【ランニング小説】ここから先は、私の時間 第14章 初めてのトラック
ここから先は、私の時間
第14章 初めてのトラック
9月も後半になると、東京の空気の密度は、誰の目にも明らかな変化を見せ始めていた。
朝の駒沢公園を駆け抜けていても、あの真夏のターマックから立ち上るような息苦しい熱気は綺麗に影を潜め、コースを縁取る大樹の木陰を吹き抜ける風には、冷ややかな秋の香りが微かに混じるようになっていた。
そして何より、美由紀の張り詰めていた心を安堵させていたのは、他ならぬ彼女自身の右膝だった。
あれほど夜ごとに彼女を悩ませ、スマートフォンのチャッピーや検索窓を埋め尽くしていたあの忌々しい外側の痛みが、ここ2週間ほどの練習において、全く顔を出さなくなっていたのだ。
もちろん、喉元を過ぎれば熱さを忘れるような愚行は犯さなかった。走る前には入念な動的ストレッチを施し、どれほど仕事で疲れて帰宅した夜でも、入浴後のフォームローラーによる筋膜リリースと湯船でのディープな温浴だけは、歯磨きと同じレベルの絶対的な規律として継続していた。かつては面倒極まりないと感じていたセルフケアの全工程が、今や彼女の日常生活のOSに、完璧に組み込まれていたのだ。
その地道で泥臭い積み重ねこそが、右膝の靭帯の摩擦を防いでいるのだという事実を、美由紀は自らの肉体をもって実証していた。15kmのロングランを消化した週末も、右膝は沈黙を保ったままスムーズに駆動し、翌朝のベッドの中でも、あの不快な違和感がぶり返すことは一度もなかった。そのことが、彼女にとっては世界の何よりも嬉しさに満ちた喜びだった。
故障というものの深さを知ったからこそ、五体満足で地面を蹴ることができる日常の尊さが、皮膚感覚で理解できる。
東京レガシーハーフマラソン本番まで、残された時間はあと3週間。
ただ「歩かずに最後までゴールに辿り着く」という最低限の完走プランであれば、今の自分の走力とコンディションなら、おそらく高確率で達成できるだろう。最近の美由紀は、そんな冷静な計算ができるまでに成長していた。
しかし、一つの目標が現実味を帯びて視界に収まった瞬間、人間の胸の奥からは、より貪欲で激しい「次なる欲望」が首をもたげるものだ。
せっかく、あの国立競技場の美しいピッチからスタートする一大舞台に立つのだ。ただトボトボと制限時間内に滑り込むような走りではなく、気持ちのいいスピードでフィニッシュゲートを駆け抜けてみたい。そんな、純粋で熱い欲が、彼女の精神の器を満たし始めていた。まだ一度もマラソンを走ったことがないのに。
そのトリガーとなったのは、やはり、SNSの憧れの女性ランナーの投稿だった。
秋のシーズン開幕を控えたある日、彼女がアップしたトレーニングログの無機質な文字列に、美由紀の目は吸い寄せられた。
「400m×10本」
インターバルトレーニング。その単語自体は、様々なランニング解説書を読み漁る中で、知識としては頭の片隅に存在していた。しかし、それはどこか陸上競技部や、エリートランナーたちだけが足を踏み入れることを許された、聖域のメニューだと思い込んでいた。
その投稿のキャプションには、短いけれど、美由紀の胸を激しく叩く言葉が並んでいた。
『心肺の最大出力を引き上げ、スピードの絶対的な基礎体力を鍛え上げるための、最もシンプルで最も過酷なメニュー。途中で肺が引き裂かれそうになり、胃の中のものをすべて吐き出したくなるほどの苦しさを伴うが、この地獄を潜り抜けた者にしか、マラソンの後半で粘りきる真の強さは宿らない』
コメント欄を開くと、全国のシリアスランナーたちからの、生々しい悲鳴と歓喜の声が溢れていた。「今日も織田フィーで全部出し切りました」「8本目で心が折れたけれど、やりきった後の充実感は最高です」。そこに並ぶ言葉のすべてが、強烈な熱量を持っていた。
美由紀の胸の奥で、小さな、けれど確実な火花が散った。
挑戦してみたい。もっと速く、あの数字の向こう側にある景色を見てみたい。その純粋な欲望は、もう誰にも止められなかった。もちろん、今の自分には無謀なチャレンジかもしれない。しかし、もしあの過酷なメニューの先に、昨日の自分を圧倒的に置き去りにできる新しい自分が待っているのだとしたら、その門を、一度でいいから自分の足で叩いてみたいと思ったのだ。
さらにリサーチを進めると、渋谷の代々木公園のすぐ隣に位置する「織田フィールド(代々木公園陸上競技場)」という本格的な400mトラックが、特定の日に一般の市民ランナーに向けて広く無料開放されているという。そこには、トップアマチュアから、仕事帰りのサラリーマン、夜間練習に励む学生まで、ありとあらゆる階層のランナーが集結しているという。
正直に言えば、その門をくぐる想像をするだけで、美由紀の心臓は気後れで押し潰されそうになった。陸上経験ゼロ、走り始めてまだ数か月の自分が、そんな剥き出しの闘争心が渦巻く聖地へ足を踏み入れていいのだろうか。場違いだと笑われ、高速のランナーたちの邪魔になって怒鳴られるのではないか。そんなネガティブな妄想が頭をもたげる。
しかし、今の美由紀は、かつての流されるままの自分ではなかった。
「気になるなら、怖いからこそ、行ってみればいいじゃない。私の人生のハンドルを握っているのは、私自身なんだから」
そう思考を切り替えると、彼女は迷うことなく、大きめの仕事用バッグの底に、お気に入りのマイシューズとランニングウェアを詰め込んだ。
9月の最後の水曜日。会社の「ノー残業デー」。
時計の針が定時の定刻を告げると同時に、美由紀は大手町のオフィスを鮮やかに脱出した。周囲の同僚たちが驚くほどの素早さでデスクを片付け、千代田線のプラットフォームへと滑り込む。千代田線の車内で電車の窓に映る自分の顔は、これから過酷な取引に向かうトレーダーのようでもあり、あるいは初めての冒険に胸を躍らせる子供のようでもあった。
代々木公園駅を降り、夜の帳が下り始めた公園の坂道を早足で進む。到着したのは、午後7時少し前だった。
競技場を囲む巨大な水銀灯の照明が、白く、神々しいほどの光を放っていた。その織田フィールドの入場ゲートをくぐった瞬間、美由紀はあまりの光景に、息を呑んでその場に立ち尽くした。
(こんなに沢山のランナーがいるのか)
そこに広がっていたのは、彼女のこれまでの人生では一度も目撃したことのない、純度100%の「陸上競技場」だった。
お揃いのユニフォームに身を包んだ大学生の集団が、地を震わせるような足音を響かせてトラックを疾走している。タイトなランニングタイツを履いた社会人ランナーたちが、鬼気迫る表情でランニングウォッチをにらみつけながら、1秒を削り出すために四肢を駆動させている。白髪交じりのベテランランナーも、美由紀と同世代に見える女性たちも、誰もが皆、ストイックに己の限界と対峙していた。
陸上競技場を支配する、シューズやスパイクが全天候型トラックを引っ掻く独特の摩擦音、荒い吐息、そしてピンと張り詰めた濃厚な空気。皇居の華やかな夜景ジョグとも、駒沢公園の穏やかなファミリーランとも、根本的に性質が異なっていた。
美由紀は、緊張していた。恐る恐る遠慮がちに、トラックの外側のエリアの隅で一人慎重にウォーミングアップを開始した。いつもどおり念入りにストレッチに打ち込む。周囲の視線が自分に向いているわけではないことは分かっていた。誰もが皆、自分の練習計画の数字をクリアすることだけに脳のリソースを割いている。その空気の中に身を浸すうちに、彼女の緊張は、心地よい戦闘モードへと昇華されていった。
そして、いよいよ孤独なインターバル走のスタートラインへ向かう。
今日のメニューは、400mのトラックを、自分の限界に近いスピードで1周疾走し、その後200mを極めてゆっくりとしたジョギングで繋ぎながら呼吸を整える。それを、計8本。様々な文献を参考に、今の自分の走力に合わせてギリギリやりきれるはずだと弾き出した、自作のプログラムだった。
ランニングウォッチのタイマーをセットし、インコースのレーンへと一歩を踏み出す。沢山のランナーが走る中、隙を狙ってボタンを押すと同時に、美由紀は地を蹴った。
速い。自分の感覚のギヤが、一気にトップへと叩き込まれる。駒沢公園のロングランでは絶対に使うことのなかった、太ももの裏側の大きな筋肉が爆発的に駆動し、肺が一瞬で大量の酸素を求めてくる。スピードを出しているはずなのに、前のランナーの背中はぐんぐん遠のいていき、後ろからはどんどん抜かれていく。最初の1本を終えた時、美由紀は「これがあと7本もあるのか」と、その設定の過酷さに早くも目眩を覚えた。
2本目、早くも呼吸システムがオーバーヒートを起こし始め、喉の奥がカラカラに乾いていく。200mのレストジョグなど、一瞬の瞬きのように短く通り過ぎてしまう。
3本目、脚が、まるで泥の沼に足を踏み入れたかのように重くなり始める。ジョギングの時の滑らかなストライドとは程遠い、肉体のすべての出力を絞り出すような泥臭い走りに変わっていく。
4本目、吸い込んでも吸い込んでも酸素が足りず、肺の細胞が熱い鉄板を押し当てられたかのように焼けつく。さすがにやばい、レストジョグ前に止まってペットボトルの水を少し口に含む。60秒余計に休む。
5本目、「もうやめたい」。頭の中で、誰かがはっきりとそう囁いた。
右側のレーンを、信じられないほどのスピードと、美しいフォームを維持したまま、学生ランナーたちの集団が風のように美由紀を置き去りにしていく。社会人のシリアスランナーたちも、まるで痛覚を失ったマシーンのように、淡々とラップを刻み続けている。この広い競技場の中で、自分だけが醜く顔を歪め、死に物狂いで喘いでいるような、圧倒的な敗北感に襲われそうになった。
だが、まさにその時だった。
朦朧とする意識の底から、美由紀の脳裏に、あの最初の皇居ランの記憶が鮮やかにフラッシュバックした。
半蔵門の長い上り坂の途中で、情けなく足を止め、自販機の光を見つめながら絶望していたあの日。たった5kmの距離すら、宇宙の果てのように遠く感じていたあの頃の自分。
その頼りなかった過去のポートレートと、今、このライトアップされた陸上聖地のトラックで、時速十数キロのスピードで四肢を躍動させている現在の自分の姿を重ね合わせた時、美由紀の胸の奥から、湧き上がるような烈しい感情が噴き出してきた。
「私は、あの頃の私じゃない。私は、自分の足でここまで歩いてきたんだ。だったら、あと3本くらい、やり切ろう」
6本目。もはや、大腿部の筋肉の感覚は麻痺し、一歩ごとに激しい乳酸の痛みが襲いかかってくる。呼吸は完全に限界のレッドゾーンを指し示し、目に入る汗を拭う余裕すらなくなっていた。それでも、彼女の足の回転は止まらなかった。腕を激しく振り、体幹のコアで地面を抑え込み、ひたすら前方を見据えて走った。
そして、ついに迎えた最後の8本目。
200mのレストを終え、ラストの疾走へと移る瞬間、美由紀の唇の両端は、不思議なことに、上へと吊り上がっていた。彼女は、極限の苦痛の中で、確かに笑っていたのだ。
肺は引き裂かれそうで、心臓は胸の肋骨を突き破らんばかりに爆発的なビートを刻んでいる。全身の全細胞が、今すぐ運動を停止しろと悲鳴を上げている。
それなのに、頭のてっぺんから爪先の先まで、信じられないほどの多幸感と、生への純粋な実感が、マグマのように身体を駆け巡っていた。
苦しい。本当に死ぬほど苦しい。でも、これ以上ないくらいに、楽しい。
他人の目を気にする必要も、会社の理不尽な評価シートに怯える必要もない。ただ、自分で設定した過酷なハードルに、自らの意志だけで肉体を動かし、それを1ミリずつクリアしていくという剥き出しの真実。それこそが、普段味わうことのできない、ランニングというスポーツが持つ魔力だった。
ラスト100mの直線を、美由紀は残されたすべてのエネルギーを振り絞って駆け抜けた。フォームの美しさなど、もうどうでもよかった。ただ、前へ。1秒でも早く、あの白線を越える。
フィニッシュラインを通過した瞬間、彼女は時計のボタンを叩き、そのままトラックの内の芝生の上へと、崩れ落ちるように膝を突いた。
四つん這いになったまま、肩を激しく揺らして酸素を貪り吸う。手首の脈拍は、これまでの人生の最大心拍数を叩き出しているのが分かった。全身から噴き出した汗が、ボタボタとグリーンの芝生を濡らしていく。
そして、芝生に寝転がり仰向けになり空を見上げた。
(マジでやばい。でもやり切った)
その激しい疲労の底から湧き上がってきたのは、胸が張り裂けんばかりの圧倒的な勝利の余韻だった。
8本。1本も間引くことなく、途中で心を折ることもなく、完璧にやりきった。他人の命令ではなく、自分で決めた地獄を、自分の足で最後まで走り抜いたのだ。その厳然たる事実が、彼女の胸の奥に、ダイヤモンドのように強固な新しい自信の楔を打ち込んでいた。
帰り際、スタジアムの水銀灯の光に照らされた、美しい400mの楕円形のトラックを、美由紀は誇らしげに振り返った。
トラックの上では、まだ夜の練習に励むランナーたちが風のような影を落とし、シリアスな大人たちが列をなして走っている。当然のことながら、この聖地にいる誰一人として、美由紀という名もなき初心者の走りに注目している者などいなかった。
だが、それでよかった。誰かに褒められるためでも、拍手を浴びるためでもない。
自分でターゲットを定め、自分で肉体を追い込み、自分でそれをやり遂げた。その絶対的な自己完結性こそが、今の彼女にとって何よりも価値のある勲章だったのだ。
原宿駅へ続く、夜の静かな並木道を歩きながら、美由紀はふと、夜空を見上げた。秋の澄んだ星が、ビルの狭間で微かに輝いていた。
東京レガシーハーフマラソンの号砲まで、あとわずか。
心のどこかには、依然として未知の距離に対する怖さや、右膝の再発への不安が潜んでいる。しかし、今の彼女の精神の器を圧倒的に満たしていたのは、それらのネガティブな感情を綺麗に駆逐するほどの、震えるような「歓喜への期待」だった。
早くあの舞台に立ちたい。自分の身体が、あの東京の真ん中でどれほどの走りを魅せてくれるのか、確かめたくて仕方がなかった。
そして、その極限の苦痛の先にしか存在しない「愉悦」を身体が覚えてしまったことこそが、美由紀という一人の会社員が、ランニングという奥深い底なしの世界に、完全に、そして決定的に足を踏み入れてしまった何よりの証明だった。彼女の視線は、もうただの初心者のそれではなく、本物のランナーの鋭さを帯び始めていた。
次の話 第15章:ワクワクが止まらない
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いつもありがとうございます。書きたいこと徒然なるままに書きます。