あの日の選択〜私が実家を飛び出した理由〜

※このnote記事はカワムラさん主催の「ちび創作大賞」への応募作です。


⚠️先に注意書きというか、前置きをさせていただきたい。

ここに書くのは私が経験した事実、ノンフィクションになる。
読む方によっては不快感を覚えると思う。

だからもし、読むのがキツいと感じたらそのまま記事を閉じてほしい。


私の一番傍にいた人間は、家族思いで仕事熱心、どこに出ても理想の父親だ。
…そう信じていた。信じていたかった。

実際には自分本位で身内すら平然と見下し、気に食わない事があれば怒鳴り散らす、救えない男だった。

母さんは「子供のまま大きくなった面倒くさい人」と言っていたが、まさしくその通りだと思う。

左利きの私を矯正する為に無理やり箸を右手に持たせての夕食、それでいて食べるのが遅いと家から締め出された。

それが覚えている一番古い記憶。

動物園やテーマパーク等、楽しかった思い出がない訳では無い。
けれど、その中に彼の姿はない。

思い出すのは、決まって不機嫌な顔か、嘲笑する顔のどちらかだ。


それでもあの頃の私は、見放されたくなくて、認めてほしくて”いい子”でいようとしていた。

今なら毒親育ち、なんて言われるのだろうか…

中学・高校と将来を考える頃になっても、心を占めていたのは恐怖心と寂しさだった。

進路相談で記述した内容も、自分で考えた…とは言えず、変な目で見られたくなくて当たり障りなく書いた。


保育園に通っていた時、なりたい自分として絵に描いた自分を覚えている。
時にバスガイド、時に歌手、先生に褒められたのが嬉しくて、画家に憧れた時もあった。

自分の声で、言葉で、表現で相手の心を動かす…そんな事ができたら良いなと考えていた。

家に持ち帰り、家族に熱弁したこともあった。
「大きくなったら、こんなふうにだれかを楽しませたい!」

そこに無慈悲に”現実”を突きつけてくる言葉。

「そう簡単になれるもんじゃない」
「人の為の仕事なら他にもある」

そうして示されたのは、”社会の物差し”で優良とされる自分が関心を持たない職業ばかりだった。

「なんでそんなこと言うの!?」そう反論できるハズだった。
だって本気だったから。

でもできなかった。
反論すればどうなるか知っていたから。

だから口を閉ざして我慢する選択しか選べなかった。


そんな中でひとつだけ、自分で考えて自分で決めた選択があった。


声優になる

自分の声で表現して誰かに届ける。
かつて憧れた役職だった。

成功するかは分からない。
それでも挑戦したかった。

専門学校を調べたり、貯めたお小遣いでこっそり体験入学に参加したり、学費のやりくりを模索したり…
もちろん自分で決めたことだから、自分のお金だけで通うつもりでいた。


けど、それらがバレた時、対応は今までにないくらい冷たかった。

「身勝手がすぎる」
「下に2人いるんだ、立場をわきまえろ」

結局試験を受け、地元の私立大学に通うことになった。
が、1年で退学することになる。

本来学びたかった内容じゃなくて、勉学に集中出来なかったのもある。
それよりキツかったのは、大学生活そのものだった。

実家の最寄り駅まで片道30分、始発に近い時間に乗り、夏でも日が落ちた後に家に着く。
寮や下宿という選択肢があったにも関わらず、それすら許されなかった。

当時は「下の子の進学の為にお金を貯めたい」とか説明された気がする。

色々と抑圧された結果、精神を病み退学することになった。
いわゆるニート、それでもメンタルクリニックにすら通院させてもらえなかった。

泥を塗る真似はさせたくなかったのだろう。
自分の子供なのに。


それでも何とか持ち直せたのは、自分で考えたロードマップを捨てずにいたから…だと思う。

「ここにいたら心が力尽きる…」
歪(いびつ)でも壊れかけでも、そう思考する頭だけは残っていた。

退学手続きのあと、祖父母の農作業を手伝ったり、地域の短期バイトに応募したりして資金を貯めた。
ずっと貯めていたハズのお年玉は、家を建てる資金に使われて残っていなかった。

足りない分は新聞奨学生制度を利用してまかなうつもりでいた。

今思い返しても、あそこまで行動力が爆発していたのが信じられない。
事実、様々な要因で制度を受けるまでめちゃくちゃ粘っていたのを覚えている。


履歴書を書いて、専門学校の試験に向かうことになった。
もちろん交通費は自腹。

試験当日は、奇(く)しくも母さんが手術を受ける日と重なった。
母さんは心臓の持病で入院しており、家族単位でお見舞いに足を運んでいた。

手続きに必要な書類は保護者の署名が必要、だから一人で顔を出すことも多かった。

邪魔が入らず、互いに本心をぶつけられる…
母さんは、選んだ進路を肯定してくれた。

人工心肺を用いた大掛かりな手術だと事前に聞いていた。
お互いに先の見えない状況だった。

だから、「お互いに頑張ろう」ってエールを送りたかった。
連絡先から番号を選んで電話をかけた。

…それなのに、

「余計な電話をかけるな」

ツー、ツー、ツー…


母さんから電話を取り上げ、一方的に喋って一方的に切った。

やり取りをしたのは都内の駅のホーム。
通過電車のアナウンスが鳴る。

いっその事、このまま…


踏み出すことは、しなかった。
想いを無下(むげ)にしたくない…それだけだった。


母さんの手術は無事に終わり、程なくして退院することになった。

その少しあと、私の元に合格通知が届いた。
あとは入学に向けて上京の準備を進めるだけ。


出立(しゅったつ)の前、2人きりでスナックに行った。

「自分で決めたなら最後までやりきれ」
「辛くなったらいつでも戻って来い」

それっぽい言葉を並べられても、もう何も感じなかった。
酒を片手にカッコつけても、どこまでも身勝手な男だと思った。

今も帰省しているが、それは母さんの為だ。


それから上京、新聞配達をしながら学業に勤しみ卒業、現在に至る。

物理的に離れることができて、上手くいった…訳じゃない。


何か行動する時、顔のない誰かの視線が刺さる。
意見を言う時、否定の言葉が脳裏をよぎる。
嬉しさ・悲しさ、感情を押さえつけようとする圧を感じる。

自分で選んで進むと決めた道のハズだった。
それなのに、自分自身をさらけ出すことが出来なかった。

夢を描いていた頃と比べて、臆病で弱腰で、それでいて変にプライドが高い人間になっていた。

まるでアイツと一緒じゃないか…

自己嫌悪から周囲を傷付けるのが常になっていた。

そうして進んだ道で挫折、通院しながらも生活している。


もしあの日…
駅のホームで一歩を踏み出していたら、どれだけ楽だったんだろう?

壊れた心で実家に留まり続ければ、今より苦しくなかったのでは?

結局どうすれば良かったのか…分からないままでいる。

でも…生きている。
心を潰さず、命も投げ出さなかった。

あの時の自分と向き合い、ここに書き出せている。

周りを傷付けたことも正面から受け止めている(と思う)。

感情をせき止めず、言葉に出せている。

そして今、感じたこと・思い浮かんだモノを文字として綴っている。
描いていたイメージとは違うけど、自分の言葉・表現で発信している。

そんな中、見せたくないと思っていた傷口を晒してみる。

時間も労力もめちゃくちゃかかった。
書いてる途中、何度も苦しくなって中断した。

なんでそんなことをしようと思ったんだろう?


あの日、駅のホームから見た空は真っ白だった。
同じように、私の頭の中も真っ白だった。

一歩間違えれば紅く染っていたかもしれない。

それでも踏みとどまった。
踏みとどまることができた。

だから今こうして言葉を書き綴っている。

先のことは分からないし、恐怖心や寂しさは相変わらず隣で口出ししてくる。


ただ、生きることを諦めなかった自分を赦してあげたい。


たくさんの人に迷惑かけてきた。

取り返しのつかない失態もした。

反面教師が嫌で自分の首を絞めた。

それでも生きてきた。


もしあの日の自分に言葉を伝えることができたなら…

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