エッセイ|名指しと偶然性
こんばんは。
最近学生時代?の夢ばかり見て泣きたくなってる筆者です。
いや、別にあの頃に戻りたいとかそういうわけで泣きたくなっているのではなく、テスト直前なのに何も勉強してなくて焦ったり、道に迷って学校に遅刻しそうになって焦ったり、忘れ物をして家に取りに戻らないといけなくて焦ったり、何かそういう地味に嫌な夢なんですよね…。
皆さんも、そういう夢を見ることはありますか?
それはともかく、今宵は「名前」にまつわるエッセイをお届けします。
一応テーマを名前、とはしていますが、今回は身近な話から哲学の初歩的な話を考えてみよう、という目的も兼ねてお話しできればと思っています。
それでは、早速いってみましょう!
こう言ってしまっては親に申し訳がないのだが、私は自分の名前があまり好きではない。
この名前のせいで、何度恥ずかしい思いをしてきたことか。
どういった方向性の名前であるかは読者の想像に委ねるものの、たとえば病院の待合室や電車の中で名前を呼ばれたり、学校の入学式などで名前を読み上げられたりした時に、周りが思わずどんな人物なのか確認したくなってしまうほどには、引っかかりのある名前であると言っていいと思う。
実際、入学式で名前を読み上げられた瞬間に、後ろに座っていた在校生から歓声と笑い声が聞こえてきたこともあったし、その後何人かの先輩がわざわざ教室にまで私の顔を拝みに来たなんてこともあった。
けれども幸いにして、名前が原因でイジメられることは一度もなく、むしろある時期からはこの名前を自分でネタにしまくって、これまでリアルでかかわってきた人の中で顔は忘れても名前だけは忘れられない“存在”としての地位を積極的に確立してしまうくらいには、自分の名前と折り合いをつけられるようになったこともまた事実である。
それでも、多少の愛着が湧いてきたところもあるとはいえ、自分の名前を心の底から好きになれたかと問われれば、全然そんなことはない、と今のところは答えるしかない。
基本的に、名前は自分が選択したわけでもないのに一生付きまとう要素のひとつだ。
確かに、よっぽどの理由があれば変更することはできるのだから、それが原因でたくさん嫌な思いをするくらいなら思い切って変えてしまっていいと思っているし、そのような制度は各人の権利として、これからも保証されるべきだろう。
名前を変えてまったく新しい人生を始める。
それは時に、多くの人にとって救いになる。
さしづめ“My Name, My Choice”といったところだろうか。
しかし他方で、この標語(ネット上で調べたところ「選択的夫婦別姓」、つまりは“Family name”の問題を主張する際のスローガンとしてすでに使われていた。)自体、長年フェミニズムの文脈で重要視されてきた自身の身体(妊娠、出産、中絶など)に対する自己決定権を主張するスローガン“My Body, My Choice”ほどには、政治的な含意に乏しい気がしないでもない。
すなわち、中絶の権利と同じ熱量で、「自分の名前(この場合は“First name”)を自由に選択する権利」なんてものを声高に叫ぶ人間はまったくいないわけではなくても、極めて珍しい部類に入るのでは、と思ってしまうのである。
では、いったいなぜ多くの人は自分で選択したわけではない名前を自明のものとして受け入れられるのか。
パッと思いつく理由のひとつは、その名前が物心つく前から自分自身を指すものとして使われてきたことに慣れているから、というものだ。
幼い頃より、周囲から○○と呼ばれ続けてきたのに、たとえ自分の意志であってもそれをいきなり◻︎◻︎に変えたとしたら、少なくとも初めのうちは本人自身、呼ばれ慣れない新しい名前に戸惑ってしまうに違いない。
それくらい、名前という言葉はそれが指し示す指示対象と深く結び付かざるを得ないものなのだろう。
──
言語哲学の分野には、名前に限らず語の意味とはそれが指し示す実在の対象と同じである、とする考え方がある。
たとえば、「日本」は海に浮かんだ島々のまとまりとして存在する特定の場所を指し示しているのだし、「田中太郎」は「田中太郎」と名づけられた特定の実在する人物を指し示している。
「現在の日本の内閣総理大臣」は、現在という特定の状況において実在する日本の内閣総理大臣その人を指し示しており、「徳川家最後の将軍」は、江戸時代に徳川家で最後に将軍の座に就いた特定の人物を指し示している。
まあ、ここまでは容易に理解できよう。
ところが、もしこの考えをこのまま徹底させるなら、「全人類」は全人類という特定の実在する対象を指し示していることになるし、「犬」は犬という特定の実在する対象を指し示しているということになりかねない。
英語で表すと、“all human”とか“a dog”などとなるこれらの指示対象が、果たして「田中太郎」のような名前で示される指示対象と同じような仕方で実在しているだろうか。
実在しているとして、それはいったいどのようなものなのか。
さらに問題なのは、この世界に実在していない存在を指し示す名前の扱いである。
以上の理論から考えると、たとえば「ペガサス」はそれが指示する対象が何らかの形で実在していなくてはならない。
そうしなければ、「ペガサスは存在しない」という文自体が、何についての文であるかさえ分からず無意味になってしまうからだ。
要するに、「ペガサス」という名前に入る中身がないのに、それが存在しないと述べることはナンセンスである、というのが厳密な論理学をベースとした言語哲学の見解なのである。
この例を解決するための解答のひとつは、「ペガサス」は確かにこの世界には「現実化」(=存在)していないが、こことは異なる世界である「可能世界」においては可能で「ある」とするやり方だろう。
「可能世界意味論」と呼ばれるこの方法を取れば、「ペガサスは存在しない」という文は、今ある現実には存在しないけれど可能ではあるペガサスについての文ということになり、有意味となる。
しかし、可能世界意味論では、今度は不可能なもの、たとえば「四角い丸」など矛盾した語について説明することができない。
なぜなら、「四角い丸」はどの可能世界においても現実化はおろか決して可能にすらならないからだ。
ちなみに、論理学の世界には「分析的命題」と呼ばれる三つの代表的な真理が存在する。
not(P(命題“Proposition”のこと。命題とは真か偽か判断することのできる文のことを指す。)かつ not P)、つまり、PとPでない、は同時に成立しない。(無矛盾律)
A=A、つまり、AとAは等しい。(同一律)
Pまたはnot P、つまり、PかPでないかのどちらかである。(排中律)
この三つである。
そうすると、「四角い丸」(四角いと四角くないが同時に成立している!)は一つ目の無矛盾律に抵触することになるわけだ。
さて、では可能世界意味論の他にどのような解決の道筋があるのか。
おそらく一番代表的な解決法は、イギリスの哲学者であるバートランド・ラッセルが提唱した「記述の理論」だと思われる。
たとえば、「村上春樹は、『風の歌を聴け』を書いた作家である」という文は主に、「村上春樹」という「固有名」と、「『風の歌を聴け』を書いた作家」という「確定記述句」に分けられる。
さらに今度は、前者の「村上春樹」の部分に後者を当てはめて、「『風の歌を聴け』を書いた作家は、京都の生まれである」という文を作ってみよう。
これを論理学の「量化の表現」と呼ばれる文に直してみると、「あるxについて、xは『風の歌を聴け』を書いた作家であり、かつ、京都の生まれである、かつ、すべてのyについて、yが『風の歌を聴け』を書いた作家であるならば、yはxと等しい」となる。
ひょっとしたら、初めて見る方はギョッとするかもしれない。(私はギョッとした。)
ここで「『風の歌を聴け』を書いた作家」や「京都の生まれ」という部分は、「あるx」の性質を表した述語であり、「赤い」とか「丸い」と同じ形で使われている。
ただし、「京都の生まれ」は不特定多数いるはずだが、「『風の歌を聴け』を書いた作家」は一人しかいないはずなので、「同一性」を表す意味で、「すべてのyについて、yが『風の歌を聴け』を書いた作家であるならば、yはxと等しい」という文も付け加える必要がある、らしい。
では、なぜこれが、先の「ペガサス」や「四角い丸」の問題を解決する方法になり得るのか。
試しに「国際展示場の四角い丸屋根は赤い」という文について、今見てきたものと同じやり方を当てはめてみる。
すると、「あるxについて、xは四角く、かつ、xは国際展示場の丸屋根であり、かつ、xは赤い、かつ、すべてのyについて、yが四角く、かつyが国際展示場の丸屋根であるならば、yはxと等しい」という文になる。
「国際展示場の四角い丸屋根は赤い」という文は、「ペガサスは存在しない」という文と同様、「国際展示場の四角い丸屋根」や「ペガサス」に該当する中身が存在しないので、そもそも何についての文かわからずナンセンスに陥るのだった。
しかし、それらを量化の表現の文に置き換えると、その文は“x”という形式的な変項についての有意味な文ということになり、xに代入されるあらゆる存在者が「四角く、かつ、国際展示場の丸屋根である」という性質に一致しなければ、それだけで“偽”であるということが判断できるのである。(反対に、何ものも「ペガサしていない」か、あるいは「二つ以上のものがペガサ」していれば、元の文「ペガサスは存在しない」は“真”であると言える。なぜ、「ペガサスである」と言わず「ペガサす」としているかは、丹治信春『クワイン──ホーリズムの哲学』を参照のこと。)
もうお気づきの方もいるかもしれないが、元の文を量化の表現として置き換える「記述の理論」は、それを限界まで押し進めると、当然のことながら固有名すらも記述(性質を表す述語)に還元し消去するという方向へと向かう。
だから、先に挙げた「村上春樹は、『風の歌を聴け』を書いた作家である」という文にしたって、「村上春樹」という名前を、「村上春樹る」(「ペガサす」と同じ)といった性質を表す述語表現に直して、「あるxについて、xは村上春樹り、かつ、『風の歌を聴け』を書いた作家である…」と表現しても何ら問題ないことになるわけだ。
先述した「全人類」もしくは「犬」のような固有名や確定記述以外の語でも、たとえば「すべての人間は死ぬ」なら、「すべてのxについて、xが人間であるならば、xは死ぬ」となり、「こたつで丸くなることが好きな犬が存在する」なら、「あるxについて、xは犬であり、かつ、xはこたつで丸くなることが好きだ」と書き換えることができるだろう。(こう書き換えれば、「…は人間である」、「…は犬である」という性質を表す述語に還元できる。)
こうして、あらゆる名前がこの世から消し去られ、すべては記述の束に書き換わる…。
しかし、本当にそれでいいのだろうか。
名前とは、そもそも記述に還元されない、それ自体として機能する何かなのではないか。
こう言ってしまうと、多分に神秘主義の感が否めない。
にもかかわらず、私はやはり自分の名前が、私の性質を表す述語の束に還元されてしまうという考えそのものに、何かしらの抵抗を感じてしまうのだ。(それと同時に、私は記述の理論にどうしようもない魅力も感じる。)
実のところ、先に紹介した「可能世界意味論」は、固有名と(確定)記述を明確に区別する理論でもある。
たとえば、「村上春樹」という固有名と「『風の歌を聴け』を書いた作家」という記述は、記述の理論に従えば、入れ替え可能な言葉として扱われる。
他方で、可能世界意味論のレンズでみると、「もしも村上春樹が作家ではなく学校の先生だったら」という可能な事態を想定することができる。
すると、その世界においては、「『風の歌を聴け』を書いた作家」は、「村上春樹」ではない別の何かを指し示す(あるいは何も指し示さない)ことになるだろう。
ところが、「村上春樹」という語自体は、村上春樹が実は学校の先生であったり女性であったりしようとも、変わらず村上春樹という対象を指し示し続ける。
よって、固有名は可能世界の影響を一切受けない一方、記述は可能世界によって相対化されるので、両者は文の中でのその振る舞い方が質的に異なるのだ、と結論づけることができるのである。
──
私が私の名前で恥ずかしい思いをした事実も、その逆に飲み会などで自己紹介のネタとしてウケた事実も、あるいは名前と何ら関係なく私自身によって行われたすべての事柄(記述)が、私の名前の下にはじめて意味づけられる。
確かに、固有名はつねに記述に還元されるわけではない(ということは、記述的な振る舞いをすることもありうると私は考える。)けれど、だからといってそれ自体形而上学的で必然的なものではない。
おそらく、名前とは身体的な感覚や経験に価値を与えるために脳神経系が固定する「概念」の一種なのだ。
故に、神経系の接続がある程度固定された後で、自分の名前(本名)を変更すると、それが定着するまでに長い時間がかかるために、名前と対象の結びつき(の感覚)がどうしてもズレがちになるのではないか。
そして、それは何も個体を示す名前(固有名)に限られないと思う。
生まれた時から日本で育ってきた白人や黒人が「リンゴ」という一般名詞を脳神経系の接続として固定した場合、“apple”という置換可能な表現は飽くまで「リンゴ」という言葉を基準にしてしか理解されない。
「リンゴは赤い」、「リンゴは英語で“apple”である」、「リンゴは甘酸っぱくて美味しい」…など、それらの表現は「リンゴ」という言葉を媒介としなければよく分からないものになってしまいうる。
だから、「今日から日本語はすべて禁止、リンゴは“apple”と言うように!」と命令されたところで、「リンゴ」が基準であったそれまでのあり方を完全に消去することは、少なくともよほどの年月が経たない限りは、できそうにない。
言うまでもなく、「リンゴ」も“apple”もどちらが表現として正しい(つまりはそれが指し示す指示対象とより直接的に結びついているとする感覚のどちらに正当性がある)か、決定することはできないのであって、それらは単に社会的で偶然的な差異がもたらすもののはずだ。
すなわち、英語圏では日本語である「リンゴ」は基準としての物の名前というよりも記述に還元されるべきものであり、日本語圏では英語である“apple”に同様のことが当てはまるのである。
固有名に限らず、およそ何らかの名前として機能しうるものは、脳神経系に固定される限りで記述とは質的にその振る舞い方を変える。
ただし、それは社会によって、文化によって、多様な仕方で入れ替わる偶然的で相対的なものでしかない。
だとすれば、記述に還元されない名前(概念)は、普遍的にそれ自体で指示対象を指示するわけではない一方で、政治的な働きかけ等によって個人で自由に変更しうるような書き換え可能性をも超えているのではないだろうか。
“My (first)name, My choice”が、政治的に力を持ち得ない理由は、ここにこそあるのだろう。
さて、書いていてこれは果たして気軽に読める類のエッセイなのだろうかと思い始めてきたので、そろそろ筆を置くことにしたい。
最後に、自分の名前にそこそこ翻弄されながらも自分の名前でそこそこ得をしてきた私の人生において、名前とはそれでも自分のこれまでの、そしてこれからの軌跡を意味づけるための標であり続けるのだと思う。
参考文献
丹治信春『クワイン ホーリズムの哲学』(平凡社ライブラリー、ニ〇〇九年)
野矢茂樹『まったくゼロからの論理学』(岩波書店、ニ〇ニ〇年)
リサ・フェルドマン・バレット『情動はこうしてつくられる──脳の隠れた働きと構成主義的情動理論』(高橋洋訳、紀伊國屋書店、ニ〇一九年)
以上になります!
いかがでしたでしょうか?
今回は、自分の名前にまつわるエピソードを入口にして、論理学および言語哲学の入門的なお話をさせていただきました。
こういう世界もあるんだよ、という紹介ともなっているので、興味がある方は参考文献に挙げた野矢茂樹さんの『まったくゼロからの論理学』から読むことをオススメします。
それでは皆さん、本日はこの辺りでお別れです。
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また次の記事でお会いしましょう。
さようなら〜。
