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脱サラ非農家の起農日誌——公務員25年、そのあとの話第6話「取られた土地」

その物件を見つけたのは、一年ほど前のことだった。

岩島順一は、夜ごとパソコンの前に座る。考え事をするなら、車の中か、この場所と決めている。画面に開いているのは、地方の不動産情報サイトだ。「農地付き住宅」「田舎暮らし」——そんな言葉で検索をかけ、出てきた物件を、一つずつ見ていく。

ブルーベリーの観光農園をやる。養液の方式も、これから視察で固めるつもりだ。あとは、土地だった。五千平米。腰の高さに実る、あの黒いポットの列を並べる場所。それさえ手に入れば、設計図は現実になる。

そして、一軒の物件に、岩島の目はとまっていた。

田が十反——一ヘクタールを超える広さ。加えて、わずかな山林。そして、母屋と大きな倉庫を備えた住宅が、一式でついている。値段も、手の届かない額ではない。

——これは、いい。

岩島は、その物件のページを、もう何度開いたかわからない。田が十反あれば、観光農園には十分すぎる。山林は防風林になる。倉庫は、加工場にも、冷凍設備の置き場にも、KM800Fの車庫にもなる。母屋は、裕子と二人の住まいにも、将来のカフェにもなる。頭の中の白い設計図に、次々と色がついていく。

台所から裕子が「また見てるの、あの家」と笑う。ゴンが足元に来て、鼻を岩島のスリッパに押しつける。リクが遅れて、その隣に伏せる。岩島はコーヒーを一口飲み、画面の中の、まだ見ぬ我が家を眺める。

「明日、不動産屋に電話してみるよ」と岩島は言う。問い合わせて、現地を見て、それから動く。公務員時代に叩き込まれた段取りだ。急いては事を仕損じる。

だが、この一件に関して言えば、その慎重さが、仇になる。

「商談中です」

翌朝、岩島はもう一度、物件のページを開こうとした。

ない。

昨夜まで確かにあったページが、サイトから消えている。検索しても、出てこない。岩島は、嫌な予感を覚えながら、掲載元の不動産屋に電話をかけた。

「ああ、あの物件ですか」と、電話口の担当者は言った。「申し訳ありません。あれ、いま商談中でして」

商談中。

岩島は、受話器を握ったまま、しばらく言葉を返せなかった。

「先方さん、もうかなり話が進んでまして。たぶん、決まると思いますよ」

誰が。岩島は聞かなかった。聞いたところで教えてはくれないだろうし、聞いても意味がない。ただ、自分より先に、あの田と山林と倉庫を欲しがった人間が、どこかにいた。そして、その人間のほうが、自分より速かった。それだけのことだった。

電話を切る。リビングは、昨夜と同じ朝の光に満ちている。ゴンとリクが、いつもどおり散歩をせがんで尾を振る。何も変わっていない。変わったのは、岩島の頭の中の設計図から、たった今、土台が一枚、抜き取られたことだけだ。

——「明日、電話する」。その「明日」が、遅かった。

慎重に、段取りを踏んで、確実に。二十五年、それで間違いはなかった。だが農地という土俵では、その流儀が、必ずしも通用しない。岩島は、生まれて初めて、それを思い知る。

農地は、土地ではない

なぜ、こんなに呆気なく、取られてしまうのか。

岩島は、悔しさを抱えたまま、その「なぜ」を調べ始める。悔しさを、理解に変える。それも、公務員時代からの癖だった。

余談だが、農地は、普通の土地のようには売り買いできない。

田や畑を、農地として売買したり貸し借りしたりするには、農地法第三条にもとづく、農業委員会の許可がいる。宅地のように、買い手と売り手が合意すれば成立、とはいかない。あいだに、行政の審査が一枚、必ず挟まる。

かつては、その許可に「下限面積要件」というものがあった。取得後に一定以上の面積を耕さなければ、許可が下りない。都府県では原則、五十アール——五千平米だ。これに満たない規模では、そもそも農地を持てなかった。新規参入者にとって、最初の、そして高い壁だった。

この下限面積要件は、二〇二三年四月に廃止された。農業を担う者が減り、高齢化が加速するなか、規模の大小を問わず、意欲のある新規参入者を取り込まねば、田畑は荒れていく一方だ——という判断による。壁の一枚は、確かに低くなった。

だが、壁が消えたわけではない。

下限面積はなくなっても、三条の許可には、いくつもの要件が残っている。取得した農地を、すべて効率的に耕すこと。申請者か、その世帯の誰かが、農作業に常時従事すること。周りの農地の利用に、迷惑をかけないこと。投機や、資産として持っておくための取得は、今もできない。つまり、「ちゃんと自分で耕す人間か」を、農業委員会に認めてもらわねばならない。

岩島は、ここまで調べて、ようやく腑に落ちた。

農地を、見つけてから悠長に動いていては間に合わないのは、この「許可」という関門があるからだ。ほしい人間は、物件が表に出るより前から動いている。情報を先に掴み、段取りを先に押さえた者が、勝つ。岩島は、慎重さで負けたのではない。情報の早さで、負けたのだ。

——農地は、見つけてから探すのでは、遅い。探す前から、情報の中に立っていなければならない。

国と県と、市町村

では、その「情報」は、どこに集まるのか。

岩島は、土地そのものを探すのをいったんやめ、土地の情報が流れる「水路」のほうを、先に調べることにした。敵の位置がわからないなら、まず地図を広げる。それも、役所で覚えたやり方だ。

ここで、農地をめぐる行政の構造を、整理しておきたい。

いちばん上に、国——農林水産省がいる。農地法という大枠のルールをつくるのが、その役目だ。

その下に、県がいる。各都道府県に一つずつ、「農地中間管理機構」という組織が置かれている。これが、世にいう「農地バンク」だ。リタイアする農家や、跡継ぎのいない地主から農地を預かり、耕したい者へまとめて貸し出す。県全体の、農地の貸し借りの元締めである。

そして、市町村がいる。ここに、二つの顔がある。

一つは「農業委員会」。三条の許可を審査し、農地の番人として目を光らせる、市長の部局からは独立した合議制の委員会だ。もう一つは「農政課」——自治体によって農林課などと名は違うが、農業の振興や補助金、新規就農の相談、そして農地バンクの窓口を担う部局である。小さな町では、農業委員会の事務局を、この農政課が兼ねていることも多い。

国がルールをつくり、県の機構が束ね、市町村の委員会と農政課が現場を回す。しかも、その機構の実務の多くは、市町村に委託されている。だから、農家や新規就農者が実際に足を運ぶ窓口は、たいてい市町村役場の中にある。

二十五年、役所の内側にいた岩島には、この縦の構造は、見慣れた組織図そのものだった。国が制度を決め、県がぶら下がり、市町村が住民と接する。自分がいた世界と、寸分変わらない。違うのは、扱うものが、福祉でも税でもなく、土だということだけだ。

だが、岩島が本当に肝に銘じたのは、その先だった。

同じ「農地バンク」「農政課」と看板は同じでも、中身は、市町ごとにまるで違う。

新規就農や移住に力を入れ、空き家バンクと農地を組み合わせて、熱心に橋渡しをする市町もある。担当者が親身に動き、まだ表に出ていない情報まで教えてくれる。一方で、人手が足りず、登録だけ受け付けて、あとは音沙汰のない市町もある。同じ制度の上に立っていても、現場の手触りは、担当者一人の熱量で、まるで変わってくる。

——どの土地を狙うかは、どの市町の、どの窓口に当たるか、と分かちがたく結びついている。

岩島は、それを、このあと、いくつもの窓口を回るなかで、嫌というほど思い知ることになる。だが、出発点は決まった。まず、自分の地域の農政課に、足を運ぶことだ。

振り出しに戻って、入口に立つ

即日でリカバリーできる、というほど、世の中は甘くなかった。

あの物件を失った夜、岩島はいつもより無口だった。設計図の土台が抜けたまま、次の一手が、すぐには見つからない。不動産サイトを開いても、あれほどの条件の物件は、そうそう転がっていない。

裕子が、コーヒーをもう一杯淹れて、隣に座る。「あの家じゃなきゃ、だめなの?」と聞く。

岩島は、少し考えてから答える。「いや。あの家が、よすぎただけだ」

言葉にして、少し楽になる。失ったのは、最高の一軒であって、唯一の一軒ではない。土台が一枚抜けたなら、別の土台を探せばいい。設計図そのものが壊れたわけではない。

二十五年で身につけた四つの柱のうち、危機管理という一本が、ここで効いてくる。想定外が起きたとき、うろたえずに、被害を見積もり、次の手を並べる。岩島が、役所で幾度となくやってきたことだ。失った土地に未練を残すより、次に動くほうが、よほど建設的だった。

岩島は、市の農政課の窓口に足を運んだ。新規就農でブルーベリーの観光農園を考えていること、五千平米ほどの農地を探していることを話す。窓口の職員は、農地バンクの仕組みを説明し、登録を勧めてくれた。

岩島は、農地バンクに登録する。

これで、自分は「探す前から、情報の中に立っている」人間になった。あの不動産サイトのページを、毎晩、指をくわえて眺めていた頃の自分とは、もう違う。土地のほうから声がかかる場所に、ようやく、片足を置いた。

——取られた土地が、教えてくれた。遅れて動く者は、いつも、何かを失う。

視察最終日の電話

そして、岩島たちは、軽キャンピングカーで視察の旅に出る。

伊勢を巡り、猿田彦に手を合わせ、桑原の農園で、机上の仮説が確信に変わった。養液の方式は、固まった。残るは、土地だけだ。土台さえ見つかれば、すべてが動き出す。

旅の最終日。四国へ向かう帰り道、立ち寄った道の駅の駐車場で、岩島のスマートフォンが鳴った。

見知らぬ番号だった。

助手席の裕子が、岩島の顔を見る。ゴンが、後部座席で耳を立て、リクがそれにならう。岩島は、コーヒーの紙コップをホルダーに置き、画面の番号を、一秒だけ見つめる。

農地バンクに登録した、その番号に、知らない相手から電話がかかってくる。それが何を意味するのか、岩島には、もう察しがついていた。

通話ボタンを押す。

——みちひらきの神は、ずいぶん早く、次の辻を差し出してきた。

取られた土地は、戻ってこない。だが、取られたからこそ、岩島は水路の在処を知り、情報の中に立った。そして、情報の中に立った者のところへ、次の土地は、向こうから声をかけてくる。

その声が、これから始まる長い交渉の、最初の一声になることを、このときの岩島は、まだ知らない。


次回予告 第7話「電話は視察中に鳴った」——農地バンクの先にいたのは、ある土地の持ち主の妻だった。交渉は、思いがけない人物を経由して、動き出す。


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