見出し画像

薩長クーデター国家としての明治維新と、戦前日本の抑圧の系譜

三浦半島を歩いていると、どうしても「明治維新って本当に何だったのか」という問いに戻りたくなります。教科書では「近代化の出発点」として語られるこの出来事は、全体をつなげて見直すと、まったく違う顔を見せてくるからです。

 まず押さえておきたいのは、明治維新が「民衆の市民革命」ではなく、薩摩・長州を中心とした武士層によるクーデターだった、という点です。公武合体や公議政体の案を押しつぶし、宮廷クーデターと武力行使で徳川政権を排除したのは、あくまで薩長連合という一部エリートの政治行動でした。
 その後に成立した明治政府の中枢は、薩摩・長州出身者を中心とする「藩閥政府」「明治オリガーキー」と呼ばれる体制で、元老たちは天皇の名を使いながら首相や基本政策を事実上決めていきます。ここに、薩長主導による寡頭支配国家の骨格が最初から埋め込まれていたと言えます。

 一方で、この藩閥国家は、憲法や議会をまったく否定していたわけではありません。自由民権運動に押されて、明治政府は大日本帝国憲法を制定し、帝国議会を開設しますが、主権はあくまで天皇にあり、その設計そのものが「権威主義的な立憲制」として組み立てられていました。
 言論・結社・集会の自由を求めた自由民権運動に対しては、新聞紙条例、出版条例、集会条例などで弾圧しつつ、部分的に譲歩して憲法と議会を与えるという「アメとムチ」の統治が行われました。結果として、「形式上は立憲・議会制だが、実質は藩閥と官僚が上から統制する国家」という二重構造が、明治の段階ですでに固定されていきます。

 この構造は、大正・昭和へとそのまま流れ込みます。大正期には一時的に「大正デモクラシー」と呼ばれる政党内閣の時代が訪れ、普通選挙法の成立など「下からの民主化」の波もありましたが、その同じ時期に治安維持法が制定され、「国体変革」思想の徹底弾圧という強力な枠がはめられました。
 昭和に入ると、軍部と官僚がこの枠組みをフルに活用し、国家総動員体制の中で思想・言論・生活を隅々まで統制していきます。戦時下の隣組や監視網に象徴されるように、国家が個人の内面にまで入り込む「総力戦体制」は、明治以来の天皇制権威主義と薩長以来の官僚・軍事エリート支配が合流した帰結でした。

 ここで三浦半島に目を戻すと、横須賀やその周辺には、別の近代への可能性も刻まれていました。徳川慶喜や松平春嶽の公議政体構想、小栗上野介が横須賀製鉄所などを軸に描いていた「徳川近代」の設計は、本来であれば、公武・諸侯・官僚が合議する、より立憲的で穏やかな連合政権へと育ち得たものだったからです。
 しかし実際には、薩長はクーデターによって政権を奪い、小栗のような徳川近代の担い手を物理的に排除しつつ、その設計図だけを自分たちの手柄として継承しました。こうして、日本の近代は「市民革命」からではなく、「薩長藩閥によるクーデター国家」として産声を上げ、その上に戦前まで続く抑圧の装置が積み重ねられていったのだと、私は考えています。

 この視点から三浦半島の風景を眺めると、横須賀の海辺に残る遺構の一つ一つが、「もう一つあり得た近代」と、「薩長国家が選んだ道」との分岐点として見えてきます。戦前日本を貫いた抑圧の系譜は、その起点としての明治維新と、ここ三浦半島に刻まれた徳川近代の断片を、同時に見つめ直すことで、初めて立体的に浮かび上がってくるのではないでしょうか。



いいなと思ったら応援しよう!