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掌編小説 | 突風

昼休みの始まりを告げるチャイムが鳴り響くと同時に羽沢はざわ芳美よしみは通学鞄を握りしめ、教室を飛び出した。昇降口に着くと、かかとを踏むのも構わずローファーを履き、校庭の方へ駆け出していく。

雲ひとつない秋空だった。学校指定のジャージを着た男子生徒が何人か、体育の授業で使ったのであろうハードルを片付けながら談笑している。芳美は心地よい太陽の下にいる彼らに目もくれず、真っ先に体育館裏へと向かう。

建物の巨大な影が日の光を遮り、一足先に冬が訪れたような静けさだった。昨日の大雨のせいで、まだ地面がぬかるんでいる。

芳美はコンクリートの上に腰をかけ、鞄から蓋のついた透明な瓶のようなものをそっと取り出し、その表面を眺めた。ひとしきり眺めると、瓶を膝の上に優しく置いた。鞄から近所のスーパーで九十円だった菓子パンを取り出し、一口かじりながら、指で瓶を撫でる。瓶を見つめる芳美の顔は、眠る我が子を眺める母親のようにほころんでいた。

芳美がいる場所から体育館の巨大な柱を挟んですぐ隣に、長内おさない茉央まおが膝を抱えて座っていた。茉央は金色に染め上げた長髪で顔を隠すようにして項垂れている。

薄暗い、湿った区画に、芳美がパンの包装をがさがさといわせる音と、茉央の消え入りそうな呼吸がしばらく響いていた。

二人のもとに、足音が次第に近づいてくる。茉央は顔を上げないまま眉をひそめた。彼女には、それが誰なのかすぐに分かったからだ。息の切らし方にも、いちいち律儀な、それでいて愚鈍な感じが滲んでいる。

やってきたのは、学級委員長の早瀬はやせ恵麻えまだ。恵麻は茉央の目の前に仁王立ちになり、その手を取ると無理やり立ち上がらせた。

「ねえ、なんでいつも授業中に出てっちゃうわけ? 今日なんて一時間目の終わりくらいから、どっか行っちゃったよね? 探しに来なきゃいけない私の身にもなってくれない? なんで私が、毎回毎回、あんたのために時間を割かなきゃいけないのよ!」

恵麻は眼鏡の奥の神経質そうな目元を引き攣らせて、唾を飛ばして口早に叫んだ。茉央は気怠そうに顔を上げると、恵麻を睨む。

「別に頼んでないから。ガリ勉の陰キャの癖に成績が大して良くないから、そうやって教師たちのパシリになってポイント稼いでるのは、あんたの都合でしょ」

恵麻は「は、はあ?」と顔を引き攣らせた。
茉央は耳のピアスを触りながら淡々と続ける。

「はっきり言うけど、もう迎えに来なくていいから。——って言っても、あいつらに頼まれたら断れないんでしょ? 可哀想な奴」

茉央は吐き棄てるように言うと、恵麻を置いて体育館裏から立ち去ろうとする。恵麻の顔が徐々に赤くなっていく。唇を噛んで拳を握りしめると、振り返って茉央の背中に叫んだ。

「そ、そ、そうやって私をバカにするけど、本当に可哀想なのはあんたでしょ。この前、見たんだよ、長内さんがホ、ホテルからスーツの男の人と——」

恵麻はそこまで言って口籠った。茉央は鼻で笑う。

「え、何? なんで顔真っ赤にしてるの? 処女?」

次の瞬間、恵麻は茉央の端正な鼻に拳を叩きつけていた。茉央は地面に派手に倒れた。制服のスカートとハイソックスに思いきり泥が付く。
「ぎゃあ!」と恵麻は自分で殴っておきながら叫んだ。茉央は呻きながら、泥に手をついて体を起こす。鼻を指先で拭うと、血が付いた。恵麻は泣きそうな顔で、握りしめた自らの手と茉央を交互に見ていた。

茉央はゆっくり立ち上がると、自分の尻の跡が残る泥を踏みつけ、恵麻の胸倉を掴んだ。その勢いのまま、恵麻の華奢な体を地面に放り投げる。運動神経の悪い恵麻は、バランスを取れずに正面から泥に倒れ込んだ。

体を起こそうとする恵麻の腰に、茉央が馬乗りになり、恵麻の髪を掴む。恵麻は抵抗して、無我夢中で茉央の顔に石を投げつけた。揉み合う二人は、見る見るうちに泥にまみれていく。壊れた眼鏡のガラスが、折れたつけ爪が、スマホが、財布が、下着が、泥に飲み込まれていく。

二人の真横で、芳美はとっくに昼食を食べ終え、熱心に瓶を眺め続けていた。芳美の持っている透明な瓶の中身は、表面が白い雪のようなもので覆われている。こんなにも美しいものが自分の手の中にあるのが、芳美は堪らなく誇らしく思う。

二人の殴り合いは、そう時間がかからずに終わった。恵麻は泥の上で丸まって倒れたまま動かなくなっていた。傍らに座る茉央は、肩で大きく呼吸している。

不意に、相手を黙らせたはずの茉央の瞳から、涙が溢れた。それは徐々に咽び泣きに変わっていく。悠長なチャイムの音が学校中に響き渡った。その音は体育館裏にも届き、茉央が泣く声をかき消す。

恵麻はなんとか自力で体を起こし、顔や制服についた泥もそのままに、うなだれている茉央の肩に触れる。
二人は互いに支え合いながらなんとか立ち上がり、足を引き摺りながらも歩き出した。

ふと、茉央が横を見る。目線の先の芳美は、まだ瓶を見つめていた。

「――それ、何?」

茉央が鼻をすすりながら、芳美に聞いた。
芳美は急に声をかけられて、少し飛び上がる。

「びっくりした……。急に話しかけないでよ」
「え、ごめん……。で、それ何?」
「菌糸瓶だけど」
「キンシビン?」

茉央と恵麻は声を揃えて聞いた。芳美は、二人の涙と傷と汚れまみれの顔を見て少し呆気にとられていたが、気を取り直し、ウウン! と咳払いをして説明を始めた。

「そう、菌糸瓶! パパから誕生日に買ってもらった、ギラファノコギリクワガタの幼虫が寝ているの! この白いのは――キノコ菌を植えた温かいオガクズでね、この中で、ゆっくりゆっくり、大きく育つんだ。キノコ農家の人がキノコを育てるために使う菌床ブロックを崩して、瓶に詰めたものなの。わたしが自分で、この白いお布団を用意して、幼虫を寝かせてあげたのよ。最初は菌を触るのに、ちょっとだけ抵抗があったんだけど、こうして見ると雪みたいで信じられないくらい綺麗じゃない? これ、菌が全体に行き渡るだけでも一週間以上かかるんだから。大変なのが、菌糸が再生しようとして活発になっている間は、温度が高すぎて幼虫が中に入っていってくれないのよ。目に見えないくらいの大きさの生き物にも体温があるだなんて、不思議だよね……。でも、手間をかけたおかげで、ほら、ここ、ここ! 見て! 幼虫が菌を食べた跡があるでしょ。しかも、ここだけ。これ、『居食い』っていって、うまく育ってる証拠なの!」

その時だった。突風が吹いた。
体育館裏の陰湿な地面のぬかるみを、一瞬で乾燥させるような強い風。
あまりにも急に、強く吹き付けたので、三人はつい身を寄せ合った。

風が止んでも、三人はお互いにしがみつき、顔を見つめ合ったまま、しばらく動けずにいた。

                                   了

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