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言葉にされなかった評価、言葉にされなかった距離

言葉にされなかった評価、言葉にされなかった距離

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桜が咲くころになると、人は少しだけ感傷的になる。まして、異動の季節ならなおさらだ。

この春、私はひとつの配置換えを経験した。制度としては何でもない。辞令が出て、引き継ぎをして、次の部署で働き始める。組織に文句を言う筋合いはないし、上司を責める立場でもない。頭ではそう分かっている。

それでも、心のどこかが引っかかっていた。

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ある引き継ぎの場面

異動を告げられたのは、突然のことだった。しかもそれを言ったのは、より上の上司だった。直属の上司は、自分からは何も言わなかった。

引き継ぎについても、私のほうから声をかけなければならなかった。「どうしましょうか」と聞くと、彼は少し間を置いてから、こう言った。

途中になっている業務があれば、メモにしてくれ。

それだけだった。

その言葉を聞いたとき、体温が少し下がるような感覚があった。長く一緒に仕事をしてきた相手への言葉として、それはあまりに素っ気なかった。しかしそれ以上に、その素っ気なさの中に、もっと大きな何かが透けて見えた気がした。

振り返れば、その少し前から、私の疑問や問いかけに対して、苛立ちを滲ませることが増えていた。応じないまま会話を切り上げることも、あった。そのことに気づきながら、私はどこかでそれを、一時的な忙しさや体調のせいだと読み替えていた。

めでたかった、と今は思う。ただ、そのめでたさを、単なる幼さだとは思わない。人を信じて仕事をしていた、というだけのことでもあるからだ。

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如才なさと、泥臭さ

その上司を一言で言えば、如才ない人だった。

仕事は正確で早く、礼儀正しく、言葉も態度も立場も、常に最適な場所に収まる。感情を表に出さず、弱みを見せない。頼られれば心よく応えるが、自分から開くことはしない。周囲から厚い信頼を得ていたのは、そういう在り方の結果だったと思う。

私は、その正反対だった。

コミュニケーションをとりながら共有して進めることを好む。考えながら話し、話しながら考える。嫌なことは嫌と言うこともあれば、受け流すこともある。あっけらかんと口にしてしまうことも多い。泥臭い、という言葉が、おそらく周囲の目に映っていた私の姿だったと思う。

如才ない人間にとって、泥臭い人間は両義的な存在になりやすい。アイデアは面白い、仕事は信頼できる。しかし一緒にいると、自分が精緻に維持してきた「足を踏み外さない在り方」が、相対化される感覚がある。私は年上の部下でもあった。年上の、かつ動き方の読みにくい部下は、それだけで余分な緊張を生む存在だったかもしれない。

ただ、彼はそういう感覚を言葉にしなかった。如才ない人間は、そういう感覚を言葉にしない。それもまた、如才なさの一部だからだ。

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本物だった協働と、残る認知的不協和

しかし、関係が単純な拒絶だったとは、やはり言い切れない。

他部署の非効率なやり方への疑問、DXのアイデア、組織の在り方についての問題意識。そういったことを、私たちは率直に語り合っていた。彼は、私が折々に出すアイデアを快く認め、採用してくれることもあった。その時間は本物の協働だったと思う。年下だったけれど、信頼できる同僚であり上司だと感じていた。

だから今も、認知的不協和が少し残っている。

「彼は私を疎んじていた」という説明では、あの時間の手触りが説明できない。提案を採用してくれた記憶が、そのたびに引っかかる。矛盾しているように見えるが、実際には矛盾していないのかもしれない。

貢献への評価と、その人への快適さは、別の軸だ。アイデアを認める、提案を採用する、それは仕事の成果への評価だ。一方、その人のスタイル、開かれ方、予測しにくさ、一緒にいるときの感触は、別の評価軸だ。前者が高くても、後者に居心地の悪さを感じることは、論理的に矛盾しない。

おそらく彼は、私という人間のそばにいることの、ある種のコストを、今の立場では支払い切れなくなっていたのだと思う。それは冷酷さではなく、限界だったのかもしれない。アイデアは欲しい、しかしそのアイデアを持ってくる人間の在り方が、自分の管理の外にある、という感覚が、静かに蓄積していたのではないか。

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批判できても、伝えられなかった

私たちの間には、共有していたものがあった。組織のトップへの批判だ。

メンバーを大切にしない。議論をしない。権威的で、前例を踏襲するだけで、意味や効果を考えない。そういう振る舞いへの疑問を、私たちは語り合っていた。その批判は本物だったと思う。

しかし今振り返ると、その批判の言葉と、私への距離の取り方の間に、大きな溝があった。

組織の問題は語れる。しかし目の前の部下との関係の中で生じた自分の違和感は、最後まで言葉にされなかった。自分から異動を告げることも、引き継ぎを申し出ることも、最後までしなかった。それは戦略的な沈黙というより、そうすることができなかった、ということではないかと思う。

批判的な言葉を持つことと、目の前の人間に自分の本音を伝えることは、まったく別の能力だ。組織を外から見る目と、関係を内側から動かす力は、同じ人の中に揃うとは限らない。

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なぜ私は、信じていたかったのか

問いは、相手から自分に向かう。

なぜ私は、この上司をそれほど信頼していたのか。

思い当たることがある。彼は、組織の構造を批判できる人だった。そういう人は、物事を外から見る目を持っている、と私は信じていた。構造を見抜けるなら、人間関係も、より透明に見えるはずだ、と。だから、この人とは本音で話せる、価値観が通じている、と感じていた。

しかしその読みは、正確ではなかった。

批判的な知性と、他者への開かれは、別物だ。前者は思考の問題で、後者は関係の問題だ。私は前者を見て、後者まであると思い込んでいた。

私が信じていたのは、共有の深さではなく、共有の感覚だったのだろう。そこに「めでたさ」の本質があったとすれば、それは幼さではなく、誠実さの別名だったとも言える。しかし誠実さは、相手の誠実さを保証しない。そこが痛い。

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沈黙の種類について

傷の核心を、もう少し正確に言うとこうなる。

評価されていなかったことではない。認められていなかったことでもない。そのことが最後まで言葉にされなかった、という寂しさだ。

彼は、私に対してだけ本音を話さなかったのではないと思う。彼はそもそも、誰とも、そういう意味での対話をしない人だったのかもしれない。感情を抑制し、弱みを見せず、頼られれば応えるが、自分から開くことはしない。異動についても、引き継ぎについても、彼は最後まで自分からは言わなかった。それが彼の存在の仕方だった。

だとすれば、私が受けた沈黙は、私への拒絶ではなく、彼の閉じ方そのものだったのかもしれない。そのことが分かると、寂しさの種類が少し変わる。個人的に遠ざけられた寂しさではなく、そもそも対話の回路が存在しなかったことへの、もっと根深い寂しさになる。

対立よりも、むしろ沈黙によって、人は遠ざかる。

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アンカーということ

モヤモヤの正体を、もう少し別の角度から考えると、こういうことかもしれない。

職場への帰属は、制度が与えるものだけでは成り立たない。給与も、職務も、役割も、確かに人をその場所につなぎとめる。しかし実際には、具体的な誰かとの関係が、職場へのアンカーになっていることがある。この人がいるから出勤できる、この人と話せるから考えることができる、という感覚だ。制度への信頼でも、組織への帰属感でもなく、目の前の誰かとの引力が、その場所に存在する根拠になっている。

私には、そのアンカーがあった気がしていた。

全面的に当てにしていたわけではない。その人が退職しても、私がどうにかなるとは思わない程度の関係だ。しかしそれでも、信頼できると思う同僚がいる感覚は、労働契約が与えるものとは質の違う何かを、職場に付与していた。

それが、失われた。

職場に最初に来たとき、誰しもアンカーを持たない。そのままずっといる人もいるだろう。しかし私は、アンカーと感じる相手がいた気がしていた。今はその感覚が、静かに消えた。最初の何もない状態に戻ったわけではない。あったと思っていたものがなかったと知った後の状態は、最初の何もない状態とは、根本的に違う。

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意味の余剰は、幸運だった

こう書いてみると、気づくことがある。

そもそも、職場に意味の余剰を感じること自体が、稀なことだ。多くの人は、そんなものを職場に持っていないし、感じてもいない。労働契約の範囲で働き、給与を受け取り、帰る。それが大半の現実だと思う。

その意味では、私はかつて幸運だったのかもしれない。

ただ、幸運だったということは、それを失うとき、固有の寂しさが生まれるということでもある。最初から意味の余剰を知らない人の孤独と、かつてそれを持っていた人の孤独は、種類が違う。後者の孤独は、欠落として意識される。比べるものが、自分の中にあるからだ。

私が今感じているモヤモヤは、この種の孤独に近いのかもしれない。誰が悪いわけでも、何かが決定的に壊れたわけでもない。ただ、あの感覚はもう戻らないという、静かな確認だ。

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これからどうありたいのか

上司に非があるとは思わない。自分に非があるとも、きれいには言えない。関係は、意図や悪意だけで動かない。立場と、スタイルと、組織の慣性と、判断の総和として動く。そこに多くの不確実性が混じっている。

かつては一緒に汗を流した。語り合った時間は本物だったと思っている。採用してもらったアイデアも、共有した問題意識も、あの時点では確かにあった。だからこそ、今も少し寂しい。その寂しさは、関係が偽物だったから生まれるのではなく、本物だったからこそ生まれる。

モヤモヤしているのは、過去のことではないのかもしれない。これからどうありたいのか、という問いが、まだ定まっていないことへのモヤモヤだと思う。

職場にアンカーは必要なのか。それとも、アンカーへの信頼の持ち方を、少し変えるのか。今はまだ分からない。

ただ、意味の余剰を求めること自体は、弱さではないと思っている。信頼できると思う誰かがいる感覚に、労働以上の何かを見出すこと。それを失って寂しいと感じること。その感覚を持ち続けることは、この歳になっても人を信じようとする在り方の、別の言い方かもしれない。

めでたかった自分を、恥じるつもりはない。

粛々と、次の部署で働くだけだ。ただ、この春に見えたものを、見えなかったことにするつもりもない。

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