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うそぶきのうた(i の書)|② 扉(2011・前編)


神秘の感覚、
それは常にあいまいさの中にある。

二重、三重に見えること、
見えるものの疑わしさ
(イメージの中にまた別のイメージがあること)

生成するフォルム、
見るものの精神状態に従って生成するフォルム。

それは目に見える形で現れるからには、
暗示以上のすべてだ



   ────  オディロン ルドン

オディロン・ルドン
: 自作を語る画文集 夢のなかで
【訳編】藤田尊潮



2011年 3.11

都内マンションの6階。

大きく揺れ動く部屋。
そして、感情。

大混乱。
大変容の、幕開けでした。

その日を境に、

私の人生もまた、
大きく展開していきます。

お腹に力を入れていないと、
心身が振り落とされてしまうような感覚。

内臓が、
ブラックホールに吸い込まれていくような――

これまでに感じたことのない、揺らぎ。

地球の中心と
直結しているような感覚。

それが、

内なる私そのものなのではないかという、
かすかな確信。

言葉にならない情報が、
ただ流れ込んでくるようでした。

私はしばらくのあいだ、

気が動転する日々を繰り返しながら、
完全な孤独の中で、

創作せずにはいられない状態へと
入っていきました。


今思えば──

創作に集中するということは、

混乱する外側から離れ、
内なる私、

つまり源の波動へと潜っていくための、
自然な行為だったのだと思います。

同時にそれは、

混乱や恐怖が渦巻く
集合的無意識の大きな流れから、

自分を守り、
境界を保つための、

ひとつのテクニック(術)でもありました。

その意味を、
今は静かに理解しています。


その頃の軌跡は、
当時のブログにも
そのまま記録として残っています。

↓この写真は、

そのブログからのもので、
2011年3月16日、

地震から5日後に描いた作品です。

Dance!Dance!Dance! 2011



わたしは、この線が現れたとき、

直感的にその全体を、
── 作品が示している知恵を、

理解してしまいました。


「ああ……
なんてことだろう」

そう思った瞬間、
気づけば、号泣していました。

理解した、というよりも、

思い出してしまった、
に近かったのかもしれません。

たとえるなら、

ぐっすりと眠っているところを、
急に起こされるような感覚。

あるいは、

大切にしていたおもちゃ──
(ペルソナや、物理次元への執着)を、

一斉に取り上げられてしまい、

困惑し、
泣きじゃくっている子どものような、

そんな感覚でした。



集合的無意識と、純粋意識。

そのあいだにある、天と地ほどの隔たり。


その距離を、さらに鮮明に感じながら、

この地上で、
“私”として、

両極を抱きしめ
中道を選び続けていくということ。


螺旋階段をのぼるような、
くるくるとした、
やれやれという感覚。

わたしは、ただ、
今も昔も、

ぼんやり、ぼんやりと、

していたいだけなのです。


けれど現実は、そうもいきません。笑



2026年の今も、

その反動のように、
庭には  
ぼんやりスポットが増殖中。

2025年冬 川辺のアトリエにウッドデッキを繋げて
ぼんやりスポット増設
目線の先には、小川がせせらぐ



外側では、
どれだけ残酷に見える出来事が起きていても、

内側の私の視点は、
どこまでも平らで、

あっけらかんと、
ダンスでも踊っているような感覚。

そんな二重の感覚の中で、
人間を営むということは、

毎日が、
初心者のように斬新で、

気づけば無意識のまま、
現実を体験してしまい、

そのたびに、

あたふたしている自分を、
呼吸の乱れなどの不快感を通して、

「ああ、また外れているな」と、

発見することの繰り返しでもあります。

そうして、
やれやれ、と

四角から円へ(◾️ → ◯)。

角——つまりペルソナを、
ひとつずつ外すように、

深く呼吸をしていく。


そうして、

ペルソナ的な反応は、
ゆっくりと蒸発し、軌道修正されていくのです。

そんな、

無意識の意識化や、
意識の調整(統合)の繰り返しには、

感受するための、
膨大な集中力と、完全な孤独。

そして、調和のとれた環境が必要になります。

それはつまり、

安心して、
ぼんやりできる場のこと。

だから、
ついつい寛ぎの場を増やしてしまうのも——
(庭のテーブルセット、4箇所目…)

ある意味、
自然なことなのかなと ぼんやり思ったり
思わなかったりしつつ、
( スーパーカミオカンデのレンタル希望!)


今日もお茶の時間をたのしみに、
ごにょごにょと活動しています。


2011年のblogより添付

話を戻しまして。

写真の作品は、

大地震のあと、
時折ふくらんでくる
不安や幻想を、

原子のように小さな“私”が、
静かに一掃していく——

そんな場面を描いていたのかもしれないと、

今、当時のブログを見返しながら、
感じています。

インスピレーションや、
作品が見せてくれるヴィジョンは、

頭で理解するというより、

腑に落ちるような身体感覚として、
やってくることがあります。

そこには、

どこか疑いようのない、
静かな確信がありました。

優しいようで、
どこか冷たく。

冷めているようで、
同時に温かい。

そんな、
相反するものが
そのまま統合されたような感覚。

表現として現れてくる以上、

その中には、

掴みどころのない完全性が、
静かに行き渡っているのだと、

今は感じています。

ふしぎがりblogより添付


こちらは、
2009〜2015年に写真をメインに
綴っていたblog。

そこに添えた"はみんぐ"という詩。

「 はみんぐ」


やがて 
あなたは きづく

がっかりするくらい
うつくしかったんだってことに

私はこの詩を書いた翌年に、

その詩が描いていた景色を、

ありありと体感することになります。

少し話が広がってしまいましたが、

ここからが、

今でもどこかおとぎ話のような、

感覚と信頼に導かれる
神秘的で生命力溢れる日々のはじまりでした。



このあと、

私の内的世界には、

それまでの人生では考えられなかったほど、

鮮明で、
象徴的で、
そして実用的なヴィジョンが、

次々と現れはじめます。



それは、

特別な能力ではなく、

誰もが本来持っている感覚が、
思い出されていく過程だったのです。


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