迷いや怒りを救いに変容させる、チベット仏教8つの教え
私の住むサンタクルーズには、Land of Medicine Buddha(薬師寺?)というチベット仏教のお寺が山沿いにひっそりとあり、そこにはおよそ1.5キロの美しい森を歩きながら8つの教えを学ぶ道があります。静かな森の中、写真のような教えを書かれた立て看板が8つ点々と建てられ、それについて思索しながら歩くのです。
この8つの教えとは、11世紀ごろの名僧ゲシェ・ランリ・タンパによるもので、解説部分はダライ・ラマ法王によるものです。
教えの部分だけを読むと、「ふ〜ん、いかにも仏教」と私にはなんか刺さらない(失礼!)のですが、現ダライ・ラマ法王による解説部分は、今に生きる私たちには誰にも状況を思い浮かべられるように、とても具体的に伝えられていて、はっとさせられることばかり。特に、私にとっては最も高次のリーダーシップについて語られているように感じます。
何度も訪れたこの場ですが、今回は皆様にもお役立ていただければと思い、ChatGPTさんに日本語訳をお願いし、わたくしが監訳させていただきました。
第一偈 あらゆる命は全て宝
あらゆる生きとし生けるものから、
最大限の恩恵を得ることを願い、
私は彼らを、願いを叶える宝以上に尊く思い、
いつも心から大切にしよう。
この詩句は、他の存在をかけがえのない価値あるものとして見る姿勢を育むことを強調しています。
なぜなら、私たちの喜びや幸福、そして繁栄の源は、他者との協力や関わりの中にあるからです。
私たちが望むあらゆる経験は、他者とのやりとりや信頼によって成り立っています。
精神的な道を歩む人々にとっても、気づきや成長の過程は、他者との関係性の中で深まっていくのです。
さらには、思いやりに満ちた行動や目覚めた心のあり方も、他の存在との関係において自然と現れてきます。
このように見ると、生きとし生けるものは、私たちの喜び、繁栄、幸福の根源的な存在であると言えるのです。
第二偈 自分を一番下に見なす
どこにいようと、誰といようと、
私は常に、自分をもっとも低く小さな者と見なし、
心の深くから、他の人々を敬い、大切にしよう。
ここで強調されているのは、他の人々を尊敬と敬意をもって接する姿勢を育むことです。
「自分を小さな者と見なす」とは、自己を卑下することではなく、自分の感情や反応を客観視し、他者の尊さを認識する意図的な態度です。
私たちはしばしば怒りや執着、貪欲といった感情に反応してしまいがちで、それが他者への影響に対する配慮を欠く原因になります。
しかし、あらかじめ他者を敬う気持ちを育てておけば、それが内なる抑制力となり、感情に振り回されることを防ぐ助けとなります。
このように、他者を心から尊重する態度は、自らの行動に責任を持ち、より広い視点で物事をとらえるための土台となるのです。
第三偈 敏捷な心を育む
心に妄念が生まれ、それが自他に害を及ぼすと気づいたら、
私はすぐにそれに気づき、立ち向かい、取り除こうと努める。
この偈は、仏教の核心的な実践──つまり「煩悩(私たちを苦しめる感情や思考)」とどう向き合うか──について述べています。
仏教修行者にとって、最大の敵は外の誰かではなく、自分の内側にある精神的・感情的な弱さです。これらが苦しみの原因をつくり出します。
第三の偈が伝えるのは、この「内なる敵」といかにして対処するかということです。
そのカギは、初めからしっかりとした気づきを持つことにあります。
もしもネガティブな感情や思考が起こってきたときに、それを放置してしまったら──
つまり、「これは良くない」と自覚しながらも何の制御もしなければ、それらはどんどん力を増してしまいます。
そして、手がつけられなくなるほどに強くなることもあります。
ですが、もしもそれらのネガティブな動きを意識的に見守り、気づきを持って対処すれば──
その瞬間に立ち止まり、しっかりと向き合えば──
それらが大きな苦しみの原因へと発展していくことを防ぐことができるのです。
私たちは、ネガティブな思考に「場所」や「チャンス」を与えずに済むようになります。
第四偈 荒れ狂う人こそ宝
もし私が、性格や行動において荒れた人──
暴力的で破壊的な行いと苦しみに飲み込まれた人に出会ったら、
私はそのような稀な存在を、
まるで宝物のように尊重し、大切にしよう。
心にネガティブな傾向を持つ人々が「修行の対象」として特に取り上げられるのは、そうした人々と向き合うときに、私たちの心の状態が試されるからです。
そのような人と出会ったとき、反射的に拒絶したり、否定的に反応したりする誘惑が生じます。
しかし、その相手こそが、内面の訓練と成長のために特別な注意と意識を向けるべき存在なのです。
この視点は、特定の集団や傾向を持つ人々が周縁化されたり、無視されたりする社会的な現象にも応用できます。
そのような場合でも、自らの心を整え、あえて一歩踏み込み、理解しようとする努力を続けることが勧められています。
相手の行動の背景や苦しみを想像し、それと正しく関わるための感受性を育てることが、この実践の要です。
第五偈 嫉妬する者に抗わない
誰かが、嫉妬から私を非難し、
侮辱や中傷などの態度を向けてきたとき、
私は進んで敗北を受け入れ、
その人に勝利を差し出そう。
通常の感覚では、根拠のない非難を受けたとき、怒りや不当さを感じて反応するのが自然です。
しかし、精神を訓練する者にとっては、特にその反応によって自分や他の人々を傷つけるような結果になるのであれば、あえてその場での勝敗にこだわらず、結果としての敗北を受け入れることが勧められます。
ここで求められているのは、ただ耐え忍ぶということではなく、感情的に反応せず、自分の心の状態を保つことです。
大切なのは、失ったこと自体ではなく、そのことで人生全体を否定的に捉えない力を養うことです。
状況によっては、冷静かつ思いやりのある対応の中で、必要な行動を小さく、しかし着実に起こすことが求められます。これは決して容易ではありませんが、誠実な心の訓練によって可能になるとされています。
第六偈 裏切りこそ尊い師
私がかつて支え、
大きな信頼と期待を寄せた人が
私に深い苦しみを与えたとき、
私はその人を、尊い教師として受けとめよう。
誰かを助けたり、信頼関係を築いたりするとき、私たちは無意識のうちに相手に何らかの反応や恩返しを期待していることがあります。
その人が親しい存在であればあるほど、期待が裏切られたときの痛みは大きくなり、怒りや裏切られた感情が強く生じるものです。
けれども、自分の感情にそのまま反応する代わりに、こうした出来事を「忍耐と理解を深める訓練の機会」として捉えることが勧められています。
このとき、その相手は一時的にでも、自分にとって学びの機会を与えてくれる存在=“教師”であると見なすのです。
ただしこれは、不正や暴力に目をつぶれという意味ではありません。
状況を正しく見極め、必要に応じてしっかりと対応することもまた重要です。
大切なのは、心の中に怒りや敵意を根づかせるのではなく、広い視野と冷静さをもって行動することです。
第七偈 苦を引き受け幸を届ける
要するに、直接的にも間接的にも、
私はあらゆる幸せと恩恵を、
すべての人々に差し出し、
彼らのあらゆる苦しみと害を、
密かに自分の身に引き受けよう。
この詩句は、「与えること」と「引き受けること」であるトンレンの実践を示しています。
つまり、愛から出発して、自分の喜びを他者に与え、慈しみの心から、他者の苦しみやその原因を自ら引き受けようとする姿勢です。
実際にそれを行動で表すのは非常に難しいかもしれませんが、まず心の中でそのように思うだけでも効果があります。
その意図を持って、呼吸に合わせて相手の痛みを吸い取り、自分の幸せを吐き出して与える、というイメージを通じて実践されます。
この訓練は、思考や感情の深い部分を変える力があり、特に経験が浅いときほど、表面的な“善人らしさ”や“精神的な雰囲気”に流されやすくなるのを防いでくれます。
真の実践者は、静かな誠実さと一貫性を大切にするのです。
第八偈 幻想からの解放
世俗の八つの関心ごと──
(快と不快、獲得と損失、称賛と非難、名声と不名誉)に心を染めず、
すべての現象を幻のように見て、
私は執着の束縛から解き放たれることを願おう。
この詩句の前半では、精神の実践や心の訓練において、世間的な関心──たとえば快・不快、利益・損失、称賛・非難、名声・悪評──に心がとらわれないようにする必要性を強調しています。
後半では、最終的な真理として「すべての現象は本質的な実体を持たない」という認識に基づいて、心の訓練を深めていくことの重要性が語られます。
すべてのものごとが相互依存的に存在しているという洞察が得られることで、実体のあるものとしてのとらえ方から自由になり、極端な虚無や頑なな執着を避けることができます。
このような認識に基づく実践によって、私たちの現実の見え方が変わり、心の質そのものに深みと自由が生まれるのです。
以上、いかがだったでしょうか?
その時その時で、刺さる偈が違ってくるのもまた面白いのです。
少しでもご参考にしていただければ幸いです。
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