案外 書かれない金継ぎの話 Spinoff 22 金継ぎの歴史4 名称の変化
江戸時代の器物修理は
・「茶器」と「日用陶器」の二系統が存在した
・茶器は、共繕いや蒔絵加飾という進化があった
・日用陶器は、継物師の漆直しから焼継師の焼継ぎへと移行した
というのが前回の解説でした。
今回は「繕い」から「金継ぎ」という名称が生まれたのはいつ?について解説します。
焼継ぎと焼継師
焼継ぎは、喜田有順の随筆『親子艸 11瀬戸物焼継の事』によると「寛政2(1790)年に大和屋傅七が竹川町東側角に小さな店を出したのが始まりで、半年もせずに同業者が乱立したため、本人は店を畳んで消えてしまった」。小川顕道の随筆『塵塚談』(1814)では「寛政2年まで江戸には無かったが京都には有った。近頃は江戸でも著しく多くなり、瀬戸物が売れなくなった」と書かれており、喜多村信節が江戸時代後期の風俗習慣を記した随筆『嬉遊笑覧 巻2 下』(1830年)や、前回取り上げた『守貞謾稿』も似た記述があるので、寛政年間に広まったことは間違いないようです。
焼継ぎは瀬戸物修理のトレンドになり、『守貞謾稿』では別頁に「焼継屋の売り歩きも20年経つなぁ。継漆とか言うのに比べたら焼継ぎの方がずっと便利だ」と書いてあります。
修理だけでなく絵画や物語にも焼継ぎのアイディアが登場してくるのは、今の金継ぎブームとよく似ています。おなじみ弥次さん喜多さんの珍道中、十返舎一九の『続道中膝栗毛』(1810年)では、「骨が折れたら繋ぎ合わせて窯に入れればいいだろ」「そりゃ焼継ぎだろ。瀬戸物と人を一緒にするんじゃねぇよ」という会話が出てきます。焼継ぎで人体を直すというネタ話は、この時代の"あるある"です。
明治時代に入ると、知らない人は居ないほど、文学、川柳、落語、その他の娯楽まで、さまざまな媒体に焼継ぎが登場します。例を出したらキリがありませんが、例えば、明治時代の風刺雑誌『團團珍聞』 66号(1878年 )の雑録 變語(クイズ)には「①は五字にて職人なり。倒して變らず」という問題があります。答えは「焼継屋(やきつぎや)」倒して変わらずは回文という事です。
驚くのは国語辞典『帝国大辞典 第1版』(1896年)に「やきつぎ(焼接)」が名詞として採録され、昭和の始めまで残っていました。(漆繕いは出てきません。)
ちなみに、国立人間文化研究機構『明治もの売りの声 ; 第2集』[収録トラックB12 焼つぎ屋](1977)という資料もありました。
このように、焼継ぎは広く庶民に認知される存在だったわけですが、それに反して焼継師の社会的地位は低かったようです。行商を主体とする商売方法も原因だと思いますが、私は下級職業だった継物師の系譜という印象が残っていたのではないかと思っています。
『少年坂本竜馬の生涯』(1931)では、「焼継師と蔑られるときに、彼は心の底に燃えたぎる憂国熱血の志情にかられました」という表現が見られます。
明治大正の茶道具流出
さて、焼継ぎが盛り上がる中、茶道界隈はどうなっているかというと、明治維新を皮切りに時代の荒波によって事態は急変を迎えることになります。
廃仏毀釈運動
1868年、新政府は神道と仏教の分離を目的とした神仏分離令を交付。本来は神道の国教化を図るものでしたが、仏教は外国伝来宗教だという認識から排仏運動が過激化し、仏教施設への無差別な破壊活動に変わります。
これにより日本の仏教美術品の1/3が破壊されたと言われるほどの惨状となり、寺院保管の茶道具は破壊、略奪の憂き目にあいます。
武家の没落
江戸倒幕により封建制度が崩壊し、1876年、明治政府の秩禄処分によって華族や士族の収入が絶たれると、その制度下にいた御用商人、茶道各流派もまた同様に打撃を受けました。さらに急速な西洋文化流入で近代化が進むと、伝統文化否定の空気が強まり茶道は零落の道となります。
こうして収蔵されていた茶道具は市場に放出され、それを貿易商や新政府と関係の深い商人たちが二束三文で購入し、新たな資本家が台頭する土台となります。やがて近代数寄者と呼ばれる資本家文化人が現れて茶会を始めるようになりますが、この時代の茶会の道具は驚くほど低級だったと高橋義雄は『茶道読本』(1936)に書いています。
大正時代の財界変動
第一次世界大戦により、後に大正バブルと言われる大戦景気が生まれます。急激な物価高騰は財界変動を生み、窮地に陥った元大名家は遂に秘蔵していた名物茶道具を市場に放出しなければならなくなります。
そのため、美術倶楽部という売却機関を東西に設立し、伊達家が率先して売却を始めることで他の大名家も一斉放出を始めます。この時の売上げは数百億円を軽く超えていたとも言われます。
こうして上流階級の限られた人々しか見ることのなかった茶道具が市場に拡散し、近代数奇者が購入して茶会で披露したり美術館や博物館を建設し展示することで、市民も名物を拝見することができるようになってきました。
明治時代の金継ぎ関連の資料は少なく、茶会記も道具名だけしか書かれていません。辞典『隠語通言略解』(1893年)に「イレバ 茶盌等の瑕を繕ひし金粉」。『日本故有美術鑑定便覧 2集』(1893年)「細川越中守所蔵 挽家花櫚」に「金フンツクロイ」。新旧演劇本『声色大会』(1908年)「箱書付魚屋茶碗」に「ひびのいったお前の體 ふんつくろいに繕っても」という一節が見付かります。ただし、この時代は焼継ぎも「粉つくろい」と呼ばれることがあり、どちらの直しの事なのか判別が難しい場合もあります。
名物記『大正名器鑑』
実業家であり近代数寄者として偉大な足跡を残した一人に、高橋義雄(茶人名 箒庵)がいます。高橋義雄は時事新報の記者となりアメリカ・イギリスで知見を広め、帰国後は三井銀行に勤務、三井呉服店(後の三越)を近代化しデパートメント・ストアの形を作ります。王子製紙の専務を最後に50歳で実業界を引退し、茶人として各界の名士と広く交際したという人物です。
高橋義雄著作の名物記『大正名器鑑』(1921-1927)は、大正の名物放出によって近代数寄者らが所有する事となった茶器の図鑑で、現在でも貴重な資料となっています。大正末に起こる関東大震災によって数々の名物茶器は失われるわけですが、大正名器鑑では滅失前の写真や実見記が克明に記述されています。
出版全9巻は大型書籍で発行数も少なく、一般には殆ど出回りませんでしたが、1937年に普及版が出たことで入手する人が増えました。
大正名器鑑で使用された繕いの名称は「繕ひ」「漆繕ひ(黒・赤を含む)」「金粉繕ひ(銀もあり)」「金粉継合せ」「呼び継ぎ」「共繕い」です。
呼び名は高橋義雄が付けたものか、当時、そういう呼び方が既に有ったのかは分かりませんが、江戸末期から大正中頃まで主流と思われる「粉つくろい」の名前は、大正名器鑑発刊後から「金粉繕」、「金粉継」といった「金粉」であることを明確に表すのが主流となっていきます。
言葉の省略化
大正名器鑑発刊の頃は「金粉の繕い」という「加飾材料+修理内容」で呼ばれていましたが、『日本古美術案内 上巻』(1931年)で「緣に小疵の金繕がある」という記載があり、金粉ではなく省略形の金一文字の使用が見られます。『茶道月報 251号』(1931年)でも「茶碗の外は銀繕ひ、内は金繕ひ」と表記され、1930年を過ぎるころから「金粉」は「金」と省略され、見た目の名称に変化していったことが分かります。
国立国会図書館デジタルコレクションで最初に「金継ぎ」が登場するのは、斎藤英一『私のこのごろ』(1937年)の養生御注意集という知人の体を気に掛ける項目で「君の身體は最早志野の茶碗に大貫が入って、金継ぎをやっているやうなものだから」という表現で現れます。
体調の例えとして用いられていることから、既に金継ぎという言葉は、焼継ぎや粉繕いと同様の修理に関する用語として認知されていたことが分かります。
また『日本醫事新報』(1938年)「骨董什寶」のコーナーに「破損陶磁の金接ぎ法」というタイトルの回答記事があり、「陶磁器の金接合とは如何なる作術なるや」という質問に「破損陶磁器の金接ぎ法を説明するに當り、先づ順序として其の根底をなす漆接ぎの事から申し上げる」として蒔絵師の回答が続きます。
「金接ぎ」の使用は意外に長く、テレビ番組「なんでも鑑定団」でおなじみの中島誠之助『鑑定の鉄人 : 本物と贋物を見分ける極意』(1995)でも登場し、最後に確認出来るのは家具道具室内史学会史『家具道具室内史』(2012)です。
ここで面白いのは、同時期に「継ぎ」と「接ぎ」の2種類があるという事。もし書籍などの活字媒体から用語が広がるとすれば、1つの漢字で確定のはずですが、似た意味の全く字形の異なる漢字が用いられています。
ここからは完全に私の憶測ですが、これは「きんつぎ」という用語が音声によって広がったからではないでしょうか。
1925(大正14)年、社団法人東京放送局(現NHK東京ラジオ放送)により、日本初のラヂオ放送が開始されます。関東大震災後の復興を背景に新たな情報伝達手段として期待され、更に教養番組などが取り入れられることで、ラヂオは爆発的に教養娯楽としての市民権を獲得することになります。『ラヂオ年鑑 昭和9年』(1934)では、14時からの婦人教養講座「十二ヶ月茶の湯」と題して高橋義雄が4回の講師を務めたと書かれています。高橋義雄は上に書いた『大正名器鑑』の著作者ですから、講座内で金継ぎに関する話をした可能性は高いでしょう。高橋は著作物内で「きんつぎ」という言葉を使ったことはありませんが、別な講師が「きんつぎ」を使用したか、聴取者の音声イメージから「きんつぎ」が生まれた可能性は十分にあるのではないかと思っています。
というわけで、「金継ぎ」という言葉の使用は意外に遅く、昭和に入り1930年を過ぎてからということが分かりました。現在の書籍を見ると「金繕い」「金継ぎ」が使われており、「粉繕い」や「金接ぎ」は見なくなりましたが、言葉の変遷を見ると新しい修理用語が現れる可能性はあるのかもしれません。
このシリーズは金継ぎの歴史について書いていますので、その後の歴史にも少し触れたいと思います。次回は最終章、昭和平成の金継ぎ事情です。
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