ジュールは笑わない第10話「触れかけた指先」
セレナは、もう自分の感情に、名前をつけないでいることに疲れ始めていた。
けれど、名前をつける勇気もなかった。
だから、せめて――と、セレナは思った。
言葉にできないなら、せめて、そばにいる時間だけでも増やしたい。
その日、セレナはジュールを、謁見でも、偶然の遭遇でもなく、はっきりと呼び出した。
場所は、城の奥にある小さな中庭。
公務とは関係のない、私的な時間として。
「陛下に、お呼び立ていただけるとは」
ジュールは、いつもの道化の口調で現れた。
けれど、その目には、わずかな緊張があった。
「畏まらなくてよい。今日は、ただ話がしたいだけ」
セレナは、庭の石段に腰を下ろした。
ジュールは、少し離れた場所に膝をつこうとする。
「そこでは、話しづらい。もっと、近くに」
ジュールは、一瞬迷ってから、セレナの隣、少し距離を置いて腰を下ろした。
これまでの距離とは、明らかに違う近さだった。
しばらく、他愛のない話が続いた。
庭の花のこと、天気のこと、城の中の些細な噂話。
セレナは、ジュールの話し方が、謁見の間とは少し違うことに気づいた。
道化としての誇張が薄れ、素に近い言葉が混じるようになっていた。
「そなたは」
セレナは、ふと尋ねた。
「本当は、どんな声で、笑うのだろう」
ジュールの言葉が、止まった。
「……分かりません。忘れて、しまいました」
その声は、いつもの道化の声ではなかった。
低く、静かで、どこか痛みを含んでいた。
セレナは、その言葉に、胸を締めつけられた。
気づけば、手が、ジュールの手の方へと伸びていた。
指先が、触れる寸前で。
ジュールが、わずかに身を引いた。
「……申し訳、ございません」
セレナは、伸ばしかけた手を、静かに引いた。
胸の中に、痛みに似た何かが広がった。
「いいえ。私こそ、済まなかった」
二人の間に、気まずい沈黙が流れた。
けれど、それは嫌な沈黙ではなかった。
むしろ、これまでのどの沈黙よりも、正直な沈黙だった。
夕暮れの光が、庭を薄紫に染めていく。
セレナは、その光の中で、ジュールの横顔を見つめた。
言葉にできないことが、ここにはある。
それでも、確かに、何かが交わされた気がした。
触れられなかった指先の距離が、これまでのどんな会話よりも、多くを語っていた。
