渡さなかったもの
7年前、左胸を思い切り殴られた
水が滴る調理場の床に、背中から倒れる
肋骨が歪み、息が漏れる
それでも私は、沈黙を選んだ
職場で先輩が、後輩達の陰口を私に言う
私は、陰口を聞かされるのが嫌だった
2人も辞めに追い込んでおいて
平然と笑っている先輩
一人辞めれば、また違う後輩が先輩のターゲットとなる
何がそんなに不満なのかな
なんで、笑っているんだろう
面白いことなんて、何一つないのに
先輩の声は調理場全体に響くほどでかい
私は一度、先輩を咎めた
「その声量だと、本人に聞こえてしまいます」
「聞こえる様に言ってんだよ」
さも当たり前の様に、そう言い返されてしまった
後輩は、数日後に調理場から居なくなった
ストレスで入院
先輩がこの調理場に来てから、3人目
先輩は悪びれることもなく
辞めていった後輩達を悪く言う
「居なくなってせいせいするよな」
私は、先輩の言う事を聞くのがバカらしくなった
私は、その時に決めた
もう、この人には従わない
先輩がまとめるようになった店の原価表
私は、私の担当部署の原価表を渡さなかった
そんな事をすれば、
どうなるのかなんて分かっていた
先輩は、私の方に寄ってこなくなった
私の近くで、誰かの陰口は聞こえなくなった
代わりに、遠くから私の陰口が聴こえる様になった
こうなる事を、自ら望んだ
陰口を言うくらいなら、言われたほうがいい
原価表は、渡さない
その代わり、心臓を思い切り殴られた
次の日の朝、起きると激痛が走った
体を少し動かすだけで、脂汗が出てくる
肋骨が歪みながらも、仕事をした
仕込みは思う様に進まない
「仕込み、俺がやるから金を払え
俺の時間を使うんだ、対価がいるだろ」
先輩が「チャリン」と言えば、
500円を払わなければいけない
私の仕込みを勝手に持っていき、
お金を請求される
私は、次の月も原価表を渡さなかった
その次も、その次も、毎月渡さなかった
先輩の矛先は、私一人に向けられる様になった
焼き肉を奢らされ、
飲み代も奢らされ、
財布を奪い取られ、
飲み会の席では、土下座を強要される
頭痛が毎日鳴り響いてやまない
でも、原価表は渡さない
次第に、先輩の声が私には聞こえづらくなった
先輩の言葉だけ、聞き取りづらい
「補聴器を買え」と言われ続けた
お金を取られることなどを、
その時の料理長に相談したこともある
「俺もやってたな」
武勇伝ではない武勇伝を聞いて終わった
財布を取り上げられた時は、訴えようか迷った
「帰りがけに何も食うな、財布を寄越せ」
抵抗したが、財布は取りあげられた
温情でPASMOは返された
定期切れのPASMO
家に帰ることは叶わなかった
次の日の朝に、財布は返された
チャックがなくなった財布
結局私が、先輩に原価表を渡すことはなかった
先輩がまた別の店舗へ移るまで耐えつづけた
あの時、私が渡さなかったもの
先輩は原価表だと思っているのだろうが、違う
あの原価表は、私だった
私が、
私を明け渡さなかった
あの日、私は嫌われる事を選んだ
この選択が、間違いだったとは思わない
後悔はない
