【藤原実資】満月の夜の唱和
寛仁二年(一〇一八年)十月十六日。
太政大臣・藤原道長の邸宅は、むせ返るような香香と、割れんばかりの歓声に包まれていた。
道長の下の娘・威子が後一条天皇の中宮に立つことが決まり、これで道長は「三つの代の天皇に、それぞれ自分の娘を嫁がせる」という、前代未聞の偉業を成し遂げた。まさに栄華の極み。居並ぶ公卿たちは、道長の一挙手一投足に目を細め、我先にと媚びへつらっている。
その喧騒から少し離れた席で、冷めた目で杯を傾けている老人がいた。
右大臣・藤原実資、時に六十二歳。
誰もが道長に阿(おもね)るこの時代において、ただ一人「前例と律令」を武器に最高権力者に苦言を呈し続ける、朝廷の「歩く法律」と呼ばれる男である。
「実資殿、そんな隅で気難しい顔をしておいで召さるな」
赤い顔をして近づいてきたのは、道長の側近のひとりであった。実資は内心の不快を一切表に出さず、ただ生真面目に頭を下げる。
(群れる猿どもめが。祝いは当然だが、骨まで道長に売り渡してどうする)実資の胸中には、彼が日々書き継いでいる日記『小右記』の辛口な文言が浮かんでいた。だが、ここでへそを曲げて帰るほど、実資は子供ではない。彼はあくまで「筋」を通すためにここにいた。
夜が更けた頃、主役である藤原道長が、千鳥足で実資の前にやってきた。
その目は爛々と輝き、勝利の美酒に完全に酔いしれている。
「実資殿」
「これは道長様。この度のご慶事、まことに恐悦至極に存じます」
「いや、堅苦しい挨拶は抜きにしよう。今宵は、我が胸の内を歌に詠んでみた。返歌を期待しているぞ」
道長は、満月が皓々と照らす庭を指差し、朗々と声を張り上げた。
「この世をば 我が世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば」
一瞬、宴の席が静まり返った。あまりにもあからさまで、傲慢な歌。しかし、次の瞬間には「素晴らしい!」「さすが道長様!」と、太鼓持ちたちの賛辞が嵐のように湧き起こる。
道長は満足げに顎を突き出し、実資を見た。
「さあ、右大臣殿。これに応える、優美な返歌を頼む」
周囲の視線が一斉に実資に集まる。
試されているのだ。ここで道長をさらに持ち上げる歌を詠めば、道長への臣従を意味する。逆に、その傲慢さを諌めるような歌を詠めば、明日からの出世は響くだろう。道長は、このへんくつな「正論男」がどう頭を下げるか、愉しみにしているのだ。
実資は、じっと手元の杯を見つめた。
(実に見事な、そして、実に見苦しい歌だ)
この男の栄華は確かに凄まじい。だが、天皇家をもしのぐような不遜な言葉を、なぜ平然と口にできるのか。律令の精神はどこへ行った。
しかし、ここで真っ向から批判の歌を詠むのは、ただの「空気が読めない頑固者」である。それは実資の美学に反する。
実資は、ゆっくりと立ち上がった。その表情は、驚くほど穏やかだった。
「道長様。まことに素晴らしいお歌にございます。……しかしながら、あまりにも満ち足りたお歌であるがゆえに、これに付け足す言葉など、この世のどこを探してもございませぬ」
「ほう?」
道長が眉を上げる。言い訳をして逃げる気か、という目だ。
実資は一歩進み出、居並ぶ公卿たちを見渡して、声を張り上げた。
「ですから、返歌の代わりに、皆でこのお歌を『唱和』いたしましょう。これほどの名歌、ただ拝聴するだけではもったいない。さあ、皆様もご一緒に!」
「えっ……?」と、周囲の公卿たちが戸惑った。
しかし、実資は構わず、自ら大きな声で歌い始めた。
「この世をばーー我が世とぞ思ふーー」
実資の堂々たる声に押されるように、隣の公卿が慌てて声を合わせる。それが波のように広がり、やがて高松殿の全員が「この世をば……」と大合唱し始めた。
道長は、呆気に取られた顔で実資を見つめていた。
実資は、満面の笑みで道長と目を合わせ、声を張り上げて歌い続ける。
(どうだ、道長。お前が欲しかったのは、私の『おもねる歌』だろう。だが、私はお前の歌を全員に合唱させることで、『ただの宴会の流行り歌』にしてやったのだ)
これなら、誰も傷つかない。道長のメンツは立ち、周囲も盛り上がる。しかし、実資自身は、道長に屈する歌を一字たりとも詠んでいない。伝統と前例を重んじる実資なりの、最大級の「煙に巻く」抵抗だった。
やがて大合唱が終わり、宴は最高の盛り上がりのまま幕を閉じた。
深夜。自邸に戻った実資は、書斎で筆を執っていた。
まだ興奮の冷めやらぬ頭で、今日の一大スキャンダルを日記に書き留める。
『十六日、己丑。高松殿に赴く……。道長、歌を詠む。……誇る所の歌、ただこれを誦すべし。返歌に及ばず。』
実資はふっと筆を置き、窓の外を見た。
夜空に浮かぶ満月は、確かに美しい。しかし、実資の目には、それが明日からゆっくりと欠けていく、終わりの始まりのように見えていた。
「満月は、欠けるからこそ趣があるものを。のう、道長殿」
実資は小さく呟くと、満足げに日記を閉じ、静かに明かりを消した。
藤原実資:平安中期の公卿。藤原道長の全盛期に、周囲が阿ねるなか「前例と律令」を武器に筋を通し続けた偏屈な実務派。道長の「この世をば」の歌に返歌をせず全員で大合唱させて煙に巻いた逸話が有名。彼の残した辛口な日記『小右記』は当時の貴重な一級史料となっている。
