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学べる時代に、なぜ考える余白は減ったのだろう――理解より態度が先に立つ場所で

学ぶ機会は、昔より確実に増えている。

知りたいと思えば、
多くのことにすぐ手が届く。

それなのに、
以前よりも、意見と意見のあいだに
立てる場所が減っている気がしている。

私はその理由を、
まだうまく説明できない。


調べることは難しくなくなった。
言葉も、立場も、整理されたかたちで
いつでも差し出されている。

それらを受け取ることで、
私たちは以前より早く、
理解した場所へ立てるようになった。

けれど、
その場所に立つまでの時間が短くなるほど、
考え続ける余白は、
少しずつ削られているのかもしれない。

理解より態度が先に立つ

理解するための材料は、
いつでも手の届くところに置かれている。

解説があり、
要約があり、
立場ごとの物語まで用意されている。

だから私たちは、
深く潜らなくても、
どこに立てばよいかを選ぶことができる。

賛成か、反対か。
正しいか、間違っているか。

考え続けるよりも先に、
態度だけが整っていく。

それはきっと、
誰かが怠けているからではなく、
そうすることが自然にできてしまう環境が
あるからなのだと思う。

投資の世界で起きていること

市場を見ていると、
似たような光景に出会うことがある。

価格が先に動き、
あとから理由が整えられていく。

ニュースが並び、
専門家の言葉が引用され、
やがてそれは
「そうなるはずだった出来事」として理解される。

けれど、
本当にそうだったのだろうかと、
私は時々立ち止まってしまう。

私たちは、
分かったから動いたのではなく、
動いたあとで、
分かった場所に立っているだけなのではないか。

もちろん、私も例外ではない。

速さに置いていかれたくなくて、
理解している側に立ちたくて、
安心できる言葉を選んでしまうことがある。

考え続けるよりも、
分かった顔をしてしまうほうが、
ずっと楽だからだ。

では学ぶとは何なのか

では、学ぶとは何なのだろう。

多くのことを知っている状態になることだろうか。
正しい答えに早く辿り着けることだろうか。

けれど、もし、
それがただ立場を選ぶための準備になってしまうのだとしたら、
少しだけ寂しい気もする。

本当は、
すぐに決めないための時間を持つことや、
分からないままでいる勇気のことを、
学ぶと言っていたのではなかっただろうか。

もちろん、
急いで立場を決めることが必要な場面もある。

強く言い切る言葉に救われる人がいることも、
私は知っている。

それでも、ときどきは、
分からないままで立ち止まる時間が
あってもいいのではないかと思う。

すぐに答えを持つことよりも、
もう少しだけ長く考えてみること。

その不器用さの中にしか、
見えてこない景色があるような気がしている。

だから私は、
理解した顔をするよりも、
もう少しだけ考え続ける側にいたい。

うまく言葉にならなくても、
せめて、そのための時間だけは
手放さないでいたいと思う。


情報に新しいも古いもないはずだ。
どの断片も、向きを変えれば、
まったく別の場所へ辿り着く。

だから私はいま、
その情報をどう観測し、
そこから何を予測しようとしたのか、
その過程の理解を、ひとまずの「学ぶ」と呼んでみたいと思っている
きっとこれから何度も変わっていくのだろうけれど。

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