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(短編小説)「天使の訪れの日」

 天使の訪れの日時は、本日から15営業日後、翌月の第二火曜日の12時30分より予定されている。
 日取りと時刻のもろもろは、いわゆる「啓示」により知らされた。
 それは突然だった。通勤帰り、あれは駅前のロータリーに面したスーパー西友の脇を折れ込み、人気のない道とて、たしか小腰をかがめてせいぜいおちゃらけた歩行にて共済組合のビルを過ぎ、ちょうどまいばすけっとへと差し掛かった頃合だった。
 にわかに確信があった。
 確信どころか、ふいの受信というような。そいつが、おつむにびびびと来た。よもや糞害を喰ろうたのかと思った。頭に手をやって念のためその無事をあらためた。それくらいヴィヴィッドな質感、実感、異物マッチング、即物的センセーションがあった。
 しかしながら、もちろんそんなものではない。そんな生半可な、形而下のものごとでは。間違いなく、頭のなかに直接ざぶりと到来した「啓示」、これだった。誤りようもなかった。不可避の「啓示」、「啓示」の不可避、これだった。
 日々色濃くなる夕映えと青空の濃淡もおもむろに控えめで、寒気の手綱のついとゆるんだ宵待ちの街かどの上機嫌なるさんぽみち。たいそう「啓示」も降ってくるらむ、と私は思わず詠んでいたものだ。
 驚きの感情も控えめなら、期待や緊張といった心理もほどほどだった。これ見よがしなところなどひとつもない。私に波立たない。私に波紋も広がらない。それゆえに「啓示」なのだろう、といまならかえって合点がゆく。
啓示、啓示、啓示だ。あたりきの「啓示」だ。
 それでも果たして本当に「啓示」という、その名で相応しかったのだろうか。いまさらながら、そう思い巡らせる一刻はある。既知でない事物に名を与える営みにはそれだけ困難が伴うのだ。煩雑な、もったいぶった手続きもなく、きっぱりと頭の上から降ってきた、簡潔で穏便でお手軽で、それでいて能弁なる、もの。それゆえに、それでこその、まぎれもなき「啓示」。そんな明々白々たる到来でさえ、こんなにも。
 それでも、もしや「啓示」以外の、他の名付けもありうるものかと当座ひととおりの検討は加えた。手始めに、いっそ「神託」とも思った。だが、それではなにかいいかげん思わせぶりで、上演的で、こってりと厚かまし過ぎるきらいがあった。
 続いて「閃き」「ユリイカ!」といった名付けも試みた。しかし、それでは人の技の域をもうひとつ出ない。どうも人間的範疇に格納されてしまう。さすがに神秘的な味付けがもう少し欲しくなる。
 ねえちょっとそこの〈神秘〉とって。ちがうちがう、それクレイジーソルトやん。そっちの青いフタのやつ。そうそうソレソレ、〈神秘〉〈神秘〉これをチョイとやるのがいいのヨ〜、というわけだ。
 要するに、超常的に過ぎるか、あるいは人事への傾きが大きいか。つまるところ、この二つの両極の中間あたりが一応の収まりには適当であると思われ、そうとなればやはり「啓示」というのはなかなかに当を得た名称だと思えるわけだ。そして、その結論は今もって揺るがない。
 いずれにせよ、その「啓示」により天使の訪れの日は告げられた。性急に有無を言わさず告げられた。
 そこからの日々、さすがに私はなにがなし朗らかな気分だった。一方でどこか浮き足立ってもいた。とはいえ、先ほども言ったように、それは何か特別に沸き立つような喜ばしさや、来たるべき運命のその日と言った昂ぶりとははっきり一線を画していた。ときおり表に昼下がりの陽射しを閃かせる、淡々とした庭の水がめに張る真水のような心持ち。そんな風に表したらよかろうか。
 天使の訪れを待つ身として、これは取りも直さず驚くべきことではなかろうか。天使の訪れなどというものは、我々のようなごく一般的でありごく常識的な市井の人々にとって、およそ暮らしの外にあるものなのだから。幻想、神話、創作、錯乱といった地帯においてならいざ知らず、天使の交通は我々の日常座臥、人事百般の区画には決して合流してこない。
 しかしながら、かえすがえすも、あのときの私ときたらそんな驚きにすら至らなかった。反対に、ただひたすらに受け入れた。ことごとく受け入れた。まるごと、まる呑みで受け入れることに終始した。「啓示」を。天使の訪れについての「啓示」を。かかる日程のお知らせを。このような不思議について検討を加えること、その真偽や因果や背景についての考察は完全に停止されていた。この不思議についてしみじみ味わうことすらも。
 その証拠に、それにしても15営業日後だなんて、ずいぶんとまた混み合ったものだな、などと私は思うさま月並に慨嘆したものだ。年度も押し詰まってくるこの時期は、どこもせわしいものなのか。地上、天上の別もなく。それとも、もしや天上のほうでは、地上のそんな千年一日の慣習に合わせて、いっぱしせわしいフリでもこいてやがるのか。ま、そのほうがありがたみも増して、ブランディングにもよろしかろうて云々…。
 休日の雨上がりの夕刻だった。我が家のプラズマテレビでは、居並ぶ色とりどりの着物の落語家たちが、司会者からの、皆さんがこの「○○」のところをおのおの埋めて「人間万事塞翁(さいおう)が○○だよねえ」と言うとそこでワタシが「え?それはどういうこと?」と聞きますからそこで何か面白い答を返してください、という課題に取り組んでいて、私は一度も笑うことなく真顔でそれを閲(けみ)していた。
 得てしてそういうものだが、いつの間にかその日は迫った。気づけば目と鼻の先という次第だった。それでも、こちらはぬかりなく前もって総務に休日申請もしていた。準備も、心構えも、滞りなく済んだあかつきに、つつがなく当日が到来した。
 私は朝からそわそわしていた。
 まず約束の時刻が中途半端だった。これは「啓示」直後からずっと気がかりだったことだが、だからと言ってそれを改める術もなかった。なんのかんのと言って、あちらから「啓示」された時刻を変更してもらうわけにもゆくまい。それゆえ、私は黙然として受け入れたのだ。これも、霊威としてのご厚意に対する人としての嗜み、と言うべきだろうか。地上的な正しい接遇と言うべきだろうか。
 ただし、12時30分からとあっては、おちおち昼食も摂ってはいられないのだった。まずもって、自宅周辺とはいえ、この辺りの平日のランチ事情にはいっかな不案内ときている。勤務地のほうのそれには、新任のお仲間や部下の力になれるほどいっぱし手広く通じている私としても。
 大抵の個人店が11時半に開店するとして、近隣オフィスの勤め人たちが福男レースよろしくどっと押し寄せてくるような気遣いはないものだろうか。よしんば都合よく席に陣取れたとして、頼んだ油淋鶏定食がなかなか出てこない、それに出てきたら出てきたで付け合わせのあん入り中華スープが上あごの皮をうんと剥がしにくるような湯気たえまなしの煮え湯のシロモノ、といった事態も考慮に入れねばなるまい。
 近くに評判はまずまずのラーメン屋があることも承知している。が、にんにくなしで注文するには店主が少し気難しく、封建領主的で独裁傾向の強い、プロフィール写真むっつり腕組み系の店だった場合はどうだろう。気圧され「にんにく食」を強いられた挙句、せっかくの天使の訪れどきに自身の口臭などに気を取られていたくない。だいたい換気の悪い店だと、服や髪に良からぬ臭いが付着してしまう。ファミレスでさえ得てしてそうなのだから、換気を甘く見ているエスニックなどは推して知るべし。
 天使はきっと、妙なる楽の音や清浄な光などを引き連れてご降臨あそばされるのだろう。ことさらに芳しい香りさえお供にしているに相違ない。そんな馥郁たる香気の中に、自身の欲にまみれた食事の残滓が立ち現れるとすれば、それはもう赤面ものの、天使の面目まる潰しのいたたまれぬ話ではないか。
 そんな逡巡を重ね、結局私は近くのミスドにひとっ走りし、持ち帰りいたった品物でそそくさと腹を満たした。
 ハニーチュロ、ストロベリーがけのポンデリング、ザクもっちドッグメキシカンミート、チョコがけのオールドファッション、フレンチクルーラー。
 せっかくだから、天使にちなんでエンゼルフレンチでも購入したら景気も縁起もよかろうものを。そいつはどうせ購入したフレンチクルーラのお追従版みたいなものなのに。そんな気の利いたことを私は思いつきもしなかった。それだけの人心地がついていなかった。ことほどさように、少なからず気が動転していたものと見受けられる。
 糸ようじをして歯を磨き、ブレスケアも服用すると、吊るしのクリーニング仕立てのピカピカになったスーツと真っ白な襟付きシャツを着用し、抜かりなく準備万端整えて、私は待機した。 
 コーデの配慮も忘れなかった。披露宴の二次会のドレスコード流の着想で、天使より目立って、天使を「食って」しまうように清らかであるカラーは避ける。威儀を正しすぎたり、かと言って崩しすぎたりもせず、一流ホテルの低層階のダイニングには人を呼びにずけずけ入ってゆける程度のスマートカジュアルな装い。
 よもや天使が玄関から入ってくることはなかろうが、棚に入らないだけの靴は脇のほうに並べてそろえ、念のため玄関から応接する座席までの動線も一目瞭然に拵えてある。
霊験たっぷりに現れ出でた天使に、家電や家具などに蹴つまずかれ派手に転倒されてはコトだ。その後の気まずさときたらこの上なかろう。それどころか、打ちどころでも悪かった日には、天使の救命処置などとてもやりおおせぬ。
 それに蹴つまずくのが、我が家のどっしり腰を落としたデロンギのオイルヒーターなんかだった場合、あんないかにも華奢な足の小指くらい軽々と持っていかれてしまうだろう。

天使 「ぎゃっ!(ガツンと蹴つまずきうずくまる)…つっ!…つつつーっ」
私 「ちょ!大丈夫ですか⁈」
天使 「…あたたたたっ。あたたたっ」
私「い、いたみますか?」
天使「つつーっ。つつつーっ。…あー小指イッた。ぜったい小指イッた。イマのでガチで折れた!」
私 「……」

 そんなふうでは困るのだ。そんなグロテスクな一幕に立ち会うのでは。考えただけで身の毛もよだつというものだ。
 まだ半刻あまりの余裕があった。
 私は出張当日の朝の身だしなみ用具のしまい忘れの確認のように、この日までに思い立っては追記しておいた手書きのチェック項目をひとつずつ入念にあらためていった。

「ひげそり」
「髪のセット、香料なし」
「ブレスケア」
「掃除機。クイックル。ルーターのところのホコリ除きょ」
「ベッドメイキング、まくらもとコロコロ」
「換気する、窓あけ、30分前」
「スマホをマナーモードに」
「火の元かくにん、ガスの元栓しめる」
「玄関整とん、ドクターマーチンはメーター室へ」

 概ね遂行できていた。
 こうして、私の的確なジェットストリームペンによる厳正なチェックが各項目の頭に打たれ、着実な点呼をされてゆき、いよいよチェックマークを配給されていないものは次の二項目のみとなっていた。

「アイスブレイク、話題は?」
「お茶出し。ぶなんに。ちゃ菓子も?」

 これきりだ。
 しかしながら、これはたいそうな難題だった。そのため、私はこれらの議題をわりあい早期に案出しながら、肝心な答のほうは生煮えのまま、検討を精緻化せぬまま幾度も先送りにし、その挙句ついに当日のこの時刻を迎えていた。現時点での天候や国内市況や世界情勢、それら諸条件を引っくるめたうえでまさにそのときに臨む私の時宜にかなった霊感に期待して。
 それでも、まるきり無策というわけではなかった。それまでにときおり去来したヒントのようなものは、その尻尾だけはしっかりと捕まえて、悲鳴をあげて逃げ出そうと暴れるそれをたくましい釘でもって私のメモの表にしっかりと打ちつけておいたのだ。
 その苦心の跡が、「アイスブレイク、話題は?」の下に書き込んでおいた「須永の話」という隠し玉だった。
 須永は私の同僚で、こいつは場をなごませることにかけてはいっぱし腕に覚えのある男だった。いつも程よく同席者の小腹を満たしてやれる話を持ち歩いていた。そいつを私の母親世代がちょっとした集会用に携行するルマンドやホームパイのようにおひとつどうぞとお調子よく差し出すのだ。
 それらを少しばかり拝借するため「須永の話」と記したその下に、細目として付記しておいたのが「剛毛の話」「551の話」「楽天カードマンの話」。以上三題。
 これらはいずれも過去に私が須永より披露された本人の短い体験談で、追って私がそっくりそのまま私の周りの者へと披露し、それなりに芳しい反応を得てきたという実績のある演目だった。そう、「演目」この場に臨んではむしろそのような呼称が適当だろう。
 ただし、この「演目」をそのときの私は、会社の同僚から聞かされた話として正直に、事実に基づく形態にしたがって披露したものだが、これを本日は私自身の話ということに改変したうえご提供に及ぼうというわけだった。だからと言って、これは何も須永の業績を私のほうで横取りしようなどというさもしい魂胆からではなかった。だいたい、どこぞの地方営業先のキャバクラやスナックで出くわす浮ついた女性従業員どもの前でならいざ知らず、他ならぬ天使殿の御前にあってまさかそんな。さような恥知らずな振る舞いなど。
 そうではなく、我々同様、天使も当然に感じるであろう話の導入時のもたつきの部位をざっくりと切り落とし、さっぱりと仕上げ、なるたけ咀嚼に負担をかけぬようお召し上がりいただきたい。そうした類の心掛けからだった。事実への下手な忠実さを尊重するより、そのほうがずっと気がきいている。てきぱきと最短距離で笑いをお一つ頂く。余得として、おっちょこちょいだが憎めない私の人柄も演出できれば、双方ずっと寛いだ面談となることも請け合い。そんなふうに、私の方針は決定していた。些かの迷いもなかった。
 ただ、そこまではよろしいにせよ、如上三つの「演目」のうちいったいどいつをやったらよいのか、どの「噺」をやるべきなのか、それをいまだ決めかねていた。他人の家に上がり込み、少なからず「アガッて」しまっているであろう天使が思わず知らず吹き出してしまうような話、そこまで芯を食わずとも天使のヘタに迷惑な「力み」がほどよく脱けてくれるようなほんわかとした話はどれか。
 やって来るのは、ひょっとしたらびっくりするほど「ゲラ」な天使であるかもしれず、反対にひどく堅物で無粋な「重たい」天使であることも考えられる。そもそもいまひとつ勘が鈍く、人間的機微に通じず、こちらの世情的意図を、地上的笑いどころといった要点をてんで汲み取れぬ、どうにもとんちんかんな天使がご来臨あそばすということもあるだろう。空気の読めない天使。やけに「かかっている」天使。こればかりは巡り合わせの問題だ。
 ただ、そうであるにせよ、せっかく頂戴した天使の訪れの機会であることには変わりあるまい。種々の検討を怠らず、せめて後悔のないようにはしておきたい。それゆえ、こうした吟味はいくら重ねても重ね過ぎるということはなかった。
 そこで一つ目の「剛毛の話」。これは表題どおり、まさしく剛毛が主題となっている話だ。
 須永が剛毛であるという特性に基づいた話だが、ここは私が剛毛だということにしても何ら差し支えあるまい。幸い、季節的にも手足の体毛さえ全て隠れるような装いなのだから。
 それに、「オチ」の部分は自身がやはり剛毛であるということを改めて認識させられるといった運びであることから、見た目によって剛毛であるという印象を与えてしまうことが必ずしも効果的とも言えまい。それよりは、まず出鼻に私が自身を一般的に剛毛であるやもしれぬと気にしているというところから話を始めることが肝要であり、それもまあ言うても実際そこまで剛毛ではなかろうと楽観している、そうした認識と「オチ」として後ほど知らされる現実との落差の部分を「フリ」として十全に効かせる必要がある。
 その話が、最後にきれいに裏切られた刹那、いかに取り澄ました天使といえども思わずゲハハと歯ぐきを剥き出して笑ってしまうのだ。
 不安な点があるとすれば、天使の世界で共有されている「剛毛」のニュアンスが不明確だということだ。我々の世界では、「ハゲ」や「デブ」ほどのいわゆる人気食材ではないものの、わりとしっかり滑稽味があり、大味でもなくそれでいて滋味のある食通好みの素材。それが「剛毛」というものの「おもしろ座標」での位置付けと言ってよかろう。その渋さが、また程よい陰影と按配で、子供らしさのない世故に長けた者たちの琴線をなおいっそう心地よく爪弾くとも言える。果たして天使の世界ではどうだろうか。彼らの天上世界では。よもや「ハゲ」や「デブ」のほうを、ひいては「うんち」や「おなら」、とりわけ「ちんこ」といった子供っぽい味付けのほうをご所望だろうか。
 そのことも踏まえたうえ、私はひとまず
 「天使→剛毛<デブ、ハゲ<うんち、おなら、よもやちんこ?」
といった式を追記した。
 さて、わりに時間も迫ってきていた。ここらで、二つ目の「551の話」の検討に移らねばなるまい。この先はなるべくせかせか大股で歩くこと。
 これは、先の「剛毛」と比べ、主題が個人の身体的特性に基づくものではない点に便宜があった。そのため、ほら自分こう見えてわりと剛毛なんすよなどとおもむろに述べ、窮屈な想いに縛られながら話を始めなくてもよいのが利点と言えた。「演目」の要請とはいえ、嘘をつかずに済むものなら誰が嘘などつきたいものか。それに、相手はひょっとすると人間の嘘をたやすく見抜き、その場であからさまに指摘をしてくるような興醒めの、慎みのない生き物やもしれぬのだ。
 そんな利点に引き換え、これもまた欠点がないわけではなかった。一つ目の「演目」と同様、天使の観念が定かでないことがこちらにも差し障っていた。果たして、551蓬莱の肉まんが新幹線の車内で発する匂いや、「スメハラ」と言われるようなその公共的な問題点、それでも抗しがたいようなその魅力を天使殿はじゅうぶんにお分かりだろうか。
 だがそれで言うと、三つ目の「楽天カードマンの話」のほうもほとんど同断と言えるのだった。これはCMでそのキャラクターを演じるタレントにともなうそもそもの人格的滑稽味や、クレカを両まぶたに貼り付けてのタイツ姿なる屈辱的な扮装、「仕事とはいえよくやるよ」といった微笑ましさと公然たるさげすみ、それらが分かち合われておればこそ発揮される愉快さであるのだから。果たして、ほんとうにそれらすべてに通暁するほど、天使というものは我々のゴシップの類いまでを含めた地上的な事情に明るいものなのか。
 いや、もしや、そもそもからしてそんな内容の詳細などは問題にならぬほどのお粗末な意思疎通しかできぬお相手なのだとしたら。たとえば言語や文化を異にする外国人とのあいだに交わされるような意思疎通、それくらいがせいぜいなお相手なのだとしたら…。
 そうした疑念に思い至ると、私はにわかに不安に襲われた。いよいよ時刻が迫って、ここへ来ての急激な緊張の高まりも原因していた。
 かりにこうした疑念が的中するようなことになれば、もはや三つの「噺」のうちどいつをやろうかというのは問題ではない。どいつをやろうとも天使は冷ややかな顔でいっさい笑わず、こちらはさながら気難しい大御所女優の『部屋』なるお昼の長寿番組、そいつにゲストとしてお迎えされる若手芸人のごとくの窮地に追いやられるのだから。突っ張った顔した天使のまえでジタバタしてひとり大汗をかき、思うぞんぶん空回りをする、といったような。
 「啓示」の時刻まであと10分に満たなかった。もういっそいずれの「演目」もやらずにおくのが得策かもしれない、と私は一転して考えた。それに、いまのいままではこちらがお相手をもてなす立場として相応の意を尽くしてきたものだが、考えてみれば、いついっかこちらにやって来たいと言い出したのは先方のほうなのだし、お迎えするのがいくら天使とはいえわざわざこちらが司会進行まで務める気遣いは不要なのかもしれない。あちらのほうでやって来ようからには、あちらはあちらなりの段取りを備えたうえでやって来るのが当然ではないか。我が家への訪問とあってついつい見当を違えてしまっていたが、本件はもともとあちらからの提案であってみればホストはこちらではなくあちら側であり、こちらのほうは厚意によって場所の提供につとめるのは格別、あくまでゲストとしての立場なのだ。
 私はにわかにそう確信すると、お茶はともかく、茶菓子のほうもとくだん用意はいたさないということに決めた。いまの考えでゆけば、先方で手土産のひとつも持参してくるのが筋というものだろう。天使がいったいどんな菓子を持ち来たるのかはいっこうに分明でないが、どうにかまだ我々に口にできそうな代物であったからには一緒にそいつをいただいてみるのがよろしかろう。得体の知れない、異なる種族との親善やお近づきの印としても。
 そのときだった。まるで、私のこうした考えの落着する頃合を見計らったかのように玄関チャイムが、いつもよりはっきりと意思を表明するかのごとくひときわ音高く鳴ったのだった。はあーい!いま!いま開けまあす!私はおもわずイスから跳ね上がり、テーブルの隅にどしんと突き当たりながら駆け出していった。
 玄関ドアを開けると、立っていたのは宅配業者だった。二重瞼のくっきりとして、顔の造作の整った、肌の清潔感もみてとれる押し出しもまずまずの若い男で、天使と言われれば天使に見えないこともなかった。だがむろんそんなことはなく、サインと引き換えにお届け物をよこしただけだった。三週間以上前からECサイトで再入荷待ちをした挙句、ようやく購入のかなったお待ちかねのウォレットというわけだった。
 私は荷物をさげたまま再び部屋に戻ってきた。すぐにも開封して商品のキズの有無やファスナーの具合など中身の状態を確認したい気持ちはやまやまだったが、それもひとまず先に天使のほうを片づけてしまってからだった。時刻を確認すると「啓示」を受けた12時30分まであと1分足らずだった。
 ふと戻ってきた部屋をひとわたり見渡すと、どことなくその様子がふだんと変わっているような印象を受けた。ただし、どこがどうと明瞭にはわからない。それでもたしかに変わっている気がする。こうした何気ない曖昧な知覚こそ、まさしく神秘的な、天上的な現象の証明にほかならないように思えた。いよいよだ、と私は思った。やはり天使は物理的に訪れるというよりも、迎える側の知覚の変容としてその訪れをおこなうのだ。すると、やはり茶を用意したり、茶菓子になにを差し上げようなどという心配りは無用のものだったのだ。
 なにかがいましも起こりそうな荘厳な予兆を全身で感得して、私はダイニングのイスに浅くかけ両手でテーブルにしがみついていた。耳がはっきりと聡くなり、壁時計の秒針の立てる音までがきわめてゆっくりと聞こえた。長い針の挙動や静止までのしばしの揺らぎ、静止のうちにためた動力を押し出しての再びの挙動と、まるで秒針の一連の動きが剥離し分解されゆくようだった。福音という言葉が頭に浮かんだ。よきしらせ。それがいまにも到来する。たまさか日が翳った。そしてまたすぐに明るくなった。そとの鳥がなにかの話題でもちきりであるかのように群れて鳴きしきった。よきしらせ。さかんに家鳴りがした。モーター音も高く低くあちこちから響いた。別の部屋の住人とマンションのエントランスのモニターでやりとりする配達員の声。建物に沿った道を行くおもての人々の話し声。それらすべてがすぐ耳元で聞こえるようだった。よきしらせ。
 部屋の様子は、とくに変わらなかった。
 最初に感じた、少し様子が変わっているような気がするときのまんまだった。そんな覚束なさのなか「啓示」の時刻より5分が過ぎていた。ひょっとしてもう訪れているのだろうか。私は右回りのダンサーが左回りにも見える錯視の図像のように、なにかすこしだけ見方を変えればこの部屋の見慣れたソファーや鉢植えやカレンダーの図柄といったものが天使の姿に変わるのではなかろうかと目を凝らした。正確には目を凝らしたり目を逸らしたりと、ためつすがめつした。
 いっさい何も起こらなかった。そんなこんなをしているうちに「啓示」の時刻よりすでに10分が過ぎていた。
 もしや、天使はすでに訪れてしまっていたのかもしれない。不意にそんな考えが起こった。さもあろう。わざわざあちらから訪れの時刻までこと細かに「啓示」してきたうえで、ことわりの「啓示」のひとつもなく遅延や延期をするなどちょっと考えられない。すると、私があまりに世俗的な感受性にとらわれすぎているためその訪れに気づかず、天使はうんざりしていいかげん引き上げてしまったのかもしれない。その点について、きっと世俗の識見からも自由な私のこの伸びやかな感受性について、きっとおおいに期待をかけてくれたがゆえの天使の訪問だったはずなのに。そう考えた途端にひどく心細くなり、私は泣きたくなった。
 だがそのようにうっかり見過ごしてしまうような方法で訪れたとすると、その訪れの方法とは果たしてどのようなものであったのか。
 その刹那、私にまたも不意の確信があった。そうだ!あの配達員だったのだ。あの顔立ちの良い先ほどのあの青年。購入したお待ちかねのウォレットをお届けにきたあの配達員こそ、私が訪れを待っていた天使だったのだ!おお、そうにちがいない!私ときたら。なんとおっちょこちょいな!
 私は部屋を飛び出した。まだあの配達員がマンション内にいるかもしれなかった。先ほどエントランスのモニターで話していた配達員はあの男だろうか。あの男であるのなら別の居住者の部屋へと荷物を運んで、作業に手間どり、まだ館内にいるということもじゅうぶんに考えられた。
 いったい天使がこの地上にどのような訪れかたをするのかといって、それは周囲によく馴染むような人間の姿となって訪れるに決まっているのだ。くりくりの金髪パーマで、おちんちんを出した幼児の体型、羽のはえた背中、あのようなありきたりなバロック絵画的な意匠で訪れると考えることのほうが思慮が浅いというものだ。そして、先ほどの配達員のように極東の人間の姿かたちという「器」をもって現れたればこそ、この地上の、ことに私の生活界隈にまつわる認知や思考や習慣等のいっさいをあらかじめ十全にそなえ来たって、こちらへの過不足のない応接もできようというものだ。そんなことを、いかにも伸びやかな感受性を誇る私としたことが、いまのいままで思いつきもしなかったのだ。
 私は駆けた。おもてには宅配業者のトラックがあった。ひとまず安堵してエレベーターホールまで戻り、止まっている階からエレベーターが下ってくるのを待ちうけた。
 そうとなれば、お茶菓子は地上のものを提供して差し上げればまず間違いない。それこそルマンドやホームパイにソフトサラダ。そして、アイスブレイクのために意を尽くしてお届けするこちらの選り抜きの「演目」へも、きっとあちらからのかんばしい相応の反応が期待できるだろう。きわめて和やかな天使との談笑風景。すべてが上手くゆく予感に包まれて呼吸がはずんだ。私の身体はすっかり熱くなっていた。
 エレベーターから降りてきた宅配業者は、先ほどとは別の者だった。
 一見して天使ではなかった。みてくれはけっして良いとは言えず、どことなく清潔感に欠けて、なにより体臭がきわだっていた。これでは地上的にもほどがあるというものだ。
 私は落胆して部屋にもどった。部屋の様子が何ら変わりのないこと、いまのあいだに天使が入れ違いでやってきていないことを確認すると、気を取り直しひとまず届け物を開封した。現物のウォレットは写真のそれに比べて黒色の光沢がじゃっかん不足していたがまずまず私の気に入った。キズも見当たらず、ファスナーや口金の開閉などにも取り立てて問題はなかった。
 それからふと、ある心当たりがきざした。確認のためスマホのカレンダーを開いた。そうして順を追って反芻した。
 このお目当てのカラーのウォレットが欠品していたため、会社の昼休憩時にECサイトにて再入荷の際のお知らせを申し込んだのが本日から15営業日前。そしてちょうどその日の夕刻に私に「啓示」があって、天使の訪れの日として告げられたのが本日だった。その後お目当ての品の再入荷を知らされ、てばやく購入手続を済ませたのち、それが手元に届いたのがこれまた本日。
 私は商品の納品書をもう一度あらためた。やはりそうだった。これはジルスチュアートから発売されている「エンジェル」という商品名のウォレットだったのだ。なんという小粒な天使!画像を見せてこれをねだってきたスナックの女の子への「誕プレ」として購入したため、入手に必死のあまり「天使」に因んだこのシリーズの名称のことなど私はまるで頓着していなかったのだ。
 そうなると、これがあんなにも待ち焦がれた天使だったということなのか。私が受けたあの「啓示」とは、この商品の入荷と販売と配送、その到着のスケジュールとをあらかじめ知らせる、天上的な「お届け予定通知」のようなものだったというのか…。
 いずれにしろ、本日この場にあって、もう私にできることは限られていた。
 私は水道メーターのボックス内に移動させていたDr.マーティンの靴を玄関のいつもの場所に戻した。それから必要品を持って部屋に帰りながら、いや、こうしたいっさいはやはり実際の天使の訪れの「前ぶれ」でなくてなんだろうと考えた。
 私は届いた財布を天使からの私への「徴(しるし)」として受け止め、その天上からのメッセージにクロスによる丁重な磨き拭きをかけた。そうしながら、ありうべき今後の本格的な天使の訪れのためにも、例の「演目」からひとつ、あらかじめひとくさりの予行を試みた。

 ーーえーと、じぶんこう見えてわりと剛毛の悩みがあるんですよ。
 といっても、それももうずっと昔のはなしで。ほら、子供のころは気にしてるけど、年齢をかさねてくると「あれ?そんなに気にするほどでもないのかなあ?」なんてことって、あるじゃないですか!天使さんでもありますか?社員旅行の温泉なんかで周り見ても「まあまあ、俺そんなに言うほど剛毛ってわけでもないよなあ」なんて。
 そんなあるとき、お店の女の子からたまたま脱毛サロンをすすめられたんですね。自分の友人がやってて、割引もあるから「行ってあげてよ」って。それでも、いまでは本気で剛毛で悩むこともないし、まあそもそも自分が剛毛とも思ってないし、べつに行かなくてもいいかなあと思ったんですけど。でも昨今じゃ、男女も年齢も問わず皆さんけっこうきれいにされてるとも聞くし、あれこれ考えてモノはためしと行ってみることにしたんです。
 そこでいざ裸になって横になったら、脚にはむかしのケガで手術したときの傷がタテに目立ってひとすじ走ってるんですけど、それを見てなのか施術する人がすごく真剣な顔で「うーん」なんてうなっちゃって。首ひねって、カルテみたいなのに難しい顔して書き込んでるんですよ。「ちょっと席を外します」とかって慌てて出ていったりして。そのあとに、そのカルテが机に伏せてありました。    
 「え?待ってよ!あの様子!いったいなにか問題あるの⁈」って。こういうのは医学用語とか外国語なんかで書かれてて、シロウトにはちょおっと意味が分からないかもしれないなあと思いつつ、おもわず盗みみたんですね。
 そしたら、でっかい字でひとこと「剛毛」って書いてあったんですよ。ーー

 つつがなく「演目」の予行を終えた私の頭に、またもやびびびと不意の「啓示」があった。まるで、申し合わせたようだった。こんどこそまちがいない。これぞ、確信に足るものだった。
 天使の訪れの日時は、改めて本日から12営業日後、今月最終金曜日の12時30分より予定されている。
               了

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