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私はあなただ

 エーリッヒ・フロムは、人には様々な違いがあるけれども、各人の根底には「人間性」(humanity)があると考えた。別のところでは、フロムは「普遍的人間」という言葉を使っている。
 普遍的人間は人間性を分有し、特定の共同体だけでなく、「人類」にも所属している。フロムは、人間性を意味するhumanityを「人類」(mankind)という意味でも使う。
 人は複数の共同体に所属している。働いている人であれば会社という組織に所属しているが、同時に家庭という共同体にも所属している。生徒・学生は学校という組織に所属しているが、家庭という共同体にも所属している。フロムはさらに誰もが人類に所属していると考える。
 ソクラテスが、あなたは「どこの国に属するのか」と問われた時、「世界の市民だ」と答えたという話が伝えられている(Cicero, Tusculanae Disputationes)。ソクラテスはアテナイというポリス(都市国家)の一員なので、ソクラテスがこんなことをいったとは考えにくいが、実際にこのような問答があったとすれば、たずねた人は、ソクラテスの答えの意味がすぐには理解できなかったかもしれない。ソクラテスは国家を超えた正義を問題にしていたので、自分をポリスという狭い共同体の一員としてだけ考えてはいなかっただろう。
 一九三〇年代の末から四五年まで、人を罵るのに「それでもお前は日本人か」ということが流行っていた。この問いは修辞疑問であり、その意味は「それならば日本人ではない」ということである。「それでも」の「それ」は、相手の言動であり、罵る側は、「それ」が日本人の規格に合わないと見なした。
 一九四五年年の三月三十一日の夜、白井健三郎(フランス文学者、当時は海軍軍司令部に勤めていた)に「きみ、それでも日本人か」といった人がいた。白井は落ち着き払って答えた。
「いや、まず人間だ」
「まず人間とは何だい。ぼくたち、まず日本人じゃあないか」
「違うねえ、どこの国民でも、まず人間だよ」
 この話を伝える加藤周一は、次のようにいっている。
「人権は「まず人間に」備わるので、「まず日本人」に備わるのではない。国民の多数が「それでも日本人か」と言う代わりに「それでも人間か」と言い出すであろうときに、はじめて、憲法は活かされ、人権は尊重され、この国は平和と民主主義への確かな道を見出すだろう」(『『羊の歌』余聞』)
 まず、人間なのである。これは日本よりも先に人類に属しているということである。時間的な前後ではない。日本人でありながら人間だが、人間であっても日本人でないことは当然ある。しかし、人間でない人はいない。
「日本人」でしかなく「人間」でない人はいないが、人間であること、人類という共同体の一員であることを意識していない人は、日本に固有の価値観しか理解できないかもしれない。日本に生まれ育った人は日本という共同体の価値観を常識として身につけているので、それとは異なる価値観を持っている他の共同体に所属している人を理解するのが難しいことがある。
 フロムは理解について、次のようにいっている。
「人が他者を理解できるのは、どちらも同じ人間存在の要素を分有(share)しているからだ」(The Heart of Man)
「人間存在の要素」は「人間性」である。知性、才能、身長、肌の色といった違いがあっても、「人間の条件」は一つであり、すべての人にとって同じである。この「人間の条件」も人間性である。誰もが人間性を分有しているからこそ、他者を理解できるのである。
 フロムはさらに、他者を理解できるためには「よそ者」でなければならないという。「よそ者」であるというのは、特定の共同体ではなく、世界をわが家とすること、世界市民になることである。自分が所属する文化や社会に縛られているうちは、相手と自分に共通したもの(人間性)が見えず、相手を理解できない。よそ者は「人類」に所属しているので、どの共同体に所属している人であっても「人間」として理解することができる。
 この人間性を見るためにはどうすればいいのか。フロムは次のように説明する。
「われわれの意識はもっぱらわれわれが所属する社会と文化を表わし、他方、無意識は各人の内にある普遍的人間を表わす」(前掲書)
 ここでは、人間性は普遍的人間と言い換えられている。誰にも共通する人間性は意識化しなければ知ることはできないということである。それができれば、自分自身の内にあるすべての人間性を経験できるようになる。自分は罪人であり聖人である、子どもであり大人である、正気の人であり狂気の人である、過去の人間であり現在の人間でもある。
 すべての人間性を経験すれば、「私はあなたである」(前掲書)ことがわかる。これは例えば誰かが罪を犯した時、自分はそのようなことはしないと思うのではなく、自分も同じような状況において同じことをするかもしれないと思うことである。
 イライラし怒りを感じるのは親だけではない、子どもも同じだと思えたら、苛立ちや怒りを親と子どもが共に持つ人間性として理解、協力して克服することであると思えるだろう。