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脱サラ非農家の起農日誌——公務員25年、そのあとの話第8話「農業委員長の煙草」

登場人物

  • 岩島順一——主人公。元地方公務員25年、ブルーベリー観光農園で起農を目指す

  • 裕子——岩島の妻。共同経営者的な存在

  • ゴン・リク——岩島家の犬2頭

  • 藤原——農業委員長。地域の顔役。新参者をじっくり試すように見る

  • 越智——市の農政課職員。非農家の岩島を制度面で支える


その男は、岩島の事業計画書を一読すると、何も言わずに、胸ポケットから煙草を取り出した。

一本の煙草

「ちょっと、吸うてもええかな」

藤原は、そう断ってから、ゆっくりと火をつける。急ぐ様子は、まるでない。

岩島は、うなずいて、待つ。藤原が、煙を細く吐き出し、窓の外の田を眺める。その横顔を、岩島は、急かさずに見ている。沈黙が、部屋に流れる。役所にいた頃、岩島は、この手の沈黙を、いくつもくぐってきた。相手が試しているのか、考えているのか、ただ煙草が吸いたいだけなのか。見極めるには、こちらも黙って待つに限る。

藤原は、地域の農業委員長だ。そして、ただの委員長ではない。この地区の祭りや、ため池の保全や、いくつもの地域活動を、長年、束ねてきた発起人でもある。土地のことで、最後に首を縦に振るかどうかは、この男の腹ひとつにかかっている——と言っても、言いすぎではなかった。

売主の一家との話は、進んでいた。あの縁側の交渉のあと、娘が現実的に話を運び、母の気持ちも、少しずつ、ほどけてきている。だが、農地は、売主と買主の合意だけでは、動かない。あいだに、農業委員会の許可という、もう一枚の関門がある。そして、その委員会の顔が、いま、岩島の前で煙草を吸っている。

「あんた、ほんまに、公務員辞めてしもたんか」

ようやく、藤原が口を開く。

「辞めました」と岩島は答える。

「二十五年か。もったいないなあ」藤原は、煙を吐く。「わしの息子と、同じくらいの歳やろ。あれも役所におるけど、辞めるなんて、よう言わんわ」

——「もったいない」。その言葉を、岩島は、もう何十回、聞いただろう。

岩島は、笑って受け流す。もったいない、という言葉に、いちいち反論はしない。二十五年の安定を捨てたのは事実だし、それを惜しんでくれる気持ちも、ありがたい。ただ、惜しさと、後悔は、別のものだ。岩島の中に、後悔は、ない。

「もったいない、と、ようけ言われます」と岩島は言う。「でも、温室の中におったら、咲かん花も、あるんです」

藤原が、ちらりと、岩島を見る。煙草の先の灰が、少し、長くなっていた。

試す目

藤原は、それから、岩島に、いくつもの問いを投げる。

ブルーベリーで、ほんまに食えるんか。観光農園いうても、人がそんなに来るんか。除草の請負いうのは、何や。あんた、機械は、扱えるんか。問いは、事業計画書に書いてあることを、わざとなぞるように、ひとつずつ、確かめてくる。

岩島は、慌てない。ひとつずつ、答える。

数字で答えられることは、数字で。経験で答えられることは、経験で。わからないことは、「そこは、これから三好さんのところで学びます」と、正直に言う。見栄を張らない。背伸びをしない。役所で叩き込まれた、議会答弁の作法だ。知らないことを知ったふうに答えるのが、いちばん、信用を失う。

藤原の問いは、次第に、事業の話から、岩島という人間の話に、移っていく。

「あんた、なんで、よりによって、うちの地区なんや」

岩島は、少し考えてから、答える。地域の渓谷のこと。山の水のこと。子どもの頃に、この川で遊んだこと。役所で、この土地の防災に、二十五年関わってきたこと。だから、この土地に、恩を返したいのだと。

「恩、なあ」藤原は、ふっと、笑う。「役所の人間が、土地に恩を感じるんか」

「感じます」と岩島は言う。「机の上からですけど、ずっと、この土地の地図を、見てきましたから」

藤原は、しばらく、黙る。

それから、二本目の煙草には、火をつけずに、胸ポケットに戻した。

——人を試す者は、たいてい、自分も、誰かに試されてきた者だ。

「拠点は、どこに置くつもりや」と藤原が聞く。

「最初は、自宅から通おうかと」

「あかん」藤原は、即座に言う。「農地の、近くに住め。通いの百姓は、地域に、根を張れん。雨の日に、すぐ見に行ける場所におらな、畑は、あんたを、主と思わんぞ」

岩島は、その言葉を、スマートフォンのメモに、打ち込む。手帳でも、ペンでもない。指で、画面を叩く。藤原が、その手元を、じっと見ていた。

「いまどきやな」と藤原が言う。「まあ、ええ。覚えようとする人間は、信用できる」

七人の委員


余談だが、農業委員会とは、いったい、何をする組織なのか。

岩島自身、役所の内側にいながら、農業委員会の実態を、正確には知らなかった。同じ庁舎の中にありながら、福祉や税の部局とは、毛色の違う、独特の組織だった。

農地をめぐる行政は、三つの層でできている。国がルールをつくり、県の農地バンクが貸し借りを束ね、市町村が現場を回す。その市町村の現場に、二つの顔がある——というのは、岩島が、第七話までに学んだことだ。

一つが、農政課。補助金や、新規就農の相談や、農地バンクの窓口を担う、市長の下の部局。岩島を導いてくれた越智が、ここにいる。

そして、もう一つが、農業委員会だった。

農業委員会は、市長の部局からは、独立している。農地法にもとづいて設けられた、合議制の行政委員会だ。委員は、地域の農家などから選ばれ、市町村長が議会の同意を得て任命する。彼らの仕事は、農地の売買や貸借の許可を、一件ずつ審査すること。そして、農地が、農地以外のものに変わっていないか——無断で宅地になったり、資材置き場になったりしていないか、地域に目を光らせることだ。

——農政課が、農を「進める」アクセルなら、農業委員会は、農を「守る」ブレーキだ。

なぜ、わざわざ、市長から独立させるのか。

農地の許可は、地域の利害と、生々しく絡む。誰に売るのを認め、誰に貸すのを認めるか。それを、もし、選挙で選ばれた首長の一存で決められるようにすれば、政治の力が、農地に及びかねない。だから、現場をいちばんよく知る地域の農家たちに、合議で判断させる。行政の中に、あえて、行政から半歩離れた目を、置いておく。それが、農業委員会という仕組みの、肝だった。

役割は、きれいに、分かれている。農政課とバンクが、担い手を呼び込み、土地と人を結びつけようと動く。農業委員会が、その一件一件が、地域の農の秩序を乱さないかを、見届ける。アクセルとブレーキが、同じ庁舎の中で、別々の足で踏まれている。

そして、藤原は、そのブレーキ側の、長だった。

岩島が、いくら農政課の越智と話を進めても、いくら売主の一家と心を通わせても、最後に、農業委員会という関門が、必ず一枚、挟まる。藤原が岩島を試したのは、意地悪でも、気まぐれでもない。地域の農を守る側の人間として、この新参者が、土を任せるに足る人間かを、見極めようとしていた。それだけのことだった。

——ブレーキを踏む人間に、嫌われては、車は、前に進まない。

委員会の日

そして、農業委員会の、当日が来る。

岩島は、委員七名の前で、事業計画書を説明する。A4で二枚半。事業概要、動機、経歴、栽培計画、収支、設備、資金、農地の利用計画。役所で、何百枚と書いてきた、計画書の作法だ。委員たちの顔を、ひとつずつ見ながら、岩島は、淀みなく、しかし、決して滑らかすぎないように、話す。

委員の中には、藤原もいる。あの日の煙草の男は、いまは、委員長の席で、腕を組み、岩島を見ている。表情は、読めない。

説明が終わると、委員たちから、問いが飛ぶ。

「五千平米、ひとりで管理できるんか」「水は、どっから引くんや」「鳥獣の害は、考えとるか」。岩島は、ひとつずつ、答える。事前に、藤原に投げられた問いと、半分は、同じだった。あの面談は、いま思えば、この本番の、予行演習でもあったのかもしれない。

委員たちの空気が、少しずつ、和らいでいくのが、わかる。

最後に、藤原が、口を開いた。

「この人はな」と藤原は、ほかの委員に向かって言う。「公務員、二十五年、辞めてきた人や。もったいない話やと、わしは思う。けどな、この前、一遍、話してみてな」

藤原は、岩島を、ちらりと見る。

「土地に、恩を返したい、言うとった。役所の人間が、机の上から、二十五年、この土地の地図を見てきた、と。——わしは、その一言で、ええと思た」

委員の何人かが、うなずく。

岩島は、頭を下げる。深く、長く。顔を上げたとき、藤原は、もう、こちらを見ていなかった。窓の外の、田を見ていた。

——信用は、計画書では買えない。買えるのは、ただ、人としての、姿だけだ。

許可の方向で、話は、まとまった。正式な議決は、手続きを経てのことになる。だが、いちばん高い関門の、いちばん硬い扉が、いま、内側から、ゆっくりと開いた。

帰りの車


帰り道、岩島は、車のハンドルを握りながら、考える。

考え事は、車の中か、コーヒーの前と、決めている。いまは、車の中だ。フロントガラスの先に、夕方の田が広がっている。藤原に「近くに住め」と言われた、その土地の方角だ。

助手席には、裕子。後部座席には、迎えに寄ったゴンとリク。ゴンが、窓の外に鼻を向け、リクが、その隣で、丸くなっている。

「どうやった、こわい委員長さん」と裕子が聞く。

「こわなかった」と岩島は言う。「煙草を、二本目は、吸わへんかった」

「なにそれ」裕子が笑う。

岩島も、少し、笑う。あの男が、二本目の煙草に火をつけなかった——それが、岩島には、合格通知のように思えた。理屈ではない。役所で、二十五年、人の顔色を読んできた、その勘が、そう告げていた。

家に帰ったら、コーヒーを、挽こう。豆から、ゆっくりと。そして、藤原に言われたことを、もう一度、メモを見返しながら、考えよう。拠点を、農地の近くに移すこと。それは、思っていたより、ずっと大きな決断を、岩島たち夫婦に、迫ることになる。

——土地は、ほぼ、手に入った。だが、土地が決まるということは、住む場所も、暮らしも、すべてが、その一点を中心に、回り始めるということだ。

そのことに、岩島が本当の意味で気づくのは、もう少し、あとのことになる。


次回予告 第9話「五千平米の決済」——売買契約の、その日。停止条件のついた一枚の書類に、岩島は、二十五年分の判子を、押す。


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