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片付けないで生きる

 新しい街に引っ越してもう長くなるが、誰も訪ねてくる人はない。これからも誰にも知らせないでひっそり生きていこうと今は考えてくる。
 訪ねてくる人がないと、安心して書斎の机の上に本を何冊も出しっぱなしにできる。来客があると急いで本を片付けなければならない。片付けなくても本を積み上げてお茶を出せるくらいのスペースを確保しなければならない。
 もっとも最近は孫たちが書斎にやってくる。二歳の孫は私の隣にある椅子にすわりたいというので、その度に片付けないといけなくなった。片付けないと本を手で払いのけようとするからである。
 書斎の話から始めたが、私はダイニングで仕事をすることが多い。書斎にこもっている時間よりも、ダイニングで過ごす時間のほうが長いかもしれない。日の光が差し込んでくるダイニングは明るく、刻々と形を変える雲や遠くに望む比叡山をぼんやり眺めている。
ダイニングで仕事するのは今に始まったことではない。家族と話していても思考が途切れることはない。
 ポルピュリオスの『プロティノス伝』によれば、プロティノスは考察を最初から最後まで自分の心中で完成させておいてから書き始めた。その様子は他の書物から転写しているかとばかり疑われるほどだった。執筆の途中で他の誰かと話をしても、対話の相手が帰るとそれまでに書かれていた部分を読み返すこともなく残りの部分を書き継いでいくことができた。そのありさまは、まるで談話をした途中の時間がまったくなかったようであったとポルピュリオスはいう。
 こんな真似は私にはできないが、人と話していたらその時には思考は中断しているが、思考そのものが消えることはない。きっとプロティノスもそうだったのだろう。
 ところで、考えをまとめるためには散らかさなければならない。書斎であれダイニングであれ、一人であれ誰かと一緒にいる時であれ、いつも考え事をしているが、一つのことだけを考えていることはない。思考を可視化するためにメモを取ったり、アウトラインプロセッサに書き出すと、端から順に思考が紡ぎ出されるようなことはないことがよくわかる。まず、散らかす。散らかっているものがなければ片付ける必要がない。片付けるというより、並べ替えるのだが、そうしているうちに考えが少しずつまとまっていく。
 しかも、思考が深まるためには簡単に片付いてはいけない。鳥は真空の中では飛べないように、何も抵抗がなければ考えることはできない。
 考える時に本を読むのは抵抗が必要だからである。その本を読む時も、自分の考えが本を早く読む時の抵抗になる。著者の言葉をたどるだけではなく、自分でも考えながら読むので少しも先に進まないことがある。むしろ、何も考えないで本を読んでもあまり意味がない。
 散歩の途中で道草をする時のようだ。何か用事があって出かけるのとは違って、散歩にはどこかに行くという目的地があるわけではない。どこかに出かけても、最終的には家に帰るのだから、出かける時の目的地はどこでもいいわけである。そこに行き着くことができてもいいし、できなくてもいい。
 あそこに行こうと決めて出かけたのに、その場所を見つけられずに帰ってくることがあってもいい。でも、そこに行くことが散歩の目的ではないからである。また、次の日も出かける。そして、また帰ってくる。どこに出かけようと、家に戻ればいい。
 何かを考えている時、数学の問題を解く時のように、この問題を解こうと思って考えるわけではない。何かのテーマで原稿を書かなければならないこともあるが、思いがけないところに考えは進む。散歩の時のように家に戻ってこなければ、いつまで経っても締切があっても原稿を書き上げられないことになるが。
 考える時には徘徊することこそが面白い。思考の過程、徘徊を書き留めた文章を読むと、著者の考えをたどりながら読む読書は楽しい。
 読みやすくするためには、最初に結論を書けばいいと勧める本は多いが、最初に結論が書いてあるような本は読みたいと思わない。そんな本であれば速読ができるのかもしれないが、考えの過程を書き留める本であれば、速読などできないはずだ。情報を収集するのが読書だと思っている人は速読しようと思うだろうが、考えを追うのには時間がかかる。
 プラトンの対話篇の多くは、何かについての定義を求めるために対話が進むのに、最後は何も知らないことの確認に終わる。それでは、それまでの過程が無意味かというとそうではない。哲学は答えを出すことよりも、そこに至る、多くの場合、答えに至らない過程にこそ大事なのである。
 本を読んでいるうちに、いつのまにか自分で考え始めている。夜遅くまで原稿を書き、そのままダイニングテーブルの上に本を出しっぱなしにして寝ると、翌朝、家族から注意される。思考はまとめずに散らかったままにしておいても誰の迷惑にもならない。