に遭った体験と、動物虐殺の話を繰り返し息子シナモン(まだ喋っていた頃の)に語り、2人で物語の樹の枝をどこまでも豊かに細かくしていった。この行為が彼の言葉を奪ったのではないかと母は考えている。『オーバーストーリー』
いまトオルがシナモンに世話してもらって通っている「屋敷」と「井戸」がどこにあるのか、旧宮脇邸(幽霊屋敷)のことなのか、別の場所なのかよく分からない。トオルのあざを用いた「娼婦」の仕事は、また別のところで行われているってこと?

16章 笹原メイの手紙4 メイがいう、3年後に自分がどこで何の仕事をしているのか、生きているのかさっぱり見当もつかない、周りの同僚はみんな3年後の道がハッキリしていると思っている人ばかりなのに、という気持ち、分かるよ〜 メイはまだティーンエイジャーだからいいけど、私はもうすぐ中年だから救えないね でも意外と結構みんなこういう気持ちを抱えて生きていて、だから春樹がこんなにも読まれているんじゃあありませんかね。

ねえねじまき鳥さん、私はこれから一生処女のままでいようかなって思ったりもしています。けっこう真剣に考えています。そのことについて、どう思いますか? p.238

ねえねじまき鳥さん、どう思いますか?

17章 再び牛河が訪ねてきて、トオルに綿谷ノボルからの交渉を伝える。「首吊り屋敷」をとにかく欲しがっている。トオルの手から奪い去りたいと。

18章 あー トオルがナツメグにスカウトされる前は、ナツメグ自身がその謎の仕事(仮縫い)をしていたんだ。
そんな人いる?って登場人物ばかりな小説だけれど、中でもダントツで赤坂シナモンが非現実的なキャラクターだと思う…… 母も含めた中年女性みんなの捌け口?

19章 笹原メイの手紙5 世界の一貫性を信じられないことについて。まぁ分かるけど、他の大衆をナイーブに見下しすぎでは、とも思う。まだ子どもだからいいんだけど! まだ両親くらいしか他人を知らない年頃だから。

20章 クミコとコンピュータの文字チャットで会話することを牛河はトオルに提案する。いきなり時代がかってきたなぁ。パソコン通信時代か。
ロックマンエグゼみたいな、コンピュータ通信の世界に夢を見るトーンはこの時代特有なんだろうなぁ 思えばAIが出てくるパワーズの『ガラテイア2.2』も同じ1995年の作品だし。ていうか我らが『パスワードは、ひ・み・つ』だって95年じゃん!! インターネット元年すぎる。(調べたら実際この年がそうだった) 春樹の小説って特定の時代や国籍・土地の匂いがしないとよく言われる印象だけど、本作に限ってはそうでもないな。地名も世田谷とか赤坂とか品川とか満州とか出てくるし。これがコミットメントへの転換ってこと?
3文字パスワード脆弱すぎてわろた 「Zoo」ww シナモン君もうちょっと推測されにくいものにしようね〜(わざとトオルにアクセスさせたのかも)

そういや第3部になってから加納マルタ/クレタ姉妹が出てきてないな。代わりというように、赤坂ナツメグ/シナモン親子がトオルと日常的に接するようになる。
笹原メイは手紙の形で出番はある。クミコや電話の女はまだほぼ出番なし。

p.286〜 21章から
ナツメグの生い立ち 肩身狭い貧乏暮らしから気鋭の服飾デザイナー街道へ。
1961年、27歳で夫と出会って翌年結婚。ということはおよそ1934年頃の生まれ? でも1945年の終戦時に5歳とかじゃなかったっけ。上の計算だと10歳近くなってしまう。
p.295 夫がホテルの一室で惨殺された1975年末に40歳ってことは、やはり1935年前後の生まれだ。そこが208号室なのかな
ひょんなことからナツメグは、悩める中年女性のこめかみの中で動き回っている「何か」を捉えて、新京の動物園の記憶を思い出すことで緩和できる能力を見そめられ、やがて仕事になっていった。幼少期の、自分だけが特別に入れた閉園中の動物園の記憶が非常にノスタルジック。

22章 首吊り屋敷の調査記事2 トオルが出入りして仕事している屋敷と井戸は旧宮脇邸で間違いなかった。黒ベンツでシナモンが来るのは、トオルを乗せて送迎してるんじゃなくて、客の送迎と日用品配給のためだった。トオルは自宅から路地を通って隠し扉でその屋敷の敷地に徒歩で出入りしている。路地がどこにも通じていないので、こうした外部のメディアにはトオルの存在がバレない、というわけだ。
つまり「路地」は、物理的にも象徴的にも、世俗から遠く深く身を引いて抽象的な世界へ埋没するトオルが、唯一それを通して世界/社会と繋がっている重要なパイプとなっている。
そしてトオルが、その屋敷で客に対して仮縫いの儀式(治療)の仕事をしながら、時間のある時は同じ敷地内にある井戸の底に籠ってバットを握って孤独に瞑想しているのだとすれば、客商売の仕事というきわめてパブリックな行為と、井戸底での沈黙という究極にプライベートな行為が、ごく近い同敷地内で行われていることになる。
この、外交と内省、コミットメントとデタッチメントの一見矛盾するような鋭く緊張感のありそうで自然な共存は、この長編小説そのものの在り方(少なくともその志向)をうまく表しているように思える

23章 コンピュータでクミコとチャットする。これが来る21世紀の新たなコミュニケーションのリアリズムだ、というかのような描写。デリーロが『ホワイト・ノイズ』でテレビというメディアを登場させて、新時代の世界観=リアリズムを表現したように。

この画面の向こう側に、東京の地下の暗闇を這う長いケーブルの延長線のどこかに、おそらくクミコがいるのだ。 p.312

『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』では東京の地下鉄を実際に冒険していたけれど、10年後の今作ではそれが通信ケーブルに替わり、フィジカルな冒険ではなくデジタルな対話になった。

どうして我々はこのような形でしか語り合えないのだろう? p.313

痛切な
これがこの小説の大テーマといっていいんじゃないすかね、しらんけど。

26章 クミコを必死に救おうとするオカダトオルがいちばんヤバい奴である、という見方をするとかなり違う風景が見えてくるし、そう見たくもなってきた。

p.367〜 27章から

どうしてあの男はいつもこんなに僕を疲れさせるのだろう? p.367

綿谷ノボルと岡田トオルのBL、あると思います。
うおおここにきてタイトル回収! 「ねじまき鳥クロニクル」ってファイル名だったんかい
28章 ねじまき鳥クロニクル# 8 新京動物園の獣医(ナツメグ父)の動物園虐殺後の回想を三人称叙述で語る。気ぃ悪くなるハナシだ……第1部の皮剥ぎのような。今度はやってるのが日本兵なのもキツい。
傍点とかも普通にある。当時のパソコン通信のテキスト形式が分からないけど、傍点とか打てたのだろうか?
誰がこれを書いているんだろう
あ〜シナモンの創作なのか。
p.405〜
そういやバット要素もトオルと共通してるのか、シナモン祖父の獣医さんの話は。
真実と事実の関係。どうでもよい…… 物語に振り回される人々の物語、という王道のポストモダン文学性。
牛河は綿谷ノボルの部下を辞めたらしい。なんやかんやコイツがいちばん登場してて面白いかもしれない。ペラペラ口が回る、小物っぽいけど食えない男。
根深い問題のある綿谷家からクミコは脱却してトオルと結婚したが、兄ノボルに連れ戻されてしまった。結局そういうギャルゲーなのかよ。綿谷ノボルの問題って何? 死んだ妹(クミコの姉)への執着? [『響きと怒り』]案件か
トオルの夢に久々に加納マルタが登場! 猫しっぽ全裸痴女だ。夜一さん?
猫のワタヤノボル(現サワラ)の本当の尻尾をなぜかマルタが持っている
間宮老人からの戦争の後日談。ソ連での強制労働中に8年ぶりにあの皮剥ぎボリスに再会した。
間宮さんの手紙パートがいちばんオモロいな……

p.473〜 33章から
井戸から208号室のホテルへ。綿谷ノボルをバットで殴打した犯人像がトオルに酷似しており、人々から追いかけられる。逃げ込んだ208号室にて、謎の女(途中からクミコの声になる)と会話したあとに、例のノックしてくるナイフの人物とバットで格闘パート→なんとか勝利したらクミコは消えていた。

p.556〜 37章から
井戸の底に帰ってきたトオルが、身体を動かせない状態で湧き出る水に溺れる。最後に助けを求めるのはクミコでもマルタ/クレタでもなく、笹原メイなんだ……
トオルがクミコを救い出せたけれど自分のことは救えなかった、という顛末もヒーローの自己陶酔って感じで嫌だなぁ
38章 笹原メイの手紙7(たぶんラスト)

そこで私は何をやったか?
私ははだかになったのです。えへん。 p.569

17歳の女の子が真夜中にはだかで、月の光の下でぽろぽろと涙を流しているときには、たとえどんなことだって起こっちゃうんですよ。そうだよ。 p.573

そ、そうですか  きっしょ〜

41章
おわり! まさかの笹原メイEND?
綿谷ノボルは(岡田トオルが夢の中で知ったように何者かにバットで襲われたわけではなく)長崎での食事中に脳溢血で倒れて意識不明になっていた。病床でクミコが生命維持装置を外すことで兄を死なせ、クミコは裁判にかけられることに。
シナモンによって水没井戸から助けられたトオルは、これまで通りクミコが帰ってくるのを家で待つらしい。

結局ワタヤノボルはなんだったんだ。呪われし一族的なアレなのか、彼の個人的な歪みなのか。暗部は皮剥ぎボリスや満州での虐殺などの話と繋がっていると読むべきなのか。なにもかもが暗示的に宙吊りにされたまま、なんか綿谷ノボルが死んだことで一件落着したっぽい。
トオルが、クミコとの間に子どもができたら「コルシカ」と名付けようとしている(夢の中でみた加納クレタの子の名前)らしいのも絶妙にイヤな感じだ。


感想まとめ

読んでいた期間:2026/5/3〜5/25
第1部:4日間
第2部:4日間
第3部:11日間
(計19日間)

およそ1か月かけて読んだわけですが……そんなに面白くはなかったです。死ぬほど退屈ってわけではないけれど、ストーリーも文章も特に刺さるものはなかった。これが最高傑作(という人が多いの)かぁ・・・と。

それでもわたしがハイペースで(これでも当社比ハイペースなんです)文庫本3冊を挫折せずにコンスタントに読み切れたのは、ひとえに文章が読み易いから、に尽きます。春樹作品のもっとも偉大なところは文章のあり得ないほどの読み易さにあると思っているし、読み易さは正義だと思っています。

正義なんですが、それでも今回長編を何日もかけて読んでいて、さすがに特定の種類のレトリックが多くて、それでほとんど中身のない空疎な文章でかさまししているがゆえの「読み易さ」でもあるよなぁ、とネガティブな印象も受けました。「Aではなく、Bでもない」「Aかもしれないし、Bかもしれない」みたいな構文が頻出。
もちろん、そうしたレトリックこそが春樹の文学性の要であり、そこを味わわなければどこを味わうんだ、という向きがあるのでしょう。が、いったんわたしはいいかな……味わえなくても。そう思いました。わたしにとってもっとおもろい好きな文章をかく小説家をたくさん知っているし。
春樹の文体の特徴のひとつに斬新な直喩表現の多用もありますが、それなりに的確で巧いとは思えど、「そんな喩え方する!?」と衝撃を受けた箇所はほとんどありませんでした。↑のメモで書いた、接続詞を喩えていたくだりくらいかなぁ。変な直喩が大好物のみなさん、『パラディーソ』を読みましょう! 文字通り比喩で "溺れる" 体験ができます。

ということで、スラスラ読めてありがてぇ~~と思いながらも、しょーじき半分過ぎた辺りからは、「この段落のこっからここまで、丸ごとカットしてもハナシ変わんねぇな……」と、プレバトの夏井先生みたいな添削読みを無意識にしちゃっていました。
(面白いレトリックや表現ならハナシが進まなくてもいくらでも読んでいられるし、むしろ文学の真骨頂はストーリーを放り出してのオリジナルな文章表現にあると強く思っていますが、本作の文章は「読み易くていいですね」以上の旨味が個人的にあまり感じられなかったので……)


『ねじまき鳥クロニクル』は全3部構成の長編小説ですが、好みでいえば
第1部 > 第2部 > 第3部
と、右肩下がりで徐々に楽しめなくなりました。

第1部の終盤で、間宮中尉が満州での体験を主人公(岡田トオル)に語るくだりがピークかなぁ。あそこは一気に読ませられました。迫力があって。それまで、トオルの一人称で、30歳無職がダラダラ家と近所を行き来するだけの平坦な話だったところから、満州・蒙古国境での途方もなく残虐で過酷で理不尽で不可思議な出来事が突如語られて、しかしそれも「」で閉じられて、トオルが聴いている、という形で一人称小説のなかに収められる。この構成が、野心的に感じてよかったです。だから、第1部を読み終えたとき、この間宮中尉の話を踏まえて、トオルの物語はどう広がっていくんだろう、アジア・太平洋戦争の記憶がどう繋がっていくのだろう、とワクワクしました。

しかし、第2部でもトオルは依然として受け身で近所の〈路地〉を彷徨う程度。話のスケールは大きくなっていきません。むろん、ミニマムな舞台空間を足場にして緻密に構築していく長編小説もありふれています。
ですが、今作はどっちつかずというか、トオルの一人称(ミクロ、ローカル)の語りのうちに、戦争体験や歴史も含めた大きな世界(マクロ、グローバル)を接続して収めようとしているように思えました。あるいは、そう期待してしまいました。その期待が、叶わなかったようにわたしには思えます。

わたしの目論見・期待が間違っていたことを決定づけたのは、第3部です。
トオルの「僕」という一人称叙述ですべてが語られていた1部・2部とは異なり、第3部では、週刊誌の切り抜きの章や、手紙の章や、「少年」を三人称で叙述する章など、語りの位相が多様化します。20世紀後半に流行ったポストモダン小説になった、といっていいでしょう。夢と現実(もうひとつの現実)を攪乱したり、「物語」についての物語──といったメタ物語性などもポストモダン小説の典型的な特徴です。

べつに私はポストモダン文学が一律で嫌いなわけではありませんが、「あ~ "よくあるやつ" になっちまったかぁ~~」と残念に思いました。春樹のレトリカルな一人称叙述の文体のままで大きなものを語ろうと目論んでいてくれたほうが、それを最後まで貫いてくれたほうが、わたしは好きでした。
だって、春樹の文体は、空疎かもしれないけれど、きわめてオリジナルなことは疑いようがないから。文学的に優れているか、偉大かは置いておいて、春樹しか書けない文章の地平を切り開いて、かつ莫大な影響を後世に与えているのですから。

それなのに、第3部ではそれを半ば捨てて、20世紀後半に世界中で量産されたポストモダン文学のひとつ、後追いに成り下がってしまったように思えました。そちらのリングに上がってしまうと、どうしてもピンチョンギャディスに軍配が上がります。文章も圧倒的に高密度で面白いし、やろうとしていることもオリジナルかつハイレベルなので。

だから、第1・2部で可能性が少し見えた春樹の大それたオリジナルな試みが、第3部で一気に陳腐になったというか、分が悪い階級にわざわざ移ってしまったように思えました。

もちろん、第3部でも間宮中尉のシベリア拘留時代の話(手紙)とかはそれなりに面白かったのですが、それじゃあ結局「僕=トオル」の現代日本でのメインの物語(猫探し/妻探し)がたいして楽しめなかったことが浮き彫りになるだけなので・・・・(この形式を採らずに戦争小説や歴史小説をはじめから読めばいいじゃん、になってしまう)

第3部でコンピューターのパソコン通信が重要アイテムとしていきなり登場したのには時代を感じておもしろかったです。ロックマンエグゼ小説。
春樹の小説って基本的に無国籍的で無時代的(場所も時もニュートラル)だと言われがちですが、急に「「「「これは1995年に書かれた小説です」」」」と主張してきて笑いました。インターネット元年ですからね……

AIが登場するリチャード・パワーズ『ガラテイア2.2』も95年の同期ですし、なによりわれらがパスワードシリーズの第1作目もこの年なのだと気付いてテンション上がりました。
パソコン通信で画面越しの「あなた」と切実に対話する……『ねじまき鳥クロニクル』って実質『パスワードはひ・み・つ』だったんですね(爆


ストーリーはいつも通りよくわかんなかったです。
めっちゃ意味深でミステリアスなイメージやモチーフを散りばめて、「考察」は捗りそうだな~と思えど、そういうのはわたしの領分ではない=わたしの小説の読み方ではないので「わかんなかった」で終わる。

終盤はなんかトオルが、失踪して(実質)囚われている?妻クミコを救い出そうとヒロイックに奮闘したりしなかったりしていて、ワロタでした。マジでこの感想しかない。ラノベというか、エロゲだなぁと思いました。抽象的なエロゲ。
まぁ、95年といえばそれこそセカイ系の源流とされるエヴァの年でもありますから、なんかそういうよくある普遍的な想像力がこの世紀末の時期にとくに流行っていたのでしょう。
(春樹が好きなひとは逆にある種のエロゲに向いてると思います)

ミソジニー要素というか、女性キャラに関しては、たしかに言われてる通り、やけにキャラ立ちしたエロい女たち(「ヒロイン」たち)が次から次へと出てきて、男主人公にテレフォンセックスしかけてきたり、「あなたにレイプされるところを想像しちゃったの」と告げてくる16歳の不登校少女がマイクロビキニ見せつけてきたりキスしてきたり、夢でフェラチオされまくっていたり、妻からの寝取られレターを受け取ってみたり、人格排泄プレイとしか思えない描写で不感だった女がわからせられたり、快楽天もびっくりのエッチ要素が盛りだくさんでした。そういうのが好きな人は読んでもいいと思います。そりゃあ〈巫女〉的なものを女性に仮託しすぎているうえに、それらから好意を寄せられたり所有したりしようとする欲望がかなり直截にあらわれていて、ミソジニーできしょいな~とは思いますが、そんなの春樹の感想として1周目すぎるので、逆張りのわたしはただ「わろた」と書き残そうと思います。

で、けっきょく「悪」だか「敵」だかの存在はなんだったんですかね。綿谷ノボルがいちおう諸悪の根源っぽく描かれてはいましたが…… 綿谷家の呪い・因習・暗部と、間宮中尉やナツメグ父(獣医)らが体験した悲惨な戦争周りの話がどう繋がっているのか、どう繋げようとしているのか、そもそも繋げようとしているのか、なにもかもさっぱり分からなかったです。
ミステリアスに煙に巻いているので、そりゃあ掘り下げ甲斐があるというか、要素と要素をつなげればどんな星座(解釈)でも見いだせそうではありますが、そういうのは研究者とか100分で名著とか、好きなひとがやってください、といったかんじです。

ただ、やっぱり今のわたしには、本作で想定されている人間観や世界観がかなりナイーヴで陳腐なものに思えてしまいます。そもそも題名にある「ねじまき鳥」自体が、そういう鳥がいて世界のねじを巻いている……と、「世界」を単一の機構で成り立つきわめて素朴なシステムだとみなす想像力を前提にしているように思えます。また、なんか終盤では「物語」が……「想像力」が大事なんだ! うおおおおお!!的なノリが感じられましたが、そこから30年が経過した現代においてはまさにその「想像力」が陰謀論となって世界をますます悲惨で理不尽な状態に陥れています。「想像力があるひと」とはもっとも危うい人にほかなりません。(流石に30年前の小説に今の価値観でもって殴りつけるのはナンセンスかもですが、急速に古びてしまった作品である、という見方は一定できますよね)
そもそも善/悪の二項対立自体が本気で書いているとしたら信じがたいほどにナイーヴだった……戦時体制下における人間の残虐さとか、それを見せることが、それについて何かを語ることであるかのように開き直ってあぐらをかいているように思えました。そろそろ『神聖喜劇』とかを読みたいですね、ちゃんと。


そういえば「ねじまき鳥と火曜日の女たち」という短編が、本作の前身?になっていて、この短編のほうが出来がいい、という人が一定数いるようなので、そちらを読んだらここに感想を追記しま~す。



P.S.
笹原メイの脳内イメージが、謎にずっとブルアカのネルでした(あんま知らないキャラなんだけどな……)

https://game8.jp/blue-archive/643628

みんなの各キャラの脳内イメージも教えてね ♪




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