見出し画像

案外 書かれない金継ぎの話 Spinoff 21 金継ぎの歴史3 繕いの変化

室町時代後期(安土桃山時代)に書かれるようになった茶会記から
・修理箇所を「繕い」と呼んだ
・繕いに使う漆の色数が増えた
・塗師茶人により茶器の繕いは行われた
といった事が分かる。というのが前回の推測を含めた解説でした。
今回は、江戸時代に起こった繕いの革新について解説します。

一般器物の直し

高級茶道具の繕いは塗師茶人が行ったと思いますが、それとは別に庶民が使用する一般器物を修理販売する職業があったようです。関西で1690年に出版された『人倫訓蒙図彙じんりんきんもうずい』職之部で「継物師つぎものし」として紹介されています。『人倫訓蒙図彙』は江戸前期の職業500種以上を貴賤の区別なく図説した全7巻からなる職業図鑑です。

[人倫訓蒙図彙] 7巻[6]
平楽寺 [ほか2名],元禄3 [1690]. 国立国会図書館デジタルコレクション

筆文字を活字にすると
よろづ器物うつわもの破損はそんを、うるしをもってぬりつぎて全ふまっとうするなり。ふろしきつつみをかた(肩)にかけ、継物つぎもの 継物とふれるく(歩く)もくるしきわざ(技)なり」
となります。要約すると「色々な器物を漆で直して売り歩く大変な仕事だよ」と言っています。
1923(大正12)年発刊『江戸から東京へ』では(大衆文学なので史実か怪しいですが)「穢多頭えたがしらは継物師などの下級職業を統括する長吏ちょうりとして権力を振るっていたが、家康が江戸の領主になると穢多頭の管理権限は縮小され汚物処理に従事することになった」といった内容が書かれています。つまり一般器物の直しは、江戸時代以前から下級職業の継物師によって続けられていたと考えられます。
ただし、その後の書物で継物師は見ないため、廃業あるいは焼継師やきつぎしの影響で転業をしたのではないかと思います。

見せない繕い

縄文時代以来、見えて当たり前と思われていた繕いに変化が起こります。それが「共繕ともつくろ」という修理跡を見せない技術です。
※注意:この時代の名称は分からないため、共繕いは当時の呼び名ではなく便宜上使っています。『遠州御藏元帳えんしゅうおくらもとちょう』の1699(元禄12)年4月10日道具改どうぐあらため(所蔵確認)で「友くすりにて繕い」という記述が有りますが、「くすり」は釉薬のことで漆ではない可能性が高いです。ただし「同じ」という意味で「友」を使っているのは間違いなく、「友」は「共」ではないかという判断および『大正名器鑑』に「共繕い」という用語があるため、共繕いと表記しています。

共繕いで有名なのが、大名物の茶入「九十九髪茄子つくもかみなす(別名・付藻茄子つくもなす)」です。
1615年6月に大坂夏の陣が終結。豊臣家が所持した茶入は落城により消失したかと思われましたが、将軍徳川家康とくがわいえやすは、奈良から江戸に転居していた漆塗り名人「藤重藤元ふじしげとうげん藤厳とうげん」の父子に、焼け跡から破片を探し出し修復するよう特命を出します。粉砕した茶入を探し出し復元を行って献上すると、家康はその完成度に感服し、茶入を藤重父子に与える事にしたという話が伝わっています。
家康は1616年4月に死去していますので、収索から復元完了までが10ヶ月。にわかに信じ難い仕事ぶりです。

また、『天王寺屋会記』には、1616年11月10日の茶会で「驢蹄ろてい茶入」に共繕いがされていたと思われる記述があります。「繕いがあるのに分からない、見事な茶入だ」と書かれています。

天王寺屋会記
千宗室 等編『茶道古典全集』第8巻,淡交新社,1959. 国立国会図書館デジタルコレクション

大正時代に制作された名物記『大正名器鑑たいしょうめいきかん』では写真掲載されている茶入の繕いの殆どが共繕いなので、江戸時代になると、茶入は共繕いが主流になったということが分かります。
黒釉や飴釉は漆で作る色と相性が良かったという事、茶碗のように接液せつえきせず洗浄もしないため漆へのストレスが低い事、そして何よりも茶入は「ナリ(見た目)」が重要なので共繕いが最適だった、という事かもしれません。

みやびの繕い

それまで茶の湯は実践と口伝による皆伝でしたが、江戸時代になり社会が安定してくると、稽古と教則本による免状発行へと相伝が変化したことで流派が乱立し、特に江戸では独自の茶の湯を提唱する師範が増え、庶民にとっては遊興の側面が大きくなっていきます。

一方、上流階級では茶の湯がたしなみとして必須項目になります。そのため各藩が流儀を決め、時代や身分の価値観に合わせて変化をしていきました。
千家の侘茶の流れを汲みながら、武家の習慣性、合理性などを取り入れた古田織部ふるたおりべの「織部流」、織部に師事し書院茶道が持つ開放的な明るさや華やかさを特徴とする小堀遠州こぼりえんしゅうの「遠州流」(これらを武家茶道と言います)。遠州に師事し、さらに公家文化を取り入れて優美とみやびな茶風を持つのが金森宗和かなもりそうわの「宗和流」で、宮中きゅうちゅう公家茶道に大きな影響を与えます。

そうした社会変化の中から生まれてきたと思われるのが、金粉で蒔絵の加飾をした繕いです。
歴史資料の中で蒔絵を行った繕いと分かる最古と思われるものは、公家 近衛家熙このえいえひろの日常を、家熙の侍医じい(主治医)の山科道安やましなどうあんが記録した『槐記かいき』です。近衛家熙は、書道・絵画・華道を始め自然科学にも通じた博学多才な文化人で、勿論、茶人でもあります。
この『槐記』には茶会記もあり、蒔絵の繕いと思われる表記は3個所あります。

槐記
千宗室 等編『茶道古典全集』第5巻,淡交新社,1958. 国立国会図書館デジタルコレクション

左:1724(享保9)年10月23日 「黒ノ繕ヒ金繕ヒ」
中:1727(享保12)年 閏正月(2月頃)23日 「金粉かすがいツクロヒ」
右:1728(享保13)年2月11日  「粉繕ヒ鎹アリ」

このうち、「黒ノ繕ヒ金繕ヒ」は黒と金の2色の可能性もありますが、対象物が「宗和作二重筒」という竹花入であり、他の記述と比較した場合、金は「カネ」と読んで「かね繕い」つまり「かすがい」を表しているのではないかと個人的には考えています。
そのため、明確に蒔絵なのは「金粉鎹ツクロヒ」「粉繕ヒ鎹アリ」の2つです。「粉繕い」は、主に江戸末期~大正時代にかけて金継ぎの名称として使われているので金粉を用いていると考えて間違いないでしょう。
なお、3つは全て「二重筒花入」ですが、同一物かは不明です。

そして、槐記から読み取れるもう一つの重要事項が、近衛家熙は「宗和流」(山科道安は「織部流」)という事です。そのため宗和作竹花入が茶道具として使われています。
金森宗和と言えば、陶工野々村仁清ののむら にんせいを指導し、宗和好みと言われる色絵金彩の京焼茶陶を生み出したり、茶席で蒔絵漆器を用いた人物です。宗和が金蒔絵加飾の繕いの茶器を使い始めたと断言は出来ませんが、宗和好みの茶道具の加飾から考えて、金蒔絵繕いと宗和流茶道は非常に親和性が高かったということは間違いなく言えると思います。

余談ですが『槐記』には千利休伝の青磁花入「きぬた」の鎹直しの話もあります。砧の説明は割愛しますが、茶席に登場した砧を見て「利休も物好きな人だ。焼物に鎹を打つとは、何を考えているか分からんな。」と言っていますので、陶器の鎹直しは当時でも相当にレアケースだったのでしょう。

ちなみに、1960年頃から金継ぎの元祖は本阿弥光悦ほんあみこうえつだという話が出てくるので、それについても少しだけ見解を述べておきます。
光悦元祖説は、光悦蒔絵と楽茶碗「雪峯せっぽう」を根拠にしていると思います。しかし、雪峯は光悦本人が金継ぎをした証拠はなく、他の光悦作の茶碗は亀裂こそあれ蒔絵の加飾はしていません。また、孫の光瑳こうさに宛てた書状に「ちゃわんつき出来終候」という一文はありますが、文が短く本人が直したのか、頼んだ直しが終わったのかもよく分かりませんし、当然、蒔絵直しかも不明です。
なお、光悦の茶は、古田織部ふるたおりべ直伝による織部流です。マンガの影響で古田織部は常軌を逸したひょうげものという印象が強いですが、光悦との関係を見ると、行動力はありますが、そこまでひょうげた人物でもなく、小堀遠州は織部の茶を堅苦しいと評するほど利休の侘茶に対して誠実でしたから、織部流に金継ぎを導入するのは考え難いように思います。織部が「今後これほどの物は生まれない」という書付を残した古伊賀水指「破れ袋」の亀裂と、光悦の複数の楽茶碗に見る亀裂が師弟を繋ぐ侘びであり、そこに金が入ることはなかったのではないでしょうか。
そのため、ファンタスティックな説ではありますが、光悦元祖説は個人的にかなり難しいと思っています。

日常食器の繕い

茶道具の繕いには蒔絵の加飾が行われることとなりましたが、庶民の器物修理はどうなっていたかというと、金は影も形もなく。しかし、1705年出版の貝原益軒かいばらえきけんが書いた生活便利帳『萬寶鄙事記ばんぽうひじき』 の巻之ニ 第三 財器には、「茶の湯の釜を繕うには麦漆に鉄線屑か鉄錆を混ぜたもので埋めて、お歯黒の液を塗っておく」「茶壺瓶は側面のキズは漆で繕えるけど、底は無理」「膠と漆を混ぜて器を継げば、水に入れても軟化して取れたりしない」など、漆を使った直し方が多数指南されていたり、1851年出版の『廣益秘事大全こうえきひじたいぜんでは「器物の割れたるを跡なく接ぐ法」として「磁器は汞粉こうふん(塩化水銀)と小麦粉を混ぜ卵白を加えて練り接着する」といった説明が見られるので、継物師の漆直しから発展はしていたようです。

しかし、江戸末期に彗星のごとく現れた「焼継ぎやきつぎ」というガラス熔着による修理法で、庶民の陶磁器の繕いは一斉に焼継ぎへ流れを変えることになります。
焼継ぎについては次回説明しますが、焼継ぎに絡んだ金継ぎに関する重要事項があります。「槐記」では茶会記からの推察でしたが、明確に蒔絵をしているという内容が、喜田川守貞きたがわもりさだの著述した『守貞謾稿もりさだまんこう』で確認できます。守貞漫稿は江戸時代後期の京都・大阪・江戸の風俗や事物を比較解説した図鑑で、1830年から書き始め30年かかって書き上げますが出版には至らず、明治になり古本屋でバラバラになった一部原本が発見され、その後、散り散りになっていたものを探し出し復刻したという紆余曲折の歴史を持つ書物です。
その中の「巻6 第5編 生業下」にある「瀬戸物焼接」の説明に金継ぎに関する内容が登場します。

喜田川季壮尾張部守貞 誌『守貞謾稿』巻6,写. 国立国会図書館デジタルコレクション

最初の部分は陶磁器を瀬戸物と言う理由で、その後に問題の内容が出てきます。金継ぎに関する部分を活字にすると。
「昔は陶器の破損、皆、漆を以て修補之(おぎなこれおさむる)。寛政中、始て白玉粉を以て焼接ぐことをなす。今世も貴価の陶器及び茶器の類は再竈(窯)に焼ことを好まず。故に漆を以て補之(之を補い)金粉を粘す。日用陶器の類は焼接を専らとす。」
となります。要するに「日用陶器は焼継ぎで直すが、高価な茶器は再加熱で変色するのは嫌なので、漆で直して金粉を蒔いている」というわけです。これまで推測した繕いの歴史にも合致し、焼継ぎと金継ぎはTPOに合わせた棲み分けがなされていたことも分かります。

さて、これで江戸時代に間違いなく繕いに蒔絵が施されていたことは分かりましたが、まだ「金継ぎ」という名称が使われた形跡がありません。
次回は、金継ぎという名前はいつごろ現れるのか?を解説します。

案外 書かれない金継ぎの話 spinoff - ご質問は気軽にコメント欄へ -

(c) 2025 HONTOU, Kobayashi




いいなと思ったら応援しよう!