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ドライブインなみま|小説 ホットケーキ編


【あらすじ】
田舎の海沿いにあるドライブインなみま。その飲食店から立ち昇るやさしい匂いは時間を超えて、どこかにつながっている。
恋はするものではなく、落ちるもの。いつの時代もそれはかわりません。どんなに時間は流れようとも、決して消えない想いがある。硬く閉ざした記憶が展くとき、それぞれの想いが降り注ぐ。ヒューマンラブストーリー。




「はるの、ゆきはとけて、ないなる。わたしを、おいて。」

母さんの発音は不明瞭になりつつある。ひとつずつ、言葉の角が欠けて丸味を帯びてきた。漢字よりもひらがなに近い音感は鮮明な意味から抜け出した言霊のようだ。まるでうちの庭に咲きはじめた芍薬に似ている。薄もも色の花びらはたおやかにふくらみ、風が気づかないほどやわらかく、季節が過ぎれば潔く散る、芍薬のような母さんの言葉。もしかしたら、母さんのこころの底には芍薬の種が眠りつづけていたのかもしれない。それが長い眠りから醒め、開花して、とてもまろやかな言葉になった。

母さんが大切に育てていた芍薬。庭の二分咲きの芍薬を今朝、剪定した。それを母さんのいる介護施設の洗面所をお借りして生けた。芍薬へ近づくと甘い匂いがする。私は、片付けをして母さんのいる部屋へ向かった。

いまの母さんの言葉は、意味を超えて私のこころへしんしんと降る。このからだの内側の、元あるところへ還るように。不思議だ。

私の知る母さんは、いつもパリッとしていた。女手一つで幼い私を育てながらひとりでドライブインなみまという飲食店をはじめた。店を切り盛りしてゆくためには判断と即決と時間との闘いであり、それにプラスしてスピードと丁寧さを合わせてお客さんに提供しなければならない。そのために母さんの言葉は端的で的確だった。誰にでもわかるように短く伝える。言葉は短くなればなるほど、強く鋭くなる。仕事中の母さんはいつも鋭くあろうとしていた。だから私は、幼心に仕事中の母さんには話しかけなかった。あの頃は怖くてそうしていたけれど、自分が店を切り盛りするようになると、その理由がとてもわかる。そうしなければ、お客さんや従業員の体験を良いものにはできないのだ。最善を尽くすためにはたくさんの犠牲を払わなけばならない。母さんにはその覚悟があった。でもいまの母さんはそれから解放されていた。

私は部屋に戻り、キャビネットの台へ花瓶を置いた。すると母さんは、枕に沈んだ頭を斜め上に傾けて芍薬を見上げた。遠くへ焦点を合わせるように目を細める。そして花を嗅ぐ仕草をしたあとに、ベッドに貼りついた手をすこしだけ挙げた。私は花瓶を持ち、芍薬が母さんの手に届くように近づけた。

「ほら、芍薬よ。母さん好きやから、庭の二分咲きを剪定してん。さわりたいん?」

私がそう訊ねると、母さんは中指と薬指の先でやわらかい花びらにふれた。波紋のように震える花びら。すると母さんの眉はハの字に動いた。その表情はうれしいよりもかなしいが近かった。

「はるの、ゆきは、とけて、ないなる。わたしを、おいて。」

母さんは穴が空いたところにピースを合わせるように、さきほどの言葉をくりかえした。そして挙げた手を脱力するようにベッドへ戻した。

「うん?もういいん?」

私がそう問いかけるけれど、母さんは傾けた顔を戻して目を閉じた。なにかを諦めたようにも、とても疲れたようにも、大切なものを失くしたようにも見えた。小さなブラックホールが母さんを吸い込む気がした。母さんの伝えたいのに伝わらないもどかしさと、それを受け取れずさまよう気持ちがわたしたちを往来した。

母さんは目を閉じたまま、その眉はすこしずつ元へ戻った。私は、花瓶をキャビネットの上へ戻したあとに、よれた母さんの前髪を人差し指でそっと直した。母さんの髪の毛は白く発光して、とてもきれいだ。いつもそう思いながら櫛でとかしている。

深い呼吸に合わせて母さんの頬と胸がゆれて眠りに就いたことがわかると、私はその静かな手をかけ布団の中へ入れた。そして静かに椅子へ座り、芍薬を見上げた。

母さんの話した言葉の意味を胸の奥で探した。けれど、やはり糸口すら見つからなかった。私に話したかったのか、それとも誰か別の人に話したかったのか定かではないけれど、私は母さんが誰に伝えたとしても、その内側に広がる世界がやさしいものであふれていれば、それだけでいいと思う。ほんとうは話したいことは山ほどある。でも、それよりこうして母さんの髪の毛を櫛でとかしたり、手足をマッサージしたり、そばで本を読めることは、なによりも尊い時間だ。

私は立ち上がり窓を開けた。網戸越しにさわやかな風が吹いて、部屋に溜まる独特の閉塞感は流れた。風は母さんのきれいな白髪をやさしくなでてゆく。私はバッグから本を取り出して読みはじめた。

すると、介護士の牧田さんが「こんにちは。」と元気にあいさつしながら病室へ入ってきた。牧田さんは母さんが寝ていることを確認すると肩をすくめて人差し指を口の前へ持っていき「しーっ、ですね。」と小声で話した。そして流れるように体温計を母さんの脇にはさんだ。すぐに体温計がピピピと鳴く。

「はい、36.4度、平熱。ではごゆっくりしてください。」

牧田さんはささやくように話して、私がお礼を伝えると軽やかに病室をあとにした。私は静かな空間で手元の本に意識を戻した。

読みはじめは文章がにじむ。目を細めて本を離したり近づけたりを繰り返して、ちょうどいいところへ合わせる時間がもったいないと感じて、すぐに老眼鏡をバッグから取り出してかけた。幾分、見える過ぎる文章でも、そのうちにそれすら気にならないほど、意識は本の中へ没入する。

ふいに背中へ冷たい風が吹く。振り返り窓の外を見ると、遠雷が聞こえた。私は窓を閉めて空を覗うと、すぐに雨粒が窓を打ちはじめた。ひと粒、ふたつ粒。そのあとは数えきれない雨が景色を埋めた。時計を見ると午後2時前だった。

私はふいに店のことが気になり、娘のなつに電話を入れた。2コール目で電話に出たなつに店のことを訊いた。するとなつは小声で話した。

「店は大丈夫。いまわたしも電話しようと思っててん。母さんにお客さん来てて。店で待ってもらってるんやけど、いまからこっちに戻れる?」

「お客さん?知ってる人?」

「いや、知らんねん。東京からきたみたいで。」

「ほんならいまから戻るわ。待っててもらって。」

「わかった。じゃあ運転気いつけて。」

私は電話を切った。そして寝ている母さんに「ちょっと店に戻るわ。また来るから。」と伝えて病室をあとにした。

激しさを増す雨にバッグを傘がわりにして車まで走った。水たまりでスニーカーが濡れる。近づく雷は稲妻でその姿を現した。大きな雷鳴が頭上に響く。私は速まる雨から逃げるように車内へ飛び込んだ。タオルで洋服を軽く拭いてエンジンを点けると、雨が作るフロントガラスの模様をワイパーで流した。そして母さんの病室の窓を見てから介護施設をあとにした。



𓂅𓎩𓌉𓇋𓐊𓂅𓎩𓌉𓇋𓐊𓂅𓎩𓌉𓇋𓐊𓂅𓎩𓌉𓇋𓐊𓂅𓎩𓌉𓇋𓐊𓂅𓎩𓌉𓇋𓐊



かなしみは水でできていると知ったときには、すでに水浸しになっていた。歳を重ねるということはこの世の秩序に慣れ親しむはずなのに、わたしはいつまで経っても慣れることはなかった。わたしはいつもかなしみでずぶ濡れだった。

男の子たちは裸で海へ飛び込み、潜り、海面へ頭を出すと楽しそうに「ああああ!」と叫んだ。とても原始的なその反応に対して、わたしの底がうずうずした。わたしたち姉妹は、名前も知らない男の子たちを砂浜で眺めていた。わたしもいますぐに裸のまま飛び込みたかった。しかし父親はそれを許さなかった。わたしが服を脱ごうとすると父親は叱り制した。不機嫌な父親に理由を訊くこともできなかった。たとえ訊いたとしても応えを教えてはくれないだろう。立ち続けたまま父親の顔を見ることは辛かった。すると姉たちはそれを察してわたしを呼んだ。わたしは、不明瞭なかなしみと未練がましい衝動を砂浜に染み込ませて、そちらへ向かった。熱い砂へ足裏がめり込む。姉たちの横へ座ると、海から男の子たちの歓喜がまた聴こえた。青い海がとても遠くに思えた。

わたしは関西の田舎で生まれ育った。小学生の頃から知識を蓄えることが好きで、いつか大学へ進学して物事を深く学びたかった。その先にある自立した自分に光を感じては、踊るような未来を想像した。しかし両親からは、女は頭を使う必要はなく早く良い家へ嫁いで子を産めと言われ続けた。姉たちは両親の言いつけを守り、長女は婿養子を取りこの家を継ぐ役目を、次女と三女は二十二歳そこそこで嫁いだ。

わたしは妙な木枠に嵌められ、身動きの取れない風潮にこの身を載せることは恐怖でしかなかった。そう思う自分だけがおかしいのだと、疎外感はいつ何時も影のようひっついた。夜になると影は闇に呑み込まれて離れられると思っていた。けれど、闇は影を倍増させた。もっと黒く深く。その瞬間からわたしいつもひとりだった。家族が集うときも、友達と話をするときも、人が多ければ多いほど、いつも、いつも、ひとりに思えた。おおきなさみしさだけは純粋に光り、光るほどに影は濃くなった。

そして、それに拍車をかけたのは周りの女たちだった。年に一度、里帰りする姉たちの口からは嫁ぎ先や主人の悪口であふれていた。それは姉たちだけではない。わたしの母親も、隣のお婆さんや奥さんや若嫁さんも、何かしらの泥濘を胸に巣食っていた。それすらサーカスのショーのようにお互いに披露しては、「まあ結婚ちゃ、人生ちゃ、そんなもんや。」と慰め合い、ときには「あちらの奥さんの方がもっと辛い目に合っている。」と自分に言い聞かせるように話した。わたしは、女たちのそばにある地獄を知っているからこそ、それは達観ではなくかなしい妥協だと、わかった。流されるしかない社会の理不尽をまともに食らい、せめて痛みをやわらげるための薬として妥協をするしか泥濘のやり場がなかったのだ。そして女たちは誰ひとりとしてそこから這い出る覚悟はなかった。ただひとりで這い出るだけの知識も活力も余裕も時間もない。それを持たせてはくれなかった社会を受け入れるしか生きる道はなかったのだ。

わたしはこの流れに対し両足を土に突き立てて、強かに反逆しようとこころに秘めていた。わたしは知恵を絞り、両親にはよい嫁ぎ先を探すと嘘を吐き上京した。

すぐに募集していた出版社の事務員として勤めはじめた。このまま突き進めば、光は希望となると信じていた。しかし、わたしの希望は初日で消えた。ろうそくを吹き消すようにフッと。事務員の仕事といえば、そろばんを弾いたり、伝票と向き合うことだと想像していたけれど、実際は朝から夕方までお茶汲みと男たちのご機嫌取りだった。1週間で習得したことは、お茶の淹れ方と出し方と引き攣った笑顔だった。

田舎も都会も関係はなかったのだ。結局のところ、女は女でしか存在してはいけなかった。この世に生まれた女は、社会の片隅で静かに生きなければならなかった。

男たちは、女を人形くらいに思っているのだろう。その中で見栄えのいいものを手に入れ飾りたいだけで、話し相手として同等に扱いたくはないのだ。人形は人形なりに四角い家の中で美しく静かにしていなければならない。すこしでも口ごたえすれば「女のくせに黙れ。」と吐き捨てられる。男の大半は、女を雑用係か性のはけ口でしか見做していないことは、その姿勢で理解できた。わたしの持つお盆はいつも怒りと寂しさで震えていた。

どうしたものか、そのときのわたしは怒りや憎しみが垂直に落ちてきた。自分でも止められなかった。突然に打ちつける雨を受け止められないような、とても速い感情が口を衝いた。

「卑下する女から生まれたあなたはいったいどのような存在なのでしょうか?」

遊び相手として抱いた女の容姿をひどく貶し、女は無能だと嗤う男の前に沸点ほどの緑茶を置きながらそう言った。男はポカンと口を開けた。そしてその平らな額の先から透明な疑問が現れ、瞬間、意味が色付けされたとたんに激昂した。男は支離滅裂、罵詈雑言をわたしに吐いた。唾が飛ぶ。飛んだ先はわたしではなく上司の頬だった。上司はそれを背広の袖で拭った。この部屋で秩序からはみ出ているのはわたしだけで、握りしめたお盆さえ手から逃げようとした。カチンコチンに怒る男は椅子を蹴り飛ばし、わたしを睨みつけながら部屋を出て行った。上司はわたしを庇うはずはなかった。男は男の味方をするもので、わたしは上司から「女のくせに生意気が過ぎる、出ていけ!」と怒鳴られた。わたしは握りしめたお盆へ緑茶を戻したあとに「失礼します。」と部屋を出た。履き慣れたパンプスの音がタイルを跳ねる。それ以外は黙りこくり、いつもより冷たい廊下を歩いた。

わたしは、元からお茶汲みと男のご機嫌取りでしか存在意義を持たない職務に嫌気が差していたので、その翌日に辞職した。毎日、男たちのいやらしい目と口から離れることができて清々したけれど、あるところではわたしひとりで、そこらじゅうに涌く理不尽を引き裂くことはできない無力感もあった。

2年間、通い慣れた道すがら無鉄砲な目で睨んだ空は、田舎のそれよりも灰色に流れていた。ふいにあの夏の海の、男の子たちの歓喜が過ぎる。この世からもあの世からも取り残された気分で、落ちたこころと視線を掬い上げるように、また空を見上げた。灰色からオレンジ色が漏れて空が破けたように見えた。電車の車輪の擦れる音が悲鳴にしか聴こえないことに、ひどく疲れを感じた。

電車の座席でゆれていると都会の隙間はオレンジ色が占めていた。空は完全に破けた様子で遠くの街まで染めている。そして、いつまでもわたしのそばにいた。ときどき建物の影に入るが、すぐに元へ戻った。薄らと映る車窓のわたしもオレンジ色に染まっていた。オレンジ色のわたしは、ひどく不服そうな表情だった。

記しのない怒りはどこから発芽したのか、頭を巡らせた。それは物心ついた頃からだろう。度を越した亭主関白な父親、それに従うしか術のない母親、自己中心な男たち、哀しい目をした女たち──とめどなく時間が速まる。加速するほど虚しさは増した。誰もこの世の秩序は説明はしてくれない。記憶へ絡まる不満はかなしみを呼び覚ました。怒りがわたしを貫く。このからだを巡る様々なものを細分化するたびに出口は塞がれた。からだに溜まり続けるそれらを言葉に置き換えることは、とても億劫だった。絹のリボンのようなに艶めく過去まで傷だらけになりそうだったから。それでも、いまはその根源へ意識を集中した。逃げたくはなかった。棘が刺さることに躊躇することはヤめた。進む、ズンズンと迷うことなく。すると、その先には必ず直視しなければならないものがあった。わたしは女である。煮ても焼いても干からびても、女であった。そして女のまま、悔しさに塗れていた。元を辿ると、女に生まれたことを後悔したことはなかった。ただ悔しかったのだ。このからだとこころでしか体感できない様々なことを無碍にされたり、消去されたり、他の色で塗り潰されたりすることが許せなかった。

わたしはそれらを果物の皮を剥くように丁寧に削ぎ落としていくと、わたしは人でありたかったのだ。男女に分類する前の、ただの人として生きたかった。男も女も同じお皿に載せて、ときどき喧嘩をしたり、仲良くなったり、それぞれがある一定の距離を保ちながら平等に生きたかったのだ。

すると、わたしは、誰よりも、男とか、女とか、区別されることを毛嫌いしていたはずなのに、実は誰よりも執着していたことに気づいた。苦しみも憎しみも、または歓びも華やぎも、男女の差はないのだから。その差を広げたのは、この世の仕組みに侵されたわたし自身だ。平等を希う眼差しの目的地は地獄を指していた。わたしはためらうことなく地獄を目指して歩きつづけていたのだと思う。自らが望んだ地獄へと、後悔すら焼き尽くす道を選択した。

根源はそれだけだった。わたしは、社会の秩序から飛び出して清々しているはずなのにとても寂しかった。どこまでも電車の中でゆれていたかった。足元を染めるオレンジ色は沈黙したまま流れてゆく。

わたしは、それから1週間を怠慢な時間で塗りつぶした。哀しみで見る街は哀しみしか掬えなかった。怒りで呑むお酒は怒りの味しかしなかった。未熟さは湯船で流した。無気力は塩をまぶして咀嚼した。そして空気といっしょにすべてを呑み込んだ。そのあとには永い苦さだけが舌に残った。

その翌週に父親が亡くなった。大工の棟梁をしていた父親は仕事中に突然倒れたそうだ。職場の人たちの説明では、苦しむ素振りもなく地面へ吸い込まれるように後ろへ倒れた様子で「苦しまずに逝けたことは、いいことや。」とみんなが口にした。わたしは何がいいことなのかわからなかったけれど、みんなが言うことに対してその疑問は口にはしなかった。

母親は驚くほど泣いていた。姉たちはつられて泣いた。わたしは涙は出てこなかった。父親に反逆したい気持ちがあるから泣けないのではない。まだ亡くなったことが受け入れられなかったからだ。いつも不機嫌な顔をした父親は、頭に包帯を巻いて棺で寝ていた。眉間の皺は深く残り、それでもいつもよりは機嫌のよさそうな表情だった。わたしは「父さん、」とつぶやくと、隣の奥さんが「美子ちゃん、辛いなあ。まだ信じられんのやろ?うんうん、わかる。」と背中を摩った。わたしはその言葉に返事をしなかったけれど、うつむいて垂れた髪の毛が風にゆれて、うなずいたように見えたのだろう、奥さんは「美子ちゃんが泣いてるわあ。」と泣きはじめた。

それから1週間は実家の母親と姉夫婦のお世話になった。仕事を辞めたことは母親と姉には伝えなかった。葬式が終わると、話題はわたしの結婚についてへ漂着した。主人公になれない遺影の父親が睨みを効かせる。わたしはその話を適当に流しながら、はやりここはわたしの場所ではないと思い、東京へ戻った。

すこしずつ貯めたお金で生活をやりくりしたけれど、いつまでも怠慢ではいられなかった。布団から這い出ると、生活を営むためにアパートの近くにある喫茶店リーヴルで働くことにした。

わたしは働きはじめた初日にあの人と出会った。はじめて出会った瞬間には、フロアに花が舞い落ちたような可憐な匂いがした。匂いと言っても器官で感じるものではなく魂で感じたもので、それは瞬間で落ちてくるというよりも、ゆらゆらぽたぽたと、この身に染み込むやわらかなものだった。あの人とわたしの間にはコーヒーと煙草の匂いがしみついた空気の板があったけれど、目や鼻や耳からあの人の輪郭に触れると、さざなみのような甘いゆれがわたしの全身を波打った。そのときから、わたしのからだの中でソーダの栓をポンと弾いたあとのように、なにかがブワッとあふれた。止まらない。いまだにあふれ続けている。わたしは、あふれた泡に溺れることを恥ずかしく思い、あの人を見ることができなかった。それは昨日までの自分とまったく別の場所へ移行したことも関係していた。この世のすべてに納得していなかったのに、いまはすべてが腑に落ちかけている。すんでのところで爪先立ちで耐えているような、ギリギリの切実に唾を呑み込む。しかし、なぜ耐えているのかあやふやになると、いっそ落ちてしまお、と浮かれて落ちた。落ちた先にいたあの人は、そこにいるだけでわたしの視界を焦がした。

その日からわたしの中にある男女や優劣や左右や上下や昼夜は意味を抜かれて、透明ながらんどうに成り果てた。毎日、眠る瞬間まであの人のことを意識した。夢の中までもあの人で染まればいいと願った。

あの人とは、リーヴスの店員と客の役割を担うだけの関係性だった。あの人からすれば、わたしはそこに存在しているけれど視界の片隅で輪郭なく生きている者で、それ以上でも以下でもないはずだ。わたしは、首輪をつけた犬のようにあの人の周りをウロウロしていたけれど、近づいてなでてもらお、とはならずに、一定の境界線を越えることはしなかった。

あの人はお会計を済ませる度にこちらの擦り切れた「ありがとうございました。」にやわらかい会釈をしてくれた。その丁寧さに店員の間では頗る評判がよかった。しかし誰もあの人の背景を知らなかった。いつもひとりで窓際の席で静かに本を読む人という情報しか得られなかった。

あの人はいつも本を読みながらホットケーキとコーヒーを静かに嗜んでいた。コーヒーを飲み終わると、窓の外をすこし眺めてから本に栞を挟み、静かに席を立つと椅子を戻した。流れる一連の所作には奥ゆかしさがあり、洗練された空気は、曲がることなく素直にあふれていた。それは幼い頃から培われたものであり、洋服や鞄や履き物では決して取り繕えないものだった。あの人はそれを無意識に備えていた。

生まれた土地の文化や言語は、良いも悪いも人が育つ過程で重要な役割を担う。あの人の清潔さは、わたしの過去を恥ずかしいものへと変えていた。一瞬でそうさせた。そのうちにわたしは過去を蒸発させたいと思うようになった。生きてきた証のすべてを恥ずかしく思った。訛りを口紅で隠した。流行の洋服を着て、髪をモダンに結え、都会で育った振る舞いをするようになった。がらんどうになったはずの女なのに、いつしか社会が呈示する女を充填した。わたしはとてもつまらない女に成り果てていた。先月までの無鉄砲なわたしは空へ飛んでいなくなっていた。それはある意味で、善悪の及ばない別次元へ飛躍したのかもしれない。わたしは新たな頁へ旗を立てることにした。あの人はいまもなお、わたしを焦がし続け、過去の輪郭すら焼き切る。そして、その焼け野原に旗を立てる。

ボコボコと沸騰するお湯のような夏が充満したあるお昼過ぎに、豆腐屋の前であの人を見かけた。わたしは、交差点を渡るあの人を好奇心で追った。後をつけることは不謹慎だなんて思いもせずに、自分が焼き切れる前にもう一度会いたかった。もし見失えばそれで終わりだと思い、すこし離れてその後を歩いた。

あの人の背中は静まり返り、一瞬見えなくなった。わたしは、あ、と息する間に駆け出すと、あの人は人の波に呑まれただけで、わたしのすぐ前を歩いていた。縮まる距離に心臓が跳ねた。流れるように小道へ入ると人通りは少なくなった。

わたしは、橋を渡り終えてふと気づき、空を見上げると、いつのまにか晴れは消えいた。瞬間に大粒の雨がわたしを打つ。ひと粒、ふた粒。その1秒後には隙間なく雨が埋まると、とっさに鞄を額へかざした。雨が烟る先にあの人はいなかった。

すぐ先に甘味処の暖簾が見えて、その軒下へ走った。咄嗟だった。跳ねる雨に足元が濡れる。パンプスに、ぴちゃんと蹴られた地面から顔を上げるとあの人がいた。

あの人は軒下へやってきたわたしの顔を見ると「あ、」と口にした。その表情は展いていた。ただそれだけで、あの人にとってわたしという存在はあやふやではないことがわかった。ハッとする歓びが背中から広がった。薄い認識でいい。店員という役目を担う人でいい。確かにあの人の時間枠にわたしはいる。その事実だけで、こころはどこまでも高鳴った。

「肩が濡れてます。奥へどうぞ。」

あの人は、自分の場所を譲るようにわたしを誘導した。わたしは「ありがとうございます。」とお礼を伝えてそちらへ移動した。そして濡れた肩とワンピースの裾をハンカチで払うとあの人をチラッと見た。目が合った。視線の尖端がギュと結ばれた。もうほどけることはない予感がした。

「あの、雨、すごいですね。夏の雨は急に降りますからね。」

あの人の声は低く澄んでいた。わたしは緊張したまま「そうですね。」と応えた。笑顔でうなずくあの人の前では雨音すらかき消えた。その内側に宿る静けさと光は、わたしの感覚を無効にした。

「あの、リーヴスの店員さんですよね?」

あの人はそう言いながら青海波紋様の手拭いで、腕に垂れる雨粒を拭いた。雨は降りはじめの勢いのまま、地面へ墜落している。なぜか軒下にできた水たまりは、雨に打たれることなく飴玉のように艶めいていた。地面から夏の匂いがした。わたしはその真ん中を、あの人の隣で感じた。

「そうです。いつも窓際にいらして、コーヒーとホットケーキを召し上がる、あの、お客さん。いつもありがとうございます。」

わたしは話しているそばから感情がめくれ上がり、自分で何を話しているのかわからなくなった。あの人はそんなことは気にしていない風な笑顔でうなずいてくれた。

「やっぱり。すぐにわかりました。今日はリーヴスに行かなかったですが、いつも行くと、ハツラツとしたあなたの姿を知っていますから。」

あの人がそう話すと、その後ろから引き戸が開いた。

「店の前で話すなら中に入りな。急な雨で商売アガッたりだよ。さ、さ、入った入った。」

わたしたちは店員さんの勢いに流されるまま、戸惑いを軒下へ置き去りにしてお店へ入った。そして当たり前のように向かい合わせの席に就いて、ふたりでお品書きを覗いた。甘味処であるから、あんみつ、かき氷、どら焼きなどが並ぶ。その名前を順番に追うと、最後にホットケーキと書いてあった。甘味処ではとても珍しいと思うと、あの人はそこを指差した。

「あ、ホットケーキ。ぼく、ホットケーキが好きでして。」

「知ってます。いつもホットケーキを召し上がるので。わたしもホットケーキ、好きです。」

わたしはそう伝えると、なぜか恥ずかしく思いうつむいた。うつむいた先のワンピースに雨のシミがあり、ハンカチで押さえた。あの人は「ではホットケーキをふたつ頼みますね。」とわたしに話して、店員さんへ声をかけた。店員さんは「うちは冷たい緑茶だけだからね。」とぶっきらぼうに伝えて奥へ姿を消した。

あの人はお品書きを壁に立てかけて「ここはじめてきました。」とつぶやきながら店内を見回した。わたしもツられるようにそのあとを追うと、束の間の沈黙を流す錆びた扇風機がカクカクと首を振っていた。その羽は澄んだ青色で、むかし家族で行ったあの海を思い出させた。夏を混ぜて自ら風を作り、わたしたちへ届けてくれる扇風機を、とても自由だと思った。ついわたしは、その風に吹かれてみようと思った。

「あの、いつも本を読んでいらっしゃるんで、何をお読みになっているのか、気になっていました。何をお読みなのですか?」

わたしはヘタな沈黙に呼吸を取られて、言葉の間につまずいた。けれどあの人は、またうなずきながらほほえんだ。

「最近はこれを読んでいます。外国の作家で、小説全体がとても難しい風味ですが、ひと通り読んでみようと思っています。本、お好きなんですか?」

「いえ、わたしはときどき読むほどでして、小説のことはほとんど知りません。お恥ずかしいです。」

するとあの人は首を横に振った。扇風機よりもなめらかに。

「恥ずかしくないですよ。そんな風に自分を卑下してはダメです。ぼくは本の中が逃げ場所なのです。だから本を読むことを偉いとか、読まないから偉くないとか、そういうことではないのです。」

そう言うあの人の表情は、やさしさとさみしさが混ざっていた。わたしはそれに照らされると、遠くの水平線を眺めているような気分になった。からだの中で遥かに沈みゆく今日の先に夜がある、あのときの、なんとも沈んだ静けさがぽたぽたとわたしの中に降ってきた。すぐにあの人が降ってきたのだと気がついた。雪のように静かに降り積もる。

すると奥から店員さんがお皿をふたつ持ち、わたしたちの前へ置いた。そして流れるように奥へ戻り、お盆に載せたグラスの緑茶を置いた。その勢いで伝票を机に置くと「ではごゆっくり。」と伝えてまた奥へ消えた。

ホットケーキからは、あたたかくやわらかな匂いがした。泣きたくなるようなやさしいきもちが胸の奥へ広がった。それは波紋のようにふわふわと次から次へとつづいた。いつもリーヴスで配膳するときに感じる匂いではなかった。ひとつの奇跡にやっと出会えたような匂いだった。

「おお、きれいなホットケーキですね。まんまるおつきさまみたいです。では冷めないうちにいただきましょう。」

あの人はとても喜んだ様子で話したあとに「いただきます。」と手を合わせた。わたしも同じように「いただきます。」と手を合わせた。

あの人は手慣れた手つきで「はちみつ」と書かれた瓶に挿してある銀のスプーンを手に取り、はちみつを垂らした。そしてそれをわたしに「どうぞ。」と手渡した。わたしはお礼を伝えてからホットケーキの上へはちみつを垂らした。ねっとりした黄金の線はホットケーキへ着地して、ニョロニョロと折りたたまれるように流れ落ちた。わたしは、はちみつの瓶へ銀のスプーンを戻す。あの人はわたしを待っていたのだろう、物事が成功したときのように純粋な笑顔でうなずいた。

わたしたちはそれぞれがフォークを持ちホットケーキを切った。ふわふわの感触と分厚い切り口から湯気があふれると、この世の大らかさが集まったようなやさしいきもちが広がった。ひと口運ぶとなんともしっとりした生地に、はちみつの甘さが上品に絡んだ。からだ中が脱力した。フォークさえ重く感じるほどに緊張がほどけた。思わず仰け反った。

あの人とわたしは目を合わせると小さくうなずいた。うなずく表情はうれしい、まんぞく、しあわせ──があふれていた。言葉はない。感想を言い合う前にまたひと口、ふた口、と続いた。ときどき冷たい緑茶で喉を潤し、また食べた。わたしのホットケーキが半月くらいで、あの人は三日月くらいに欠けていた。

すると店員さんが外へ出て、すぐさま帰ってきた。あの人は店員さんに話しかけた。

「ホットケーキ、とてもおいしいです。ぼくがいままで食べた中でいちばんです。これはほんとうにホットケーキですか?」

「そうだよ。あったりまえだよ。けどね、うちのは他の店とすこし違うんだ。作り方は教えないよ。秘伝ってやつさ。」

店員さんは、ホットケーキをほめられたことがうれしいような表情をしたまま奥へ戻った。

「ミステリだ。いいな。秘伝っていい。」

あの人はそう話すと三日月の下の辺りをフォークで切った。その姿に大人びた風でも、素直は曲がることなく育つんだと知った。すこし話してひととき過ごしただけで、いろいろなことを面白がることができて、なんでも吸収できる人だとわかった。そして嘘を吐けさない人だとも。そのひとつひとつの表情や仕草や低く澄んだ声に載せた言葉も、呼吸も、わたしの辞書になった。

あっという間にホットケーキをたいらげたあと、ふたりで「ごちそうさま。」と手を合わせた。どちらからともなく「おいしかったですね。」と話し、ふたりでうなずき、ホットケーキの話をして、わたしはリーヴスのホットケーキの話をして、あの人はわたしに質問して笑い、わたしもいっしょに笑った。なんてことのない夏の真ん中にある、暑いとか、雨に濡れたとか、そんな小さなできごとをこの人とともに過ごせて、わたしの時間はキラキラと光るだろう。ふと振り返れば、それらは満天の星のように瞬いている。時代を超えた先でもそれは光りつづけると、わたしにはわかった。

日が暮れなければいいと思った。けれど店員さんが「もうそろそろ閉店だよ。」とお皿を下げた。わたしたちはそっと立ち上がると、あの人が「ここはぼくが。」とごちそうしてくれた。お礼を伝えたあとに店の引き戸を開けると、雨跡の風景はそれぞれの色は濃く、水が強く匂った。この夏ほど恋しく思うことはないだろう。

「帰りはどちらですか?」

あの人はわたしに訊ねる。わたしは近くの駅の名前を伝えると、あの人は「そこまで送ります。」と話してふたりで歩きはじめた。

「あの、ぼくたち、まだ名前も知らない同士でしたね。自己紹介が遅れました。ぼくは、おおはらはるゆきと申します。」

あの人はそっとこちらをうかがいながら自己紹介してくれた。

「わたしは波間美子と申します。」

わたしが伝えると「いい名前ですね。どんな漢字ですか?」と訊かれた。わたしは、てのひらに人差し指で書いた。するとあの人も自分の名前をてのひらに書いて教えてくれた。大原春雪。わたしは胸の奥でつぶやいた。

ふたりの間に夏の風が吹いた。往来する人たちは夏の顔をしていて、横を歩く春雪さんも夏の顔をしていた。自然とほほえんでしまう。なにもかもがゆるんで見えた。夏の陽気に溶けたように。その隙間から時間が止まればいいと、切に願った。

歩きはじめてすぐに駅に着くと、春雪さんは「またリーヴスに行きます。」と話して、わたしは「はい。」と応えた。その味気ない返事しかできない自分の背中を押すように「待ってます。リーヴスで楽しみに待ってます。」と伝えた。電車がやってきた。あの人は「ぼくも楽しみです。」と話したあとのはにかんだ表情のまま「では、帰りお気をつけて。」と電車に乗るわたしに伝えた。車窓から手を振るあの人にわたしも手を振った。わたしはあの人の姿が見えなくなるまで見送った。知らない間にオレンジ色が車窓を満たしていた。

春雪さんはそれから2日後にリーヴスへきた。わたしに向けて笑顔で手を挙げると、それを見た同僚のかっちゃんは驚いて目玉が飛び出ていた。わたしはすぐに春雪さんの元へ行き、お冷やとおしぼりを配膳した。

「こんにちは。今日は会えましたね。実は昨日きたのですが、いらっしゃらなかったので。あの、いつものお願いします。」

春雪さんはそう話して机に本を置いた。わたしは舞いあがる気分を味わう間もなく「昨日はお休みをいただいてたので。でも今日仕事でよかったです。コーヒーとホットケーキですね。かしこまりました。」と応えた。そして奥へ戻り厨房に伝えたあと、かっちゃんに腕を引っ張られた。

「ちょ!ちょっと!みこちゃんなんなん!?あの人と知り合いやったん!?なあ?えええ!そんなわたしにひみつにしてたなんて殺生な!」

かっちゃんは勢いよくまくし立てた。生まれた場所は違うけれど、かっちゃんも関西出身である。いつもリーヴスではエセ東京弁を話すかっちゃんだけれど、わたしと話すときだけは素の自分に戻ると前に話した。素がむき出したかっちゃんは迫力があった。まるで刑事に尋問されているような切羽詰まった空気だった。

高校を卒業してすぐに上京したかっちゃんはリーヴスで働きはじめた。気立のいいかっちゃんとは同じ関西出身という縁で仲良くなった。ふたつ歳上のかっちゃんは姉のようであり、わたしの心配をよくしてくれていた。

「え?言わんかったっけ?あれやん、ついこないだ偶然会って、すこし話してん。それだけ。」

「ほんまなん?それ?ほんまにちょっとなん?ちょお、あの人──」

かっちゃんの話を遮るようにマスターが大きな咳払いをした。かっちゃんはわたしの耳元で「あとで詳しく訊くから。」とささやいてフロアに出た。その後ろ姿は敏腕事情聴取刑事そのものだった。

わたしはホットケーキとコーヒーを持って春雪さんへ届けた。「ありがとうございます。」とほほえむ春雪さんに、わたしはうれしさといっしょに恥じらいを覚えた。「では、ごゆっくり。」と伝えてうしろを振り向くとかっちゃんがこちらを見て、悪役みたいに片方の口角を上げた。わたしはふざけた顔をしてかっちゃんをからかった。

時計が3時を知らせる。人はまばらになり、ゆったりとした空間が生まれた。わたしがお会計の台に立つと、春雪さんがやってきた。

「あ、お会計されますか?」

「あの、はい、いや、あの、よろしければ、こんどまた、あのホットケーキを食べに行きませんか?あの、いやだったらいいんです。ぜんぜん。」

春雪さんはぎこちなくそう話した。話したあとにうなじを掻いて、そわそわした。

「はい、ぜひ。わたしは春雪さんとまたあのホットケーキ、食べたいです。」

わたしは素直に伝えた。その真っ直ぐな言葉に自分で驚いた。

「よかった!楽しみです。」

わたしたちの間にはモゾモゾと恥ずかしい気持ちが肌を這うような、なまぬるい空気の層ができて、それをごまかすためにふたりで笑った。そしてわたしのお休みと春雪さんの予定が合う日に、あの店の前で待ち合わせをすることになった。すると、うしろからマスターの咳払いが聞こえたので、春雪さんはお会計を済ませて「ではまた。」とリーヴスをあとにした。

春雪さんを見送るわたしの左側から圧を感じるのでそちらを見ると、かっちゃんがまた悪役の顔をしてこちらを見ていた。わたしもまたふざけた顔をして笑顔を贈った。

仕事が終わるとかっちゃんと通りのレストランへ寄った。

「もう抜け駆けやんか。ずるいわあ。」

かっちゃんは椅子に座りながらそう話した。そして話の合間に流れるように注文を済ませた。

「ほんで、なにがどうなってあの男前とデートする仲になったん?」

「えええ、それは、」

わたしがもったいぶると、かっちゃんはわたしのほっぺたをつまんだ。わたしはタコの口で「あんな、こないだの休みに、ちょうどばったりびっくり会ってん。」と言うと、かっちゃんは手を離して「びっくりってなんやねん。それから?」と話のつづきを促した。わたしが話終えると、かっちゃんは大きなため息を吐きながら腕を組み目を瞑った。

「みこちゃん、あんた、歳なんぼ?」

「え?かっちゃん知ってるやん?今年で22、ちゃう、23や。それがどうしたん?」

「どうしたん、やないで。相手がどんな人かも知らんと次に会う約束してどうすんのよ。なんかあったらじゃあ遅いねんで。」

かっちゃんはそう話すとお冷やをグビっと飲んだ。飲み終えるとまるで日本酒の冷を飲んだあとのように「くああ。」と言った。

「かっちゃん、でもな、春雪さんはどう見ても野蛮な感じはせえへんやん?難しい本読んでホットケーキ食べる人に悪い人はおらんやろ?」

「もう、何言うてんの?悪い人でもホットケーキは食べるわ。春雪さんは仕事なにしてるん?どこに住んでるん?」

「え、知らん。」

「は?知らんの!?」

「次会ったときに訊くつもり。」

かっちゃんは呆れて口を開け放した。そこへ店員さんがオムライスを運んでくれた。わたしたちは会話を中断して「いただきます。」と手を合わせた。オムライスを食べすすめて少し経つ頃に、かっちゃんはお冷やのおかわりを頼んだ。

「みこちゃん、わたしが止めても、もう止まらへんやろけど、ほんっっっまに気いつけや。どんなに誠実そうに見えたとしても、実はペテン師かもしれんし、もしなんか変やなと感じたら走って逃げや。」

かっちゃんはそう話したあとにオムライスを口に運んだ。

「うん、もしなんかあったら股間蹴り飛ばして走って逃げるわ。」

わたしがそう伝えるとかっちゃんは咽せた。手で口を押さえてゴホゴホ言いながらうなずいた。

「そうや、その気持ちを忘れるな。なんかあったら股間を蹴る、や。」

かっちゃんは変な格言を放った。そしてお冷やを飲んだあとに小さくこちらへ顔を寄せた。

「でも、もしいい人やったら、がんばれ。」

かっちゃんはやさしくほほえんだ。わたしはかっちゃんのこういうところが大好きなのだ。

春雪さんとのデートに新しく買ったレモン色のツーピースと水色のサンダルを履いた。23歳で生まれてはじめてのデートで奮発した。財布もこころも浮ついて、前日には眠れなかった。

夏はもうすぐ終わる。蝉たちは惜しげなく鳴いていた。東京の街は忙しなく動きつづけている。この前は通ったときにはなかった立派な建物が次々と現れる。そのたびに、前はどんな建物だったのか思い出しても、すでに忘れていた。通り過ぎてすこし経つと、金物屋だったと思い出した。天井まで鍋や金網や七輪が並ぶ。それもそのうちにわたしの中でぽっかりと穴が空き、また新しい建物の記憶に塗りかえられるだろう。むかしの日本が消えてゆく儚さを夏の湿気がバラバラにする。

橋を渡る。その先の甘味処へ視線を飛ばす。そこにはすでに春雪さんが立っていた。春雪さんの周りだけ、シュッとさわやかな風が吹いているように見えた。春雪さんはそこにはない水平線の遥か先を見ているような姿だった。その姿が目に焼きつく。いつまでも忘れたくなかった。たとえこの先に色褪せて、セピア色になり、最後には春雪さんをカタチ造る輪郭線すらあやふやになろうとも、このからだに広がるこの感触を手放すことはできないだろう。そう思いながらも、遠くの春雪さんがいつかどこかへ消えてしまいそうな、気がした。胸の奥がギュッと握られた。それは春雪さんに握られたのだと思う。その存在自体がわたしを離さない。

春雪さんはわたしに気がつくと大きく手を振った。わたしも軽く手を振り、ほんとうは駆け寄りたいきもちを押さえてゆっくりと歩み寄った。

「こんにちは。きれいなお洋服ですね。すごく似合ってます。あの変な意味じゃなくて、とてもきれいです。」

春雪さんは慌てた様子でそう話すと、「じゃあ、入りましょう。」とお店の引き戸を開けた。息が詰まりそうなほどの歓びがわたしの中で咲いた。わたしは深呼吸してからそのあとにつづいた。

「いらっしゃい。」

あの店員さんが出迎えくれた。わたしたちのことは覚えていない様子で「うちは冷たい緑茶だけだからね。」と伝えた。わたしたちはお品書きを見ずにホットケーキを注文した。店員さんは「あいよ。」と言うと店の奥へ消えた。扇風機は相変わらずカクカクと首を振る。

「夏の終わりにかき氷もいいなと思いましたけれど、やはりホットケーキですね。」

わたしが話すと、春雪さんは「そうですね。」とほほえんだ。わたしはその返事にどこか浮かない距離を感じた。すると、この間は流れていなかったラジオがかすかに聴こえた。流行りの歌が流れた。静かで、おだやかで、でもときどき、さざなみのように、サササ、と音が途切れる。つい口遊む歌。いつもはスルスルと歌に傾くけれど、さきほどの距離が気になり、そっと春雪さんを見た。軽くうつむいて真剣な表情だった。ラジオの歌を聴いているようには見えなかった。何かを深く考えてるように見えた。

わたしたちの沈黙を縫うラジオは、歌が終わるとよく喋る漫才師が話しはじめた。

「ええ曲やったなあ。なかなか若者たちに人気のある曲で、なんちゃらかんちゃら言う、なっがい英語の名前のグループが歌ってるらしいわ。」
「なんちゃらかんちゃらって、英語やったん?」
「アホ!なんちゃらかんちゃら言うたら、だいたい君はやな、っちゅう意味の日本語やねん。」
「それほんま?」
「いや、知らんけど。」
「知らんのかい!」

わたしはその会話の間に合わせて「知らんのかい!」といっしょに笑いそうになった。でも目の前の春雪さんは笑うことなく、机の木目をじっと見ている。何があったのだろうか。体調が悪いのだろうか。それともわたしが気分を濁したのだろうか。

「美子さんにお伝えしたいことがありす。」

春雪さんはこちらを向いて堰を切ったように話しはじめた。

「ぼくは、しきたりの重い家に生まれました。父親が会社を経営していまして、ふたりの兄がその跡を継いでいます。ぼくは大学で研究をしています。自分の好きなことができるのはふたりの兄がいるおかげなんです。とても感謝しています。そして、ぼくの母親は──ぼくが言うのもおかしなことですが、とても厳しい人です。」

そう話し終える頃に店員さんがホットケーキを運んでくれた。あと冷たい緑茶も。一瞬で押し黙るわたしたちに「ごゆっくり。」と伝えて、また店の奥へ消えた。

「すみません。唐突に生い立ちを話すのもなにかなと思ったのですが、美子さんには伝えておきたくて。」

春雪さんはそう話したあとに緑茶をひと口飲んだ。そのときに、長い首の真ん中の喉仏が上下した。

「あの、そのことを踏まえて申しあげます。ぼくと交際していただけますか?」

「え?」

わたしは無意識に手で口を隠した。「え?」のあとに「なんでえ!」と訛りが口を衝く言葉を止めたかったから。春雪さんはまじめにわたしを見ていた。

「もし、美子さんが、お嫌でなければ、ですが、」

そして、わたしから視線を外して、ウロウロする言葉をつぶやいた。

「あの、わたし、頑固で気が強くて、面倒な女ですが、それでもいいのですか?」

わたしはまっすぐな気持ちのまま、まっすぐに春雪さんを見た。

「ぼくは、美子さんでなければいけないのです。」

「わたしも春雪さんでなければダメなんです。よろしくお願いします。」

わたしたちはきれいにお辞儀をした。そのあとに照れたようにふたりで笑った。

「あ、ごめんなさい。ホットケーキ、冷めてしまいました。」

春雪さんは、申し訳なさそうにそうつぶやた。わたしは「いいえ、ぜんぜん、大丈夫です。」と返事をして、ふたりで冷めたまんまるおつきさまをたいらげた。

そして、春雪さんはその日からリーヴスに来なくなった。ここへ来なくても、会えるのだから。わたしは電話がなかったので、アパートの郵便受けへ帳面に鉛筆を綴り紐で結えて置いた。そこにお互いに会える日や、その日の気分などを書いた。春雪さんの字はとても美しい風のようなだった。わたしは小さな手紙のやり取りに、会えない時間も春雪さんをそばに感じた。

わたしはそのことをかっちゃんに報告すると、とても喜んでくれた。

「みこちゃん、ほんまによかったなあ。でも、なんかみこちゃん取られたらようで、寂しい。でも、嬉しい。わたしもはやくいい人と出会わな、な?」

かっちゃんはいろいろな感情に忙しそうで、わたしはこの間映画館で観た、かっちゃんの好きな俳優さんの真似をして、その肩を抱くと「ありがとう。かっちゃん。」とつぶやいた。かっちゃんは「うん。」とつぶやいて肩に置いてあるわたしの手を握りゆらした。

交際して1ヶ月が経つ頃には、お互いの生い立ちが鮮明になった。春雪さんは、一等地に大きな家を構えるお坊ちゃんだった。田町さんという執事がいらっしゃるようで、その方のお話をよく話してくれた。幼い頃にはからだが弱くて学校に行けなかったこと。その度に本を読んで過ごしたこと、毎日日記を書いていること。そして、家族との関係性も。お父様や兄さんたちのことは、すらすらと話すけれど、お母様のことは、口を噤んだ仕草をした。わたしはそれ以上は訊かなかった。訊かないというよりも、訊けなかった。もし訊けば、わたしは傷つくだろう。そして、わたしだけではなく、話す春雪さんもいっしょに。わたしたちはなるだけ触れないように、そっと話を変えるようになった。

半年が過ぎる頃に、田町さんにお会いした。背広がとてもお似合いになる紳士だった。3人でレストランのコーヒーとショートケーキをいただきながら1時間程、話をした。そして、春雪さんがお手洗いに席を立つと、田町さんはわたしに話しかけた。

「美子さん、単刀直入に申しますと、私は、奥様から、最近の春雪様について教えて欲しいと仰せつかりました。よくお出かけになられる春雪様をお気にかけているご様子です。私は、つい先日、春雪様から交際している女性がいるとお教えいただきました。そのことはまだ奥様にはお伝えしていません。しかし、このまま隠し通すこともできないと思います。奥様は格式あるお家柄を護る強い覚悟でおられます。もし奥様にお会いになることになれば、美子さんも、それなりの強い覚悟が必要となります。たぶん、深く傷つくこともおありになると思います。それを承知した上で、春雪様のおそばにいたいですか?」

田町さんは、わたしを傷つけないようにやさしく話してくれた。わたしたちの家柄の違いは圧倒的で、わたしにはどうしようもなかった。生まれるところを選べないことは誰でも同じで、ある意味いちばん平等だ。生まれ落ちたあとで知る格差に人はいつも傷つく。それを運と言い退けてしまえばそれまでだけれど。わたしの意志は格差を貫くほどに硬かった。

「はい、おそばにいたいです。」

わたしは簡潔にお応えした。わたしをまっすぐに見据える田町さんは、すこし間を置いた。その目はわたしから離れなかった。世間知らずのわたしでは太刀打ちできそうもなかった。しかし引くわけにはいかない。わたしはわたしの意志で生きてゆくのだ。

「わかりました。では交際していることを奥様にお伝えしてもよろしいですね?そうなれば、近いうちに奥様とお会いすることになると思いますが、よろしいでしょうか?」

「はい。」

わたしは、強い意志表示を短い返事へ託した。それ以上、田町さんと話すと、弱音や不安がこぼれ落ちそうで、押し黙った。田町さんは小さくうなずくと、お手洗いから戻る春雪さんに笑顔を送った。

レストランを出る頃には、午後4時を過ぎていた。わたしは車で家まで送ると話すふたりに、これからかっちゃんと会うと、存在しないない約束を伝えて、その場で別れた。

これから先には、大きな不安が道を塞ぐような予感がした。しかし、予感は実感ではない。かなしみを引き寄せる考えはヤめた。何もない将来の場所へ、自分のかなしみを置いて空間を狭めたくなかった。いま起きていること以外は考えないことにした。半分自棄なり、もうなるようになれと、どこ吹く風のこころ持ちで、春の終わりを歩いた。

それから半月後の梅雨入りして間もない頃に、春雪さんのお家へお伺いした。運転手さんと助手席に田町さんが乗車した車でお迎えいただいた。

「美子さん、奥様とはお初にお目にかかると思われますが、礼儀作法にはお気をつけてくださいませ。そして、自分の中には硬い芯があると信じて、ご対面ください。」

田町さんはそう仰る。わたしは「はい。ありがとうございます。硬い芯、硬い芯、」とつぶやいた。

大きな門を通り、広い玄関の前で車は停車した。運転手さんがドアを開けてくださり、わたしはお礼を伝えた。使用人として働く方とすれ違うとごあいさつをして、広い玄関と通り、長い廊下を歩いた。田町さんが案内してくれた部屋は豪華な一室で、そこに長い机と椅子が10脚置いてあった。わたしは指定された席へ就いた。一張羅を着ていたけれど、この部屋から踏み入れたときから嗤われていた。この場所にはお前は相応しくないと、断言されたようで、わたしは両手を太ももの上で握った。すると、横に座る春雪さんがそれをそっと包んだ。ふと顔を見ると、春雪さんはいつものようにうなずいてほほえんだ。わたしもうなずくと、深呼吸をした。鼻から息を吸うときに、何者にも砕かれない意志へ、強さを宿した。それからあとは自分が湖になったような、凛としたこころ持ちだった。

それから30分程経つと、ドアが開いて、着物の女性が凛とした表情でこちらを見た。射抜くような視線は刀のようだった。それは間合いを保ちながら推進力を増してゆく。

お母様だ。春雪さんのお顔と、洗練された品はお母様から譲り受けたものだ。わたしは席を立つとお母様に丁寧にお辞儀をした。田町さんは、席まで案内するように丁寧に歩いた。お母様は向かいの席に就いた。誰も何も話さない。お母様は話さない代わりにわたしから視線を離さなかった。じっと観察するように、そして飽きたように春雪さんへ視線を移した。わたしの足先から霜が伸び上がるような気がした。

「春雪さん、こちらが交際されているお方?」

張り詰めた沈黙を破ったのはお母様だった。わたしはそのひと言で自分からあいさつすべきだったと、気がついた。一瞬で礼儀作法の知らない人だと悟られた。

お母様の無駄のない鮮明な声音には、冷たさが込められていた。梅雨なのに、冬へと遡上したようだった。

「はい、そうです。波間美子さんです。美子さん、こちらがぼくの母の清香です。」

春雪さんは話した。濁りのないまっすぐな言葉だった。わたしがそのあとにつづいて自己紹介をしようとした刹那、お母様は「春雪からいま聞きましたから、いいです。」と制した。春雪さんは「お母様、」とつぶやいた。春雪さんの中ではお母様を窘めても、わたしに気遣いの仕草を見せても、どちらにしてもこの状況は悪い方向へしか進まないと考えて、それ以上は話さないことが最適だと考えての選択だとわかった。

お母様は、それから先もわたしを見ることはなかった。わたしの存在はこの部屋にはない。はじめからなかった。お母様は静かに出されたコーヒーを召し上がる。カップとソーサーの音がひと組だけ小さく鳴る部屋は、とても冷たかった。外は雨が降りはじめた。梅雨だったことを忘れていた。

「春雪、私はこれから大事なお客様がお見えになるの。その支度もありますからね、そろそろよろしいかしら?」

お母様はそう仰ると、春雪さんの返事をする前に「では、ごきげよう。」と言葉だけを置いて部屋から去った。わたしは席を立ち、お母様の背中へ丁寧にお辞儀をした。

この隙間のないやり取りに、わたしは傷つくことは承知でこの席へ就いたはずのに、10分も満たない時間に傷だらけだった。それを春雪さんに悟られぬよう「わたしは大丈夫ですから。」と伝えた。春雪さんは「母の失礼な態度、ほんとうに申し訳ないです。」と頭を下げた。わたしは「大丈夫です、だから謝らないでください。」春雪さんへ伝えた。謝られるほどに、この機会が失敗に終わったことを明白にした。

それからすこしの間は、お互いの言葉が見つからなかった。ふいの軽い言葉も、重苦しい言葉も、どちらも話すべきではないと思った。春雪さんもそうだったのかもしれない。外の雨の音を吸収する大きな部屋は、冬がしんしんと空間を埋め尽くしたように黙りこくった。ただ窓ガラスだけは、ここは冬ではなく梅雨だと知らせてくれた。

帰りも田町さんと運転手さんが車で送ってくれた。雨は高級車へも平等に打ちつける。道路は川のように水が流れて、対向車の水飛沫が車窓へ当たる。その衝撃すら車内の沈黙は吸収した。

すこし経つと、田町さんの声が聞こえた。雨の音で半分かき消されたその言葉は「大丈夫ですか?」と気遣いだった。わたしは「はい、大丈夫です。お気遣い、ありがとうございます。」とほほえんだ。そして、顔が引き攣ろうが構わずに口角をあげた。正反対のこころを反転させることでしか、惨めな自分を守れなかった。

春雪さんはその2日後に家を出た。梅雨に濡らされ、ぼたぼたの姿で「ぼく、家を出ました。こんなぼくでもいいでしょうか?」とほほえんだ。その表情はどこか清々しく、少々自棄ぱちでもあったが、気後れするものは感じなかった。わたしは春雪さんの将来を考えることなく、すぐに「はい、もちろん。」と伝えた。そしてタオルを手渡すと、お風呂を沸かした。

春雪さんは翌日に熱を出した。わたしは仕事を休もうと思ったけれど、「ひとりで大丈夫だから。」と背中を押されて家を出た。仕事中も気がかりで小さな失敗を繰り返した。あまりに初歩過ぎたのでさすがのマスターも注意した。わたしは、今日お休みのかっちゃんの姿を思い浮かべた。かっちゃんなら「しっかりしい!」とお尻を叩いてくれるだろう。わたしは「よし、」と気合いを入れてフロアに出た。

家に帰ると、春雪さんはいなかった。心配に思い、郵便受けの帳面を思い出すと、玄関を飛び出た。慌てて開く帳面には「熱は下がりました。昼から研究室へ行きます。夜には帰ります。心配しないでください。すぐに戻りますから。」と書いてあった。飄々とした字から風が吹いたようで、わたしの心配はいっしょに流れた。わたしは帳面を郵便受けへ戻すと、軒下から雨を見上げた。

わたしは弱くなってしまった。失くしたくない大切な人ができたことは、何よりも光であった。しかしそれは同時にいつ失くなるかもわからない不確定さを帯びていた。雨樋から勢いよく雨水が飛び出ている。わたしは春雪さんは傘を持ち家を出たのか気になり、また自分の弱さを途方もなく感じた。ひとりのからだとこころで生きてきたのに、春雪さんはあの日からわたしの心臓となり、脈を打つ。

春雪さんは、研究室に置いてある荷物を片付けに出かけたそうだ。

「家の伝手で居られた研究室だったから。明日から仕事を探すよ。」

春雪さんの言葉からは希望が滲んでいた。しかしわたしは、ふたりの交際で春雪さんから家族や仕事まで奪うことがほんとうに正しいことなのか、疑問が水を差した。雨は降りつづける。すべての音をかき消すように。

その1週間後には駅員の仕事を探し、その翌週から勤めはじめた春雪さんは、どこか生き生きとしていた。しかし体の弱さは、それを許さなかった。よく熱を出しては、休めないからという理由で頓服薬を飲んで仕事へ出かけた。つつましい暮らしは、すこしずつ当たり前が支配する。

春雪さんは相変わらず日記を書いている。その内容はわたしには見せないそうだ。

「もしふたりの子どもが生まれたときには、その子に見せようかな。」

春雪さんは楽しそうにつぶやいた。

お互いに生活が慣れてきた頃に、わたしたちはわたしの実家へあいさつへ行った。新幹線での長旅に、ふたりで駅弁を食べたり、居眠りしたり、楽しい遠足のようだった。

地元の駅でタクシーに乗り込むと、緑が大半を占める景色に帰ってきたと実感する。住んでいた頃はそれが嫌でたまらなかったのに、いまは緑色の哀愁に浸りたい。場所を離れて見えるものがある。

わたしたちは実家へ到着すると、母親と姉夫婦が出迎えてくれた。

母親は春雪さんと話すわたしの東京弁に「なんやの、その言葉。」と窘めたが無視をして、お土産を手渡した。

春雪さんは、籍を入れることを伝えると母親はとても喜んだ。

「この子は変わってるから、誰もお嫁に貰ってはくれんと思ってたけど、片付いてよかったわ。」

そう言う母親は、何の悪気もなく、そう話したが、その母親へ姉さんが「これ、おいしいから食べや。」と天ぷらを母親のお皿へ載せた。そして、謝るようにわたしたちに目配せした。わたしはほほえんで顔を軽く横に振ると、隣に座る春雪さんも同じ動きをしていた。わたしたちは一晩泊まり、翌日に東京へ帰った。

それからともに暮らして1年が経つ頃、春雪さんは、お腹の子どもに千の冬と書いてちふゆと名づけた。春雪さんに宿る偏在する冬の透明なしずくをそっと掬い上げたような名前だった。

「来年の1月21日は大寒の日ですね。その日は1年でいちばん寒い日になります。ぼくはその日がとても好きでして。冬が雪へと変化して、何層にも折り重なり世界を白く染めます。雪は冷たいですが、実はこれ以上土を冷やさぬよう護るためにしんしんと降り積もるのです。そんな日は、冬がいちばん濃厚に満ちています。1月21日はこれからぼくたちふたりにとって大切な記念日となりますからね。そうですね、折り重なる冬──、千の冬と書いて、ちふゆという名前はどうでしょうか?」

「この子の名前はどうしましょうか?」と訊ねたわたしに春雪さんは、わたしたちの将来には燦々とした希望しかない語気でそう語った。語る前からそれはすでに満ちていた。そのあふれる清潔な歓びは、どこまでも健やかな円みを帯びていて、わたしの胸の奥まで届いた。わたしはその反動で「千冬?」と呼びかけると、名前はへその辺りまで落ちて熱り膨らんだ気がした。自然な静寂から生まれた熱源はいのちそのものだった。晴れが、曇りが、雨が、風が、土が、花が、木が、水が、わたしという器を通していのちの露へと凝縮された。わたしは境目なく滴下する冬の感触のまま、へその辺りに触れた。

「いいですね!冬が染み込んでいて、冬になることが楽しみになる、心地いい名前です。千冬。千冬。ずっと呼んでいたい。」

わたしがそう応えると、空気の薄い哀しい街でも春雪さんだけは光を浴びて、やっと呼吸をはじめたように見えた。確かに植物のような人だったから、そのからだの内側で静かに光合成がはじまったのかもしれない。春雪さんは純然な水を讃えた森に生える木で、千冬は太陽となり、その光はまっすぐに春雪さんの目や肌へ降り注ぎ、溶けて、脈々と巡りはじめたのだろう。それはわたしの目には見えねども、春雪さんの要素は、わたしのからだの中心で生きていた。

時間は流れるし、時代は変わる。誰も止めることのできない無常だからこそ、抗うよりも受け入れることで形を変えて循環し続けるこの世の一部にわたしはやっとなれた。そうなることでわたしは大きな流れの通過点に過ぎないことを知った。かなしみで歪む自我は、わたしの芯へめり込み粉々に砕けたあと、元来の場所へと還った気がした。わたしのからだの内側と外側にあるそれぞれの世界が、壊れたり造られたり迷いながらも、ただひとつだけ動かない星が誕生した。

わたしはこの瞬間だけはこころに留めようと誓った。この真実さえあれば生きていける。緩い空気ですこしずつ錆びゆく生活でもこの瞬間こそ、いずれわたしの栄養となりこころを肥やすだろう。たとえばついさきほど、何を食べたのかも忘れ果てた体になろうとも、この瞬間だけはみずみずしい果実のように実らせたままにしよう、と。

わたしたちは駅まで歩いた。伸びるふたつの影にひとつの影が増える日を想像して歩く道はオレンジ色に光っていた。

わたしは、いまよりも広い部屋へ引っ越しをした。そしてお互いの職場の上司に保証人となっていただき、わたしたちは籍を入れた。そして、それぞれの家へその旨を電話で伝えた。

駅に着いてベンチへ腰かけると春雪さんは物言わず、わたしの背中にきれいな手を添えた。わたしは両手をへその辺りへ置いたまま、ふたりでベンチから目の前に広がる海を眺めた。青が目に沁みる。さざなみが遠くから聴こえた。

わたしはあの頃に見た海を思い出した。しかしその海といまの海とでは意味が違っていた。海を突き刺すような眼差しのわたしは、もういなかった。

電車がやってくると、わたしたちは静かに立ち上がり電車に乗ると、ふたりで肩を並べて帰宅した。

ちょうど予定日の大寒の日に千冬は産まれた。春雪さんの予言した通り大雪になったそうだ。

千冬の産声は、分娩室を割るように大きかった。私は痛さと乱れる呼吸の中、記憶のドロドロした部分をやわらかい冬で包まれたような気がした。それは消えはしない。でもその場所を振り返り立ち止まることはしなくてもいいと思えた。千冬を産んですぐにそのことがわかった。言葉に成さずとも深く深くわたしの底へ届いた。

千冬はわたしのなによりの宝物になった。泣けば泣くほど、心配と安心が右往左往した。春雪さんは、千冬をはじめて抱いたときに、千冬より泣いた。うおんうおん、と表情をゆがめて、涙を垂らした。その姿も涙も光って、とてもきれいだった。

当初は、子どもを育てる大変さにふたりで四苦八苦して、それでも家族というかたちを成したのは、千冬の存在だった。わたしたちの家族のかたちは千冬そのものだ。家族はそれぞれのかたちがあることも結婚することで知った。わたしは、それぞれのかたちの中でしか生きられない子どもの気持ちがわかる分、千冬には辛い思いをしてほしくなかった。

わたしたちは、千冬の首が座り、寝返りを打ち、つかまり立ちをする、日々の成長をともに歓んだ。慌ただしく過ぎゆく日々も、疎かにしないようにうれしさを分け合った。それは、できたてのホットケーキを3等分して、3人で食べている様だった。つつましくもあり、これこそが祝福という意味だった。辞書には載せられない、あふれるほどのしあわせなのだ。

3人で甘味処のホットケーキを食べて、帰りに花屋さんの前を通ると、千冬は芍薬の前で「あっ」と指を差した。そこには二分咲きの芍薬がたくさん大きなバケツに生けてあった。千冬は春雪さんの腕の中で上半身をぴょんぴょんと動かして、小さな手で拍手をする。

「千冬、きれいだね。あの花はね、しゃくやくっていうお名前なんだよ。」

春雪さんが千冬に説明した。千冬は言葉の意味はわかなくても「おおお。」と返事をして、また上半身をぴょんぴょんと動かした。わたしたちは顔を見合わせて笑うと、芍薬を購入した。そして家で生けると、いつもは元気で置いてあるものを倒す千冬も、花瓶を倒さないようにゆっくりと近づき、匂いを嗅いでよろこんだ。それからわたしたち家族の間では、芍薬は特別な花となった。

千冬が3歳を過ぎる頃にお腹に子どもを宿した。春雪さんは、まだ性別もわからないのに名前をつけた。

「この子は女の子ですね。ぼくにはわかります。名前は由美子でどうでしょうか。ぼくと千冬の由縁には、必ず美子さんがいるという意味ですが、ちょっとキザですかね?」

「そうね、ちょっとキザ。でもわたしはうれしいです。千冬はどう?うれしい?」

わたしは千冬に訊ねた。

「あああああ、きゃあああ!」

千冬は、言葉の意味がわからなくても、バンザイして喜んでいるように見えた。空間が光で満たされる。わたしは、これ以上の生きる意味は見当たらないと思った。

「では、子どもの名前は、由美子に決定します。皆々様、よろしいですね?」

春雪さんが訊ねると、千冬とわたしは「はあああい!」と右手を挙げた。千冬はお返事がとても上手にできて、嬉しそうに笑った。そして、わたしたちもいっしょに笑った。

6月9日、出産予定日があと2か月を切る日に大雨が降った。仕事へ出かける春雪さんにお弁当を手渡して見送り、わたしは千冬をおんぶして家事をした。いつのまにかわたしの背中で眠りに就いた千冬を布団へ寝かせて、わたしもその横へ寝そべると、いつのまにか寝ていた。

遠くから電話が聞こえる。ジリジリジリ、とけたたましい音に千冬が目覚めて泣いた。わたしは千冬をあやすように抱いて、片手で受話器を肩に挟んで「もしもし?」と声を出した。

そのあとはほとんど覚えてはいない。どのように家を出たのかも、どのように病院へ向かったのかも、雨が降っていたことすら忘れていた。記憶にあるのは、泣きつづける千冬を抱いて、病院の安置所の前にある長いベンチへ腰かけたわたしだった。自分で千冬を抱いているのに、俯瞰で見ているように、記憶が二重になった。それが涙のせいだと気づくことに時間がかかった。

春雪さんは、今朝、不慮の事故で亡くなった。人を助けようとして、事故に遭ったらしい。その詳細を説明する同僚の方の言葉が、わたしには理解できなかった。事故はお昼のニュースになり、昼過ぎには春雪さんのお母様と田町さんが病院へいらした。

お母様はわたしを見るなり鬼の様に顔をゆがめてこちらに走って来た。

「あんたのせいよ!!春雪が死んだのは、あんたのせいよ!!うわあああ!」

お母様を止める田町さんの目は赤く炎症していた。その声に驚いた千冬は、思い切り泣き出した。反響するふたつの泣き声だけが廊下に拡がった。ずっと響いている。わたしのこころではいまもずっと。

その日の夕方、春雪さんの遺体は実家へ引き取られた。なぜ春雪さんをわたしたちから引き剥がすのか、必死で抵抗してわけめいたけれど、誰も聞いてはくれなかった。自分が蝉になった気がした。泣いても泣いても、大声で理由を問いただしても、誰も気に留めない。ただ7日が過ぎれば静かになるだろうと、そう思われているような気がした。

そして、春雪さんが亡くなった2日後には、知らない誰かが家に来た。弁護士だと名乗る人と、そのあとに男女ひとりずつ家へ入った。弁護士は千冬をお母様が引き取ることと、わたしが大原家から籍を抜く旨を冷静に伝えた。そして、白く分厚い封筒がわたしの前に差し出された。

わたしは突沸する怒りに、やり場をなくして、それを弁護士にぶつけた。わたしから春雪さんを奪い、そして千冬まで奪うのかと、怒り狂った。そうだ、わたしは狂っていた。自分が臨月間近だということも忘れ果て、怒り狂い、そして、確実にわたしの腕から泣きわめく千冬を奪った。その瞬間から、わたしは欠けた。まんまるいおつきさんがバラバラに散らばるように。

わたしは葬儀にも出られず、子どもを奪われたことを、弁護士や警察へ赴き相談したけれど、無職のわたしには千冬を育てられないという理由で「たぶんですが、お子さんはご主人のご実家で暮らした方が幸せになられると思います。」と、腫れ物にさわるようにあしらわれた。

わたしは欠けたまま何とか家へ辿り着くと、食器棚のガラスに映る自分が鬼に見えた。髪はぐちゃぐちゃに、服は雨に濡れてボロボロになり、手足には覚えのない傷ができていた。そう思いたくないけれど、春雪さんのお母様の様だった。わたしたちはある意味では息子を失った者同士だった。

てのひらを眺める。ぽっかりと穴が空いたてのひらに、こころまで穴が空いて、息が苦しくなった。千冬の重さはこのからだから消えてない。春雪さんが選んだ絨毯の上に散らばる札束を見ながら、わたしの意識は遠のいた。

ここがどこかわからない。わたしの頬っぺたを叩く人。痛い。痛い。

「しっかり!ほら!あなたはお母さんになるんでしょ!起きて!起きなさい!」

女性がわたしの頬を打つ。

「痛い!」

わたしが叫び、その人を睨むと、千冬をとりあげた助産師の上野さんだった。すると、突然、お腹に痛みを感じた。陣痛だ。わたしは痛さで叫んだ。獣の様な声が出る。わたしは獣だ。恥も何もない。わたしは思い切り叫んだ。汗も、憎しみも、恨みも、全部いっしょになって口から出る。もう喉から血が出てもいい。

「はい!大原さん!息を吸って!はい!すぐに息む!ほら!がんばれ!」

上野さんは必死で声をかけてくれる。わたしは痛みと闘いながら叫びつづけた。思い切り息むと、するんとした感触のあとに、産声が響いた。呼吸も絶え絶えのわたしに上野さんは「よくがんばりました。赤ちゃんは元気な女の子です。」と伝えた。わたしは虚ろな意識でも、その言葉は何よりも実感としてからだに降った。ここ数日、蝉のように泣いても、泣いても、無視されていたのに、ここで泣いたら、「よかったですね。」「おめでとう。」と声をかけられた。由美子を祝福してくれる人がいることに、歓びはまっすぐ伸びた。途方もない喪失の最中でも、このからだには歓びは生まれるのだ。それは微かでも、光っていた。

上野さんはわたしの腕に由美子を抱かせた。ふにゃふにゃの由美子のからだはとても小さい。わたしはその重さに千冬を思い出し、春雪さんの体温を思い出した。そのどちらもいまはいない。わたしは「由美子。」と名前を呼んだ。由美子は、起きているのか寝ているのかわからない。小さな手は何かを握っている様に強く結ばれていた。塊のような由美子の手に、わたしの空っぽのこころから雫が落ちた。すると、上野さんがそっと慰めるようにわたしの肩を摩った。

病室へ向かうとかっちゃんがいた。ぐちゃぐちゃに泣いたかっちゃんを見ると、何も考えることのできないわたしは欠けたまま「ありがとう。」とお礼を伝えた。かっちゃんは何も言わずに泣いた。その涙はわたしの欠片に染み込んだ。

翌日には姉がこちらへ来てわたしの身の回りの必需品を準備してくれた。退院する日、かっちゃんは午前中にリーヴスをお休みして、迎えに来てくれた。昼前にアパートの前へ到着すると、かっちゃんはわたしに「なんかあったらいつでも言いや。遠慮はナシな。」と言葉を残して仕事へ向かった。

約1週間ぶりの家。人気はない。姉の姿はなかった。3人では狭いと感じた部屋は、いまはとても広く感じた。部屋がやけにきれいだった。姉が掃除してくれたのだろう。ありがたい。由美子が泣く。わたしはあやしながら部屋を見回す。

いろいろな感情は焼きついて消えない。けれど、とにかく由美子のことを考えた。それだけが、わたしの光だった。千冬と春雪さんのことは決して消えさせない。何があっても。わたしが呆けても消えることはない。けれどいま、ふたりのことを想うだけで、わたしは壊れそうだった。命綱のような由美子の泣き声に、わたしは救われていた。

玄関の鍵が開く音がすると、姉が買い物から帰ってきた様子だった。その両手の荷物を机へ置くと、「あら、え?もうそんな時間なん、おかえり。」と気遣うようにほほえんだ。

「ようがんばったな。ほら、今日は由美子のお祝いに、鯛めしやで。ほら、立ってないで座ってて。いまからちゃちゃっと作るから。」

わたしはやさしい姉の言葉に風船の空気が抜けるように泣いた。姉は「こんなに泣いたら、由美子が赤ちゃんか、美子が赤ちゃんかわからんなあ。ほらほら、大丈夫やから。」と、布でわたしの涙を拭いた。

「臭!なに、これ!姉ちゃん、これ布巾やんか。」

姉は机の濡れた布巾でわたしの顔を拭いたのだ。とても臭い。けれど、臭いことを臭いと感じたことに、つい笑った。棄てた感覚を拾い直したのだ。たぶん。姉は「ごめんごめん、」と笑った。わたしも笑う。わたしはまだ笑えることに驚きつつも、喪失は消えることはないとわかっていた。それはわたしが死ぬときもそこにあるだろう。

姉は鯛めしを食べながら、合間にわたしのこれからのことをはぽつりぽつりと話した。それは降りはじめの雨の様だった。危ういところへは触れないように、とりあえず、東京から地元へ戻ることを何気なく提案した。わたしはすでに自分で判断できなかった。そして素直に「そうする。」と伝えると、姉は「じゃあ来週までに荷造り手伝うわ。」と、話して食事をつづけた。

夜になると、姉がわたしの布団で、わたしは春雪さんの布団で寝た。布団から春雪さんの匂いがした。春の雪が溶けるときの儚い匂いだった。わたしは目を瞑ると、春雪さんがそばにいるようだった。目尻から涙が流れた。姉の寝息が夜の旋律に合わさる。

「はるのゆきはとけてないなる。わたしをおいて。」

自分の意思ではないところから言葉が落ちた。わたしは布団を被り、夜よりも暗いところで、ひとりだけですべてを閉ざしてしまおうと思った。すると由美子が泣きはじめた。わたしはその泣き声に、ひとりとちゃうな、と思いなおして、起き上がると由美子をあやした。カーテンをそっと捲ると、満月で、あのときのホットケーキが記憶からやさしく立ち昇った。

「弱い母さんでごめんね。」

わたしは由美子にささやいた。月明かりの濃やかな光は、由美子の顔を照らした。

翌週までに引越しの段取りを済ませた。からだを動かすと、空虚もいっしょに動いて混ざって、曖昧になる。でも黙りこくるかなしみは消えることはない。いっそ滅してしまおうとどこかでは覚悟しているのに、由美子のために強く生きようとした。その間を何度も往来する日々の中で、春雪さんを亡くし、千冬を奪われた日にできた手当の傷は、静かに癒えようとしていた。

春雪さんが亡くなってまだ3週間も経っていないのに、わたしは平然そうなフリでからだを動かした。もうあの頃のわたしには戻れないのに。ほんとうは狂っている。いまも後ろから春雪さんのわたしの名前を呼ぶ声と、千冬の笑う声が聴こえるのだ。確かにそこいる。わたしがそちらへ引っ張られる様に遠くへ行きそうになると、由美子が現実へと呼び戻した。泣く由美子をあやして、わたしは自分を紙一重のところで保った。

押入れの中を片付けていると、大きな缶が出てきた。蓋を開けると、春雪さんの日記と、千冬と3人で撮った写真と、あとは、細々とした宝物のような品が春雪さんを亡くして、ひっそりと缶の中で生きていた。わたしは日記を手に取ると、親指で紙を弾くようにパラパラと捲った。一瞬だけ春雪さんの字が見えた。そこから春雪さんはあふれた。その力でわたしも壊れてしまう、だから、見れなかった。日記を置いて3人で撮った写真を眺めた。みんな笑っている。何が楽しかったのか、もう覚えてはいない。けれど、写真からは3人で過ごした時間が密閉されていた。わたしは、その写真を郵便受けの帳面へ大切にはさんだ。

引越し前日に、わたしはかっちゃんと話をしてまた会う日を決めた。それは予定ではない。約束だ。いつかわからない日でも必ず会おうね、と指切りで結んだ。

そのあとに、昨日、わたしの名前を出さずに大原家へ電話をして、田町さんに会う約束を取りつけた。遠くの街で待ち合わせをした。誰にも見られても知られてもいけなかった。ぎこちない田町さんに、わたしはお礼を伝えて、詰まる言葉を押し出す様に千冬のことを訊ねた。

「お元気にされております。」

田町さんはそう話した。わたしには何も悟られないような壁を感じた。それでもいい。その壁は春雪さんと千冬を思ってのことだとわかっていたから。

「田町さん、これは春雪さんの日記です。わたしは中を見ていません。もし千冬がこれから先にさみしい思いをしていたら、この日記を渡してくださいますか?それまで田町さんにお預かりしていただきたいのです。」

わたしは田町さんの前に日記を置いた。困った様子の田町さんにわたしは話をつづけた。

「千冬は、父親のことも、もちろんわたしのことも知らずに生きてゆくでしょう。もしかしたら、大きくなった千冬は、自分を捨てたわたしを恨むかもしれません。わたしはそれでいいのです。わたしを地獄へ堕とすほど、憎まれてもいい。ただ、春雪さんの、この日記だけは──春雪さんはこの中で生きています。あの人が生きた証なのです。たぶん、千冬がどんなに祝福されてこの世に生まれて来たのか、書いてあると思います。あの子がもし生きることに迷ったときには、この日記を──ご無理を申し上げますが、どうかよろしくお願い致します。」

わたしは頭を下げた。決して泣かないつもりでこころを硬直させたのに、太ももに涙がぽたぽたと落ちた。

わたしは千冬の地獄に居ようと思う。燃え盛る炎の中で爛れながら、でもしっかりとその場で立ちつづけようと。

「わかりました。美子さんのお辛いお気持ちに寄り添うことができず、ほんとうに申し訳ごさいませんでした。わたしでよろしければ、千冬様にこの日記をお渡し致します。」

頭から田町さんの声が聞こえた。わたしは、頭を下げたまま、涙を拭い、頭を戻した。そして、もう一度お礼をお伝えして、伝票を持ち、店をあとにした。

実家へ戻ると、落ち込んではいられなかった。姉夫婦にお世話になりつづけることも迷惑になると、小さな家を借りた。そこで由美子とふたりで生活をした。春雪さんとふたりの貯金を切り崩して、あの白い封筒に入ったお金はそのまま箪笥にしまったままだった。

わたしは姉が遊びに来たときに、よくホットケーキを焼いた。なんの気なしに焼いたら、春雪さんと食べたホットケーキを思い出して、それから狂ったようにホットケーキばかり焼いた。狂いついでに毎日作り食べた。でもあの甘味処で食べたホットケーキの味にはならなかった。あるとき、姉に貰った水飴を生地に垂らしてしっかり混ぜて焼くと、驚くほどあの味に近づいた。

姉はホットケーキばかり焼くわたしに呆れたようにつぶやいた。

「みこ、あんた、ホットケーキばっかり焼いてどうすんの?いっそ、レストランとか喫茶店とか開いたら?ほら、喫茶店で働いてたし。あ!そうや、あのな、いま海の近くで売りに出してる家あるやろ?あそこ買って商売はじめたら?わたしは由美子の面倒みるし。」

姉は何気なくホットケーキを食べると、「え?いつもとちゃう。これおいし!」と飽きたはずのホットケーキをパクパクとたいらげた。

「みこ、あの人たちがくれたお金、つかいなさい。あれで、春雪さんの好物のホットケーキを作ってな、お客さんでお店いっぱいにして、天国の春雪さんに"わたしほって何してんの!あほ!仕方なく春雪さんの分も作るから、ときどきこっちに帰っておいで!"って叫んだり。みこの大きな声やったら、耳鳴りするくらい聞こえると思うで。な?」

姉は元気に笑った。そして、みこに誘われておままごとをはじめた。おもちゃのフライパンに肌色のタオルを載せる。姉が「それなんなん?」と訊くと、由美子は「ほっちょちぇーき、じょうじょ。」と姉に手渡した。姉は「由美子、あんたフライパンの上にあるホットケーキを素手でつかんだら火傷すんで。これはあかん。ホットケーキはこうして、こうひっくり返して、お皿に載せるの。」とやってみせると、由美子は姉の真似をしてお皿に載せた。そして、小さな手で拍手をした。わたしの記憶の千冬と由美子が重なる。

「姉ちゃん、わたし、店やってみるわ。そこでホットケーキとか、オムライスとか、サンドイッチとか、春雪さんの好きやったもんいっっぱい作って、その匂いで春雪さんを天国から呼ぶわ。姉ちゃん、ありがとう。」

わたしはその日から1年後に、ドライブインなみまを開店した。



𓂅𓎩𓌉𓇋𓐊𓂅𓎩𓌉𓇋𓐊𓂅𓎩𓌉𓇋𓐊𓂅𓎩𓌉𓇋𓐊𓂅𓎩𓌉𓇋𓐊𓂅𓎩𓌉𓇋𓐊



ゴロゴロピッシャアん!と海へと落雷する。私は「こっわぁ。」とつぶやいて車を走らせると、雷はそれが最後で、小さくゴロゴロと文句を言いながらどこかへ去った。店に着く頃にはすっかり雨は止んでいた。

私は店へ入ると、なつが手招きした。

「あの人、奥の席に座ってる、あのダディな人が"由美子さんいらっしゃいますか?私は大原千冬と申します。"って。知ってる人なん?もしかして、元カレ?その横に座る少年は息子さんやって。」

その方の名前はどこかで聞き覚えのある名前だった。なつが言う通り、ダディな雰囲気は、都会の人だとわかった。その横の少年はスマホをいじっている。私は髪の毛を手櫛でとかすと、なつが後頭部を直してくれた。

「私、あんなダンディと付き合ったことないから、元カレとは違う。どっかの業者さんでもない。誰やろ?」

私は考えながら奥へ移動した。私の姿に気がついたダンディは、サッと席を立ち、隣の息子の肩をゆすった。

「ゆきなり、さ、ごあいさつをして。」

低く澄んだ声までダンディだった。私は緊張したけれど、笑顔であいさつをした。

「波間由美子です。あの、私にご用事があるとのことで、あの、どうされましたでしょうか?」

私はダンディに訊ねたあとに「さ、おかけください。」とふたりの椅子を手で示した。席に就いたダンディは、カバンから分厚い手帳のようなものをテーブルへ置いた。

「いきなり押しかけて、申し訳ありません。実は──私は、大原春雪の息子です。母親は波間美子さんです。美子さんとは物心つく前に別れたもので、お恥ずかしいことですが、最近まで私の記憶から消えていました。それが、私の恩人が亡くなる前に、この父の日記を渡してくださいました。恩人は、この日記は美子さんから私へ渡して欲しいと託されたものだと話しました。最初は読むことに戸惑いましたが、父は美子さんと出会った頃から日記をつけていたようです。わたしは父の記憶はほとんどないのですが、父の日常は、とても柔らかく、その源には常に美子さんがいました。どうぞ、お読みください。」

とても話の上手な人だった。大原春雪──その名前が耳の奥まで染み渡ると、私の内側へ稲妻が落ちた。写真でしか見たことのない私の父さん。動くことのない四角い枠の中の父さんを思い出すと、目の前の千冬さんにとても似ていた。ただ、父の様なやわらかい笑顔はない。そして、母さんのことを美子さんと呼ぶことから別離の年月が滲んでいた。

千冬さんは、私の兄。兄さん。でも、兄さんと呼べるほど近くはなかった。いくら血を分つ兄妹でも、それを埋める時間はなかった。

母さんから一度だけ、私に兄がいると教えてくれたことがあった。「千冬言うのよ。とてもいい名前よ。父さんがつけたの。」母さんは兄さんのことをそれ以上話さなかった。虚ろに黙りこくる母さんに私はそれ以上訊ねることはできなかった。訊ねなくとも、その先がわかったから。

「驚きました。とても。なんとお伝えしたらよろしいか──この父さんの日記、拝見してもよろしいでしょうか?」

私は千冬さんに伝えると「はい、ぜひ。由美子さんにもお読みいただきたく思いまして、お持ち致しました。」と話したあとにゆっくりとうなずいた。

分厚い日記を手に取る。とても重かった。そして時代を感じた。私は恐る恐る、そっと表紙を捲る。最初のページには、「大原春雪の日々」と書いてあった。父さんの字は風のようで、紙上でなめらかに吹いていた。3月28日から毎日、その日のできごとを数行の短い文章で書かれていた。


3月28日
ぼくは恋をした。いつも通う喫茶店・リーヴスの店員さんだ。名前は知らない。彼女はハツラツとしたまっすぐな人だ。漢字よりもひらがな似合う人。また会いたい。次はいつ会えるだろうか。


私は風のような字に吹かれた。そのまま流されるように父さんの息吹を読み進んだ。そこにはリーヴスという喫茶店で働く女性に恋をした人のことと、大学での研究室でのやり取りを書いていた。



8月8日
雨が降る。甘味処の軒下で雨宿り。するとリーヴスの彼女がやってきた。戸惑うぼくたちに甘味処の店員さんが中に入れと促した。ぼくは緊張した。そこで好物のホットケーキをふたりで食べる。おいしい物を食べる彼女は輝いていた。帰りに名前を訊ねた。彼女の名前は波間美子さんという。とてもいい名前だ。


わからない。私は雷のあとに雨が降るように泣いた。なぜ自分が泣くのかわからなかった。遠い記憶で母さんがよくホットケーキを焼いていたことを思い出した。会ったことのない父さんと結ばれた。父さんが私の深いところで生きている。

私は「すみません。」と千冬さんに伝えて日記を読んだ。一次元の短い文章から、父さんと母さんの奇跡は奥行きが生まれて三次元へと立ち昇る。デートをした日のこと、交際を申し込んだ日のこと、私のお婆様に母を紹介した日のこと、家を飛び出したこと、母と暮らしはじめたこと、大学の研究室を辞めたこと──。分厚いために読みきれそうもない。日記の上には付箋が3箇所ついていた。付箋はまだ新しい。もしかしたら千冬さんが標にしたのだろうか。私の指は迷いながらもそのページを捲る。



1月21日
千冬が産まれる。ぼくのいちばん好きな日に産まれた。冬が何層にも折り重なり土を守る日。これからぼくたちの大切な記念日となった。美子さんは泣いて喜んだ。ぼくも泣いた。こんなにうれしいことは生まれて初めてだ。千冬、千冬。


もうひとつの付箋のページを捲る。


5月28日
甘味処のホットケーキを3人で食べた。その帰りの花屋で芍薬を気にいる千冬。家に飾るととてもよろこぶ千冬。それを見て美子さんもよろこぶ。芍薬はぼくたち家族の家紋にしよう。ぼくはしあわせだ。


胸の奥がうれしさで潰れそうになった。そして、ハッとする。それはぽたぽたと、私へ降ってきた。


「はるの、ゆきはとけて、ないなる。わたしを、おいて。」



今日、母さんがつぶやいた言葉。かなしいハの字の眉間。芍薬に触れる手──母さんがなぜ庭の芍薬を大切に育てていたのか──すべてが強く結ばれた。

そして最後の付箋のあるページを捲った。


12月6日
家族会議にて、お腹の子どもは由美子と名づけた。ぼくと千冬の由縁には、必ず美子さんがいるという意味で、由美子。ちょっとキザだけど、美子さんも千冬も大賛成したために、可決!由美子は家族をつなぐ糸なんだ。楽しみだね。早く会いたい。


はじめて自分の名前の由来を知った。由美子という名前はありきたりで地味で華やさがなくて、嫌だった。もっと他の名前がよかったと何気なく言うと、母さんに思い切り叱られた。当時は母さんがなぜそんなに怒るのかわからなかった。

私の名前は家族を糸でつなぐのだ。

震える手で父さんの字をなでた。やさしい字、やさしい言葉。生きる歓びがあふれる日々。そこには母さんと千冬さんがいる。

父さん、私も会いたい。

今日はじめて会った千冬さん。私たちには距離があるし時間が足りないと思っていた。しかしその時間は私の知る1秒1分1時間と進むものではなかった。父さんは時空を超えてこの日記の中で生きている。いまもこの中にいる。私はそこから香る奇跡を衒うことなくまっすぐに受け取ればいい。

「千冬さん、不躾に申し訳ありません。あの、これから兄さんと呼んでもいいですか?」

私がそう伝えると、千冬さんは「はい。」とやさしく返事をしてくれた。その表情は、写真に映る父さんと似ていた。

「ぼくは、その日記を読むまで、父のことも詳しく知りませんでした。もちろん、美子さんのことも。どこかで生きていると訊いたことがありますが、誰も詳しくは教えてくれませんでした。ぼくは捨てられたと思っていました。ずっと。でも違った。」

兄さんの声は震えていた。私は母さんを「美子さん。」と呼ぶ兄さんの戸惑いに気がついた。私は兄さんの過去はわからない。もしかしたら、そのこころには深いかなしみが根付いているのかもしれない。しかし私はそれでも糸になろうと思う。父さんが名づけてくれた私の名前の役目を果たそう。兄さんとすこしずつ意識がまばらになってゆく母さんを結ぶ糸になるのだ。それはいまだ。

「あの、もしお時間がよろしければ、いまから母さんのいる施設へいきませんか?」

わたしが伝えると、兄さんはすこし驚いた表情をして「はい、お願いします。」とうなずいた。隣の息子のゆきなりくんはスマホを突きながらわたしたちの話を聴いていたのだろう、私が立ち上がるとスッと立ち上がった。私はなつをこちらに呼んで兄さんたちに紹介した。

「え!?やっぱり元カレちゃうかったん?ダンディな元カレやから、楽しみにしてたのに。」

「あほ!なんでそんなこと言うのよ。ほんまにこの子は。」

私たちの会話を聞いて兄さんは笑った。たぶん、ゆきなりくんも顔を逸らしたので笑ったのだろう。

私たちは車で施設へと向かった。

母さんの部屋へ入ると、母さんはキャビネットに置いてある芍薬を見上げていた。私が「母さん。」と声をかけても芍薬を見続けている。すると母さんは、目には見えない何かに教えられたように、こちらへゆっくりと頭を動かした。

その表情はボヤけていた。そしてだんだんとまぶしい表情へと変わり、一気に顔の血色が良くなった。

「あ、あ、はる、ゆきさん、もう、どこにいって、たの、わたし、ひとりにして、」

母さんは話す。花のように。そして、目尻の皺から涙が流れた。泣いた。泣いて泣いて、その姿は子どものようだった。母さんの発音は不明瞭になりつつある。ひとつずつ言葉の角が欠けて丸味を帯びて、漢字よりもひらがなに近い。それでも兄さんには伝わっていた。母さんは兄さんを見て父さんだと勘違いしたけれど、ずっと長い長い間、父さんを待ち焦がれていたのだろう。母さんはそっとベッドへ置いた手を挙げる。

「母さん。」

兄さんの声は低く澄んでいた。兄さんは母さんの横へ行き、その手を取った。母さんに触れた兄さんは、いろいろな感情が気化してゆくようにうなずきながらほほえんだ。

そして母さんはゆきなりくんを見ると「ちふゆ、や、ちふゆ、」と震える声音で名前を呼んだ。ゆきなりくんはスマホをポケットへ入れて母さんに近づいた。

「ちふゆ、ごめんね、こ、ごめんね、さみしい、ね、おもいさせ、た、ごめん、ね、かんにんな、」

母さんは話しながらたくさん泣いた。ゆきなりくんは母さんの手を取るとやさしく握る。その光景に会ったことのない父さんの姿が滲んだ。なぜだろう、この部屋には、父さんがいた。目には見えなくても、必ずいた。

すると、なつが鼻を啜りながら話した。

「あれやん、おばあちゃんのその引き出し開けてみて。ほら、おじいちゃんとの交換日記と写真がある。」

私はその言葉で火がついたように思い出した。キャビネットの引き出しを開ける。そこには古びてページの端が捲れたノートがあり、開くと父さんと母さんと兄さんの3人写真があった。そして、そのページには、透明なセロファンにはさんだ芍薬の花も。押し花のようにぺたんこで、色褪せた芍薬。そのセロファンには母さんの字。


千冬、シャクヤクを気にいる。記念日として、ここに記す。この日のことは決して忘れない。


油性ペンで書いた字は力強かった。兄さんはそれを受け取ると、大切に眺めたあとに熱いものが目からこぼれた。ぽたぽたと、雪が降るように。

母さんは兄さんを父さんとして、ゆきなりくんを兄さんとして、いとおしいそうな表情で眺めていた。わたしにはわかる。母さんは笑っている。こころから慈しんでいる。私は母さんの内側に広がる世界がやさしいものであふれていることを実感した。それだけで、しあわせだ。それだけで充分だ。

網戸越しに風が吹く。みんなを包むようなやさしい風だった。

それから母さんは疲れたのだろう、そのまま眠ってしまった。

午後5時を知らせるチャイムが街を包む。面会時間の終わりに兄さんは「母さん、また来るよ、」と声をかけた。

施設の外へ出ると水たまりが飴玉のように艶めていた。

「おなか減ってないですか?母さんのレシピで作るホットケーキを食べませんか?」

私が兄さんたちに伝えると、なぜかなつが「わたしも食べる!」と言った。「あんたはいつも食べてるでしょ!」と言うと兄さんたちは笑った。

「では、ホットケーキをお願いします。」

兄さんが話すと、ゆきなりくんも「お願いします。」と恥ずかしいそうに話した。

私は兄さんたちのためにホットケーキを焼いている。まんまるおつきさんのホットケーキを食べてほしい人がいるから、焼いている。甘い匂いが漂うドライブインなみま。それは綿密な糸となり、天国へとつながっている。きっと。





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#恋愛小説部門


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