花嫁にならず、母を描いた──上村松園の静かな闘い…男不在・子と女ひとりの一生
松園は《人生の花》発表の2年後、結婚という形式を持たず男児を出産し、未婚の母となった。松園は、実人生でその作品に描かれた新婦を演じる機会を失い、親類からは絶縁される。さらに、松園は当時、画壇で注目を浴びる未婚の若き女性日本画家として、激しい罵詈雑言を浴びた。

1・「人生の花」を描いたひと──上村松園という生き方
《人生の花》と題された絵がある。画家の名は、上村松園(うえむら・しょうえん/1875-1949)。描いた当時残っていた京都の古き良き花嫁風俗を主題としている。
花嫁は黒振袖に丸帯を締め、髪型は文金高島田に角隠しを被る。奥に並ぶ年配の女性は、丸髷の髪、剃り落とした眉など、象徴的な既婚女性の装いで、おそらくは花嫁の母であろう。支度を終えて婚礼の式場へ向かう場面、または花嫁と姑が祝礼のお礼をして廻る一場面とわかる。
今では和装の婚礼といえば「白無垢」であるが、「誰にも染まらない」という意味のある黒地の振袖は格式の高い花嫁衣装として、明治から昭和にかけて普及していた。

この《人生の花》(1899年)と同じ構図で描かれた《花ざかり》(所在不明)は、東京上野で開かれた第9回日本絵画協会・第4回日本美術院連合絵画共進会(1900年)に出品された。
《花ざかり》は、松園の師匠であった鈴木松年(1848-1918/京都・日本画家)よりも上席である銀牌三席を受賞する。寺崎広業や鏑木清方ら東京の画家に認められ、美術界で名声を博すこととなり、これが松園の出世作となった。
時代は明治、若い女性が日本画の世界で評価を受けることは、重い足枷でもあった。
さらに松園は、この作品発表の2年後(1902年)、結婚という形式を持たず男児を出産し、未婚の母となった。松園は、実人生で《人生の花》で描かれた新婦を演じる機会を失い、親類からは絶縁される。さらに、松園は当時、画壇で注目を浴びる未婚の若き女性日本画家として、激しい罵詈雑言を浴びた。当時の雑誌や新聞で、無記名・匿名の投書が残っている。

《人生の花》の画面には、父も新郎も登場しない。それどころか、松園の全画業の中でも画面の中心に男性が登場することは稀である。
ここに松園の信念と、意志の強さを感じる。それ以上に──
”清らかで気品があって、しかも凛とした強さを持った女性像を描きたい”
と語った松園の人生の根底に流れる宿命のようなものさえ伝わってくる。
松園は、現実の花嫁になることはなかった。しかし、彼女が描いた花嫁像には、静かに揺るぎない覚悟と精神の清廉さが宿っている。その姿は、彼女自身が絵筆を通して生きた《人生の花》そのものなのだ。
2・母を描き、「男」を描かなかった画家 ──〈近代〉という牢獄
2025年春、大阪中之島美術館で開催された《生誕150年 上村松園展》。私はあらためてこの画家と向き合うことになった。
これまでにも松園の作品を数多く目にして来た。たとえば東京・広尾にある山種美術館の多数の所蔵作品で、何度も目にする機会はあった。だが私にとって松園は、正直に言えば、それまであまり惹かれたことがなかった。
だが、私は上村松園の《人生の花》の前に立ったとき、目が醒めるような感覚で、この「近代・女性・日本画家」を再発見することになった。
節目の回顧展という形式がもたらすのは、個々の作品を鑑賞する以上の体験──すなわち、一人の画家の生涯を“通して”見るという視座なのである。

1875年(明治8年)上村松園、本名・津祢(つね)は、現在の京都市中京区に生まれた。彼女が誕生する2ヶ月前に父は亡くなっている。生まれながらに、すでに「父・男性の不在」のなかから人生が始まっている。
松園は女手ひとつで育てられた。女性が一人前の画家として名を成すなど、夢物語にすぎなかった明治の時代、母一人奮闘し、娘は筆を握り続けた。やがて鈴木松年の門を叩き、京都画壇の最高峰・竹内栖鳳にも師事する。美術業界のしがらみの中、切磋琢磨し、のちに女性初の帝室技芸員(現・人間国宝相当)にまで上り詰める。
松園の母・仲子は1934年(昭和9年)、86歳で没した。江戸末期に生まれた母は、父から受け継いだ京都の呉服屋の娘で、二度結婚している。
前夫との間に一女がいたが、放蕩を重ねた男を見限り離縁している。だが再婚した松園の父・長兵衛も、勤勉な働き者であったが、松園が胎内にいる間に亡くなった。その後、松園の4歳上の姉と松園を女手一つで育て上げ、絵を描くことに夢中であった松園を、絵師の道に進ませた。松園の信念の強さは、この母から継承されている。

《青眉》(1934年)は、母・仲子の喪の直後に描かれた。
明治初期の頃までは、子を産んだ女性の多くは眉を剃り落として、鉄漿(お歯黒)をつける習慣があった。松園の母・仲子は毎日のように剃刀をあてて眉の手入れをしていたという。
私のいままで描いた絵の青眉の女の眉は全部これ母の青眉であると言ってよい。青眉の中には私の美しい夢が宿っている。

同じ年に描かれた傑作《母子》(1934年)の乳児を抱く母も、青眉、鉄漿(お歯黒)である。子を抱く母の姿は慈愛に満ちているが、見る者の感情を誘導するような劇的演出を拒んでいる。この静謐さは、松園自身の実人生を通じて見出された〈精神的重心〉である。
西洋における聖母マリアとキリスト幼像の母子像とは異なり、この母は日々の労苦のなかで確固たる気高さを失わなかった、現実に生きる母の姿である。画壇で注目され、直後に未婚の母となった松園。生涯、画業に打ち込んだ松園の育児を支えたのも松園の母であった。

3・上村松篁が語った父のこと──師匠と女性画家、そして母の涙
私生児として生まれた松園の長男は、のちに画家・上村松篁(うえむら・しょうこう/1902-2001)となる。松篁にも、生まれながら父という存在がなかった。
その父親──つまり松園が未婚の母となった相手──のことを、息子である松篁自身が生前のインタビュー記事でこう語っている。
父が鈴木松年であることを、私はよく知っています。そう、あれは小学校を卒業して美術工芸学校に入学してからのことだったから、十三歳くらいでしたか、おばあさんに二階に挨拶に行ってくるように言われて、父に初めて会ったんです。突然のことでした。それまでに父の名は家で聞いていましたけれど、全然会うたこともなかったので。でも、会ったからといって何ともありませんでした。そんなもんなんです。


母・松園が、未婚の母となった相手は、師匠であった日本画家・鈴木松年であった。ならば松篁とは、日本の画壇で生き抜いた孤高の母の精神性を受け継いだ、芸術家サラブレッドであったと言えよう。
鈴木松年、上村松園、上村松篁、そしてその孫の画家・上村淳之(1933-2024)へと受け継がれた三代から四代に渡る運命的背景を、あらためて俯瞰するとき、そこに立ち並ぶ絵師たちの描き出す美術の力は、さらに一層深く、強く感じ受け取ることも可能だろう。
もう一つ加えれば、松年の父は幕末から明治にかけて活躍した絵師、鈴木派の祖・鈴木百年(1828-1891)であった。そしてその父は、儒学者・天文・易学者、鈴木星海(1782-1862)という家系でなのである。

松篁は、そんな運命に翻弄され強く生きた母・松園の悲哀をインタビューの中で続けてこう語っている。
それでも、よくまあ、あのような小さな女が、めげずにシャンとして生きていたなとつくづく思います。 若いときのことを思い出して涙を流してはったのを見たこともある。何せ、明治期、女性で絵描きになろうというのだから、絵の修行以外のところで悔しい思いをすることも多かったようです。早くから絵を認められたから、男どもが嫉妬するらしい。
絵の先生の所に、塾生それぞれが筆や紙などをしまう文庫を置いていた。母は小さい人ですから、塾に行くと、自分の手の届かない高い場所に置かれていたり。塾生たちと写生に行っても、うっかりすると自分だけ置いてけぼりにされたり。そんなことが幾度もあったらしい。こんなことでへこたれたらだめ、それも自分の励みになったんでしょう。

4・「描くこと」が人生だった──上村松園、母として、画家として
『薔薇のイコロジー』『イメージを読む』など美術史図像学の名著を残している西洋美術史家の若桑みどりは、『女性画家列伝』(岩波新書1985年刊)のなかで、上村松園を取り上げ、ある意味、日本の画壇に向けてこのように鋭い意見を述べている。
父がいなかったことが、松園の場合には、普通に”嫁にやられ”ずに、画家に精進する条件になった。画業に才能を示してからは、彼女は母親の人生の代行者として、精神上の「夫」として、一家のあるじとして「男」の生涯を生き抜いたのだ。彼女が私生児を産んだとしても、その父が師の松年であることはみなが知っていることだし、そういうと叱責を受けるだろうが、日本画壇というものは封建的なものであるから、松園が私生児をもうけたのは、自由な恋愛の結実というよりは、逆に、一夫一婦制の市民社会が確率する以前のもっと古く封建的な男女関係というふうに見える。
若桑はさらに続けてこう書き記す。

母子三世代に及ぶ共同体の中核としてすべてを支えぬくその苦労は、一家をかまえた日本の男性のそれと同じであって、甘えきった女のそれではまったくない。
与えられた状況がどうあれ、彼女は、亡き父の家の支柱であったし、子供を儲けてからは母と子を養う中心であった。母親が甲斐甲斐しく彼女を助けて、彼女が働けるように子供を育ててくれたから、彼女の画業も可能であったのだが、彼女は、自分一人ではなく家庭のすべてのことをその肩にしっかりと負っていたのだ。
若桑の指摘は、1980年代フェミニズムの視点をもって、松園を“封建的構造を逆手に取って画業を全うした女性”と捉えている。これはおそらく80年代の日本、バブル景気に浮かれ始めた日本の男性社会に向けて、日本画家・上村松園の生涯の信念を代弁した女性・西洋美術史家の強い言葉だったといえるかもしれない。
だが今、私たちが再び松園に向き合うとき、彼女の生き方は単に制度の中での“男性的役割”の獲得に留まらない、もっと複層的な”確かな力”を持っているように思える。
(了)



〈生誕150年記念 上村松園〉展
2025年3月29日(土) – 2025年6月1日(日) 大阪中之島美術館
【東京でも上村松園見れます!】
〈生誕150年記念 上村松園と麗しき女性たち〉
2025年5月17日(土)~7月27日(日) 山種美術館

〈生誕150年記念 上村松園と麗しき女性たち〉展/山種美術館
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