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【いざ鎌倉(1)】1192年の源頼朝

鎌倉時代初期1192~1221年を解説していく連載第1回です。
連載の本論は「いざ鎌倉」の表題でナンバリングしていきます。

ナンバリングしたものだけを読んでいただければ、鎌倉時代初期の流れがわかるような構成にしたいと思います。
補足、余談のコラム的なものも、別途書くつもりです。
とりあえず構成の説明はここまでで、本題に移ります。


源頼朝、46歳

1192(建久3)年から書き進めるとなると、この人に初回で触れないわけにはいきません。

源頼朝。この年に数え年で46歳となります。

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歴史教科書でお馴染みの肖像画(神護寺所蔵)。
国宝です。
でも最近はこれ頼朝じゃなくて別の人だという説もあり、掲載されていない教科書も増えています。
これについては別の機会に書くと思います。

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最近はこっちの甲斐善光寺所蔵の木造の写真が使われる機会が増えてきています。

「1192年」、「源頼朝」のキーワードが並べば「イイクニつくろう」のごろ合わせが思い浮かぶ人は少なくないでしょう。
そうです。
この年に源頼朝は征夷大将軍に任じられます。

今回はその将軍就任までの頼朝の置かれた状況を超駆け足で振り返ります。

初陣で敗戦、そして罪人へ

源頼朝が生まれたのは久安3(1147)年。
父は河内源氏の武士・源義朝、母は今日まで皇室に伝わる三種の神器の一つ、草薙の剣を祀る熱田神宮の大宮司、藤原季範の娘でした。
頼朝には母の異なる兄が2人いましたが、皇室・貴族社会と繋がる母の家柄もあり、頼朝が嫡男としての扱いを受けて育ちます。
南関東を根拠地として活躍していた義朝が中央政界に進出できたのも、この頼朝母の実家熱田大宮司家の力と考えられます。

父の出世と母の実家の支援により、京都で順調に育った頼朝の人生に最初の危機が訪れたのは平治元 (1159)年のこと。
後白河上皇を支える貴族・武士が2つに分かれて争った平治の乱で父・義朝は平清盛に敗れ、敗走中に討ち死に。初陣を飾った頼朝も捕虜となりました。

処刑されて当然の頼朝を救ったのが、平清盛の継母(父の後妻)池禅尼でした。『平家物語』によれば、池禅尼は頼朝が亡くなった子の家盛の幼き頃に似ていたことで同情し、除名嘆願をしたとのことですが、どうやらこれも母の実家熱田大宮司家の裏工作があったようです。
命を救われた頼朝は流罪となり、21年の月日を京から離れた伊豆で送ることになります。

流人生活から一か八かの挙兵

頼朝が伊豆で流人生活を送る中、中央政界で勢力を拡大したのが平清盛率いる平家一門でした。
治承3(1180)年、平清盛は対立する関係になっていた後白河上皇を幽閉して院政を停止。翌年には自身の娘、建礼門院徳子が高倉天皇との間に産んだ言仁親王を天皇とします。第81代安徳天皇です。

天皇の外戚の地位を手に入れ、政界に敵なしとみえた清盛でしたが、安徳天皇の即位で皇位につく可能性が失われた後白河上皇の皇子・以仁王が源頼政を頼りとして挙兵を計画し、各地の源氏に挙兵を促します。
しかし、計画は事前に露見し、準備が整わぬままに戦いとなり、以仁王と頼政は平家に討たれました。

以仁王の挙兵の顛末は、京にいた頼朝の乳母の甥・三善康信によって頼朝へ知らされました。
康信は、伊豆の知行国主だった源頼政が死亡して清盛の正室の弟・平時忠が国主となったこと、そして平家が以仁王の令旨を受け取った源氏の討伐令を発したことで頼朝の命が危ういと考え、「奥州に逃げたほうがよい」と頼朝に助言します。
しかし、頼朝はこれに従わず、一か八かの挙兵を選択。知行国主交代により平家の家人に利権を奪われる危機にあった在地の武士たちがこれに応じます。
執権北条氏の祖・北条時政もその一人と考えられます。なお、頼朝はこの流人時代に時政の娘・政子と結婚しています。


天下落居

ここからの源平合戦の詳細は省略しましょう。
同じ源氏一門の木曽義仲との対決を挟み、弟・源義経の活躍で平家が壇ノ浦に滅んだのは 文治元(1185)年のこと。
挙兵から2か月後に頼朝は鎌倉に入り、この地を本拠と定めると、その後、鎌倉を離れることなく、政務と戦争を続けました。東北の平泉に拠点を構える奥州藤原氏が平家に味方することを警戒し、鎌倉を離れることが出来なかったとも言われます。

その奥州藤原氏は、源平の戦いでは中立を維持しましたが、兄頼朝追討の挙兵に失敗して逃亡した義経をかくまったことで、頼朝との関係は悪化します。
対決姿勢を強める頼朝に窮した奥州藤原氏は義経を討つも、時すでに遅く、1189(文治5)年、頼朝は9年ぶりに自ら大軍を率いて出陣し、奥州藤原氏を滅ぼします。

同族の木曽義仲、平家一門、奥州藤原氏を滅ぼしたことで、軍事的に頼朝に対抗できる存在はいなくなりました。

貴族社会との完全決別

奥州藤原氏を滅ぼした翌年の建久元 (1190)年11月7日、頼朝は京都へ上洛します。流罪となって都を離れてから30年が経っていました。

京でのおよそ1か月の滞在中、頼朝は権大納言右近衛大将に相次いで任じられます。
後白河法皇による、動乱を終わらせた頼朝への恩賞でした。しかし、頼朝は12月1日に拝賀に臨み朝廷に礼を申し述べると、わずか2日後の12月3日には電撃辞任し、12月14日には京を発って鎌倉へと戻ります。

権大納言も右近衛大将も、朝廷で政務と儀式に臨まなければならない重職であり、いまや東国武士社会の長となり、京に拠点を移す気のない頼朝が長期に務めることはありえない官職でした。
頼朝は、この時に平家一門や父・義朝のように京都の貴族社会で生きる道と決別し、関東で独自に築いた武家政権の長として君臨する道を選んだといえるでしょう。

戦時体制を平時の体制へ

「打倒平家」で武士たちを結びつけるために押し進めた諸施策・諸制度を平和となった社会にどのように位置づけ、定着させるのか。
これが戦後の源頼朝の最大の課題となります。これは、いま我々が「鎌倉幕府」と認識しているものをつくる試みと同義と言っていいでしょう。
1192年の源頼朝はその挑戦への道半ばにいました。

その課題に挑む中、京で政務や儀式に臨まなくて良い、その上で平時にも武士たちを従える長としてふさわしい十分な格のある官職を頼朝は求めるようになります。
頼朝の期待に応えるものとして朝廷が選んだ官職、それが征夷大将軍でした。
建久3(1192)年7月12日、頼朝は征夷大将軍に任じられます。

そして任じた天皇こそ、これより30年後に頼朝の築いた武家政権と軍事的に対決することになる後鳥羽天皇その人でした。

次回予告

この流れですから当然次回は「1192年の後鳥羽天皇」となります。

余談ですが、今回も次回もタイトルに採用している「1192年の〇〇」はノンフィクション作家・柳澤健氏の著作のオマージュです。

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