JW890 布流津
【東征激戦編】エピソード31 布流津
第十二代天皇、景行天皇の御世。
西暦111年、皇紀771年(景行天皇41)。
ここは、黒戸の海岸(千葉県木更津市畔戸)。




日本武尊(以下、タケル)一行は、穂積の臣の建忍山(以下、おしやん)の家来「カタスケ」より、発見された、弟橘媛(以下、タッチ)の形見の品について、報告を受けるのであった。

カタスケ「千葉県富津市の西大和田に鎮座する、吾妻神社にも、櫛が流れ着いたという伝承がござりまする。」








タケル(30)「吾妻ということは、俺の妻、『タッチ』が祀られておるのか?」
カタスケ「御意。姫の櫛が、岩瀬の布引の浜に流れ着いたとの由。」
オクタン「なお、布引の浜は、布引浦とも呼ばれていたそうですぞ。」
イゴット「二千年後は、布引海岸と呼ばれてるみたいやね。」

カタスケ「また、この時、馬が櫛を咥えて、吾妻山に駆け上がったことから、それがもとで『馬だし祭り』が、おこなわれておりまする。」
タケル(30)「馬だし?」
カタスケ「神の御魂を馬の上に移し、若者が、馬の手綱を掴んで、砂浜を駆け回る勇壮な神事にござりまする。毎年九月に、岩瀬の海岸で『馬だし』が、おこなわれるところから『馬だし祭り』とよばれておりまする。毎年、大勢の見物客で賑わっておりまするぞ。」

タケル(30)「馬も、櫛が、並々ならぬ櫛であると、わかったのであろうか?」
カタスケ「その辺りは、よくわかりませぬが、櫛が流れ着いた、布引の浜も、その名に、姫が関わっておりまするぞ。」
わかたけ「母上が、どのように関わっておるのじゃ?」
カタスケ「姫が身に着けていた白布が流れ着いたゆえ・・・とのこと。また、布引の浜にござりまするが、初めは、布流津と呼ばれておりもうした。姫の布が流れてきた津・・・という意味ですな。」
ダータケ「津? その浜は、港であったのか?」
カタスケ「そのようですな。そして、布流津は、転訛して『富津』と呼ばれるようになりもうした。富津市の語源となったのでござる。」
おしやん「布流津から富津となって、さらには、布引の浜、布引浦となって、二千年後は、布引海岸になったってことだな?」
カタスケ「御意にござりまする。」

押根「カタスケ様? 白布は、その後、どうなったのです?」
カタスケ「白布も、祠を建てて祀られたそうですぞ。それが、貴布禰神社にござる。祭神は、『タッチ』姫と高龗神ですぞ。」

押根「高龗神と申せば、雨を司る神、龍神にござりまするな?」
カタスケ「その通りじゃ。」
タケル(30)「して、何処に鎮座しておるのだ?」
カタスケ「富津市富津にござりまする。」





ルフィ「姫様の形見は、それだけでやんすか?」
疾風「モォォ!」
ルフィ「ふむ。それだけではないと?」
カタスケ「さ・・・左様。袖も流れ着いておりもうした。埋められた地には、社が建ちもうしたぞ。それが、吾妻神社にござる。千葉県木更津市の吾妻に鎮座しておりまするぞ。」







おしやん「『タッチ』の社か?」
カタスケ「御意。また、近くに池があり『鏡ヶ池』と呼ばれておりまする。姫の鏡を沈めた処・・・と言われておりまするぞ。」


タケル(30)「御魂を安んじめる為か?」
カタスケ「そうでしょうな。して、社の辺りは、その後『吾妻の森』と呼ばれるようになり、周りの海岸も、袖が流れ着いたことから、袖ケ浦と呼ばれるようになりもうした。」
解説はつづく
