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「あい」 なんて しらねぇよ。

マスが埋まらぬうちに、真っ黒にされたオセロ。

「ほらな?アンタの心は、こんなに真っ黒やねん。アンタはな?全然優しくないねん。」

私は、軽く絶望した。

これは、私の心を具現化したオセロ。
目の前に差し出される、真っ黒たち。

ビニールカーテンをひかれたように、途端に目の前の光景が、現実なのか夢なのか、分からないような、ふわふわとした心地になった。



私自身の行動が、「心の底からの愛」によるものなのか、「社会のマナーに照らし合わせた偽善」によるものなのか。
きっとすべて偽善だ。
私は偽善者なんだ。
それも、すみからすみまで。
私の本質は、どうしようもない真っ黒だ。

私の私への信用のなさは、あのオセロが始まりだったように思う。


どこにいても、自信がなかった。

四半世紀以上。

自分のなかの真っ黒が、外にとろけ出さないように。
白 または ピンク を纏って。
あたかも、そこに、誰もが持ち合わせるであろう「あい」があるように見せかけて。


母が体調を崩す。
私は、母のお世話をしたり、両親の居住部分の家事をしたりする。
「大丈夫?調子はどう?」なんて心配する様子も見せる。
これは、はたして「あい」なのか、単なる「義務」「偽善」なのか。
自信がない。


娘のお世話をする。
生まれたその日から。
体重の増減に気をつけ、離乳食に工夫を凝らし、肌が荒れないように気をつけ、成長過程で必要な躾をし、今では幼稚園や学校行事、習い事の送迎などに奔走している。
娘を大切に育てているように褒められることもあるけれど、これが「あい」からなのか、周りからの私を見る目を意識した「エゴ」からなのかは、分からない。


幼稚園のボランティア。
人が足りないから助けてほしい、もしくはリーダーを引き受けてほしいと言われれば、引き受ける。
みんな忙しい。都合がある。お互い様。
友達は、そんな私を優しい 、「あい」がある、と言う。
そうだろうか。
見て見ぬふりできぬ偽善者っぷりを発揮しているのだ、なんて、心の中で自嘲する。


前職。
下半身と左半身に麻痺がある障がい者雇用の後輩が、無事に研修に行けるように、前例がないなか、色々な部署と交渉して、往復の手段を確保した。
一部の人からは賞賛されたが、やはり、その根底に「あい」があったのかは分からない。
ただ、「筋書きおかしいだろ!」という怒りや正義感はあったように思う。



そうだ、正義感。


私の、正義感。
ひとつの物事に対して、行動に対して、私自身が「好く」か「好かん」か。
私の行動の分岐点は、その「好く」か「好かん」か、といった自分なりの正義感にあったように思う。


母親の体調不良を放っておくことも、娘のお世話をおざなりにすることも、幼稚園のボランティアを聞いて聞かぬふりをすることも、前例がないからといって障がい者雇用の後輩の研修について見て見ぬふりをすることも、どれも私の「好かん」ことだった。


人には、人の数だけ常識があって、正義がある。
私には、「あい」があるのか自信はないけれど、自分なりの正義に突き動かされて生きてきた自覚はある。
「あい」についてはいったん横に置いておいて、自分のなかにあった自分なりの正義…、私は、これを信じてみることから始めてみてもいいのではないだろうか。
真っ黒のオセロは、まだまだ脳裏から消え去ってはくれないけれど。




「あい」なんて しらねぇよ。



自分のやっていること、そこに「あい」があるかなんて考え出すから、ややこしくなる。
そこに本物の「あい」があるのか、あるいは「偽善」や「エゴ」があるだけなのかで悩むのはもうやめる。

「あい」なんて しらねぇよ。




私は、私の正義で走っていく。



#モノカキングダム2025




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