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【いざ鎌倉(23)】天才・後鳥羽上皇、理想の美しき世界 その2

さて前回は後鳥羽院が強い思い入れを持って編纂を命じた『新古今和歌集』について解説しました。

今回も後鳥羽院について解説を進めますが、今回は『新古今集』以外の後鳥羽院の活動について。
既に天皇を退位し、上皇として院政を行う後鳥羽院ですが、年齢はまだ20代後半に差し掛かったころ。活力が満ちています。

表題のとおり第14回の続きでもあります。

後鳥羽院の琵琶

『新古今和歌集』が竟宴を迎える直前、並行して後鳥羽院が熱心に取り組んだのが楽器の琵琶でした。
平安時代屈指の音楽家とされる藤原師永の高弟・二条定輔が師を務めました。
これまでも琵琶を愛好する天皇はいましたが、それはせいぜい趣味で少し嗜む程度でした。
しかし、後鳥羽院は琵琶の習熟に熱心に取り組み、その技量は趣味のレベルを超えていきます。
師の定輔は後鳥羽院の技量に応じ、次々と琵琶の秘曲を伝授しました。
元久2(1205)年1月に「石上流泉」、2月に「上原石上流泉」、3月に「楊真操」、6月には最秘曲「啄木」の伝授を受け、後鳥羽院は琵琶を極めてしまいます。

なお、この年の正月の土御門天皇による朝覲行幸(天皇が上皇を年始の挨拶で訪れること)では、迎えた後鳥羽院が琵琶の名器「玄上」を演奏しています。
「玄上」は第62代村上天皇より伝わる御物であり、普段は内裏からの持ち出しが禁じられ、限られたときにしか演奏されない宝物でした。
後鳥羽院の名器を演奏するに足る自身の技量への自信を感じます。
師の二条定輔も後に「玄上」を引くことを許され、順徳天皇の師も務めることになりますが、政治的功績なしに琵琶の腕前だけで出世し、他の貴族からはあまり良く思われていなかったようです。

後鳥羽院の運動

後鳥羽院は和歌、琵琶といった文化的素養だけでなく、体力的にも優れた人でした。
とくに蹴鞠はトップレベルの実力だったようです。
「蹴聖」藤原成通の猶子・泰通、後に「飛鳥井流蹴鞠」の祖となる飛鳥井雅経といった貴族と研鑽を積み、蹴鞠の「長者」の称号を贈られました。
なお、幕府の2代将軍源頼家も蹴鞠を好んだことは既に紹介しましたが、頼家に仕えた蹴鞠の名手・紀行景、「算術無双」源性といった人々もこの頃には京へと戻り、後鳥羽院と蹴鞠をプレイしています。

蹴鞠の他にも後鳥羽院を運動を好み、御所を離れて離宮に静養に出かければ水泳、乗馬、狩猟とエネルギッシュにこなしました。
後鳥羽院はとにかく仕事も趣味も全てが全力です。
才能と好奇心とエネルギーが結集したような人で、周囲の近臣は付いていくのがさぞ大変だったことでしょう。

最勝四天王院の建立

『新古今集』が竟宴を終え、琵琶の秘曲を極めた頃に後鳥羽院が着手を始めたのが、自らの発願による寺院の建立です。
後に最勝四天王院と名付けられるその寺院はこの年の4月、天台座主・慈円より三条通白河の土地を献上されたことにより、建立が始まります。

最勝四天王院は現存しておらず、どのような寺院であったか多くのことがわかっていません。
ただ、寺院の障子(襖障子)には46か所の日本の名所(歌枕)が描かれ、合わせてその名所を詠んだ和歌が書き込まれたと記録されています。
ただ、当時は今日のように写真や映像で簡単に名所の風景を見られるわけではありません。畿内以外の名所の多くは絵師にとっても歌人にとっても空想上の風景でした。

和歌の名手・藤原定家がプロデュースを担当し、後鳥羽院を含む10人の歌人が46か所全てについて一首ずつ詠み、集まった460首から後鳥羽院が46首を選びました。その内、特に優れた和歌13首は、後鳥羽院の指示で『新古今集』にも加えられることになります。
こうして次から次へと後鳥羽院より指示される『新古今集』の改訂作業に、定家ら撰者たちはたびたび頭を抱えました。

とにかく、名所絵と和歌の融合により後鳥羽院が理想とする美しき世界が寺院として形作られます。
最勝四天王院は、理想の政治に不可欠な王法と仏法の調和そのものであり、後鳥羽院の権威の象徴として承元元(1207)年11月29日に完成しました。

後鳥羽院と浄土宗

ただ、後鳥羽院が重んずる仏法は顕密仏教(天台・真言と南都六宗の8宗派)の教えを意味しており、まだまだ新興の念仏宗については後鳥羽院も異端視していました。

当時、後に浄土宗の開祖と仰がれる法然が「南無阿弥陀仏」をひたすら唱える「専修念仏」の教えを広め、一大ムーブメントとなっていました。

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法然

念仏自体は法然以前にも存在した教えでしたが、法然は「凡夫は念仏でしか極楽往生できない」と念仏を絶対視する教えを広めたことにより、顕密仏教から厳しく批判されました。
仏教界では元久元年(1204年)10月には延暦寺が、翌年9月に興福寺が念仏停止の要望書を朝廷に提出してします。
ただ、貴族社会にも法然の教えは広まりつつあり、後鳥羽院も対応に苦慮していました。

そんな中、後鳥羽院が専修念仏弾圧に踏み切る事件が起こります。
建永元(1206)年12月頃、後鳥羽院が熊野詣のために京を離れていた日、院の女房たちが法然門下の念仏会に参加し、僧侶2人を御所に招き入れ宿泊させてしまいます。
女房達が自分の不在中に男性を宿泊させ、しかも勝手に出家して尼になる者まで出たことに後鳥羽院は激怒しました。
建永2(1207)年2月、後鳥羽院は専修念仏の停止を決定し、御所に宿泊した僧2名を含む4名が死罪、師の法然と弟子7人が流罪となりました。
なお、7人の弟子には後の浄土真宗の開祖・親鸞も含まれています。法然は讃岐、親鸞は越後に配流となり、師弟にとってはこの流罪が今生の別れとなりました。

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親鸞

この時、法然らの赦免に動いたのが、政界を引退し、法然の信徒となっていた元関白の九条兼実であったことは過去の投稿「人物伝:九条兼実」でも書いたとおりです。
さすがに無罪とすることはできませんでしたが、兼実の働きかけにより法然の配流先は土佐から九条家領の讃岐へ変更となっています。

なお、兼実の次男で『新古今集』の仮名序を書いた摂政・九条良経は前年3月に急死しており、兼実もこの年、法然の配流を見届けたのち他界しました。享年59歳。

次回予告

次回は幕府に話を戻します。
将軍として成長する源実朝について。

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