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イランを包囲する戦略の失敗

社説2026年4月29日

米国の包囲戦略は、1979年の革命から1年後、カーター・ドクトリンの採択とともに確立された。これは、帝国主義国が世界中の他の国々に押し付けてきた包囲戦略と全く同じものである。変わった点は、現在では比較的容易に、そしてはるかに少ない資源で突破することが可能になったということだ。

米国はイランを包囲し、迅速な介入を確実にするため、中東に広大な基地網の構築を開始した。さらに、包囲網を維持し、脅威をより身近なものにするために、中央軍(CENTCOM)という軍事司令部を創設した。

米国は何十年にもわたり、クウェート、カタール、バーレーン、アラブ首長国連邦、サウジアラビアに基地を設置し、イランを包囲してきた。バーレーンは米第5艦隊の司令部となり、イラン経済を締め付ける戦略の一環となった。

また、10年以上前からイラクにも軍事基地が存在する。米国や他の欧州諸国は、長年活動を休止していたイスラム国の存在を理由に、現地への駐留を正当化した。

しかし、かつて「戦力投射」ネットワークと見なされていたものは、実際には、標的が複雑に絡み合った軍事拠点へと変貌した。強みは弱みへと転じたのだ。アラブ首長国連邦のジェベル・アリやクウェートのシュワイブといった兵站拠点を攻撃するイランの能力を考えると、論理は逆転し、米国は包囲された基地への補給に苦慮することになった。

第5艦隊司令部はもはや湾岸地域に艦艇を1隻も配備しておらず、使用不能となっている。同様に、同地域の他の14の基地(クウェートに5つ、イラクに4つ)も使用不能となっている。

攻撃の激しさは凄まじく、イランはミサイルやドローンに加え、航空機を用いて誘導爆弾でこれらの施設を爆撃し、広範囲にわたる破壊をもたらした。イランは開戦後最初の24時間で、40~50もの異なる標的を攻撃した。

イラクでは、複数の民兵組織がイラン防衛に加わり、米軍基地だけでなく、他のNATO加盟国の施設からも撤退を余儀なくされた。

イランがイラク占領の終結を強要したと言えるだろう。イラク軍が既に再編されていたのであれば、なぜイラクに基地が残っていたのか。

翻訳終わり

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