なぜ「的を得る」論争は今もバチバチと続いているのか?【単なる誤用問題ではない話】
はじめに
「的を得る」という慣用句に対して、「本来「的を射る」で誤用である」とか「実は本来誤用ではない」とか多くの意見が飛び交っています。
結局「的を得る」は正しい?正しくない?どっちなんや?という混沌とした状態です。
一言で答えるならば「どちらの表現でも良いが注意が必要」といったところでしょう。
しかし、「的を得る」という言葉の歴史的背景の不理解が、典型的な言葉の乱れ論争とは異なるもつれた問題にしているのではないかと考えています。つまり、誤用が広まったからどちらでも良くなったとも、誤用自体が嘘のマナーだったとも言いづらい状況になっています。
こうした「的を得る」や「的を射る」などの歴史的経緯を説明した上で、もつれてしまった状況を紐解いていきます。
誤用説が生まれ撤回されるまで
「正鵠を得る」から「的を射る」「的を得る」への変化
最初に「的を得る/射る」の歴史的経緯を整理します。
戦前は、「正鵠を得る」という慣用句が広く使われていました。正鵠は的の中心のことから転じて物事の要点を意味する言葉で、「正鵠を得る」も「的を得る/射る」と同じく要点を突くといった意味があります。また似たような慣用句に道理にかなっているという意味の「当を得る」も存在します。
「的を射た意見」も「的を得た意見」も、特に戦後広まったと『三省堂国語辞典』第8版にありますが、戦前はもっぱら「正鵠(せいこく)を得た」でした。「正鵠」は的の中心の黒点。「得る」はうまく捉える意です。「的を得た」はそのバリエーションです。国会図書館の資料から時代的変化が分かります。 pic.twitter.com/uJWh4cHhJ8
— 飯間浩明 (@IIMA_Hiroaki) July 9, 2023
国立国会図書館デジタルコレクション(以下、NDLデジコレ)では明治〜20世紀の書籍を中心に様々な書籍の全文検索を行うことができます。
それを用いて『三省堂国語辞典』の編集メンバーの一人である飯間浩明氏が「正鵠を得た/射た」「的を得た/射た」の使用頻度を調査したところ、戦前は「正鵠を得た」が圧倒的であったが、戦後に「的を射た」が広く使われるようになり、少し遅れる形で「的を得た」も広まるようになったという結果が得られました。(戦前にも慣用句としての「的を得た/射た」の表現自体は存在します)
「的を得る」誤用説の誕生
「妙(ミョオ)をつくす」と「妙を得た」が出来上がって、「与党の妙を得た国会裏のかけひき」などと使うこともある。
また、意味の類似も混合をひき起こしやすい。「的を射た」と「当を得た」の「的」と「当」(めざすもの)とが交錯して、「的を得た」や「当を射た」を生じて、結構、使われている。
一方で、1970年代前後に「的を得た」が誤用という主張が見られるようになります。
例えば、『崩れゆく日本語』(1977年・重版)という世間の誤用を指摘した本では「当を得る」と混用して使われたのではないかと指摘します。(この本は20版まで増版され『死にかけた日本語』という続編も登場します)
また文化庁の『「ことば」シリーズ9 言葉に関する問答集4』(1978年,p.35)では質問集で「当を得た」と「混淆したもの」と述べています。
的を射(イ)る[句] (一)うまくまとに当てる。 (二)急所にあたる。〔あやまって〕的を得る。
また、先ほど述べたように『三省堂国語辞典』が1982年改訂の第三版の際、「〔あやまって〕的を得る」と記載したことです。
こうしたことを総合すると、「的を得る」「的を射る」が戦後に慣用句として表現が広く使われるようになったが、1970年代に「的を得る」が誤用と複数の書籍で論じられるようになったと考えることができます。[注2]要するにこうした関係から「的を得る」は安易に誤用と断定できないと言えます。
ただ、こうした流れに一点補足するなら「的を得る」が1970年代ごろから書き言葉として使われるようになったことは考慮する必要があると考えます。

(値は見やすさのため10^8(10億)倍)[注3]

国立国会デジタルコレクションのグラフを見ると、「的を射る」が1950年代後半から増加しているのに対し、「的を得る」が1960年代後半から増加しています。また飯間氏のデータにはないですが、「当を得る」が「的を射る/得る」より5〜6倍ほど使用されていたことも注目に値します。
こうした、「的を得る」が増加した時期と誤用と言われ始める時期が一致することを踏まえると、誤用という主張も完全な言いがかりではなく、現代以上に「当を得る」「的を射る」との混用であると感じやすい時期であったと考えられますし、実際こうしたことで広まった表現である可能性は否めないでしょう。
実際、『三省堂国語辞典』の当時の編集者であった見坊豪紀は文章からの用例を「見坊カード」として採集しており、「的を得る」も14例集めていました。[注4]こうした当時の使用率の背景から『三省堂国語辞典第三版』で誤用と判断したとも推察できます。
2010年代の話
こうした経緯から1980年以降各種書籍などで「的を得る」は「当を得る」や「的を射る」との混同で誤りと紹介されるようになりました。
しかし、2010年代に「的を射る」が正しいという情報に懐疑的な意見が飛ぶようになります。[注4]要するに、「正鵠を得る」といった慣用句が自然なら取り立てて「的を得る」が誤用と断じる必要があるのかといった意見が現れます。
例えば、小学館辞典編集に携わっていた神永曉はWebコラムで「的を得る」に対して「ひょっとすると、誤用だと言い切る表現は、そろそろ見直すべき時期にきているのかもしれない。」と述べています。
また「BIFFの亜空間要塞」や「メモ 2013.10.10~」などの個人ブログで、さまざまな辞書や過去の用例を踏まえた調査が進みます。特に後者のブログの記事群は一次資料が非常に豊富で、2020年以前の肯定的な意見・否定的な意見、専門家の見解などさまざまな情報が記載されています。
そのような中で、2013年12月に『三省堂国語辞典』が第七版に改訂された際、「的を射る」の項目にあった「〔あやまって〕的を得る。」の文言が削除されました。
『三省堂国語辞典』第7版では、従来「誤用」とされていることばを再検証した。「◆的を得る」は「的を射る」の誤り、と従来書いていたけれど、撤回し、おわび申し上げます。「当を得る・要領を得る・時宜を得る」と同様、「得る」は「うまく捉える」の意だと結論しました。詳細は「得る」の項を。
— 飯間浩明 (@IIMA_Hiroaki) December 15, 2013
その際、飯間氏が、再検証した上で「的を得る」が誤りという記述を撤回したとtwitterでツイート(現Xでポスト)しています。[注5]
ただし、注意したいのは「撤回」しただけであり、「的を得る」が正しいと明言したわけではありません。実際『三省堂国語辞典 第七版』では「得る」の項の「うまくとらえる」の意味の用例として「的を——」と記載する方針に変更しただけです。
また、同じく三省堂の『例解新国語辞典』では2015年の第九版で削除する動きがあったものの、他の辞書では「的を得る」を変わらず誤りとしたり本来ではないとしたり、多くの辞書ではこうした動きに慎重な立場をとっていることにも注意が必要です。
飯間氏やネットの文献調査は前提を疑うものとして示唆に富むものの、世間では今も「的を射る」が規範的であるというのが現状といえます。
白羽の矢が立った「的を得る」
ここまでは飯間氏の話を中心に使用実態を見ていきました。ここまで見れば取り立てて誤用と言わなくていいと結論づけられたように見えます。
しかし、実際は「的を得るが誤用」という考えも深く強く根付いているからそう安易に言えないと考えます。ここからは誤用側の主張も見ていきましょう。
「的を得る」は恥ずかしい?
NDLデジコレで「的を射る 的を得る」で検索すると、井口樹生『日本語の常識・非常識 : 間違えやすい成句・諺・古語の使い方』(講談社,1986年)や 土屋道雄『日本語に強くなる本』(三笠書房,1990年)など、1980年代以降様々な日本語関連の書籍で「的を得る」を誤用と論じられるようになります。
「的を得る」ともよく言われますが、これは「的を射る」と「当を得る」との混交、「的」は「得る」ものではありません。
(中略)
このような混交表現は、話し言葉では、つい使ってしまう傾向がありますが、文字にしてよく見たり、意味を考えると、やはりおかしいな、ということになります。
(NHK放送文化研究部副部長 最上勝也「日本語の乱れ」)
こうしたタイトルでも垣間見えるように「正確な日本語を使うため」「恥をかかないようにするため」といった一種の教養としての側面として語られている他、『関西経協』のように一種の「日本語の乱れ」として捉えられています。
このように「的を得る」を使うことが無教養・恥のレッテルとして機能している側面があります。
例えば、2006年に日経プラスワンが行なった「言葉づかいで恥をかいたことーーうっかり、思い込み用心(何でもランキング)」の調査では、20代以上の男女1000人のうち141人が「的を得る」を使い恥をかいたと回答しています。[注7]
いつかほとんどの人が「的を得る」と言うようになれば、それが正しい表現として定着することでしょう。言葉にはそうやって認められてきた歴史があります。ただし、現時点では「的を得る」は誤用とされていて、人前で使うと恥をかくことになります。
的確な内容のコメントをしても、こういう言葉の間違いを犯すと「センスはいいけど、教養が足りない人なのね」と受け止められてしまうわけです。
私自身は、言葉に関してはあまり厳密に、「これが正しい、これは間違っている」とやりすぎるのは良くないという考え方をしています。(中略)いわば生物のようなものです。だからあまり厳密に、これはダメだ、この言い方はけしからん、ということ斬りすぎると、言葉の生命力を失わせると思います。
いっぽう、「的を得る」には大した生命力を感じないわけですね、ただ間違っている。新しい可能性を拓いているだけではないので、ただ恥ずかしく、信頼を傷つけるだけになってしまうのです。
こうした潮流の中を端的に表したのが上記の教育学者の齋藤孝の日本語本かもしれません。
齋藤氏は言葉に白黒つけることには寛容であるべきとは論じつつも、「的を得る」に対しては、言葉の生命力がなく、教養や恥、信頼性などの問題があるとかなり強い口調で断じています。(後半の引用は原文でも太字で強調されています)
ここまで強く否定的に捉える人は少ないでしょうが、単なる誤用とされる表現以上に敏感になって、不義理や反発の目で強く見ている人がいるのも事実です。
「的を射る」に直せるというキャッチコピー
「的を得る?」企画書を書いていていふと迷った。そんな時、ケータイする4大辞典。
上記はCanonの「ワードタンクスーパー」という電子辞書の広告のキャッチコピーですが、「的を射る」と正せることを売り文句にしています。
他にも1993年の日経流通新聞では、旺文社のことわざ・慣用句辞典である『成語林』を扱った記事[注8]では「引き出物や創立記念品に的を射た慣用句辞典」という見出しで、「「的を得る」(正しくは的を射る)や「寸暇を惜しまず」(同、寸暇を惜しんで)といった間違い日本語例」など「読み物として楽しめる構成が人気を呼んでいる」と述べられています。
さらに1998年に販売された、日本語変換サービスの「ATOK12」では校正支援機能の機能紹介として、「的を得る」と打つと「《「当を得る/的を射る」の誤用》」と併記してくれることを売り文句としています。[注9]

このように20世紀末を見ると、迷いやすい・間違いやすい慣用句の代表として「的を得る」が使われ謳い文句として使われたケースも存在します。
ここまでをまとめると、「的を得る」は、日本語関連の書籍だけでなく、商品広告でも「間違いやすい日本語」の代表例として扱われてきた上に、しばしば教養や信頼性と結び付けて論じられることもあります。そうした点で「的を得る」は単なる一つの誤用表現という枠を超え、教養の指標など異なる特質を持っていると言えるでしょう。[注10]
「的を得る」を避ける若者たち
大学(引用者注:法政大学)のゼミで、創作を教えていて、この頃、不思議なのは学生が「的を射る」という表現を使いたがることと、ほぼ100%、「的を得る」という間違いをおかさないことだ。ワープロソフトの性能が良くなったせいもあるんだろうけど、大学生に「的を射る」と正確に書かれると、むっとする。ぼくなんか30歳をすぎるまで使っていたからだ。だから、若いくせにこんな古くさい言葉を使うなとかいってしまう。が、内心、驚いているのだ。
上記は、言葉が必ずしも「年長者の嫌がるほうへ」変化しているわけではなく悲嘆しなくても良いという話のコラムなのですが、実際、20世紀では年長者ほど「的を射る」に使う傾向にあった一方[注11]、21世紀では「的を射る」の使用率が若者を中心に増加している傾向にあります。

その他は「両方使う/両方使わない/わからない」が該当
文化庁では「国語に関する世論調査」というアンケートを毎年行っており、表現が分かれる言葉などの使用実態などを調べています。
その中で、平成15,24年度(2004年,2013年[注12])の2回「的を射る」「的を得る」の使用率を比較すると、平成15年度では20歳以上が「的を得る」が多数派である一方、平成24年度ではどの年代層でも「的を射る」が多数派に転じ、特に16〜19歳では73%の人が「的を射る」を使っています。
つまり、現代では若者ほど「的を射る」を使う傾向が強まってきているのです。
日高水穂の「言語変化を抑制する誤用意識」(『日本語学』第28巻第9号,明治書院,2009年,p.14-26)では、「国語に関する世論調査」のデータを基に、ら抜き言葉を使わなくなった若年層がいることを指摘します。こうした調査やメディアが「ら抜き言葉」や「マニュアル敬語」などを取り上げたことを背景に「脱・若者言葉」としてこうした動きが起きたと推察しています。
このような構造は「的を得る/射る」にも言えるのではないでしょうか。若年層を中心に「的を射る」を使う人が急増した背景には、80年代以降誤用の代名詞としてたびたび問題視され続け、「国語に関する世論調査」でも取り上げられたことが寄与しているのではないかと推測することができます。[注13]
いずれにせよ、伝統的な規範の観点でも、実際の使用状況を見ても「的を射る」の方が優勢にあると言えるのが現状であると言えるでしょう。つまり、過剰な規範意識が逆に言葉を変化させた事例としても考えることができるのです。
「的を得る」論争の現在
『三省堂国語辞典第八版』の改訂
特に近年「誤用」との指摘が多く聞かれるようになりましたが(若年層ほど誤用意識が強い)、かつては、日本語学者を含め、普通に使っていた言い方です。
ならば、この際、辞書で「的を得る」は誤用ではないと強調してはどうか。いや、それでは「的を射る」に正しさを感じる人の気持ちを損なうだろうか。
辞書は正しいことばを記述するものだと思われがちですが、実際は何が正しいことばなのか、客観的には決められません。辞書の作り手が責任を持てるのは、「そのことばは新しいか伝統的か」「どんな集団がどんな場で使うか」などの事実を記述することだけです。
2018年に番組『プロフェッショナル仕事の流儀』で飯間氏が密着取材を受けた際、『三省堂国語辞典』の「的を得る」の項の改訂に当たって、250年前の用例を調査したり「的を得る」の説明の編集会議を5時間ほど続けたりしたことを語っています。
そのくだりは上記の『文藝春秋』でも裏話として書かれていますが、「的を得る」は誤用ではないと考えつつも、「「的を射る」に正しさを感じる人の気持ちを損な」わないようにするため両方の立場を踏まえた記述したと語ります。
なお、2021年改訂の『三省堂国語辞典第八版』では「的を得る」の項も追加し、以下の注釈を追加しています。
「的を射る」「的を得る」とも、特に戦後広まった言い方。「得る」は「要領を得る」などと同様、「うまくとらえる」の意味。同義語「正鵠を〈射る/得る〉」も二通りの言い方がある。
第七版の撤回はやや性急な部分もあるでしょう。ただ、第八版では、「的を得る」を単純に擁護するだけ留めず、実際の使用実態と社会的な規範意識を踏まえて記述していたことが窺えます。
改めて「的を得る」はなぜ生まれ、なぜ誤用と言われるのか?
長年「的を得る」は「的を射る」「当を得る」の誤用と考えられていましたが、これ自体、決定的ではありません。
例えば、神永曉が「正鵠を得る」から転じた可能性も指摘していますし、国語学者の林大は「イ」と「エ」の混同説も唱えてもいます。[注14]
「的を射る」「当を得る」「正鵠を得る」などとの関係があったのでしょうが、いずれにせよ「的を得る」が何らかの意味の変化や表現の変化を伴った言葉であることは確かです。
とはいえ、こうした変化が必ずしも誤用と断定できるわけではありません。比喩表現は、原義や文字通りの意味から離れて新たな意味を持つことは珍しくないためです。例えば多くの慣用句はそうですし、近年の言葉でも「マウントをとる」はここ10年ほどで広まった言葉ながら「「マウント」は載せるものなのに取ってどうする?」と指摘する人は少ないでしょう。マウント(地位的に有利というマウンティングの状態)を取る(手にいれる)という解釈があるのだと思われます。
同じように「的を得る」も「得る=うまく捉える」で説明できます。しかし一方で、「的を射る」で事足りないか、「射る」の方が直感的で自然ではないかという感覚が、「的を得る」を受け入れにくくしている面もあるのでしょう。[注15]
言語には、理論上は成立しても既存の語との競合によって使われなくなる現象があるのも事実です。例えば形容詞で「厚み」とは言うが、「熱み」とは言わないように、すでに脳内の語彙(レキシコン)にある別の単語によって変化が妨げられることがあります。「的を射る」で十分だからわざわざ「的を得る」という必要がないとも解釈できます。
また、1970年代と比べて「正鵠を得る」や「当を得る」は、現代では使われなくなりました。私の仮説であることは断りますが、こうした類似表現が見られなくなった現代では、「的を射る」と「的を得る」だけが比較対象として見られるようになり、結果的に「的を射る」の方がより自然であると感じられやすくなっているのでないかと考えます。
実際、齋藤孝の書籍以外にも、出口汪の『「さすが!」と言われる大人らしい語彙力』(きずな出版,2025年)でも「正鵠を得る」「当を得る」に言及せず「的を射る/的を得る」だけの二項対立で捉えてイメージの観点から「的を射る」が正しいと主張しています。語彙が変化した現代で直感的に理解しやすい「的を射る」の方が妥当に感じるのも1つの合理化なのかもしれません。
言語学者の言い訳?
とはいえ、ここまでの説明は「的を得る」の擁護や言い訳のように聞こえるかもしれません。昔の用例などを取り上げたところで、「古い用例を採集したところでそれが誤用であることを疑わないのか?」という反論もあります。
実際、「正鵠を得る」も文字通りに解釈すれば奇妙な表現ですし、「正鵠を射る」というべきと主張する声も存在します。
しかし、「得る」が「うまく捉える」という意味を持つように、単語は意味が拡張し変質するものです。「得る」は物質的にしか使えない動詞であると過剰に原義に拘泥すると「要領を得る」や「信頼を得る」といった表現まで否定してしまうことになります。仮に本来から外れた用法であったとしてもこうした用例は、昔は違和感なく使われていたことの証左となり得ます。それを誤用と疑うのなら「「的を得る」は通時的にあるいは当時から誤りと問題視されていた」というより強い主張を裏づける必要があるでしょう。[注16]
おわりに
「的を得る」が定着した背景も言葉の生産性の観点で合理的ですし、「的を得る」に違和感を抱くこと自体も簡潔化という観点で合理的です。
よくある言葉の乱れの議論と同じように単なる「揺れ」と認めるか「乱れ」や「誤用」と認識するか、価値観が衝突していることが、今もなお「的を得る」の論争の絶えない原因の一つにあるでしょう。[注17]
それに加えて、誤った慣用句の代名詞として白羽の矢が立てられてきたことや、前提を疑う意見が飛び交っているのも複雑化している原因にあると言えます。
言葉には、実際の運用を客観的に捉える「記述主義」と、表現のルールを重視する「規範主義」の2つの考え方があります。新語の採用に積極的など飯間氏を含め『三省堂国語辞典』は記述主義的な側面が強いです。
しかし、「誤用説の撤回」を典型的な記述主義と規範主義の二項対立で捉えると「どちらの表現でも良くなった」ように見えてしまいますし、歴史的背景や改訂の経緯を知らなければ「元々は「的を射る」だが」や「誤用が広まって」など典型的な言葉の変化の話として解釈されてしまうでしょう。
ですので、『三省堂国語辞典』や飯間氏が規範にルーズだと批判するのは的外れですし、 ましてやデマやフェイクニュースなどと一蹴するのはもっての外です。ただ反対に「的を得る」が完全に正しくなったと過剰にもてはやして決着がついたと結論づけることは、問題が入り組んだ現代では安易にはできないでしょう。[注18]
こうしたバチバチと続く「的を得る」論争を論じるためには、通時的に俯瞰する必要がありますし、逆に規範意識や現代感覚も軽視しないことも求められます。こうした前提を見直す動きと規範を強める動きの二つが先鋭化し、片方の立場だけでは十分に説明できなくなっているからこそ、「的を得る」論争が今もなお絶えないのではないでしょうか。
注釈
[注1]
見坊:そうですかね。あれは確か……読売新聞の「言葉は美しい」という連載があって(編集部注:連載は1969年6月1日~12月26日)、祖父が名前を出さずに執筆していました。
校閲者の見坊行徳によると、『言葉は美しい』は祖父の見坊豪紀の連載記事であり、当時の資料の現物もページ内にあります。
[注2]
1980年代まで、「的を得る」は、作家や日本語学者たちも当たり前に使う表現でした。それを「誤り」と最初に指摘した国語辞典は、ほかならぬ『三国』でした。
国語辞典で最初に指摘したのは『三省堂国語辞典第三版』ですが、こうした言説自体は同時期で複数見られるため、『三省堂国語辞典』の誤解を生んだ原因と断じるのは違うと思います。ただ、注1の通り、『言葉は美しい』の見坊豪紀の指摘が現在見つかっている初例であるため、こうした変化を敏感にキャッチしていたことが窺えます。
[注3]
飯間氏の調査では、慣用句ではない物理的な意味の「的を射る」を除外する目的で「的を射た/得た」で調査を行なっています。そのため本文のグラフとは一致しない上に、私のグラフの方がノイズを含んでいる可能性があることは断ります。
[注4]
読売新聞 「今様こくご辞書」1997年1月19日号東京朝刊5面より
[注5]
00年代では駿台予備校講師の中谷臣が漢文などの話を交えて反論するものが知られていたそうです。
また、「外国語の誤訳」だから誤りであるということを根拠に、10年代の動向に対立する動きも見られますが、主張の詳細や問題点の指摘は前回の記事で記載したため今回は控えます。
[注6]
飯間氏の著書『三省堂国語辞典のひみつ』(三省堂,2014年,p.43-46)では「得る」を「うまく捉える」と解釈したこと以外に、本文中の神永氏のWebコラムにも「神永さんは「正鵠を得る」(射る)とも言う)との関係から「的を得る」に肯定的な考えを示しています。傾聴すべき意見です。」(p.45)と言及しています。
「的を射る」に対して、誤用とも言われている「的を得る」を見出し語に載せたときには、正直驚いた。編集委員のお一人は、その根拠のひとつとして拙著のことにも言及なさっていたが(飯間浩明『三省堂国語辞典のひみつ』三省堂、2014年)、私は「的を得る」が誤用だという考えは見直した方がいいのではないかとは主張したが、まさか一気に見出し語にする辞典が現れるとは思わなかった。私が辞書に載せるとするとしたら補注か何かで触れるだけであっただろうから。
ただ、こうした動向に神永氏も驚きを感じた意見を述べています。実際、飯間氏の2014年までの動向を見ると実例を見た上での判断だとは思われますが、表面的には「得る」の解釈の可能性と懐疑的な意見だけに見え、性急な判断であると考えられるでしょう。(ただ、本文で後述するように、『三省堂国語辞典 第八版』の改訂ではより洗練された表現になっています)
[注7]
日経プラスワン「言葉づかいで恥をかいたことーーうっかり、思い込み用心(何でもランキング)」2006年11月4日号1面より。言葉の誤用とされる50のの表現を挙げ、その中から恥をかいた経験のあるものを複数回答形式で行なったものです。「外で上司を〇〇部長と呼ぶ」が480/1000人で1位で、「的を得る」は12位という結果です。
[注8]
日経流通新聞 1993年1月12日号 19面より
[注9]
『Asahiパソコン:AP』1998年12月号,朝日新聞社,p.21より
余談ですが本記事のためにATOKの体験版をインストールしました。大変校正ツールに怒られそうですね。
[注10]
飯間氏のグラフのように歴史全体を俯瞰すれば、「的を射る/得る」の表現が拮抗するようになったと対等に語ることもできます。ただ、ミクロ的に見れば70年代まで「的を射る」「当を得る」が主流だった中で「的を得る」の使用率が増えているため、「的を射る」も「的を得る」も対等に変化したとは言えず、言語変化の一種と捉えることもできるでしょう。
[注11]
20世紀の調査例では、年齢が上がるにつれ「的を射る」を用いる傾向にあります。
例えば、NHK放送文化研究所『放送研究と調査』1997年5月号,p55の調査では「的を射た」が32.1%、「的を得た」が49.4%であり、「的を得た」を使う割合が最も大きかったのは30代というデータがあります。
他にも『日本語学』18巻14号(1998年,明治書院,p.100-103)では日本語学研究所の齋美智子が故事成語や慣用表現の表現を問う問題を出題し、「的を射る」と解答した人が年代が上がるごとに上昇することを指摘しています。(折れ線グラフのため正確な値の記載はないものの14歳未満が20%未満、70代は約70%ほどが「的を射る」と答えています)
[注12]
平成15年度調査は、平成16年1~2月、平成24年度調査は平成25年3月に行っているため、2003年と2012年ではなく2004年と2013年のデータです。
[注13]
日高は「ら抜き言葉」の使用率低下の傾向は首都圏に近い関東地域で見られることも指摘しています。「的を射る」の使用率も、平成15年度調査では全国38.8%/関東42.9%であり、24年度調査では全国52.4%/関東55.2%と、わずかながら関東地域の方が全国平均より高い傾向にあります。
[注14]
読売新聞「今様こくご辞書」1997年1月26日号 全国版/東京朝刊5面より
[注15]
詳細は下記の「メモ 2013.10.10~」のページに譲りますが、1970年代から「正鵠を得る」も誤用とする主張も現れたり、NDLのグラフを見ても分かるように同時期ごろから「正鵠を射る」という表現も使われるようになっていたりします。(注5で言及した「外国語の誤訳」説もこうした古典中国の使用実態から「的を得る」「正鵠を得る」を否定したものです)
[注16]
もちろん江戸時代のわずかな用例だけで本来は誤用でないと結論づけるのは早計かもしれません。しかし、1970年代まで多くの書き手によって自然に用いられていたことが明らかになった以上、「古い用例も誤用として使われていた」と主張するのであれば、それを裏付ける歴史的根拠も求められます。そうでなければ、現代の規範意識を過去へ投影しただけの議論になり、他の慣用句に当てはめたときに矛盾を生んでしまったり、仮説の域を出ない指摘にすぎなくなったりするでしょう。
[注17]
もちろん伝統性や円滑なコミュニケーションのために言葉を守る姿勢は大事です。言葉の変化を許容する立場も乱れと律する立場も、適切なコミュニケーションを行いたいという前提に立っているのは同じでしょう。そういう点では過剰に原義や原典などに拘泥する必要はないと考えます。
ことばの変化を「乱れ」と批判する人たちは、ことばは社会や文化を反映するのだから、「ことばの乱れ」は「社会の乱れ」「倫理の乱れ」であるという人もいる。このような人たちが「正しい日本語」とか「日本語のあるべき姿」と言う場合、それは自分たちが育った時期に使われていたことばや表現のことを指している場合も多い。私たちは自分が生まれ育った時代に「規範」とされてきたものを正しいことばとしたがる傾向があるからだ。
上記の社会言語学の教科書の一節はやや主観的ながらもこうした状況をうまく表していると思います。ある程度の言葉の変化は容認しつつも「的を得る」に対して「古い用例を取り上げて正当化するな」と反論したくなる気持ちも「自分が生まれ育った時代」の「規範」があるからではないでしょうか。
飯間氏が改訂で苦労したように、こうした記述主義と規範主義の二項対立の関係を乗り越えて、言語の実態と規範意識のバランスを総合して判断する必要があると私は考えます。
[注18]
まとめサイトで〈「的を得る」という表現が正しくなっていたことが判明〉というふうに書かれていますが、違和感があります。『三省堂国語辞典』には「~が正しい」という言い方もほとんどありません。私個人としては、ことばを正誤の観点ではなく、誤解が起こらないかどうかで評価したいと思います。
— 飯間浩明 (@IIMA_Hiroaki) March 7, 2015
繰り返しますが、『三省堂国語辞典』は誤用説を「撤回」しただけであり、正しいと断言していないことに注意が必要です。こうした違和感は飯間氏本人もtwitter(現:X)述べています。
余談
本文は「的を得る」のTシャツを着ながら調査・執筆しました。
