【書籍解説】「だれもが偽善者になる本当の理由」ロバート・クルツバン(AIによる分析)
【Gemini】
偽善を不可避にしたモジュラー・マインド
ロバート・クルツバン著 Why Everyone (Else) Is a Hypocrite: Evolution and the Modular Mind(プリンストン大学出版局、2010年)は、ひとつの大胆な主張を掲げている。偽善とは道徳的な欠陥ではなく、それぞれ異なる適応課題を解決するために進化した何百もの専門化された半自律的モジュール(機能単位)から構成された脳が自然に生み出す出力である、というものだ。本書によれば、統一された「自己」なるものは存在しない。あるのは互いに競合するサブシステムの集合体だけであり、意識は自分が下したわけでもない決定をもっともらしく説明する「報道官」の役割を果たしているにすぎない。
この枠組みは、自己欺瞞や道徳的矛盾、意志力にまつわる長年のパラドックスを一刀両断するものだが、同時に哲学者、認知科学者、そしてモジュール性理論の創始者本人から激しい論争を呼ぶこととなった。本書は全体として好意的な書評を受け、その機知と知的野心が称えられた。スティーヴン・ピンカーとノーベル賞受賞者ヴァーノン・スミスからの推薦文を得て、その後のベストセラー『The Elephant in the Brain(脳のなかの象)』や『Why Buddhism is True(仏教が正しい理由)』にも大きな影響を及ぼした。
第1章:サンタバーバラからモジュール性テーゼへ——ロバート・クルツバンの軌跡
ロバート・クルツバン(Robert Kurzban)は1969年9月29日、ニューヨーク州ポキプシーに生まれた。1991年にコーネル大学で心理学の学士号を取得し、1998年にカリフォルニア大学サンタバーバラ校で心理学の博士号を取得している。サンタバーバラでの指導教官は、進化心理学(evolutionary psychology)の確立に貢献した二大巨頭、ジョン・トゥービーとレダ・コスミデスだった。博士課程修了後は、アリゾナ大学経済科学研究所でヴァーノン・L・スミス(2002年ノーベル経済学賞受賞者)のもとでポスドク研究を行い、UCLAの人類学科やカリフォルニア工科大学(Caltech)の人文社会科学部門でも研究に従事した。
2002年にペンシルベニア大学心理学部に着任し、最終的には正教授に昇進。2003年にはペンシルベニア実験進化心理学研究所(Pennsylvania Laboratory for Experimental Evolutionary Psychology: PLEEP)を設立した。「PLEEP」という略称が少々間の抜けた響きなのは、おそらく意図的だろう——本人のユーモアのセンスは、本書の随所に横溢している。学部教育主任やオナーズ・プログラムの責任者も務め、研究テーマは協力行動、罰、道徳性、社会的カテゴリー化、配偶者選択、認知的モジュール性と多岐にわたり、査読付き論文100本以上、Google Scholar被引用数は約14,000件を数える。
最も引用された研究論文を見れば、その射程の広さがわかる。「Can race be erased?(人種は消去できるか?)」(2001年、PNAS、トゥービー&コスミデスとの共著、被引用数約1,384件)は、連合関係(alliance)の手がかりを際立たせると、人種カテゴリー化が弱まることを実証した画期的論文だ。「Evolutionary origins of stigmatization(スティグマの進化的起源)」(2001年、Psychological Bulletin、マーク・リアリーとの共著、被引用数約1,215件)は、社会的排除(social exclusion)が進化的な機能を果たすと提唱した。さらに2013年のBehavioral and Brain Sciences誌ターゲット論文「An opportunity cost model of subjective effort(主観的努力の機会費用モデル)」(アンジェラ・ダックワース、ジョセフ・ケイブル、ジャスタス・マイヤーズとの共著、被引用数約983件)は、当時支配的だった「自我消耗(ego depletion)」パラダイム——つまり意志力は有限の資源であり使えば枯渇するという説——に真っ向から挑戦した。この挑戦は実に先見の明があった。のちの再現性の危機(replication crisis)において、自我消耗の知見が安定的に再現されなかったからである。
制度的にも堂々たる地位を築いた。2008年には人間行動進化学会(HBES)の初代「傑出した科学的貢献に対する若手キャリア賞」を受賞し、2009年にはHBES年次大会で全体講演を行った。学会のフラッグシップ・ジャーナルであるEvolution and Human Behavior誌の編集長を務め、2017年にはHBES会長に選出されている。ピンカーは彼を「同世代の進化心理学者のなかで最も優れた一人」と評した。本書以外にも、ジェイソン・ウィーデンとの共著『The Hidden Agenda of the Political Mind(政治的心理の隠されたアジェンダ)』(2014年)や、SAGE出版から進化心理学に関する全5巻の編著(2016年)がある。2018年にペンシルベニア大学とHBESの職を辞し、その後は非営利団体での開発業務やフリーランス執筆に従事している。
第2章:議論のアーキテクチャ——本書が実際に主張していること
本書はプロローグ、全10章、エピローグ(274頁)で構成され、モジュール性の進化的基盤から道徳・政治への含意まで、段階的に議論を積み上げていく。
モジュラー・マインド仮説
クルツバンの中心的主張は、人間の心(mind)は統一された一枚岩の実体ではなく、それぞれが特定の適応的問題を解決するよう自然淘汰によって設計された、多数の専門的情報処理「モジュール」の集合体であるというものだ。彼はiPhoneのたとえを用いる。スマートフォンが強力なのは多数の専門アプリを一台に束ねているからであり、同様に心が強力なのは多数の進化したサブシステムを一つの頭蓋骨のなかに束ねているからだ、と。
異なるモジュールは異なる目的のために進化したのだから、同時に矛盾する表象(representation=情報の内的な描写)を保持しうる——これはバグではなくフィーチャー(設計上の特徴)だ。アデルソンの市松模様錯視(checker shadow illusion)が鮮やかな例を提供する。ある視覚モジュールは二つの正方形の色が異なると主張し続けるが、別のシステムはそれらが同一色であることを確認できる。分離脳患者(split-brain patients=脳梁を切断された患者)はさらに劇的な証拠を提供する。右半球が制御した行動に対して、左半球が事後的にもっともらしい説明をでっち上げる(confabulate)のだ。
重要なのは、クルツバンのモジュール性の版——「大規模モジュール性」(massive modularity)——が、ジェリー・フォーダーの1983年のオリジナルの定式化をはるかに超えている点だ。フォーダーは、周辺的入力系(視覚処理、言語処理など)だけがモジュール的であり、中枢認知(推論、信念形成)は汎用的メカニズムによって作動すると主張した。クルツバンは、自然淘汰は特定の問題に特化した解決策を構築するものであるから、道徳的判断、社会的推論、自己表象を含む認知全般にわたってモジュール性を予測するのが進化的に正しいと反論する。彼は明示的にカーネマンのシステム1/システム2の枠組みをも批判する——もしモジュールごとに一つの「システム」とするならば、2つどころか数千のシステムがあるはずだ、と。これは痛快な指摘だが、同時に、二つで足りなかったものを数千に増やしたところで事態が明快になるかどうかは別の問題である。
「報道官」メタファー
ダニエル・デネットやダニエル・ウェグナーの議論を踏まえ、クルツバンは、意識のなかの言語を生み出す部分が、ホワイトハウスの報道官のように機能していると提案する——大統領ではなく、報道官として。報道官は心の一部の動きを観察し報告するが、「政策決定に関与せず、大統領執務室の閉じたドアの向こうで下される多くの決定を知らされることもない」。報道官の主要な機能は真実の探求ではなく、社会的説得——他者に対して、その人物の最も有利な、しかし弁護可能なイメージを提示することなのだ。
報道官が、実際の理由にアクセスできない(それが別のモジュールに属しているため)決定を正当化しなければならないとき、「もっともらしい理由を推測してみる」——つまり事後的合理化(post-hoc rationalization)を生成する。現実の報道官が、何かについて本当に知らなければ、より説得力をもってそれを否定できるのと同様に、モジュールは意識的な気づきから情報を遠ざけたり、あるいは虚偽の情報を送り込んだりするよう設計されている可能性がある。なぜなら、効果的な説得は必ずしも真実を必要としないからだ。
このメタファーはまことに秀逸だが、同時に不穏でもある。つまり、この本を書いているクルツバン自身の意識もまた報道官にすぎないということになり、彼が述べていることもまた「プレスリリース」だということになってしまう。この自己言及的パラドックスについては後述する。
戦略的無知と自己欺瞞
第5章「The Truth Hurts(真実は痛い)」では、特定のモジュールは真実を追求するようには設計されていないと論じる。無知は適応的でありうる。犯罪について知らなければ通報義務はなく、病気の検査を受けなければ、故意に他者を危険にさらしたと非難されることなく、過失で済むかもしれない。
クルツバンはある巧妙な実験を引用する。参加者は5ドル(公平な配分)か6ドル(利己的な配分——相手には1ドルのみ)のどちらかを選べた。3分の2は寛大な方を選んだ。だが、自分の選択が相手にどう影響するかを知らないでいる選択肢が与えられると、約半数が情報を見ることを拒否し——そして利己的に選んだ。戦略的無知は、物質的利益に奉仕しながら自己イメージを保存したのだ。要するに「見なかったことにする」という戦略は、進化的に見て実に合理的なのである。
クルツバンの自己欺瞞の説明は、ロバート・トリヴァースの影響力のある理論とは重要な点で異なる。トリヴァースは、自己欺瞞は対人的欺瞞を促進するために進化したと主張した——自分自身の嘘を本当に信じていれば、欺瞞の手がかり(表情や声の微妙な変化など)を漏らさずに済む。しかしトリヴァースのモデルには依然として内部の「欺く者」と「欺かれる者」が存在しており、古典的パラドックスが残されている。
クルツバンはこのパラドックスを完全に解消する。異なるモジュールが異なる機能的目的のために異なる表象を保持しているだけだ。「欺く者」など存在しない——あるのはカプセル化された(encapsulated=外部から情報を遮断された)システム間の自然な情報区画化だけだ。一部のモジュールが体系的に偏った(つまり虚偽の)情報を獲得するのは、楽観的に歪められた自己表象が報道官の説得機能に資するからである。
道徳と政治——偽善はなぜ不可避か
最終章群では、道徳的判断は他者の行動を制約する機能を持つ特定の**「道徳モジュール」から生じる一方で、別のモジュールが個人自身の適応度の利益を推進する——しばしば道徳モジュールが非難するまさにその行為を通じて——と論じる。この構造的配置は偽善を保証する**。「非難と良心は異なるモジュールによって引き起こされる。言葉と行動がしばしば矛盾するのは当然のことだ。」
クルツバンはこの枠組みを政治的行動にも適用する。性的放縦、薬物、中絶といった問題に対する人々の立場は、抽象的な政治的イデオロギーよりも、進化的利益(とりわけ繁殖戦略)によってよりよく予測されると論じるのだ。本書は、同じ人間が「政府は人々を放っておくべきだ」と「政府は人々の生活に介入すべきだ」を同時に望みうるという観察で始まり、また終わる——異なるモジュールが異なる目標を追求しているという枠組みでこの矛盾が説明される。
要するに、あなたが月曜日に「健康的に生きる」と決意し、火曜日の深夜に冷蔵庫を開けるとき、それは意志の弱さではない。別のモジュールが別の問題を解決しているだけなのだ。なんとも心強い——あるいは心許ない——話ではないか。
第3章:学者たちはどう評価したか——分野を横断する書評
本書は学術雑誌や科学出版物からおおむね好意的な評価を受け、クルツバンの機知、読みやすい文章、知的野心が一貫して称賛された。
学術レビュー
ライアン・マッケイ(ロイヤル・ホロウェイ大学ロンドン)は、Evolution and Human Behavior誌(2011年)に「Isn't it ironic?(これは皮肉では?)」と題した最も実質的な学術書評を寄せた。マッケイはクルツバンの議論を「非常に好感が持てる」と評し、本書には「専門家の関心を引き啓発するに十分な新規の議論と洞察が含まれている」と述べた。とりわけ、反乱交主義的態度が胚の権利への真の関心ではなく、性的競争相手を罰する進化的傾向に由来するとするクルツバンの理論を、**「独創的で説得力があり、さらには圧倒的」**と評価した。
ただし、マッケイはいくつかの弱点も指摘した。偏った表象が社会的文脈でのみ適応的でありうるとするクルツバンの主張は「不必要に制限的」に見えるという。ポジティブ・イリュージョン(肯定的幻想)は心血管系や神経内分泌系の経路を通じて健康に利益をもたらす可能性があるからだ。またマッケイは、クルツバンが社会心理学を「しばしば科学として認識できない」と一蹴する態度が、進化心理学自体に最も頻繁に向けられる「でっち上げの物語(just-so story)」批判とまったく同じ論法を用いているという皮肉を指摘した。なるほど、書評のタイトルが「これは皮肉では?」なのも頷ける。
ピーター・カラザース(メリーランド大学)は、大規模モジュール性(massive modularity)の主要な支持者自身であり、Trends in Cognitive Sciences誌(2011年)に「I do not exist(私は存在しない)」という挑発的なタイトルで書評を寄せた。本書を「エレガントでしばしば面白い」と評し、「多くの価値ある内容がある」と述べつつ、統一的自己というデカルト的概念に対するクルツバンの挑戦を検討した。
ヘイリー・ディロンとレイチェル・カーメンはJournal of Social, Evolutionary, and Cultural Psychology(2011年)に、「クルツバンは機能的モジュールのシステムを見事に(かつしばしば爆笑ものに)分解している」と書き、本書が「分野の多くの著名な研究者によって有名なほど無視されてきた」領域に取り組んでいることを称えた。
一般科学出版物では、Nature誌が本書の議論を好意的に要約し、クルツバンは「我々は自分を"私"ではなく"我々"として考えるべきだと論じている」と紹介した。スーザン・ブラックモアはBBC Focusで称賛し、トム・ディキンズはTimes Higher Educationで本書を「新鮮だ」と評し、クルツバンが「一見合理的な立場をとったうえで、その合理性が実はある前提群のもとでのみ成り立つことを示す」手法を褒めた。Publishers Weekly誌はクルツバンの議論を「説得力があり首尾一貫している」が「包括的とは言い難い」と評した。Library Journalはクルツバンを「成長する進化心理学という分野における第一人者」と呼んだ。
最も敵対的な主要書評は、ジェリー・フォーダー本人——モジュール性理論の創始者その人——がLondon Review of Books誌(2011年4月)に寄せたもので、その破壊的なタイトルは**「Fire the Press Secretary(報道官をクビにしろ)」**だった。この書評は以下の論争セクションで詳しく扱う。
第4章:議論の三つの断層線——本書の主張が抵抗に出会う場所
論争①:大規模モジュール性をめぐる闘い——フォーダーの逆襲
本書をめぐる最も重大な知的対立は、モジュール性を知覚から認知全般へと拡張することに関わる。フォーダーの約2,400語に及ぶLondon Review of Books書評は、モジュール性理論の創造者と、その最も野心的な大衆化者との間の直接対決を代表するものだった。
フォーダーはクルツバンの本を、彼が**「心理学的ダーウィニズム」**と呼ぶもの——行動主義、フロイト主義、連合主義に続く、心からその伝統的役割(合理的思考の器官)を奪おうとする反知性主義運動の最新版——のなかに位置づけた。フォーダーの見解によれば、心と自己が存在し、その行動上の成功が心の推論の合理性によって説明されるという伝統的な知性主義的見方は堅固なものであり、「もしそれが心理学的ダーウィニズムと相容れないなら、不利なのは心理学的ダーウィニズムの方だ」というわけである。
フォーダーの核心的な反論は、中枢認知は根本的に非モジュール的であるというものだった。なぜなら、それは「等方的(isotropic)」——あらゆる信念が他のあらゆる信念に関連しうる——であり、「クワイン的(Quinean)」——信念の確証は単純性や整合性といったグローバルな特性に依存する——だからだ。完全にカプセル化されたモジュールだけで構成された心は、フォーダーの言葉を借りれば**「多頭の怪物」**であり、人間が明らかに行っている柔軟で文脈感応的な推論を遂行する能力を持たないことになる。
フレーム問題——モジュール的であるはずの心がどうやって所与の問題にどの情報が関連するかを決定するのか——は、フォーダーにとって壊滅的であり未回答のままだった。彼はクルツバンの議論を端的に**「まったく説得力がない」**と断じた。
他の批判者も異なる角度からこの反論を補強した。ジェシー・プリンツは、モジュール性が「骨抜きに」されて単なる機能的分解を意味するだけになると、「それは自明の理になる」——認知が構成部分を持つという誰も争わない主張になる——と論じた。リチャード・サミュエルズ(1998年、British Journal for the Philosophy of Science)は、大規模モジュール性を支持する二つの主要な進化的議論はいずれも失敗しており、「認知の図書館モデル」(Library Model of Cognition)——汎用処理装置+専門化された知識データベース——が進化理論と同等に両立可能であると主張した。キム・ステレルニー(2012年)やセシリア・ヘイズは、文化的学習と環境的足場かけ(scaffolding)を強調する代替的説明を提示した。デイヴィッド・ブラー(Adapting Minds、2005年)は、心が更新世(Pleistocene=約260万〜1万年前の氷河期)時代のモジュールに凍結されているという前提に挑戦し、神経可塑性(neural plasticity)の豊富な証拠を指摘した。
より最近では、ピエトラシェフスキとヴェルツ(2022年、Perspectives on Psychological Science)が、モジュール性論争全体が**「不適切な問題設定であり混乱している」**と主張した。フォーダーの意図的水準の分析と進化心理学の機能的水準の分析が混同されているというのだ。進化心理学者が「モジュール」と言うとき、それは機能的特殊化を意味する。フォーダーが「モジュール」と言ったとき、彼ははるかに厳密なもの——情報的にカプセル化され、領域固有で、強制的に発火する処理単位——を意味していた。この意味論上のすれ違いが、数十年にわたる非生産的な論争を助長した可能性がある。
つまり、ある意味では両者とも正しいのかもしれない。ただし、同じ単語で違うものを指していたために、お互いに相手が間違っていると確信していた——というのは、まさに本書が論じる「モジュール間の矛盾」そのものではないか、という皮肉がある。
論争②:自己なき自己欺瞞——哲学的パズル
自己欺瞞をモジュール間の不整合として再定式化するクルツバンの試みは、独自の哲学的論争を引き起こした。彼のモデルはロバート・トリヴァースの影響力ある説明(The Folly of Fools、2011年)に直接挑戦する。トリヴァースにとって自己欺瞞は主に他者への欺瞞を促進するために進化したものであり、心は積極的に自分自身を欺く——ある部分が意図的に別の部分を欺く。クルツバンの反論は、このモデルが自己欺瞞の古典的パラドックス(同じ主体がどうやって同時に何かを知り、かつ知らないでいられるのか?)を温存しているというものだ。代わりに、異なるモジュールが異なる機能的目的のために異なる表象を保持しているだけで、「欺く者」は関与しない、と提案する。
アルフレッド・ミール(Self-Deception Unmasked、プリンストン大学出版局、2001年)は、クルツバンとトリヴァースの両方に挑戦する第三のアプローチを提示した。ミールは、自己欺瞞は対人的欺瞞をモデルにすべきではない——それは動機づけられた偏向的信念(motivated biased belief)に関わるものであり、感情や動機が無意識的に証拠評価を歪めるのであって、統一的自己も離散的モジュールも必要としない、と論じた。ミールの脱構築的な説明はモジュール性を必要としない。証拠の重みづけにおける動機的バイアスがあれば十分なのだ。
より深い哲学的問題は、クルツバンが問題を「解消した」のか、単に「回避した」のか、である。彼が主張するように統一的自己が存在しないなら、「自己欺瞞」は文字通り無意味になる——代わりに、モジュール間の情報非対称性について語らねばならない。だが批判者たちは、これが自己欺瞞の現象学的リアリティ——自分が自分自身から何かを隠しているという主観的経験——を消去してしまうと指摘する。もし自己欺瞞が単にモジュールが異なる表象を保持しているだけなら、あの特徴的な内的緊張と回避の感覚はなぜ生じるのか? クルツバンの枠組みは行動的出力を説明するが、自分自身を欺くとはどのような「感じ」であるかを説明するには苦労するかもしれない。
われわれ自身の経験を振り返ってみれば、「ダイエット中にケーキを食べたとき、それがダイエットに反していることを知りながら食べている」という感覚は確かにある。モジュール間の矛盾で行動は説明できても、あの「ああ、やってしまった」という罪悪感と、それでもフォークを置けないあの感じは、なかなか「別のモジュールの仕事です」とだけでは片づかない。
論争③:PR装置としての意識——そして自己言及の罠
意識の「報道官」モデルは、複数の方向から反論を招いた。フォーダーは、それが思考における真の合理性を説明できないと主張した。もし意識が「ほとんどがプロパガンダ」であるなら、科学的推論の成功、数学的証明、論理的論証をどう説明するのか? 知性主義の伝統はこれらを統一的推論する心に帰属させるのであって、事後的スピンを生成するPRモジュールにではない。
ピーター・カラザースは、モジュール性には同情的だったが、クルツバンが意識の含意を十分に展開しなかったと暗に示唆した。カラザース自身の著作(The Architecture of the Mind、2006年)は大規模モジュール性を擁護しつつも、意識にはより実質的な統合的役割を割り当てる——クルツバンの社会的シグナリング説明よりも、バーズやドゥアンヌのグローバル・ワークスペース理論(Global Workspace Theory=意識は脳内システム間で情報を放送する機能を持つという理論)に近い。複数の書評者が、クルツバンは意識の「プロパガンダ的側面にやや過度の強調を置いた」と述べ、社会的説得が意識的経験の唯一の主要な機能であるかどうかを疑問視した。
このモデルにはまた自己言及的パラドックスがある。もし自分の述べる信念が単にPRモジュールからのプレスリリースにすぎないなら、クルツバン自身が本書で述べている主張もまたプレスリリースということになる。モジュラー・マインド・テーゼ自体が、真理を追跡するためではなく、クルツバンの評判を高めるために設計されたクルツバンの報道官の出力にすぎないのではないか? この自己掘り崩し(self-undermining)の性質は複数の書評者によって指摘された。
クルツバンの防御線はおそらく、本書全体を通じて彼が引く同じ区別を援用するだろう。報道官は正確さが説得機能に資するとき、戦略的に正確でありうる、と。しかしこの譲歩は、意識が根本的に真実よりもスピンに関わるというラディカルな主張を弱めてしまうようにも見える。「意識はスピンマシンだ——ただし、スピンが正確であることが有利なときを除く」というのは、確かに理論としてはやや座りが悪い。
付録的論争:「でっち上げの物語」批判
これら三つの主要論争に加えて、本書は進化心理学に対する定番の**「でっち上げの物語(just-so story)」**批判——スティーヴン・ジェイ・グールドとリチャード・レウォンティンの有名な1979年の「サンマルコのスパンドレル」論文に遡る——をも引きつけた。批判者たちは、行動の進化的説明はテスト不可能な事後的ナラティヴにすぎない——事実上あらゆる形質についてもっともらしい進化的ストーリーを構築できてしまう——と主張する。
クルツバンは自身のブログで、この批判はそれ自体が偽善的であると反論した。進化心理学をストーリーテリングだと非難する批判者たちは、しばしば自分たち自身の進化的説明を展開しており、それは同じくらい推測的だからだ。「目標は科学からストーリーを追放することであるべきではない。むしろ、同時に良い説明でもあるストーリーを同定することであるべきだ」と彼は書いた。
このような「お前だって(tu quoque)」型の応答はそれなりに有効だが、批判の核心部分——特定の進化心理学的仮説に対してどのような証拠があれば反証されうるのか——には完全には答えていない。とはいえ、同じ批判はダーウィニズム全般にも向けられうるものであり、進化心理学に特有の問題ではないという反論にも一理ある。
第5章:誰が本書を推薦し、一般読者はどう思ったか
本書には三つの著名な推薦文が寄せられた。スティーヴン・ピンカー(ハーバード大学)はこう書いた。「ロバート・クルツバンは同世代の進化心理学者のなかで最も優れた一人だ。自身の研究の成功と心理学への洗練された理解だけでなく、そのウィット——クルツバンは本当に巧みで、しゃれが利いていて、簡潔で、ときに爆笑ものだ——においても際立っている。」ヴァーノン・L・スミス(2002年ノーベル経済学賞受賞者、クルツバンのポスドク時代の上司)は、本書を「人間が標準的な合理的モデルの予測に従って行動しないことを示す事例の爆発的増加に対する、楽しい反証」と評した。ジェイムズ・H・ファウラー(Connectedの共著者)はこう述べた。「自分自身との見事に刺激的な対話であり、深く考えさせられ——そして声を出して笑わせられた。」
一般読者の反応という点では、Goodreads(書評サイト)で100件以上のレビューが蓄積され、評価は「やや好意的」から「熱狂的」まで幅がある。最も熱心な読者はピンカー、ハイト、カーネマン、グラッドウェルの著作よりも上位にランクした。あるレビュアーはこう書いた。「世界を理解するための心理学/認知科学モデルを一つだけ望むなら……この本より優れたものは何も書かれていない。」他の読者は文章を「明快で、巧みで、ユーモラス」と称え、テーゼを「非常に独創的で重要」と評した。批判的な読者は本書が反復的で、もっと短ければよかったと述べ、「二冊の本——脳のモジュール性に関する一冊と、偽善に関する一冊——が、常にうまく統合されていない」と感じた。クルツバンのユーモアが真面目なテーマには気が散ると感じる読者もいた。
本書は出版から何年も経ってポッドキャストやメディアで大きな関心を集め続けた。クルツバンはジュリア・ガレフの「Rationally Speaking」ポッドキャスト(2017年、「戦略的に間違うこと」と題された回)、デイヴィッド・スローン・ウィルソンの「This View of Life」、Quilletteポッドキャスト(「モジュラー・マインド」)、The Brainy Businessポッドキャスト、ルイーズ・ペリーのMaiden Mother Matriarchポッドキャストなどでそのアイデアを議論した。出版から15年以上経ってもこうしたメディア露出が続いていることは、本書のアイデアが知的通貨としての価値を保ち続けていることを示唆している。
第6章:長い影——本書はその後の思考をどう変えたか
本書の最も目に見える知的遺産は、いくつかの後続の著作と研究プログラムに流れている。
ケヴィン・シムラーとロビン・ハンソンのThe Elephant in the Brain(2018年)——人間の行動が大部分は隠された利己的動機によって駆動されていると主張する広く読まれた書——は、クルツバンの枠組みに直接依拠していた。シムラーはクルツバンを「主要なインスピレーション源」の一人として明示的に同定し、ジェフリー・ミラーやロバート・トリヴァースとともに「肩の上に立たせてもらった優れた巨人たち」と呼んだ。同書の中心的主張——行動の表明された理由は合理化にすぎず、真の動機は意識的気づきの下で作動する——は、本質的にクルツバンの報道官モデルを制度や社会規範に適用したものである。
**ロバート・ライトのWhy Buddhism is True(2017年)**は、モジュラー・マインドの概念に大きく依拠し、クルツバンの研究を広範に引用し、報道官モデルを論じた。ライトはクルツバンの枠組みを用いて、仏教の瞑想実践——精神的プロセスをそれに同一化することなく観察することを目指す——がなぜ心理学的価値を持つかを説明した。統一的自己が存在しないなら、仏教の「無我(アナッタ)」の洞察は進化心理学が独立して発見したものと一致する。複数のGoodreads読者がライトのオンライン講座「Modern Psychology and Buddhism」を通じてクルツバンを発見したと報告している。
これは実に興味深い文化的交差点である。2500年前のインドの修行者が瞑想を通じて直観した「自己は存在しない」という洞察を、21世紀のペンシルベニア大学の進化心理学者がモジュール性理論によって裏書きし、それをさらに別の著者が仏教と現代心理学の橋渡しに使う——知の旅路というのは、ときにこのような思いがけない合流を見せるものだ。
クルツバン自身の研究プログラムにおいても、本書のモジュール性の枠組みは二つの重要な学術的貢献に直接情報を提供した。前述の**2013年のBehavioral and Brain Sciences誌ターゲット論文(主観的努力の機会費用モデル)**は、バウマイスターの支配的な「自我消耗」モデルに挑戦し、意志力の枯渇と感じられるものは実は心による機会費用の再評価であると主張した。この論文は30以上の出版されたコメンタリーを受け、約1,000件の引用を得た。あるLessWrongのレビュアーが述べたように、「クルツバンは自己制御の資源モデルがナンセンスだと、それが経験的に否定され始める前に指摘していた」のであり、自我消耗研究のその後の再現性の危機を考えれば、まさに先見の明があったと言える。
2013年のPsychological Bulletin論文(ピーター・デシオリとの共著、「A solution to the mysteries of morality」)では、道徳的非難が紛争の際に傍観者の味方選びを導く機能を果たすという新規の機能主義的理論を提案した。道徳心理学における独創的な貢献として、継続的な影響力を持っている。
本書はまた、クルツバンとジェイソン・ウィーデンの2014年の著書The Hidden Agenda of the Political Mindの基盤を築いた。これは報道官メタファーを政治的認知に拡張し、政治的意見は抽象的価値観ではなく自己利益(繁殖戦略と宗教性によって媒介される)によって形成されると主張した。
本書の引用数——Semantic Scholarで約204件——はその影響力を過小評価している。これは、マイケル・ガザニガのWho's in Charge?、デイヴィッド・イーグルマンのIncognito、ピンカーのHow the Mind Worksとともに、「分割された心」に関するポピュラーサイエンス書の星座に属する。このグループのなかで、クルツバンの貢献は、偽善、道徳性、自己欺瞞を理解するための実践的含意と進化理論の統合において際立っている。「報道官」メタファーは、意識が行動を指揮するのではなく合理化するという考え方の略語として、より広い知的言説に浸透した。**「戦略的無知」**の概念は行動経済学や組織行動論の研究にも影響を与えている。
結論:論争を超えて生き延びた生産的な挑発
クルツバンの本は、知的挑発として最も力強く成功している——自己、道徳的一貫性、意識の目的に関する深く根づいた前提を読者に問い直させる著作だ。その核心的な洞察——心のモジュール的構造が偽善を非難に値するものではなく不可避なものにする——は、真に新規であり、今なお十分に評価されていない。報道官メタファーは、おそらく拡大適用されすぎているが、大衆的言説において驚くほど耐久性のある枠組みを提供してきた。
本書の限界は実在するが、照射的(illuminating)でもある。大規模モジュール性が柔軟な合理的思考を説明できないとするフォーダーの反論は、最も強力な哲学的挑戦として残っており、その後の大規模モジュール性の擁護者の誰もが完全には解決していない。自己言及問題——本書自身の主張がおそらくクルツバンの報道官の出力である——は、意識的推論の認識論的権威を掘り崩すいかなる理論にも内在する緊張を明らかにしている。そして、社会心理学を非科学的と一蹴するクルツバンの態度は、愉快ではあるが、進化心理学の批判者に最も多く用いられる「でっち上げの物語」レトリックとまったく同じ論法だという皮肉な批判に彼をさらすこととなった。
持続するのは、日常的な謎に対するこの枠組みの説明力である。なぜ人々は矛盾する政治的信念を持つのか。なぜダイエット中の人が深夜に冷蔵庫を開けるのか。なぜ道徳的十字軍が自ら非難する罪を犯すのか。矛盾を自然化し——生存のために進化した心が一貫性ではなくサバイバルのために設計されている以上、当然の出力として扱うことで——クルツバンは後続の研究者にとって生産的であることが証明された視座を提供した。
The Elephant in the Brain、Why Buddhism is True、そして意志力研究の再現性の危機に対する本書の影響は、その核心的なアイデアが、人間の認知のアーキテクチャと道徳的行動の起源について、一世代の研究者と公共知識人の考え方を形成してきたことを実証している。
最後にもう一点。もしあなたが本書を読んで「なるほど、自分の偽善は脳の設計上の問題だったのか」と安堵したとしたら、それこそがクルツバンの言う「報道官」が仕事をしている瞬間かもしれない。自己正当化のためにこそ、この理論は最も説得力を発揮するのだから。
書誌情報 Robert Kurzban, Why Everyone (Else) Is a Hypocrite: Evolution and the Modular Mind, Princeton University Press, 2010. ISBN: 978-0-691-15439-8. 274 pages.
【Claude ai】
偽善を不可避にしたモジュラー・マインド
ロバート・クルツバン著『Why Everyone (Else) Is a Hypocrite: Evolution and the Modular Mind』書評レポート
ロバート・クルツバン著 Why Everyone (Else) Is a Hypocrite: Evolution and the Modular Mind(プリンストン大学出版局、2010年)は、ひとつの大胆な主張を掲げている。偽善とは道徳的な欠陥ではなく、それぞれ異なる適応課題を解決するために進化した何百もの専門化された半自律的モジュール(機能単位)から構成された脳が自然に生み出す出力である、というものだ。本書によれば、統一された「自己」なるものは存在しない。あるのは互いに競合するサブシステムの集合体だけであり、意識は自分が下したわけでもない決定をもっともらしく説明する「報道官」の役割を果たしているにすぎない。
この枠組みは、自己欺瞞や道徳的矛盾、意志力にまつわる長年のパラドックスを一刀両断するものだが、同時に哲学者、認知科学者、そしてモジュール性理論の創始者本人から激しい論争を呼ぶこととなった。本書は全体として好意的な書評を受け、その機知と知的野心が称えられた。スティーヴン・ピンカーとノーベル賞受賞者ヴァーノン・スミスからの推薦文を得て、その後のベストセラー『The Elephant in the Brain(脳のなかの象)』や『Why Buddhism is True(仏教が正しい理由)』にも大きな影響を及ぼした。
第1章:サンタバーバラからモジュール性テーゼへ——ロバート・クルツバンの軌跡
ロバート・クルツバン(Robert Kurzban)は1969年9月29日、ニューヨーク州ポキプシーに生まれた。1991年にコーネル大学で心理学の学士号を取得し、1998年にカリフォルニア大学サンタバーバラ校で心理学の博士号を取得している。サンタバーバラでの指導教官は、進化心理学(evolutionary psychology)の確立に貢献した二大巨頭、ジョン・トゥービーとレダ・コスミデスだった。博士課程修了後は、アリゾナ大学経済科学研究所でヴァーノン・L・スミス(2002年ノーベル経済学賞受賞者)のもとでポスドク研究を行い、UCLAの人類学科やカリフォルニア工科大学(Caltech)の人文社会科学部門でも研究に従事した。
2002年にペンシルベニア大学心理学部に着任し、最終的には正教授に昇進。2003年にはペンシルベニア実験進化心理学研究所(Pennsylvania Laboratory for Experimental Evolutionary Psychology: PLEEP)を設立した。「PLEEP」という略称が少々間の抜けた響きなのは、おそらく意図的だろう——本人のユーモアのセンスは、本書の随所に横溢している。学部教育主任やオナーズ・プログラムの責任者も務め、研究テーマは協力行動、罰、道徳性、社会的カテゴリー化、配偶者選択、認知的モジュール性と多岐にわたり、査読付き論文100本以上、Google Scholar被引用数は約14,000件を数える。
最も引用された研究論文を見れば、その射程の広さがわかる。「Can race be erased?(人種は消去できるか?)」(2001年、PNAS、トゥービー&コスミデスとの共著、被引用数約1,384件)は、連合関係(alliance)の手がかりを際立たせると、人種カテゴリー化が弱まることを実証した画期的論文だ。「Evolutionary origins of stigmatization(スティグマの進化的起源)」(2001年、Psychological Bulletin、マーク・リアリーとの共著、被引用数約1,215件)は、社会的排除(social exclusion)が進化的な機能を果たすと提唱した。さらに2013年のBehavioral and Brain Sciences誌ターゲット論文「An opportunity cost model of subjective effort(主観的努力の機会費用モデル)」(アンジェラ・ダックワース、ジョセフ・ケイブル、ジャスタス・マイヤーズとの共著、被引用数約983件)は、当時支配的だった「自我消耗(ego depletion)」パラダイム——つまり意志力は有限の資源であり使えば枯渇するという説——に真っ向から挑戦した。この挑戦は実に先見の明があった。のちの再現性の危機(replication crisis)において、自我消耗の知見が安定的に再現されなかったからである。
制度的にも堂々たる地位を築いた。2008年には人間行動進化学会(HBES)の初代「傑出した科学的貢献に対する若手キャリア賞」を受賞し、2009年にはHBES年次大会で全体講演を行った。学会のフラッグシップ・ジャーナルであるEvolution and Human Behavior誌の編集長を務め、2017年にはHBES会長に選出されている。ピンカーは彼を「同世代の進化心理学者のなかで最も優れた一人」と評した。本書以外にも、ジェイソン・ウィーデンとの共著『The Hidden Agenda of the Political Mind(政治的心理の隠されたアジェンダ)』(2014年)や、SAGE出版から進化心理学に関する全5巻の編著(2016年)がある。2018年にペンシルベニア大学とHBESの職を辞し、その後は非営利団体での開発業務やフリーランス執筆に従事している。
第2章:議論のアーキテクチャ——本書が実際に主張していること
本書はプロローグ、全10章、エピローグ(274頁)で構成され、モジュール性の進化的基盤から道徳・政治への含意まで、段階的に議論を積み上げていく。
モジュラー・マインド仮説
クルツバンの中心的主張は、人間の心(mind)は統一された一枚岩の実体ではなく、それぞれが特定の適応的問題を解決するよう自然淘汰によって設計された、多数の専門的情報処理「モジュール」の集合体であるというものだ。彼はiPhoneのたとえを用いる。スマートフォンが強力なのは多数の専門アプリを一台に束ねているからであり、同様に心が強力なのは多数の進化したサブシステムを一つの頭蓋骨のなかに束ねているからだ、と。
異なるモジュールは異なる目的のために進化したのだから、同時に矛盾する表象(representation=情報の内的な描写)を保持しうる——これはバグではなくフィーチャー(設計上の特徴)だ。アデルソンの市松模様錯視(checker shadow illusion)が鮮やかな例を提供する。ある視覚モジュールは二つの正方形の色が異なると主張し続けるが、別のシステムはそれらが同一色であることを確認できる。分離脳患者(split-brain patients=脳梁を切断された患者)はさらに劇的な証拠を提供する。右半球が制御した行動に対して、左半球が事後的にもっともらしい説明をでっち上げる(confabulate)のだ。
重要なのは、クルツバンのモジュール性の版——「大規模モジュール性」(massive modularity)——が、ジェリー・フォーダーの1983年のオリジナルの定式化をはるかに超えている点だ。フォーダーは、周辺的入力系(視覚処理、言語処理など)だけがモジュール的であり、中枢認知(推論、信念形成)は汎用的メカニズムによって作動すると主張した。クルツバンは、自然淘汰は特定の問題に特化した解決策を構築するものであるから、道徳的判断、社会的推論、自己表象を含む認知全般にわたってモジュール性を予測するのが進化的に正しいと反論する。彼は明示的にカーネマンのシステム1/システム2の枠組みをも批判する——もしモジュールごとに一つの「システム」とするならば、2つどころか数千のシステムがあるはずだ、と。これは痛快な指摘だが、同時に、二つで足りなかったものを数千に増やしたところで事態が明快になるかどうかは別の問題である。
「報道官」メタファー
ダニエル・デネットやダニエル・ウェグナーの議論を踏まえ、クルツバンは、意識のなかの言語を生み出す部分が、ホワイトハウスの報道官のように機能していると提案する——大統領ではなく、報道官として。報道官は心の一部の動きを観察し報告するが、「政策決定に関与せず、大統領執務室の閉じたドアの向こうで下される多くの決定を知らされることもない」。報道官の主要な機能は真実の探求ではなく、社会的説得——他者に対して、その人物の最も有利な、しかし弁護可能なイメージを提示することなのだ。
報道官が、実際の理由にアクセスできない(それが別のモジュールに属しているため)決定を正当化しなければならないとき、「もっともらしい理由を推測してみる」——つまり事後的合理化(post-hoc rationalization)を生成する。現実の報道官が、何かについて本当に知らなければ、より説得力をもってそれを否定できるのと同様に、モジュールは意識的な気づきから情報を遠ざけたり、あるいは虚偽の情報を送り込んだりするよう設計されている可能性がある。なぜなら、効果的な説得は必ずしも真実を必要としないからだ。
このメタファーはまことに秀逸だが、同時に不穏でもある。つまり、この本を書いているクルツバン自身の意識もまた報道官にすぎないということになり、彼が述べていることもまた「プレスリリース」だということになってしまう。この自己言及的パラドックスについては後述する。
戦略的無知と自己欺瞞
第5章「The Truth Hurts(真実は痛い)」では、特定のモジュールは真実を追求するようには設計されていないと論じる。無知は適応的でありうる。犯罪について知らなければ通報義務はなく、病気の検査を受けなければ、故意に他者を危険にさらしたと非難されることなく、過失で済むかもしれない。
クルツバンはある巧妙な実験を引用する。参加者は5ドル(公平な配分)か6ドル(利己的な配分——相手には1ドルのみ)のどちらかを選べた。3分の2は寛大な方を選んだ。だが、自分の選択が相手にどう影響するかを知らないでいる選択肢が与えられると、約半数が情報を見ることを拒否し——そして利己的に選んだ。戦略的無知は、物質的利益に奉仕しながら自己イメージを保存したのだ。要するに「見なかったことにする」という戦略は、進化的に見て実に合理的なのである。
クルツバンの自己欺瞞の説明は、ロバート・トリヴァースの影響力のある理論とは重要な点で異なる。トリヴァースは、自己欺瞞は対人的欺瞞を促進するために進化したと主張した——自分自身の嘘を本当に信じていれば、欺瞞の手がかり(表情や声の微妙な変化など)を漏らさずに済む。しかしトリヴァースのモデルには依然として内部の「欺く者」と「欺かれる者」が存在しており、古典的パラドックスが残されている。
クルツバンはこのパラドックスを完全に解消する。異なるモジュールが異なる機能的目的のために異なる表象を保持しているだけだ。「欺く者」など存在しない——あるのはカプセル化された(encapsulated=外部から情報を遮断された)システム間の自然な情報区画化だけだ。一部のモジュールが体系的に偏った(つまり虚偽の)情報を獲得するのは、楽観的に歪められた自己表象が報道官の説得機能に資するからである。
道徳と政治——偽善はなぜ不可避か
最終章群では、道徳的判断は他者の行動を制約する機能を持つ特定の**「道徳モジュール」から生じる一方で、別のモジュールが個人自身の適応度の利益を推進する——しばしば道徳モジュールが非難するまさにその行為を通じて——と論じる。この構造的配置は偽善を保証する**。「非難と良心は異なるモジュールによって引き起こされる。言葉と行動がしばしば矛盾するのは当然のことだ。」
クルツバンはこの枠組みを政治的行動にも適用する。性的放縦、薬物、中絶といった問題に対する人々の立場は、抽象的な政治的イデオロギーよりも、進化的利益(とりわけ繁殖戦略)によってよりよく予測されると論じるのだ。本書は、同じ人間が「政府は人々を放っておくべきだ」と「政府は人々の生活に介入すべきだ」を同時に望みうるという観察で始まり、また終わる——異なるモジュールが異なる目標を追求しているという枠組みでこの矛盾が説明される。
要するに、あなたが月曜日に「健康的に生きる」と決意し、火曜日の深夜に冷蔵庫を開けるとき、それは意志の弱さではない。別のモジュールが別の問題を解決しているだけなのだ。なんとも心強い——あるいは心許ない——話ではないか。
第3章:学者たちはどう評価したか——分野を横断する書評
本書は学術雑誌や科学出版物からおおむね好意的な評価を受け、クルツバンの機知、読みやすい文章、知的野心が一貫して称賛された。
学術レビュー
ライアン・マッケイ(ロイヤル・ホロウェイ大学ロンドン)は、Evolution and Human Behavior誌(2011年)に「Isn't it ironic?(これは皮肉では?)」と題した最も実質的な学術書評を寄せた。マッケイはクルツバンの議論を「非常に好感が持てる」と評し、本書には「専門家の関心を引き啓発するに十分な新規の議論と洞察が含まれている」と述べた。とりわけ、反乱交主義的態度が胚の権利への真の関心ではなく、性的競争相手を罰する進化的傾向に由来するとするクルツバンの理論を、**「独創的で説得力があり、さらには圧倒的」**と評価した。
ただし、マッケイはいくつかの弱点も指摘した。偏った表象が社会的文脈でのみ適応的でありうるとするクルツバンの主張は「不必要に制限的」に見えるという。ポジティブ・イリュージョン(肯定的幻想)は心血管系や神経内分泌系の経路を通じて健康に利益をもたらす可能性があるからだ。またマッケイは、クルツバンが社会心理学を「しばしば科学として認識できない」と一蹴する態度が、進化心理学自体に最も頻繁に向けられる「でっち上げの物語(just-so story)」批判とまったく同じ論法を用いているという皮肉を指摘した。なるほど、書評のタイトルが「これは皮肉では?」なのも頷ける。
ピーター・カラザース(メリーランド大学)は、大規模モジュール性(massive modularity)の主要な支持者自身であり、Trends in Cognitive Sciences誌(2011年)に「I do not exist(私は存在しない)」という挑発的なタイトルで書評を寄せた。本書を「エレガントでしばしば面白い」と評し、「多くの価値ある内容がある」と述べつつ、統一的自己というデカルト的概念に対するクルツバンの挑戦を検討した。
ヘイリー・ディロンとレイチェル・カーメンはJournal of Social, Evolutionary, and Cultural Psychology(2011年)に、「クルツバンは機能的モジュールのシステムを見事に(かつしばしば爆笑ものに)分解している」と書き、本書が「分野の多くの著名な研究者によって有名なほど無視されてきた」領域に取り組んでいることを称えた。
一般科学出版物では、Nature誌が本書の議論を好意的に要約し、クルツバンは「我々は自分を"私"ではなく"我々"として考えるべきだと論じている」と紹介した。スーザン・ブラックモアはBBC Focusで称賛し、トム・ディキンズはTimes Higher Educationで本書を「新鮮だ」と評し、クルツバンが「一見合理的な立場をとったうえで、その合理性が実はある前提群のもとでのみ成り立つことを示す」手法を褒めた。Publishers Weekly誌はクルツバンの議論を「説得力があり首尾一貫している」が「包括的とは言い難い」と評した。Library Journalはクルツバンを「成長する進化心理学という分野における第一人者」と呼んだ。
最も敵対的な主要書評は、ジェリー・フォーダー本人——モジュール性理論の創始者その人——がLondon Review of Books誌(2011年4月)に寄せたもので、その破壊的なタイトルは**「Fire the Press Secretary(報道官をクビにしろ)」**だった。この書評は以下の論争セクションで詳しく扱う。
第4章:議論の三つの断層線——本書の主張が抵抗に出会う場所
論争①:大規模モジュール性をめぐる闘い——フォーダーの逆襲
本書をめぐる最も重大な知的対立は、モジュール性を知覚から認知全般へと拡張することに関わる。フォーダーの約2,400語に及ぶLondon Review of Books書評は、モジュール性理論の創造者と、その最も野心的な大衆化者との間の直接対決を代表するものだった。
フォーダーはクルツバンの本を、彼が**「心理学的ダーウィニズム」**と呼ぶもの——行動主義、フロイト主義、連合主義に続く、心からその伝統的役割(合理的思考の器官)を奪おうとする反知性主義運動の最新版——のなかに位置づけた。フォーダーの見解によれば、心と自己が存在し、その行動上の成功が心の推論の合理性によって説明されるという伝統的な知性主義的見方は堅固なものであり、「もしそれが心理学的ダーウィニズムと相容れないなら、不利なのは心理学的ダーウィニズムの方だ」というわけである。
フォーダーの核心的な反論は、中枢認知は根本的に非モジュール的であるというものだった。なぜなら、それは「等方的(isotropic)」——あらゆる信念が他のあらゆる信念に関連しうる——であり、「クワイン的(Quinean)」——信念の確証は単純性や整合性といったグローバルな特性に依存する——だからだ。完全にカプセル化されたモジュールだけで構成された心は、フォーダーの言葉を借りれば**「多頭の怪物」**であり、人間が明らかに行っている柔軟で文脈感応的な推論を遂行する能力を持たないことになる。
フレーム問題——モジュール的であるはずの心がどうやって所与の問題にどの情報が関連するかを決定するのか——は、フォーダーにとって壊滅的であり未回答のままだった。彼はクルツバンの議論を端的に**「まったく説得力がない」**と断じた。
他の批判者も異なる角度からこの反論を補強した。ジェシー・プリンツは、モジュール性が「骨抜きに」されて単なる機能的分解を意味するだけになると、「それは自明の理になる」——認知が構成部分を持つという誰も争わない主張になる——と論じた。リチャード・サミュエルズ(1998年、British Journal for the Philosophy of Science)は、大規模モジュール性を支持する二つの主要な進化的議論はいずれも失敗しており、「認知の図書館モデル」(Library Model of Cognition)——汎用処理装置+専門化された知識データベース——が進化理論と同等に両立可能であると主張した。キム・ステレルニー(2012年)やセシリア・ヘイズは、文化的学習と環境的足場かけ(scaffolding)を強調する代替的説明を提示した。デイヴィッド・ブラー(Adapting Minds、2005年)は、心が更新世(Pleistocene=約260万〜1万年前の氷河期)時代のモジュールに凍結されているという前提に挑戦し、神経可塑性(neural plasticity)の豊富な証拠を指摘した。
より最近では、ピエトラシェフスキとヴェルツ(2022年、Perspectives on Psychological Science)が、モジュール性論争全体が**「不適切な問題設定であり混乱している」**と主張した。フォーダーの意図的水準の分析と進化心理学の機能的水準の分析が混同されているというのだ。進化心理学者が「モジュール」と言うとき、それは機能的特殊化を意味する。フォーダーが「モジュール」と言ったとき、彼ははるかに厳密なもの——情報的にカプセル化され、領域固有で、強制的に発火する処理単位——を意味していた。この意味論上のすれ違いが、数十年にわたる非生産的な論争を助長した可能性がある。
つまり、ある意味では両者とも正しいのかもしれない。ただし、同じ単語で違うものを指していたために、お互いに相手が間違っていると確信していた——というのは、まさに本書が論じる「モジュール間の矛盾」そのものではないか、という皮肉がある。
論争②:自己なき自己欺瞞——哲学的パズル
自己欺瞞をモジュール間の不整合として再定式化するクルツバンの試みは、独自の哲学的論争を引き起こした。彼のモデルはロバート・トリヴァースの影響力ある説明(The Folly of Fools、2011年)に直接挑戦する。トリヴァースにとって自己欺瞞は主に他者への欺瞞を促進するために進化したものであり、心は積極的に自分自身を欺く——ある部分が意図的に別の部分を欺く。クルツバンの反論は、このモデルが自己欺瞞の古典的パラドックス(同じ主体がどうやって同時に何かを知り、かつ知らないでいられるのか?)を温存しているというものだ。代わりに、異なるモジュールが異なる機能的目的のために異なる表象を保持しているだけで、「欺く者」は関与しない、と提案する。
アルフレッド・ミール(Self-Deception Unmasked、プリンストン大学出版局、2001年)は、クルツバンとトリヴァースの両方に挑戦する第三のアプローチを提示した。ミールは、自己欺瞞は対人的欺瞞をモデルにすべきではない——それは動機づけられた偏向的信念(motivated biased belief)に関わるものであり、感情や動機が無意識的に証拠評価を歪めるのであって、統一的自己も離散的モジュールも必要としない、と論じた。ミールの脱構築的な説明はモジュール性を必要としない。証拠の重みづけにおける動機的バイアスがあれば十分なのだ。
より深い哲学的問題は、クルツバンが問題を「解消した」のか、単に「回避した」のか、である。彼が主張するように統一的自己が存在しないなら、「自己欺瞞」は文字通り無意味になる——代わりに、モジュール間の情報非対称性について語らねばならない。だが批判者たちは、これが自己欺瞞の現象学的リアリティ——自分が自分自身から何かを隠しているという主観的経験——を消去してしまうと指摘する。もし自己欺瞞が単にモジュールが異なる表象を保持しているだけなら、あの特徴的な内的緊張と回避の感覚はなぜ生じるのか? クルツバンの枠組みは行動的出力を説明するが、自分自身を欺くとはどのような「感じ」であるかを説明するには苦労するかもしれない。
われわれ自身の経験を振り返ってみれば、「ダイエット中にケーキを食べたとき、それがダイエットに反していることを知りながら食べている」という感覚は確かにある。モジュール間の矛盾で行動は説明できても、あの「ああ、やってしまった」という罪悪感と、それでもフォークを置けないあの感じは、なかなか「別のモジュールの仕事です」とだけでは片づかない。
論争③:PR装置としての意識——そして自己言及の罠
意識の「報道官」モデルは、複数の方向から反論を招いた。フォーダーは、それが思考における真の合理性を説明できないと主張した。もし意識が「ほとんどがプロパガンダ」であるなら、科学的推論の成功、数学的証明、論理的論証をどう説明するのか? 知性主義の伝統はこれらを統一的推論する心に帰属させるのであって、事後的スピンを生成するPRモジュールにではない。
ピーター・カラザースは、モジュール性には同情的だったが、クルツバンが意識の含意を十分に展開しなかったと暗に示唆した。カラザース自身の著作(The Architecture of the Mind、2006年)は大規模モジュール性を擁護しつつも、意識にはより実質的な統合的役割を割り当てる——クルツバンの社会的シグナリング説明よりも、バーズやドゥアンヌのグローバル・ワークスペース理論(Global Workspace Theory=意識は脳内システム間で情報を放送する機能を持つという理論)に近い。複数の書評者が、クルツバンは意識の「プロパガンダ的側面にやや過度の強調を置いた」と述べ、社会的説得が意識的経験の唯一の主要な機能であるかどうかを疑問視した。
このモデルにはまた自己言及的パラドックスがある。もし自分の述べる信念が単にPRモジュールからのプレスリリースにすぎないなら、クルツバン自身が本書で述べている主張もまたプレスリリースということになる。モジュラー・マインド・テーゼ自体が、真理を追跡するためではなく、クルツバンの評判を高めるために設計されたクルツバンの報道官の出力にすぎないのではないか? この自己掘り崩し(self-undermining)の性質は複数の書評者によって指摘された。
クルツバンの防御線はおそらく、本書全体を通じて彼が引く同じ区別を援用するだろう。報道官は正確さが説得機能に資するとき、戦略的に正確でありうる、と。しかしこの譲歩は、意識が根本的に真実よりもスピンに関わるというラディカルな主張を弱めてしまうようにも見える。「意識はスピンマシンだ——ただし、スピンが正確であることが有利なときを除く」というのは、確かに理論としてはやや座りが悪い。
付録的論争:「でっち上げの物語」批判
これら三つの主要論争に加えて、本書は進化心理学に対する定番の**「でっち上げの物語(just-so story)」**批判——スティーヴン・ジェイ・グールドとリチャード・レウォンティンの有名な1979年の「サンマルコのスパンドレル」論文に遡る——をも引きつけた。批判者たちは、行動の進化的説明はテスト不可能な事後的ナラティヴにすぎない——事実上あらゆる形質についてもっともらしい進化的ストーリーを構築できてしまう——と主張する。
クルツバンは自身のブログで、この批判はそれ自体が偽善的であると反論した。進化心理学をストーリーテリングだと非難する批判者たちは、しばしば自分たち自身の進化的説明を展開しており、それは同じくらい推測的だからだ。「目標は科学からストーリーを追放することであるべきではない。むしろ、同時に良い説明でもあるストーリーを同定することであるべきだ」と彼は書いた。
このような「お前だって(tu quoque)」型の応答はそれなりに有効だが、批判の核心部分——特定の進化心理学的仮説に対してどのような証拠があれば反証されうるのか——には完全には答えていない。とはいえ、同じ批判はダーウィニズム全般にも向けられうるものであり、進化心理学に特有の問題ではないという反論にも一理ある。
第5章:誰が本書を推薦し、一般読者はどう思ったか
本書には三つの著名な推薦文が寄せられた。スティーヴン・ピンカー(ハーバード大学)はこう書いた。「ロバート・クルツバンは同世代の進化心理学者のなかで最も優れた一人だ。自身の研究の成功と心理学への洗練された理解だけでなく、そのウィット——クルツバンは本当に巧みで、しゃれが利いていて、簡潔で、ときに爆笑ものだ——においても際立っている。」ヴァーノン・L・スミス(2002年ノーベル経済学賞受賞者、クルツバンのポスドク時代の上司)は、本書を「人間が標準的な合理的モデルの予測に従って行動しないことを示す事例の爆発的増加に対する、楽しい反証」と評した。ジェイムズ・H・ファウラー(Connectedの共著者)はこう述べた。「自分自身との見事に刺激的な対話であり、深く考えさせられ——そして声を出して笑わせられた。」
一般読者の反応という点では、Goodreads(書評サイト)で100件以上のレビューが蓄積され、評価は「やや好意的」から「熱狂的」まで幅がある。最も熱心な読者はピンカー、ハイト、カーネマン、グラッドウェルの著作よりも上位にランクした。あるレビュアーはこう書いた。「世界を理解するための心理学/認知科学モデルを一つだけ望むなら……この本より優れたものは何も書かれていない。」他の読者は文章を「明快で、巧みで、ユーモラス」と称え、テーゼを「非常に独創的で重要」と評した。批判的な読者は本書が反復的で、もっと短ければよかったと述べ、「二冊の本——脳のモジュール性に関する一冊と、偽善に関する一冊——が、常にうまく統合されていない」と感じた。クルツバンのユーモアが真面目なテーマには気が散ると感じる読者もいた。
本書は出版から何年も経ってポッドキャストやメディアで大きな関心を集め続けた。クルツバンはジュリア・ガレフの「Rationally Speaking」ポッドキャスト(2017年、「戦略的に間違うこと」と題された回)、デイヴィッド・スローン・ウィルソンの「This View of Life」、Quilletteポッドキャスト(「モジュラー・マインド」)、The Brainy Businessポッドキャスト、ルイーズ・ペリーのMaiden Mother Matriarchポッドキャストなどでそのアイデアを議論した。出版から15年以上経ってもこうしたメディア露出が続いていることは、本書のアイデアが知的通貨としての価値を保ち続けていることを示唆している。
第6章:長い影——本書はその後の思考をどう変えたか
本書の最も目に見える知的遺産は、いくつかの後続の著作と研究プログラムに流れている。
ケヴィン・シムラーとロビン・ハンソンのThe Elephant in the Brain(2018年)——人間の行動が大部分は隠された利己的動機によって駆動されていると主張する広く読まれた書——は、クルツバンの枠組みに直接依拠していた。シムラーはクルツバンを「主要なインスピレーション源」の一人として明示的に同定し、ジェフリー・ミラーやロバート・トリヴァースとともに「肩の上に立たせてもらった優れた巨人たち」と呼んだ。同書の中心的主張——行動の表明された理由は合理化にすぎず、真の動機は意識的気づきの下で作動する——は、本質的にクルツバンの報道官モデルを制度や社会規範に適用したものである。
**ロバート・ライトのWhy Buddhism is True(2017年)**は、モジュラー・マインドの概念に大きく依拠し、クルツバンの研究を広範に引用し、報道官モデルを論じた。ライトはクルツバンの枠組みを用いて、仏教の瞑想実践——精神的プロセスをそれに同一化することなく観察することを目指す——がなぜ心理学的価値を持つかを説明した。統一的自己が存在しないなら、仏教の「無我(アナッタ)」の洞察は進化心理学が独立して発見したものと一致する。複数のGoodreads読者がライトのオンライン講座「Modern Psychology and Buddhism」を通じてクルツバンを発見したと報告している。
これは実に興味深い文化的交差点である。2500年前のインドの修行者が瞑想を通じて直観した「自己は存在しない」という洞察を、21世紀のペンシルベニア大学の進化心理学者がモジュール性理論によって裏書きし、それをさらに別の著者が仏教と現代心理学の橋渡しに使う——知の旅路というのは、ときにこのような思いがけない合流を見せるものだ。
クルツバン自身の研究プログラムにおいても、本書のモジュール性の枠組みは二つの重要な学術的貢献に直接情報を提供した。前述の**2013年のBehavioral and Brain Sciences誌ターゲット論文(主観的努力の機会費用モデル)**は、バウマイスターの支配的な「自我消耗」モデルに挑戦し、意志力の枯渇と感じられるものは実は心による機会費用の再評価であると主張した。この論文は30以上の出版されたコメンタリーを受け、約1,000件の引用を得た。あるLessWrongのレビュアーが述べたように、「クルツバンは自己制御の資源モデルがナンセンスだと、それが経験的に否定され始める前に指摘していた」のであり、自我消耗研究のその後の再現性の危機を考えれば、まさに先見の明があったと言える。
2013年のPsychological Bulletin論文(ピーター・デシオリとの共著、「A solution to the mysteries of morality」)では、道徳的非難が紛争の際に傍観者の味方選びを導く機能を果たすという新規の機能主義的理論を提案した。道徳心理学における独創的な貢献として、継続的な影響力を持っている。
本書はまた、クルツバンとジェイソン・ウィーデンの2014年の著書The Hidden Agenda of the Political Mindの基盤を築いた。これは報道官メタファーを政治的認知に拡張し、政治的意見は抽象的価値観ではなく自己利益(繁殖戦略と宗教性によって媒介される)によって形成されると主張した。
本書の引用数——Semantic Scholarで約204件——はその影響力を過小評価している。これは、マイケル・ガザニガのWho's in Charge?、デイヴィッド・イーグルマンのIncognito、ピンカーのHow the Mind Worksとともに、「分割された心」に関するポピュラーサイエンス書の星座に属する。このグループのなかで、クルツバンの貢献は、偽善、道徳性、自己欺瞞を理解するための実践的含意と進化理論の統合において際立っている。「報道官」メタファーは、意識が行動を指揮するのではなく合理化するという考え方の略語として、より広い知的言説に浸透した。**「戦略的無知」**の概念は行動経済学や組織行動論の研究にも影響を与えている。
結論:論争を超えて生き延びた生産的な挑発
クルツバンの本は、知的挑発として最も力強く成功している——自己、道徳的一貫性、意識の目的に関する深く根づいた前提を読者に問い直させる著作だ。その核心的な洞察——心のモジュール的構造が偽善を非難に値するものではなく不可避なものにする——は、真に新規であり、今なお十分に評価されていない。報道官メタファーは、おそらく拡大適用されすぎているが、大衆的言説において驚くほど耐久性のある枠組みを提供してきた。
本書の限界は実在するが、照射的(illuminating)でもある。大規模モジュール性が柔軟な合理的思考を説明できないとするフォーダーの反論は、最も強力な哲学的挑戦として残っており、その後の大規模モジュール性の擁護者の誰もが完全には解決していない。自己言及問題——本書自身の主張がおそらくクルツバンの報道官の出力である——は、意識的推論の認識論的権威を掘り崩すいかなる理論にも内在する緊張を明らかにしている。そして、社会心理学を非科学的と一蹴するクルツバンの態度は、愉快ではあるが、進化心理学の批判者に最も多く用いられる「でっち上げの物語」レトリックとまったく同じ論法だという皮肉な批判に彼をさらすこととなった。
持続するのは、日常的な謎に対するこの枠組みの説明力である。なぜ人々は矛盾する政治的信念を持つのか。なぜダイエット中の人が深夜に冷蔵庫を開けるのか。なぜ道徳的十字軍が自ら非難する罪を犯すのか。矛盾を自然化し——生存のために進化した心が一貫性ではなくサバイバルのために設計されている以上、当然の出力として扱うことで——クルツバンは後続の研究者にとって生産的であることが証明された視座を提供した。
The Elephant in the Brain、Why Buddhism is True、そして意志力研究の再現性の危機に対する本書の影響は、その核心的なアイデアが、人間の認知のアーキテクチャと道徳的行動の起源について、一世代の研究者と公共知識人の考え方を形成してきたことを実証している。
最後にもう一点。もしあなたが本書を読んで「なるほど、自分の偽善は脳の設計上の問題だったのか」と安堵したとしたら、それこそがクルツバンの言う「報道官」が仕事をしている瞬間かもしれない。自己正当化のためにこそ、この理論は最も説得力を発揮するのだから。
書誌情報 Robert Kurzban, Why Everyone (Else) Is a Hypocrite: Evolution and the Modular Mind, Princeton University Press, 2010. ISBN: 978-0-691-15439-8. 274 pages.
