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憲法を変えることは、なにが変わることなのか

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前半:日本国憲法の民主性

「国民投票法改正案」が、なぜ“王手一歩手前”なのか、それは『憲法96条:憲法改正の手続き』の実質的なマニュアルにあたるからです。

第九十六条
この憲法の改正は、各議院の総議員の三分の二以上の賛成で、国会が、これを発議し、国民に提案してその承認を経なければならない。この承認には、特別の国民投票又は国会の定める選挙の際行はれる投票において、その過半数の賛成を必要とする。

憲法改正について前項の承認を経たときは、天皇は、国民の名で、この憲法と一体を成すものとして、直ちにこれを公布する。

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「国民投票法」ができたのは2007年、私が小学4年生のとき、第一次安倍内閣のときです。このとき大きな分岐がありました。
憲法96条に記載されている「国民投票において“その過半数の賛成を必要とする”」という文面の解釈を「白票や無効票を除いた“有効投票の過半数の賛成”」であると固定したのです。
この解釈の方針については、「投票に行っていない有権者も含めた総数の過半数」と「無効票も含めた総票数の過半数」もありえると法学者のなかでも意見が割れていたという背景がありました。

この一連の事象が示す重要な事項は、以下の3点です。

  1. 憲法96条は、憲法を変えたい層にとって最大の障壁であること

  2. 新たな法律を作って間接的に解釈を歪めるくらいにまで、憲法改正は難しいこと

  3. 本来、憲法文は解釈が一義ではないこと

特に3番目は直感に反していて、非常に面白いです。だって国の根幹をなす文章が剛体ではないのですから。
その視点で、例えば序文を読み返してみると、あまりに詩情に満ちすぎているという印象を受ける方もいるかもしれません。

日本国憲法前文
日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。
日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。
われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。
日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。

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ただし、これは意思薄弱であるというわけでは全くありません。現に、我々日本人は「武力を“永久に”放棄する」「国民主権は“人類普遍”の原理である」というように、これ以上なく強い言葉を使って、全世界に宣言しています。

憲法が柔らかく、解釈多様性が認められている形式なのは、改正されることを前提としていないからです。根幹となる魂が固ければ、どのような時代においても四肢の振る舞いは柔軟でいられるという思想なのだと私は理解しています。
現行の日本国憲法は、誰でも読むことができて、誰一人として正解を持ち合わせていない状態にあることによって、最も民主的な存在になっているといえます。

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後半:“〇〇な社会”に変わる

自民党は、憲法改正ができるような基盤整備を、長い年月をかけて怨念のように遂行してきました。それは、彼らが喉から手が出るほど欲しいものが解釈多様性の範疇では絶対に触れられない部分だからです。そうです、それこそがこの国の魂の部分です。

王手はなにを狙っているのでしょうか。
王は『憲法9条』です。隠してもないです。なぜなら、平和を愛する諸国民として永久に放棄すると宣言したこの武力を国力というふうに翻訳し、手の内に戻すことこそが、第二次大戦A級戦犯の岸信介の悲願であり、その孫の安倍晋三の悲願であり、自民党という共同体の絆だからです。

第九条
日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

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その次は先ほどの前文です。その次はなんでしょうか…。でもその王手が決まった後のこと、その王手が決まった社会というのは、どのようなかたちをしているのでしょうか。

哲学者・柄谷行人はデモについてこのように表現しました。
「デモで社会は変わる。なぜなら人がデモをすることで  “人がデモをする社会”に変わるからだ」と。
こんなに短い文章で、人が描こうとしている図の部分と、描くことによって無意識に縁取られる地の部分のすべてを構造として掬いきっています。とてつもないエネルギーと背中を押す力がこの表現にはあります。

ただし、この表現の型を借りるならこのようにも言えるでしょう。
「国家からの掌握を受け入れた社会においては、“国家が国民をジャッジできる社会”に変わる」のです。
しかし、逆に、
「国家からの掌握を 一度でも拒否した社会においては、“国民が国家をジャッジできる社会”に変わる」とも言えます。
現政府は、悪事をしても犯罪をしても、もう何も隠す気すらありません。私たちが、黙っていれば忘れてくれるからです。被害者の顔をすれば可哀想に見てくれるからです。難しいことは考えたくないからです。私たち国民が国家を判断できるような状態にないと、たかを括っています。
しかしながら、正式な手続きが機能している場においては、承認をする側の方が圧倒的優位な立場にあることは紛れもない事実です。さらにその承認行為は、許可より拒否のほうがより強力に提案の内容に影響を及ぼします。なぜなら、一度でも提案を拒否されたプレゼンターにとっては「もしかしたら次も拒否されるかもしれない」という懸念の元で「どうであれば承認されるか」を考える必要が発生するからです。そしてそれは結果的に、提案に多角的な視点が入り込むこととなり提案の質を上げることになります。(逆に、提案が許可されるのが前提となっている場においては、そもそも承認の手続き自体が形骸化し、内容が練られなくなりどんどん雑になる。提案者からしたら、自動ドア的というか入れ食いのような状態になる。)
つまり、より良い状態を目指して提案⇔否定を繰り返すことは、互いをリスペクトし合った対話の本質であり、現代的な科学・政治的な態度であり、民主的な手続きといえます。この観点にもとづけば、仮に今の日本国憲法をより良いものにアップデートしたいと思っていた場合においても、一旦は提案内容に関わらず否認することが最良の判断だとも捉えられるかもしれません。
いずれにせよ、今は承認の権限、つまり主権がまだ我々の手元にあり正式な手続きが機能する状態です。ただ自民党が手を伸ばしているのは、この“承認の手続き”です。これは本来、提案者にとって不可侵な領域です。国家が国民から主権を奪おうとしていると見える構図です。

みなさん選挙に行きましょう。きっと近々大きな選挙があります。憲法改正が発議されます。投票に行かないこと、無効票を投じることはyesの意思表示です。
これは憲法9条の改正に賛成か反対かにとどまりません。“国家が国民の善し悪しを判断できる社会”に変わってしまっても良いのか否かの問題です。あるだけの想像力を働かせて考えて、投票してください。


あなたがもし怪我をして歩けなくなったら?
もし心の調子を崩して働けなくなったら?
もし借金してしまったら?
もし犯罪に巻き込まれてしまったら?
もし結婚しなかったら?
もし子どもを授かれなかったら?
もし苗字を変えなかったら?
もし同性の人を好きになってしまったら?
もし恋愛と性愛に乖離があったら?
もし、歳をとったら?

それは悪ではないです。表現することも発言することも集まることも悪ではないです。今の社会、今の魂、今の憲法の限りはですが。
どうかお願いします。

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