紳士なハリネズミのスミス君が金の亡者になる
スミス君は、森でいちばん礼儀正しいハリネズミだった。
誰かとすれ違えば立ち止まり、胸に手を当てて、きちんと頭を下げる。
「おはようございます」
たとえ相手が急いでいて、あいさつに気づかなかったとしても、スミス君は怒らない。
道に落ちた枝を拾い、倒れた花を起こし、困っている者がいれば静かに手を差し伸べる。
森の仲間たちは、そんなスミス君のことを「紳士」と呼んでいた。
けれどスミス君には、ずっと心の中に温めていた夢があった。
森のみんなで、セパタクロー大会を開くことだった。
夕焼け色のコート

大会の前日。
森の広場には、立派なセパタクローコートが完成していた。
二本のポールのあいだには、銀色のネットが張られている。
地面には、スミス君が何度も引き直した白いライン。
木の実で飾った小さなベンチ。
色とりどりの旗が、夕方の風に揺れていた。
スミス君はコートの中央に立ち、ゆっくりと周囲を見渡した。
この日のために、何度も土をならした。
曲がっていたラインを消し、もう一度引いた。
ネットの高さを確かめ、ベンチのぐらつきを直し、旗の向きまでそろえた。
明日になれば、この場所に森じゅうの仲間が集まる。
誰かがボールを蹴る。
誰かが失敗して転ぶ。
それを見て、みんなが笑う。

その光景を想像するだけで、胸の奥が熱くなった。
「きっと、最高の朝になる」
スミス君は小さくつぶやいた。
風に揺れる旗が、その言葉にうなずいているように見えた。

スミス君は満足そうに目を細めた。
このときの彼は、まだ知らなかった。
その朝が、永遠に来ないことを。
巨人の女
日が沈み、森が深い青色に染まったころ。
スミス君はコートの近くにある小屋で、大会の進行表を確認していた。
開会のあいさつ。
第一試合。
休憩。
決勝戦。
表彰式。
何度確認しても、不思議と笑みがこぼれた。
そのときだった。
ゴゴゴゴゴ……。
机の上に置かれていた鉛筆が、小さく震えた。
スミス君は顔を上げた。

ゴゴゴゴゴゴ……。
今度は、窓ガラスが音を立てた。
地面の下を、巨大な何かが這っているような振動だった。
「地震……?」
スミス君が外へ出ると、森の鳥たちが一斉に飛び立った。
羽音と鳴き声が夜空を埋め尽くす。
鹿が走り去り、ウサギたちが茂みへ飛び込む。
遠くの木々が、一本、また一本と激しく揺れた。
ズシン。
音が近づいてくる。
ズシン。
一歩ごとに大地が沈む。
ズシン。
スミス君の足元で、白いラインに細い亀裂が走った。
逃げなければ。
頭では分かっていた。
けれど、身体が動かなかった。

コートの向こう側から、巨大な影が現れた。
最初に見えたのは、山のように大きな足だった。
次に、夜空を隠すほどの身体。
そして月明かりの中に、ぼんやりと顔が浮かび上がった。
巨人の女だった。
その女は、ひどく眠そうな顔をしていた。
半分閉じた目。
乱れた髪。
力なく開いた口。
ふらふらと揺れながら、コートへ近づいてくる。
巨人の女が息を吐いた。
生ぬるい風が、森を駆け抜けた。
「うっ……」
スミス君は思わず鼻を押さえた。
かなり臭かった。

恐怖で心臓が止まりそうなのに、同時に「歯を磨いたほうがよろしいのでは」と思ってしまった。
だが、そんなことを伝えている場合ではない。
巨人の女の身体が、ゆっくりと傾き始めた。
その真下には、セパタクローコートがあった。
「待ってください」
スミス君は震える声で言った。
巨人の女は、スミス君を見ていない。
「そこは駄目です」
声が少し大きくなる。
「そこには、明日の大会があるんです」
巨人の女は、さらに傾いた。
スミス君の目に、ネットが映った。
ベンチが映った。
風に揺れる旗が映った。
何度も土をならした日々が映った。
森のみんなの笑顔が、まだ何も始まっていないコートの上に浮かんだ。
「やめろ!」

スミス君は叫んだ。
紳士だった彼が、初めて誰かに向かって声を荒らげた。
「そこには、僕の夢があるんだ!」
小さな身体で両手を広げる。
止められるはずなどなかった。
それでも手を伸ばした。
「やめてくれ!」
巨人の女は、眠そうに口を開けた。
もう一度、臭い息が森を撫でた。
そして。
ドオオオオオオン!
夜が潰れた。

朝
朝日は、いつもと同じように昇った。
鳥たちは戻り、木々の隙間から柔らかな光が差し込んでいた。
まるで昨夜、何も起きなかったかのような朝だった。
だが、セパタクローコートは消えていた。

ネットは引きちぎられ、ポールは途中から折れている。
ベンチの一つは、なぜか遠く離れた木の枝に引っかかっていた。
旗は見つからなかった。
白いラインの代わりに、巨人の女が寝返りを打った跡が、地面に深く刻まれていた。
スミス君は、壊れたコートの前に立っていた。
折れたポールを拾い上げる。
指が震えていた。
けれど、涙は出なかった。

悲しいはずだった。
悔しいはずだった。
叫びたかった。
それなのに頭の中には、感情とはまったく別のものが浮かび始めていた。
ネットはいくらだっただろう。

ポールはいくらだっただろう。

ベンチを作るために、材料をどれだけ使っただろう。
旗はいくつあっただろう。
大会のために用意した飲み物。
参加賞。
看板。
予備のボール。
次々と数字が並んでいく。
スミス君は首を振った。
違う。
考えたいのは、そんなことではない。
みんなと笑うはずだった。
楽しい一日にするはずだった。
けれど、どれだけ思い出そうとしても、頭の中の笑顔には値札が貼られていった。
ネット。
ベンチ。
旗。
夢。
失った夢は、いくらになるのだろう。

すすむちゃんのひと言
しばらくすると、草をかき分けて、すすむちゃんがやってきた。

「スミス君、おはよ……」
すすむちゃんは言葉を止めた。
昨日まで確かに存在していたセパタクローコート。
そして、折れたポールを抱えたスミス君。
壊れたベンチを見た。
木の枝に引っかかったもう一つのベンチを見た。

それからスミス君の顔を見た。
「うわあ……」
すすむちゃんは、正直な感想を漏らした。
スミス君は何も答えなかった。
すすむちゃんは、どう声をかければいいのか迷っていた。
元気を出して、と言うべきなのか。
また作ろう、と言うべきなのか。
考えた末に、すすむちゃんは尋ねた。
「これって保険……かけてる?」

森が静かになった。
そのひと言が、スミス君の胸の奥へ入ってきた。

ネットを張った日の思い出を通り抜ける。
みんなとラインを引いた日の思い出を通り抜ける。
夕焼けの中で「最高の朝になる」と信じた自分を通り抜ける。
そして、心のいちばん深い場所に刺さった。
ぷつん。

何かが切れた。
本当に音がしたわけではない。
けれどスミス君には、はっきりと聞こえた。
張りつめていた最後の糸が、切れた音だった。
「保険……」
スミス君はつぶやいた。
「う、うん」
「かけていません」
「ああ……」
すすむちゃんは、それ以上何も言えなかった。
スミス君は壊れたコートを見た。
ついさっきまで、これは夢の跡だった。
だが今は違う。
損害だった。
巨大な損害。
取り返さなければならない損害。
「大損害です」
「え?」
「これは、大損害です」
スミス君はもう一度言った。
声は妙に落ち着いていた。
「ネットも、ベンチも、ポールも、旗も。すべて失いました」
「スミス君……」
「取り返さなければ」
「でも、またみんなで作れば――」
スミス君がすすむちゃんを見た。
その瞳の冷たさに、すすむちゃんは言葉を止めた。
「また作ればいい?」

スミス君の口元が、わずかに笑った。
「簡単に言いますね」
「そんなつもりじゃ……」
「時間も材料も、すべて失ったんです。それをまた最初から作れと?」
「ぼくも手伝うよ」
「手伝う?」
スミス君は、折れたポールを強く握りしめた。
「手伝えば、失ったものが戻ってくるんですか?」
すすむちゃんは答えられなかった。
「戻りません」
スミス君は自分に言い聞かせるように続けた。
「取り返さなければ、戻らないんです」
大損害
大損害。
大損害。
大損害。
笑顔も、夢も、思い出も。
すべてが損か得かに変わっていく。
昨日までは、仲間が喜んでくれるなら、それでよかった。
大会でお金を稼ごうなどと考えたことはなかった。
勝った者にも、負けた者にも、楽しかったと言ってもらいたかった。
それだけだった。
スミス君は折れたポールを地面に置いた。
胸に手を当て、背筋を伸ばす。
紳士らしい、いつもの姿勢だった。
しかし、その胸の中にあったはずの優しさは、どこにも見つからなかった。
「取り返します」
スミス君は言った。
「何を?」
すすむちゃんが尋ねた。
スミス君は答えなかった。
コートを取り返すのか。
使ったお金を取り返すのか。
失った時間を取り返すのか。
それとも、巨人の女に潰される前の自分を取り返すのか。
彼自身にも分からなかった。
スミス君は壊れた広場に背を向け、歩き始めた。
朝日はまぶしいほど輝いていた。
新しい一日が始まろうとしていた。
けれど、その光はスミス君を照らさず、彼の背後に長く黒い影を作った。
すすむちゃんは、遠ざかっていく背中を見つめていた。
いつもと同じ、小さなハリネズミの背中。
けれど、以前よりもずっと遠くに見えた。
本当はただ、みんなと一緒にセパタクローがしたかっただけ。
スミス君の心の奥では、まだ小さな声がそう言っていた。
けれど、その声はもう、彼自身にも届かなかった。
大損害。
大損害。
その言葉が、壊れた心の隙間を埋めていく。
ネットも。
ベンチも。
旗も。
夢も。
そして、スミス君の中まで。
何もかもが、真っ平らになっていた。
続く。
